母としてできること
1933(昭和5)年5月10日水曜日午後3時10分、赤坂御用地内にある仙洞御所。
「そうしたらさぁ、栽仁殿下に呆れられちゃったわ」
今日は、毎週恒例の、兄と節子さまを診察する日だ。それが終わった後、私はいつものように兄と節子さまと一緒におやつをいただきながら、お喋りに興じていた。
「この時の流れは、“史実”とだいぶ違ってきているんだから、そこまで心配することはないんじゃないか、って」
口を尖らせた私に、「それは一理あるな」と返した兄は、
「しかし、梨花は心配なのだろう?“史実”と同じことが起こってしまうのではないか、と」
微笑しながら私に指摘する。
「当たり前じゃない!」
私は立ち上がらんばかりの勢いで答えた。
「貴重な文化的遺産が失われるかもしれないのよ!その可能性が1%でもあるなら、それに対して策を講じるべきだわ!何なら、当日私が現地に行って、犯人を捕まえて……」
「お姉さま、そんなことをなさって、軍医学校の方は大丈夫なのですか?」
苦笑を顔に浮かべて聞く節子さまに、
「へっちゃらよ。1週間ぐらい休んでも、軍医学校は何とかなるわ。ちゃんと仕事も終わらせてから行くし」
私は自信を持って答えた。
「でもお姉さま、大山閣下にはどうご説明なさるの?納得できなければ、大山閣下は必ずお姉さまを止めますよ」
「それも大丈夫だってば。大山さんだって、私の趣味は知ってるもの。きっと納得してくれるわ」
「そうですか……?」
節子さまが首を傾げて応じた時、「大山大将で思い出したが」と兄が言い、私に視線を向けて、
「梨花、謙仁と禎仁の嫁は決まったか?」
と尋ねた。お茶を飲もうとしていた私は、うっかりむせてしまった。
「な……なんで、知ってるのよ?」
息を整え、ようやく兄に聞き返すと、
「この間、大山大将と話した時に、謙仁と禎仁の嫁を探していると言っていたぞ。伊藤議長や陸奥顧問官も、仙洞御所に来た時に騒いでいたし……」
兄は私にこう答える。
「そ、そうなの……」
私は両肩を落とした。大山さんから“謙仁王殿下と禎仁王殿下の結婚相手を探します”と宣言されたのは、半井君が休暇を終えて軍医学校に戻ってきた直後だったから、確か1月の下旬だったはずだ。
「大山さんに口止めしとくんだった……。突然言われたから、口止めするって発想が頭から抜け落ちてたわ……」
私が天を仰いで呟くと、
「まぁ、諦めろ。もう梨花会の面々には、大山大将が謙仁と禎仁の嫁を探していることは伝わっているだろうし」
兄がニヤニヤ笑いながら私に言う。
「それでお姉さま、どうなんですか?謙仁さんと禎仁さんの結婚相手、決まったんですか?」
私の方に身を乗り出して尋ねる節子さまに、
「謙仁はね、何人かいる候補から大山さんが選考中だって聞いたわ……」
私は気圧されながらも、順番に説明を始めた。
「栽仁殿下とはね、相手は華族がいいかな、って言ってるの。皇族にも、謙仁と釣り合う年頃の娘さんは2、3人いるけど、全員謙仁のいとこなのよね。昌子さまたちの娘だから、通常より血は薄いけれど、いとこ婚になっちゃうから避けたくて……」
「なるほどな。しかし、候補が決まったら、すぐに謙仁には見合いをさせるのだろう?」
「少なくとも、謙仁が士官学校を卒業して、練習航海が終わってからじゃないと、謙仁にお見合いの話はできないわ。あの子、超がつくほど真面目だから、お義父さまの一年祭が終わらないうちにお見合いの話をしたら怒り出すもの」
兄の質問に私が答えると、
「それでは遅いぞ。お前と栽仁は、栽仁が練習航海から戻った直後に結婚したではないか」
兄はなぜか詰問するような口調で私に言う。
「あ……あれは、色々事情があったからじゃない」
顔を真っ赤にした私は、何とか兄にこれだけ言い返した。
「お姉さま、禎仁さんの方はどうですか?」
節子さまは、身を乗り出したまま、目を輝かせて私に再度質問する。
「禎仁の方は、意外な結末になりそうでねぇ……」
私がため息をつくと、
「おい、意外な結末とは何だ?まさか、一生結婚しないと宣言したとか、外国人の女性と結婚したいと言い始めたとか……」
兄が顔をしかめて私に聞いた。
「違う違う、そうじゃなくてね……。私、あの子は、結婚相手は美人に限るって言うんじゃないかと思ってたのよ。で、禎仁にお見合いの話をしたら、“相手の容姿はどうでもいい。ただ、口が固い女性じゃないとイヤだ。大山の爺か金子の爺の血縁者で、口が固い女性はいるかな?”って言い出してね。……驚いたわ」
