御召列車の侵入者
1929(昭和元)年11月27日水曜日午後11時、南豊島御料地に建設されたお母様の大喪儀の会場。
(落ち着いて葬場殿の儀に参列できるって、ありがたいわねぇ……)
先ほど、東京大宮御所から長い葬列を組んで会場に運び込まれたお母様の棺は、私のいる幄舎の前に建てられた葬場殿に安置されている。前回の大喪儀……お父様の大喪儀の時は、乃木さんの自決を止めに行ったり、そこから慌てて会場の青山練兵場に向かったりで、お父様との別れを惜しむ時間が無かったけれど、今回はお母様とゆっくりお別れをすることができる。私はこの幸運に感謝しながら、葬場殿の儀の進行を見守っていた。
やがて、祭官長を務める一条実孝公爵が霊前に進み出て祭詞を奏上する。続いて、大元帥の正装に身を包んだお上が霊前で拝礼し、御誄……一般で言う弔辞にあたる文章を読み上げた。その後、黒の通常礼装をまとった皇后陛下が拝礼し、その次に、燕尾服を着た兄が、杖をつきながら霊前に進み出て拝礼した。そして皇太后の節子さま、各皇族が拝礼し……と、儀式は滞りなく進められ、午後11時30分ごろに葬場殿の儀は終了した。
「……栽さん、アイマスク、使う?」
拝礼を終えて皇族用の休憩所に入ると、私は隣の椅子に座った栽仁殿下に小さな声で話しかけた。
「あい……何?」
僅かに顔をしかめて聞き返した夫に、
「アイマスク。目隠し……って言った方がいいかな。ほら、私たち、桃山に行かないといけないじゃない?列車の中だと、あんまり休めないからさ」
私はこう言いながら、机の上に置いた診察カバンの中から黒いアイマスクを取り出す。これは、栽仁殿下と私が、桃山にあるお母様の山陵での儀式に参列すると決まってから、私が手縫いで仕上げたものである。
「耳栓もあるわよ。音を遮断する方が眠りやすいから。要る?」
「……今はいらないかな」
私の勧めに、夫は首を横に振った。「列車で寝るのも、軍艦で寝るのも、そんなに変わらないからね。そうだな、列車でどうしても眠れなかったら、使わせてもらうけど……妙に手回しがいいね」
「ああ……お父様の大喪儀の時も、列車で東京と桃山を往復したけれど、その時、列車の中で仮眠しようと思ってもなかなか眠れなくて大変だったのよ。だから、こういうものがあれば、少しは眠れるんじゃないかなぁ、と思って」
私が栽仁殿下にこう説明した時、
「何だって?!」
休憩所の入り口の方から、ただならぬ響きを帯びた声が聞こえた。視線を動かすと、休憩所の入り口で、私の弟・鞍馬宮輝仁さまが、別当の明石元二郎さんと何かを話している。輝仁さまのそばにいる妃の蝶子ちゃんの顔が、見る見るうちに青ざめた。
「……輝仁さま、どうしたの?」
輝仁さまと蝶子ちゃんは、兄と節子さまの代理として、私たちと一緒に桃山に向かうことになっている。そんな2人がトラブルに巻き込まれたのなら、私は彼らの力になるべきだろう。そう思って、明石さんと話し込んでから室内に入ってきた輝仁さまに声を掛けると、「ああ、章姉上」と暗い声で私に応じた彼は、
「今、明石閣下から教えてもらったんだけど……詠子の姿が見えなくなったらしい」
と小声で言った。
「は?」
詠子さまは輝仁さまの長女で、この9月に華族女学校高等小学科第2級……私の時代風に言うと小学5年生になった。亡くなったお母様に特に懐いていて、私が大宮御所に行くと3回に2回くらいは彼女と出くわした。
「大宮御所でお母様に最後のお別れをした後、家に戻ったんじゃないの?」
成年に達していない皇族は、お母様の棺が大宮御所を出発する時に、大宮御所の車寄せから最後のお見送りをしたはずだ。それを思い出して私が弟に聞くと、
「太皇太后陛下の霊柩をお見送りした後、姿が見えなくなったそうなんです」
詠子さまの母親である蝶子ちゃんが、顔を青ざめさせたまま私に答えた。
「職員さんたちも探してくださっているんですが、まだ見つからないようで……お義姉さま、どうしたらいいのでしょう?私たち、これから桃山に行かなければならないのに、詠子がこのまま、御殿に戻らなかったら……」
「大丈夫よ、きっと」
