叔母遣いの荒いお上
1930(昭和2)年3月5日水曜日午後2時、赤坂御用地内にある仙洞御所。
「兄上も節子さまも、どうして玄関まで出てきたのよ……」
自動車から降りた私が、仙洞御所の玄関で私を出迎えた兄と節子さまに呆れながら言うと、
「よいではないか。ここまで来たのはリハビリ代わりだ」
背広服を着た兄は、少し苛立ったように私に応じた。
「今日は雨で、畑仕事ができないからな」
「確かにそうだけどさ……びっくりする人もいるんだから、予告しておいてもらえると嬉しいな」
なぜか胸を反らした兄にこう言うと、私は後ろにいるお付き武官の奥梅尾看護中尉を見やった。上皇と皇太后の突然の登場に、奥看護中尉は完全に驚いてしまっているようで、兄と節子さまに向かって最敬礼したまま、身体を震えさせていた。
「お付き武官の方、ごめんなさいね。上皇陛下は、お気軽にお出ましになりますから……」
節子さまが優しく声を掛けたけれど、奥看護中尉は「はっ」と応答したきり、最敬礼のまま動かない。
「梅尾さん、控室で少し休ませてもらう方がいいわ。……あと、事前に注意しておかなかったのは申し訳なかったけれど、兄上はどんな身分の人が相手でも、結構気軽に会いに行っちゃうから、会うのに慣れる方がいいわ」
私は身体を固くしたままの奥看護中尉にこう言うと、兄と節子さまについて仙洞御所の中に入った。
兄と節子さまが仙洞御所に住まいを移してから、私は水曜日の午後には、必ず仙洞御所を訪れている。まず、兄と節子さまの侍医の先生方が書いた診療録に目を通し、節子さま、続いて兄の診察をする。そして最後に、兄と節子さまと一緒におやつを食べながら夕方まで話し込む……というのが、水曜午後の私のルーティーンだった。
「はい、異常なしだね」
午後3時。兄の書斎で兄の診察を終えた私は、聴診器の耳管を耳から外して微笑んだ。
「体重が減ってないのはよかったよ。黒田さんが亡くなったから、ものすごく落ち込んでいるんじゃないかって心配してた」
昨年11月から療養を続けていた枢密院議長の黒田さんは、先月の25日に亡くなった。明日、国葬が行われる予定だ。
「それはもちろん、落ち込んでいるさ」
服を直した兄は、私に向かって寂しげに答えた。
「ただ、療養に入ってから、見舞いには4度行けた。思いの丈は十分に話せたし、今まで俺を導いてくれた礼も言えた。明日の国葬には参列して、最後の別れをするつもりだ。……奥侍従長やお母様のように、突然逝かれるよりはよかった。そう思うしかない」
「そうね……。それは私も思う」
兄のしみじみとした言葉に私は頷いた。
「……だけどねぇ、私、黒田さんにちょっと文句を言いたいのよね。仕事を増やさないで欲しいって」
そして、私が次にため息をついて言うと、
「ああ、よほど辛かったのか、トロツキーと会うのが」
兄はこう応じてクスっと笑った。
ロシア帝国の沿海州と樺太を領土として建国された新イスラエル共和国は、建国当初からオスカー・ソロモン・ストラウスさんが大統領を務めてきたけれど、2年前に彼が亡くなった後、外務大臣だったレフ・ダヴィードヴィチ・ブロンシュタインさんが後継の大統領に就任した。……実はこのブロンシュタインさん、“史実”では“レフ・ダヴィードヴィチ・トロツキー”と名乗り、ロシア10月革命を指導した人物の1人なのだ。
新イスラエル共和国にとって、極東平和委員会の委員長だった黒田さんは、建国の恩人である。だからトロツキーさん、いや、ブロンシュタインさんは、黒田さんの国葬に参列するために一昨日来日した。そして、“真の建国の恩人である章子妃殿下にお会いしたい”と、外務省と宮内省を通じて申し入れてきたのである。
「昨日、仕方ないから、トロツキー、じゃない、ブロンシュタインさんと盛岡町でお昼ご飯を一緒に食べたんだけど、ブロンシュタインさんの私を賛美する話がずっと止まらなくて……しかも、“現在の職場を拝見したい”なんて言い始めるから、軍医学校に連れて行く羽目になったのよ!大山さんに睨まれたら、ブロンシュタインさん、やっとおとなしくなったけれど、いつになったら黙るんだろうって、私、気が気でなかったわ!」
愚痴っていると昨日の苛立ちが蘇り、私は声を荒げてしまう。それを聞いた兄はひとしきり笑うと、真面目な顔になり、
「なぁ、梨花。畑を見てくれないか?」
と言いながら立ち上がると、廊下に面したドアへと歩いていく。私はゆっくりと兄について歩いた。
