霞ケ関本邸のお茶会
1932(昭和4)年6月10日金曜日午後2時50分、東京市麹町区霞ヶ関1丁目にある有栖川宮家霞ケ関本邸。
『この度は、我々の情報機関が、前内府殿下に大変なご迷惑をおかけしました。祖父に成り代わりまして、深くお詫び申し上げます』
霞ケ関本邸1階にある食堂。私に向かって深々と頭を下げたのは、ドイツのヴィルヘルム皇太子の長男、ヴィルヘルム・フォン・プロイセン殿下である。現在25歳の彼は、見聞を広げるため、かつてのお上と同じように世界一周旅行をしていたのだけれど、本国からの要請を受け、今月8日、予定より1週間早く日本にやってきた。これは、ドイツが支援していたルーマニアの王室顧問、ジュリアン・ベルナールことエレフテリオス・ヴェニゼロスと、ルーマニアに派遣されていた黒鷲機関の職員たちが私の命を狙ったと知ったドイツの皇帝・ヴィルヘルム2世が、ハワイ王国に滞在していた孫に私への詫び役をさせることにした結果である。
『こちらは、祖父から前内府殿下への親電でございます。どうぞお読みください』
眉目秀麗な顔を強張らせながらドイツ語で言うと、ヴィルヘルム王子は1通の封書を私に差し出す。隣にいる大山さんと栽仁殿下、そしておととい東京帝国大学医科大学付属病院から退院した私の義父・有栖川宮威仁親王殿下が首を縦に振ったのを確認すると、私はヴィルヘルム王子から封書を受け取った。
封書を開くと、タイプされたドイツ語が目に飛び込んでくる。冒頭から丁寧に読んでいくと、“朕の配下たちの不始末で、麗しい女神に苦痛を与えることになってしまい、本当に申し訳なかった。深く謝罪する”という文章が読み取れた。更に、“けしからんことをしたヴェニゼロスは、朕が責任を持って処分する。これだけで貴女の許しを得られるか分からないから、貴女の望むものを何でも差し上げよう。貴女が皇帝の座を退けとおっしゃるならば、朕は皇帝の座を退く”とも書いてあった。
(あのさ、この文面……誰か、皇帝を止めなかったのかしら……)
私は親電を読みながら、ドイツのことが少し心配になった。この親電は、恐らく非公式のものだろう。けれど、一国の皇帝が別の国の皇族に対して、“望めば自分は皇帝の座から退く”と親電の中で言ってしまうのはいかがなものかと感じてしまう。
私の前に座るヴィルヘルム王子は、私に怯えた瞳を向けている。自分の祖父が親電で何を述べたか、彼は当然知っているだろう。“それでは皇帝陛下、退位してくださいませ”と私が祖父に言うのではないか……彼はそれを心配しているに違いない。
「大山さん、ちょっと過激な答えをしてもいいかしら」
私は日本語で我が臣下に耳打ちし、思いついた回答を伝える。「よろしいのではないでしょうか」と彼がニヤリと笑ったのを確認すると、私は微笑みながら、
『私の望むものは何でも差し上げる……皇帝陛下はそうおっしゃっておいでですのね。では、ヴェニゼロスの生首をいただけますかしら』
ヴィルヘルム王子に向かってドイツ語で言う。ヴィルヘルム王子、そして彼の隣に座っているドイツ海軍のカール・アウグスト・ナーゲル大将――この人は私と栽仁殿下がドイツを訪れた時、最後の晩餐会で私たちの相手をした人だ――は、ギョッとしたように私を見た。
『冗談ですよ。私はサロメではありません』
ヴィルヘルム王子とナーゲル大将に、私は微笑を崩さずに言った。“サロメ”とは、新約聖書に出てくる女性で、イエスに洗礼を授けた洗礼者ヨハネの首を踊りの褒美として求めたと記されている。あからさまにホッとしたような表情になったヴィルヘルム王子とナーゲル大将に、
『でも、私は医者ですから、生首を見たところで動じることはありませんし、それに、我が国には、サロメになりたいという人が何人もおりまして……』
私は更にドイツ語で喋る。すると、私の隣に座る大山さんが、不気味な笑みをヴィルヘルム王子とナーゲル大将に向けた。彼らの顔が青ざめたのがよく分かった。
『もし、“処分”にお困りでしたら、我が国から“処分”が得意な者を派遣しますよ』
大山さんがドイツ語で畳みかけるように言うと、
『い、いえ……我が国で責任を持って処分いたします』
ナーゲル大将は慌てて首を横に振る。
「……結構怖いことを言うんだね」
通訳から私たちの会話の内容を聞いた栽仁殿下はこう呟き、
「ほほう、面白い悪戯ですね」
病み上がりの義父はニヤニヤ笑った。
『……まぁ、こちらの要求は、天皇陛下と話し合ってからお伝えしますわ』
そうドイツ語で言ってから、
「そろそろ、堅苦しい話し合いは切り上げる方がいいですかね」