「ほほう」
私の答えを聞いた兄が、右手で顎を撫でた。
「将来、自分が諜報の仕事に就くことを考えて、自分の任務を外部に決して漏らさない嫁を娶りたい、ということか。頼もしいな」
「でも、禎仁さんのお相手になる方は大変ですよ」
微笑した兄に対し、節子さまは少し首を傾げながら言った。
「禎仁さんは美男子です。臣籍降下なさったら、当然、華族の女性たちの注目を集めるでしょう。もし、禎仁さんと容姿が釣り合わない方が禎仁さんの奥様になったら、“なぜ禎仁さまはあんなに器量の良くない女と結婚したのか”と女性たちが嫉妬して、禎仁さんの奥様がいじめられるかもしれません」
「なるほどねぇ……あり得るわ」
節子さまの言葉を聞いた私は、両腕を胸の前で組んだ。
「だけど、もしそうなったら、私が禎仁のお嫁さんを守るよ。禎仁のお嫁さんということは、私の家族でもあるんだから」
「それは頼もしい援軍だが……」
そこまで言った兄は、口を閉ざすと僅かに顔をしかめる。「どうしたの?」と私が尋ねると、
「いや……南部の気配がしてな」
兄は訝しげに言う。“南部”というのは、兄のご学友の1人で、万智子の夫・利光君の父である南部利祥上皇武官長のことだろう。
「嘉仁さま、南部さんは今日、非番ですよ」
横からなだめるように言った節子さまに、
「分かっている。しかし、南部の気配がするのだ」
と主張した兄は、机の上にあるベルを鳴らす。ほどなくして現れた侍従さんに、
「ちょっと武官の控室を見て、南部がいるか確かめて来い。もし南部がいたら、ここに連れてきてくれ」
と兄は命じた。侍従武官の控室は、今私たちがいる兄の書斎から、4、5部屋ほど隔てたところにある。侍従さんが兄の前から下がって数分経つと、書斎のドアがノックされて、
「陛下、南部武官長を連れて参りました」
という侍従さんの声が聞こえた。
(何で分かるんだよ、兄上……)
兄の勘の余りの鋭さに私が呆然としていると、開けられたドアから南部さんが入ってきて、「ただいま参上しました」と言って頭を下げる。
「“ただいま参上しました”ではない、南部。お前は今日、非番だろう。仕事などせず、さっさと家に帰って休め」
兄が不機嫌そうに南部さんに命じると、
「お言葉ではございますが、陛下。私は本日、前内府殿下にお願いがございまして参上いたしました。水曜日のこの時間なら、前内府殿下は仙洞御所にいらっしゃるだろうと考えまして……」
南部さんは兄に反論して一礼し、私の方を向くと、
「前内府殿下、突然のお願いで誠に恐縮でございますが、仙洞御所から御退出の後、我が家においでいただけないでしょうか?」
こう言って再び頭を下げる。南部さんは、“今の給金にはそぐわない大きな家だから”と言って、東京市の中心部・麹町区にあった家を15年ほど前に手放し、東京専門学校の近く……2年前に東京市に編入された地域に引っ越している。その家には利光くんと万智子も同居していた。
「あの……もしかして、万智子に何かありました?」
私の質問に、
「いえ、私も妻に、“前内府殿下にお成りを願って欲しい”と頼まれただけで、詳しいことは……」
南部さんは珍しく、歯切れの悪い回答をした。
「ほう?」
右手で顎を撫でた兄は、
「章子、今すぐ南部の家に行ってやれ」
と、意味ありげな微笑を私に向けて命じた。
「……分かったわ」
兄の言わんとしていることを何となく察した私は首を縦に振った。これは……南部さんは気づいていないようだけれど、ひょっとしたら、南部さんの奥さまの萬子さんは……。
「じゃ、兄上、節子さま、今日はこれで失礼するね」
予感が当たって欲しいような、当たって欲しくないような……不思議な思いを抱えながら、私は兄の書斎を後にした。
1933(昭和5)年5月10日午後4時35分、東京市淀橋区戸塚町2丁目にある南部さんの家。
「うーん……」
応接間に通された私は、スケジュール帳に付いているカレンダーと睨めっこをしていた。私の前には南部家に嫁いだ長女の万智子だけが座っていて、緊張した顔で私を見つめている。
「……症状の出方や月経の周期から考えると、妊娠7週ぐらいの可能性が高いかな」
やがて、計算を終えた私が万智子に告げると、彼女は両目を大きく見開いた。
「流石にここじゃ婦人科の診察はできないから、確定はできないけれど……でも、確定したら、おめでとう、って言わせてもらうわ」