兄の書斎の前にある地面は、畑になっている。兄と節子さまは去年の秋、その畑の一部に小松菜とさやえんどうの種を植えた。両方ともすくすくと育っているけれど、高さ10cmくらいまで成長したさやえんどうの畝には、人の背丈ほどもある細い竹が1mほどの間隔で立てられている。竹の間には、目の粗い網が張られている。
「さやえんどうのところに、竹の支柱と網があるのは、さやえんどうのつるを伸ばしやすくするためにやったのかな?」
庭に面した廊下に出た私が兄に確認すると、
「ああ。あの支柱は、俺が立てたのだぞ」
兄は私にさらっと答えた。
「嘘?!」
「嘘ではないぞ。床や固い地面とは違って、畑は耕している分、足元がふわふわしているから、踏ん張るのに苦労した。だが、いつものリハビリと違って面白かったぞ。自分のやったことが、成果として残るのもやり甲斐があるし……」
驚く私に兄が力説していると、
「あら、お2人で、畑をご覧になっているの?」
横から声が掛かる。振り返ると、羊羹の小皿を載せた丸盆を持った節子さまが、女官さんを1人従えてこちらにやってきたところだった。
「ああ、節子か。章子に、昨日立てた支柱を自慢していてな」
兄が節子さまに答えると、
「そうですね。あれは、嘉仁さまが立ててくださったのですから」
節子さまは微笑んで、
「嘉仁さま、お姉さま、おやつをいただきませんか?」
と私たちを誘う。そして、いつものように夕方まで、私と兄と節子さまは、羊羹とお茶をおともに他愛のない話に興じた。
1930(昭和2)年3月8日土曜日午後3時、皇居・表御殿にある牡丹の間。
(密度が濃いなぁ、このスケジュール……)
現在、牡丹の間では、月に1度の梨花会が開催されている。内閣総理大臣の桂さんや内大臣の牧野さん、そして外務大臣の幣原さんから立て続けに聞いた話を紙に整理した私は、大きなため息をついた。
来週、3月13日に、お母様の崩御による大喪が明ける。その後、まずやらなければならないのは、大喪で中止となったお上の即位礼の準備だ。大喪が明けた翌日、3月14日には、お上の即位礼に関する事務一切を取り仕切る“大礼使”という組織が再び設置される。なお、大礼使長官……実質的な大礼使のトップは、去年と同じく内務大臣の後藤さんが務めるけれど、その上に立つ大礼使総裁には、10月頭まで董子妃殿下の喪に服さなければならない私の義父の有栖川宮威仁親王殿下ではなく、閑院宮載仁親王殿下が就任することになっていた。
大礼使が再設置された数日後の3月18日には、デンマークのフレゼリク皇太子殿下が、弟のクヌーズ殿下、そして父親のいとこであるアクセル殿下とその妻のマルガレータ殿下と一緒に来日する。その翌日、19日に彼らは参内し、皇居で昼食会が開かれることになっていた。お母様が亡くなってから初めての外賓来日ということもあり、昼食会には、東京近郊に在住する成年皇族がほぼ全員招集される。当然、私もその中に含まれていた。
「何でヨーロッパの王族って、日本に来たがるんだろうなぁ……」
私がこう呟きながらため息をつくと、
「それは、外国における日本の印象が良いからでございますよ」
すかさず大山さんが私に答えた。
「自然、建造物、風俗、美術……西欧にない洗練された文化は、西欧人たちの目には非常に新鮮な、そして魅力的なものとして映ります。また、我が国は“七大国”の1つでもあり、国際的な地位も高い国でございます。“旅行をするなら日本”という雰囲気が西欧に生まれるのも当然のことです」
「我が国の製品は海外でよく売れておりますが、工芸品は特に外国人に喜ばれます。内務省では目下、いわゆる“伝統工芸品”の生産に関わる職人たちの保護・育成にあたっております」
大山さんに続いて、後藤さんが力説する。そして彼は更に、
「我が国がここまでの隆盛を見たのは、ひとえに前内府殿下のおかげ!その美貌、その能力、そのお人柄……まさに世界に冠たる平和の女神!前内府殿下はこの日本の守護神であらせられるのです!」
勢いよく椅子から立ち上がり、吠えるように一同に主張する。
「トロツキーみたいなこと言うのは、やめてもらえませんか……」
私は両腕で頭を抱えた。どうにかして、このくだらない議論を止めたいけれど、こういう時にすぐに止めに入ってくれる渋沢さんは、今日の梨花会を欠席している。高橋さん、そして山本中佐と堀中佐と山下中佐は、諦めたような表情で場を眺めているし、幣原さんと浜口さんも動けない。新参者に分類される町田さんと横田さんは言わずもがなだ。