私が日本語で義父に確認すると、
「そうだね。折角のお客人が、日本に悪い印象を持ってしまったら、もてなす意味がないからね」
と義父は応じる。その笑顔は色つやも良く、おととい退院したばかりの人間とはとても思えなかった。
「では、お茶を始めるとしようか」
威仁親王殿下が言うと、食堂の隅に控えていた有栖川宮家の別当・金子堅太郎さんが動き、他の職員たちが食器を次々に食堂に運びこんだ。
威仁親王殿下は、1889(明治22)年に欧州各国を訪問した際、ドイツに立ち寄っている。更に、極東戦争の最中、1905(明治38)年の6月にも、ヴィルヘルム王子の父・ヴィルヘルム皇太子の結婚式に出席するためにベルリンを訪問しているし、1920(大正5)年、お上の世界一周巡航に付き添った際にもドイツを訪れている。また、私と栽仁殿下も、お父様が崩御する直前の1916(明治49)年、ドイツに何日か滞在した。だから、今回のドイツからのお客様との間に話題はたくさんある。私と栽仁殿下、そして義父がドイツを訪れた時のこと、それ以降にドイツで大きく変わったことなどについて、私たちは楽しくお喋りした。もちろん、私たちに関する話題だけではなく、日本の印象や、今回の世界一周旅行の感想もヴィルヘルム王子に話してもらい、“全然喋れなかった”という感想を彼に抱かせることのないように配慮することも忘れなかった。
けれど、先回りして触れさせないように努力しても、義父の病気についての質問はドイツ側から出てしまった。まぁ、仕方がない。義父は男性皇族の中で最年長で、皇族の重鎮と目される存在だ。その健康状態は、外国の王族としても気にかかるのだろう。
『退院後の経過は順調ですよ』
“胃に疾患が見つかり、手術をした”ということは、宮内省からも公表されている。威仁親王殿下はフランス語で答えると、紅茶を口にした。
『私の嫁御寮どのが、私を毎日診察してくれますからね』
義父のフランス語の言葉に、ヴィルヘルム王子もナーゲル大将も驚いたようだ。
『その……今も前内府殿下は、医師としての実務をなさっているのですか?失礼ですが、とっくに医師としての実務はなさっていないものだとばかり思っておりまして……』
ヴィルヘルム王子のフランス語に、
『内大臣をやめた時から、最新の医学知識を少しずつ勉強しているのです。実務も機会があればやるようにしています』
私もフランス語でこう返答した。
『ですから、今は義父を毎日診察しています。だって、私は医者ですからね』
営業スマイルとともに付け加えると、
「……さっきのやり取りの後だと、説得力に欠けるよ」
栽仁殿下が日本語で私に囁いた。
「そうかしら?私としては、矛盾はないんだけど」
「そうなんだ……。じゃあ、感性の違いなのかな」
私が答えると、栽仁殿下は腑に落ちないような顔をしてこう言う。それ以降は、ドイツ側から威仁親王殿下の病状に関する質問はなく、お茶会は和やかな雰囲気のうちに終了した。
そして、1932(昭和4)年6月10日金曜日午後4時30分。
『本日は誠にありがとうございました』
お茶会が終わり、本邸の玄関に立ったヴィルヘルム王子は、明るい笑顔とともにフランス語でお礼を言った。
『こちらこそ、色々と懐かしい話ができてとても楽しかったですよ』
威仁親王殿下も笑顔で返すと、
『こんなに話し込んでしまって……有栖川宮殿下のご体調に差し障りが無かったか、それが心配です』
ナーゲル大将が心配そうに言った。
『疲れが無かったと言えば、嘘になりますがね。しかし、大変良い気分転換になりましたよ。病院にいる間は退屈していましたからね』
義父がフランス語でナーゲル大将に答えると、
『ところで、今日はこの後、どうお過ごしになるのですか?』
栽仁殿下がフランス語でヴィルヘルム王子に尋ねた。
『夜は、日本に滞在しているドイツ人を招いて、大使館で晩餐会を開く予定です。……だけど大将は確か、その前に用事があるんだよね』
『ええ、山階宮殿下と会う予定です。殿下は、私が士官候補生だったころの先輩ですので……』
ヴィルヘルム王子に応じたナーゲル大将のフランス語を聞いて、私は訝しく思った。確か16年前、ドイツで彼に会った時にも、似たような話を彼から聞いた。でも、その時彼が口にしていた名前は……。
『あの、ナーゲル閣下、昔、お話しした時には、華頂宮さまと同じ時期に士官候補生になったと聞いた気がするのですが……?』
私はフランス語よりドイツ語の方が得意だ。だからナーゲル大将に、ドイツ語で問いを投げかけた。
『よく覚えていらっしゃいますね』
ナーゲル大将は驚くような仕草を見せたけれど、