泣き崩れる蝶子ちゃんの肩を、私はそっと叩いた。「明石さんのことだから、警察や軍隊にも、連絡は入れてくれているはずよ。必要なら、盛岡町邸の職員さんにも捜索に加わってもらう。……蝶子ちゃん、少し身体を休める方がいいわ。そうじゃなきゃ、桃山で倒れちゃうから」
蝶子ちゃんは、自邸の別館が、日本の非公式の諜報機関・中央情報院の本部になっていて、別当として彼女に仕えている明石さんが、実は世界を翻弄する諜報のエキスパートであることは知らない。私が院のことを伏せて蝶子ちゃんをなぐさめると、
「はい……ありがとうございます、お義姉さま……」
蝶子ちゃんは少し落ち着いたようで、私にお礼を言った。私は蝶子ちゃんを椅子に座らせると、栽仁殿下の許可をもらって盛岡町の自宅に連絡を入れ、職員さんたちを詠子さまの捜索に協力させるよう、別当の金子堅太郎さんに依頼した。
それから2時間余りが経過した1929(昭和元)年11月28日木曜日午前2時、お母様の棺を載せた列車は、葬場殿のすぐ後ろに建設された仮停車場から、桃山の山陵へと向かって出発した。お上・皇后陛下、兄と節子さま、そして他の皇族や政府高官たちとともに列車を見送った後、私と栽仁殿下は、お上と皇后陛下に従って線路を渡り、向かいのプラットホームに停車している御召列車へと歩く。この列車で、お上と皇后陛下は桃山へ向かう。私と栽仁殿下、そして輝仁さまと蝶子ちゃんもこの列車に陪乗し、桃山での儀式に参列するのだ。
「輝仁さま……詠子さま、見つかった?」
列車に向かって歩きながら、前を歩く輝仁さまに問いかけると、彼は無言で首を左右に振る。
すると、
「まさか……詠子は、太皇太后陛下の後を追って……」
輝仁さまの隣を歩く蝶子ちゃんが、思いつめた様子で呟いた。
「うーん……詠子さまがそんなことを考えるとは思えないけれど……」
首を傾げた私に、
「だけどお義姉さま、あの子は太皇太后陛下にとても懐いていました。大宮御所にほとんど毎日通って、太皇太后陛下にお相手していただいていましたし、崩御なさってからも、あの子は時間の許す限り、ご遺骸のそばに侍っていましたし……」
蝶子ちゃんは縋るように訴える。そんな彼女を輝仁さまが横から抱き締め、
「落ち着け、蝶子。詠子は強い子だ。自分で死を選ぶようなことなんてしない。俺たちは明石閣下を信じて、お役目を果たそうぜ」
と力強く囁く。蝶子ちゃんは黙って頷くと、列車に向かって再び歩き出した。
(まぁ、無理ないよなぁ……)
私は蝶子ちゃんに同情した。お母様が亡くなったことだけでも辛いはずなのに、大事な娘が忽然と姿を消してしまったのだ。蝶子ちゃんの心痛はいかばかりであろうか。
(これから列車に乗って、桃山まで13時間ぐらい……。その間だけでも休んでもらわないと、蝶子ちゃんが倒れちゃう。何とか、蝶子ちゃんが休める環境を作らないと……)
御召列車が待つプラットホームに就いた私は、栽仁殿下に続いて、御料車のすぐ後ろにある皇族専用車両に乗り込む。
と、
「え?!」
前を歩く栽仁殿下が、座席のあるエリアに入った途端、驚きの声を上げる。「どうしたの?!」と問いかけた私に答えずに、
「そんな……どうしてここにいるの?」
栽仁殿下は、入ったところのすぐそばにある空間を見つめている。慌てて彼の視線の先を確認した私の視界に、車両の隅にうずくまる、黒橡色の袿に柑子色の袴をつけた詠子さまの姿が入った。
「う、詠子さま?!」
私の叫び声に、栽仁殿下より前を歩き、座席に座ろうとしていた輝仁さまと蝶子ちゃんが反応し、こちらに慌てて戻って来る。
「う、詠子?!」
「詠子、お前、どうしてこんなところにいるんだ?!早く列車から降り……」
蝶子ちゃんと輝仁さまが叫んだ瞬間、私の視界が揺れる。列車が動き出したのだ。この列車に、未成年の詠子さまが乗り込むことはもちろん想定されていない。これは大変なことになってしまったと私は思った。
「……おばば様のご埋葬を、見届けたいのです」
混乱する大人たちに向かって、うずくまったままの詠子さまは言った。
「ずっとずっと、おばば様と一緒に過ごせると思っていました。でも、おばば様とは、あの世とこの世に、離れ離れになってしまいました。だから……だから、せめて、おばば様の棺を、ご埋葬の、時まで、お見送り、したくて……」