と、
「新平……貴様、いい加減にしろ」
後藤さんの昔馴染みである国軍参謀本部長の斎藤実さんが口を開いた。
「前内府殿下が困っていらっしゃるだろう。それに、我々が確認すべきことは他にもある」
「なんだと、実。貴様は前内府殿下の素晴らしさを確認しなくてもいいと言うのか?」
自分に食ってかかった後藤さんに、「そうは言っていない」と冷静に返答した斎藤さんは、
「これ以上理屈に合わぬことを言って前内府殿下を困らせるなら、俺は侍従長と協力してお前を黙らせなければならない。あらゆる手段を使ってな」
と厳しい声で告げる。それに呼応するように、牡丹の間の隅に控えている鈴木侍従長が、鋭い視線を後藤さんに向ける。これには流石の後藤さんも「わ、分かった」と頷いて椅子に腰を下ろさざるを得なかった。
「……さて、デンマークと言えば、廃帝ニコライが軟禁されている国だが、ニコライは今どうなっている?」
牡丹の間を覆った沈黙を破ったのは、お上の質問だ。それに対して、
「プレーヴェが2月に亡くなり、ニコライはだいぶ気落ちしているとのことです。もはや何かを企てる気力は残されていないでしょう」
外務大臣の幣原さんが淀みなく回答する。
「うん。……すまない、1つ確認したいのだが、そもそも、ニコライがデンマークにいるのはなぜだったかな。ニコライの退位は、僕の幼いころのできごとだったから、余り事情を知らないんだ」
「ニコライの母親が、デンマーク王家の出身だったからよ」
珍しく自信のなさそうなお上に、私は助け舟を出した。「デンマークの先々代の国王陛下・クリスチャン9世の娘が、ニコライの母親だったかしら」
「その通りです。娘をロシアとイギリス、そしてドイツのハノーファー王国に嫁がせ、次男はギリシャ王国の国王として迎えられた。クリスチャン9世は“ヨーロッパの義父”とも呼ばれますね」
陸奥さんが私の言葉に続けて言ってニヤリと笑うと、
「前国王・フレゼリク8世はスウェーデンの王女と結婚し、その次男はノルウェーの国王となっています。娘たちも、ドイツの侯国やスウェーデンの王族に嫁いでいます。現国王の王妃は、ドイツのメクレンブルク=シュヴェリーン大公国のご出身ですし……ヨーロッパの王室は国際色が豊かですな」
伊藤さんはこう述べて深く頷く。
「だからこそ、国際事情が複雑化している点は考慮に入れなければなりません。ヨーロッパの王室は、系図のどこかで他国とつながっていることも多い。それは頭の片隅に置いておかなければ、事象の背景を読み間違うこともございます」
幣原さんの言葉に「その通りだね」と同意を与えたお上は、次の瞬間、視線を私に向け、
「叔母さま、お願いがあるのですが」
と私に言った。
「何?」
「実は19日、フレゼリク皇太子の一行は、東京音楽学校に行くことになっています」
振り向いた私に、お上はこんなことを言う。そして、
「叔母さま、その音楽学校の訪問に、栽仁どのと一緒に同行していただけませんか?」
思わぬ依頼を私にした。
「ちょっと待ってよ。トロツキーと会ったばかりなのに、デンマークの皇族の接待もしないといけないの?」
私が抗議の声を上げると、
「実は、梨花会が始まる直前に、院から連絡が入りまして」
内大臣の牧野さんが私に言った。
「東京音楽学校の教職員の中に、黒鷲機関の者が紛れ込んでいる疑惑があるとのこと。それを確かめるため、盛岡町邸の職員を、顧問殿下のご訪問時に潜入させたいという申し出が院からありました」
「んー……それなら、輝仁さまと蝶子ちゃんでもいいんじゃないかしら?そうしたら、院の本部の職員が、堂々と東京音楽学校に入れますよ」
私が牧野さんに反論すると、
「それは、前内府殿下の国際的な知名度故、でございますよ」
陸奥さんがニヤニヤしながら私に言った。
「“平和の女神”と称えられ、女子でありながら内大臣を長年務めた方が、ご夫君とともに国賓をもてなすのです。デンマーク側も、前内府殿下のご同行を断るのは難しいでしょう」
「……というわけですから、叔母さま、よろしくお願いします」
陸奥さんの言葉の後、お上はこう言って私に頭を下げる。こんなことをされてしまっては、私に断る手段は残されていない。
(叔母遣いが荒いなぁ……)
内心ため息をつきながらも、私は「かしこまりました」とお上に一礼した。