『おっしゃる通りです。ですから今日は、山階宮殿下と一緒にお会いできればと思っていたのですが、華頂宮殿下に、山階宮殿下とは別の日に、2人で会いたいと言われて断られたのですよ』
と、ドイツ語で私に教えてくれた。
『そうなんですね』
私が相槌を打つと、ヴィルヘルム王子の侍従が自動車の準備ができたと呼びに来る。私たちは玄関を出るヴィルヘルム王子とナーゲル大将に丁重に別れのあいさつをした。
「父上、ご体調はいかがですか?」
ドイツからのお客様たちの姿が見えなくなるやいなや、栽仁殿下が自分の父親に尋ねた。
「ああ、特に問題ない。ただ、少し疲れたかな」
義父の言葉を聞いた私は、すぐさま職員に命じて椅子を持って来させる。義父が運ばれた椅子に腰かけると、私の義母の慰子妃殿下がやって来た。彼女は連日の看病で疲れがたまってしまい、今日のお茶会には出席せずに休養していたのだ。
「殿下、ご体調は?!」
玄関先で椅子に座る義父を見た瞬間、血相を変えて駆け寄った義母に、
「少し疲れただけだ。休めば治る」
と微笑んだ義父は、栽仁殿下に顔を向けると、
「どうだ、私は健康そうに見えていたか?」
栽仁殿下にこう問いかけた。実は、義父は義母に頼み、“少しでも血色良く見えるように”と、顔に化粧をしてもらっていたのだ。もちろん、ドイツ側にバレないよう、私がいつも使っている香料が少ない化粧品を使っている。
「はい、大丈夫だったと思います」
「自然な感じでしたし、化粧の匂いもしませんでした。ドイツ側に気取られている心配はありません」
栽仁殿下に続いて大山さんが答えると、
「大山閣下がこうおっしゃるのなら、大丈夫ですね。よかった」
義父は再び微笑んだ。
「あのさ、栽仁殿下……」
安堵したような表情の夫を、私は小さな声で呼んだ。「どうしたの?」と振り向いて問う彼に、
「山階宮さまと華頂宮さまって、仲が良くないの?」
私はこう尋ねた。
すると、
「どうやら、今後、国軍はどの分野に力を入れていくべきかで、意見が対立しているようですな」
栽仁殿下が答えるより先に、大山さんが私に言った。
「華頂宮殿下は、艦隊の発展を重視するべきと考えているようです。一方、山階宮殿下は、艦船だけではなく、飛行器や戦車など、新しく出てきた兵器の拡充に力を入れるべきと主張しておられて……」
「へぇ、そうなんだ……」
華頂宮博恭王殿下は、義父と同じく、参謀本部付きの海兵大将だ。軍に入ってからずっと、海兵に関わる業務に携わってきた。一方、博恭王殿下より2歳ほど年上の山階宮菊麿王殿下は、最初海兵だったけれど、1907(明治40)年に肺結核と診断されて国軍を休職したのを機に、兵科を海兵から機動に変えた。現在は、参謀本部付きの機動大将だ。
(宮家とのお付き合いは必要最小限にしているし、ずっと軍医学校にいるから、参謀本部の内部事情なんて、全然分かんないなぁ……)
私が心の中で呟いた時、
「博恭どのにも菊麿どのにも、“軍に対する意見が違っているからと言って、普段の交際まで無くしてしまうのはよくない。国会議員たちは、例え反対党の相手と出会ったとしても、論戦するのは議場においてのみで、普段は一般の友人と変わりないような交際をしているではないか”と言っているのですがね。どうも、聞き入れてもらえません」
椅子に座っている威仁親王殿下がこう言って、ため息を漏らした。
「え?……父上、華頂宮さまにそんなことを?我が家も、華頂宮さまとは仲が良くないではありませんか」
軽く目を瞠った夫に、
「確かにその通りだが、我々と博恭どのの対立より、博恭どのと菊麿どのの対立は目立ってしまっている。彼らの対立に周りの者……特に国軍の関係者が巻き込まれてしまえば、国軍を二分する争いになってしまうかもしれない。それは天皇陛下に申し訳ないから、軍籍を持つ皇族の最年長者の責務として、博恭どのにも菊麿どのにも意見をしたのだ」
と威仁親王殿下は穏やかな口調で言った。
私も栽仁殿下も大山さんも、義父に向かって最敬礼した。栽仁殿下を侮辱したり、帝国議会の閉会式で私を変な目で見たり……私たちを嫌っている博恭王殿下に対しても、国のために必要だと思ったことを注意するというのは、並みの人間にできることではない。
「では、そろそろ戻ろうか」
威仁親王殿下は椅子から立ち上がると、本邸の奥へと歩いていく。義母も栽仁殿下も、そして大山さんも私も、義父の後ろに付き従う。義父の歩き方、そして歩く速さは、病気にかかる前と全く変わりはない。それなのになぜか私は、心の中に湧き上がった暗い雲を、かき消すことができなかった。