「……っ!ありがとう、ございます!」
微笑んで言った私に、万智子は深く頭を下げた。
「万智子、そんなに畏まらなくていいのよ。私はあなたの母親なんだから、頭は上げてちょうだい」
私は長女の頭を上げさせると、
「ところで、萬子さまに、万智子が最近、食事がほとんどとれていないと聞いたのだけれど、いつから食べられていないの?」
優しい声で彼女に聞いた。
――万智子さま、最近食事を全然召し上がらないのです。誰にも見られないように用心しながら、戻していることもあって……。一度医者にかかるようにと申し上げたのですけれど、“私は大丈夫です”と言って聞かないんです。だから一度、前内府殿下から、お話を聞いてあげてほしくて……。
南部さんの家に到着した後、私は万智子の義母・萬子さんにそう言われたのだ。
けれど、
「母上、私、食事はとれています。確かに、少しだけ量が減りましたけれど……」
万智子はそう答えて、私の問いそのものを否定しにかかる。
「万智子、無理をしたらいけないわ」
私は万智子の目を真正面から覗き込んだ。
「あなた、お正月に顔を出してくれた時より、少し頬がこけているじゃない。……あのね、万智子。もし身籠っているとすると、あなたの身体は、あなた一人のものじゃないの。あなたと、あなたの子供のものなのよ。だから、少しは周りを頼って、自分の身体を労わってあげなさいね」
私の言葉に、万智子は黙って頷いた。
「後で、私や節子さまや珠子さまがつわりの時に使ったレシピ集を届けてもらうわ。今の時期は、食べられるものを食べて、水分がある程度取れれば大丈夫だからね。特に希望がなければ、東京女医学校の吉岡弥生先生にこれからの診察をお願いするけれど……」
私が続けて万智子に言うと、
「あの、母上」
万智子が私に呼びかけた。
「もし……もしこれが、妊娠だとして、私、子供、産めますか?」
「何言ってるの。大丈夫よ」
不安そうな長女に私は答えた。
「しっかりしてない母上だって、3人子供を産めたのよ。しっかり者のあなたなら、絶対上手く行く」
こう励ましてみたけれど、
「そうでしょうか……」
と応じた万智子は、まだ不安そうにしている。
(うーん……)
普段の万智子からは考えられない言動に、私は考え込んだ。もしこれが妊娠なら、万智子にとっては初めてのことになる。不安になるのも無理はないだろう。けれど、彼女の不安の原因は、それだけではないように思われる。
(ひょっとして、萬子さまと上手くいってない?)
いや、完全に上手くいっていないということはないはずだ。もし、万智子と萬子さんの仲が本当に悪いとしたら、こんな風に万智子の体調を心配して、医者で皇族でもある万智子の母親を呼び寄せることはしない。それに、さっき話した時、萬子さまは万智子のことを心の底から心配しているように見えた。ということは……。
(万智子が、萬子さまに遠慮しているのかしら?)
それはあり得る話だと思う。万智子は利光くんとのお見合いの時、“ご家風に沿うように己を変える覚悟でおります”と言っていた。義理の両親に絶対服従し、迷惑をかけないようにすること……それが自分に課せられたことだと思って、過度に遠慮している可能性もある。
(うーん……私は有栖川宮家に嫁入りしたと言っても、直宮で立場が強かったし、お義父さまもお義母さまも昔から知り合いだったし、有栖川宮家の家風は、未来の記憶がある私の目から見ても進んでいたし、おまけに義理の両親とは別居してたから、嫁姑問題とは全く縁がなかったんだよねぇ……。でも、万智子は、元は皇族だったとはいえ、義理の両親と同居しているから、何かと遠慮してしまってストレスを抱えているのかも……)
「……母上、母上、どうなさったのですか?」
色々と考えを巡らせていると、万智子が訝しげな表情で私を呼んでいるのに気が付いた。「ごめんね、考え事をしてた」と応じた私は、
「万智子、あなたのことは、私も医者として、そして母親として支えるわ。だから、あなたに何が一番いいのかを探りながら、これからを乗り越えていきましょう」
と言った。
「はい、母上」
首を縦に振った万智子は、やっと私に笑顔を見せた。胸をなで下ろした私は、
(私の初めての孫、かぁ……あ、でも、そうなると、あっちの件はどうしよう?)
感慨に浸りながらも、早くも別のことについて考えていた。