詠子さまの声には次第に涙が混じり、最後には、声が言葉にならなくなってしまった。泣きじゃくる少女を前にした私たちは顔を見合わせた。
「どうしよう、章姉上……」
「どうしよう、って言われてもさ……」
明らかに困惑している弟に、私は反射的に応じた。……どうやって大宮御所から抜け出したのか、とか、どうやって南豊島御料地まで移動して、この御召列車に入り込んだのか、とか、詠子さまに問い質したいことは山ほどある。それから、部外者に御召列車への侵入を許してしまった警備体制についても、担当者に見直しと再発予防策の作成を命じたいところだけど……。
「……列車を降りてもらうのが一番なのは間違いないわよ。いくら御召列車だって言っても、国府津か山北では機関車の交換で止まるでしょうから、そこから誰かと一緒に東京に引き返してもらって……」
腕組みをした私がこう言うと、
「それは、ちょっとかわいそうなんじゃないかな?」
栽仁殿下がこんなことを言い出した。
「何言ってるのよ、栽さん。詠子さまはここまでの時点で、いくつも決まりを破っているのよ。その上、更に決まりを破るようなことをさせたら、品位を保つべき皇族として失格と言われてもおかしくはないわよ」
「確かに章子さんの言う通りだけど、詠子さまはまだ小学生なんだ。大目に見てあげてもいいんじゃないかな」
「でも、小学生の女の子が、夜中に家を抜け出して、御召列車に紛れ込んで桃山に行くなんて……」
私と栽仁殿下が言い争っていると、
「章子……伯母さま」
うずくまっていた詠子さまが顔を上げた。
「伯母さまは、8つの時に、1人で京都にき……じゃない、行かれたと聞きました。私はその時の伯母さまより年は上だし、1人ではありませんが、それでも、桃山に行ってはいけませんか?」
(うっ……)
私は急いで詠子さまから目を逸らした。私をじっと見つめる詠子さまの眼の力が異常に強く、彼女の言うことを聞かなければならないような気になってしまったのだ。
「そんなことがあったのですか、お義姉さま?」
「う、うん、輝仁さまが生まれる前だけど……なんで詠子さまがそんなことを知ってるのかなぁ。お母様が教えたのかしら……」
蝶子ちゃんに私はため息をついて答えたけれど、詠子さまの情報の入手先を探っても、問題の解決には結びつかない。
「これは、お上と牧野さんに相談して、判断を仰ぐしかないね。輝仁さま、御料車まで付き合ってもらえる?」
私は輝仁さまに声を掛けると、返事も聞かずに御料車と通じる扉を開け、侍従さんの控室に入る。交渉の末、私と輝仁さまが御料車内の御座所に招き入れられたのは、列車が平塚のあたりを走行しているころだった。
「……ついてきたのは仕方がないから、詠子にも、山陵での儀式に参列してもらっていいんじゃないかな」
私と輝仁さまから事情を聴取したお上は、話を聞き終わると、少し考えてからこう言った。
「へ……?」
間の抜けた応答をした輝仁さまに、
「詠子は外孫の中で、おばば様に一番懐いていた。おばば様に、可能な限り寄り添いたいと思い詰めてしまうのも無理はないだろう」
とお上は穏やかな声で言う。確かに、お母様の外孫の中で、特にお母様と会っていたのは、お母様と同じ赤坂御用地に住んでいた輝仁さまの子供たちだ。その中でも、詠子さまは足繁く大宮御所に通っていたから、外孫の中でお母様と一番会っていたのは間違いない。
「だから、詠子はこのまま、この列車に乗ってもらって、山陵での儀式に参列すればいい。……牧野閣下、そのように手配してください」
お上の命に、横で話を聞いていた牧野さんが「かしこまりました」と返答する。
「あ……ありがとうございます!」
最敬礼した輝仁さまを見て鷹揚に頷いたお上は、次の瞬間、私に視線を移し、
「叔母さま、詠子がどうやって大宮御所を抜け出して、誰にも咎められずにこの列車に入り込んだかについては、きちんと調べなければなりませんね」
穏やかな声のままこう言った。
(で、ですよねー……)
お上の至極もっともな指摘に、私はただ頷くことしかできなかった。
お母様の棺を載せた列車は、午後5時30分に桃山駅に到着した。引き続いて山陵で夜中まで行われた陵所の儀にも、斂葬翌日山陵祭の儀にも、詠子さまは、まるで最初から参列する予定であったかのような堂々とした態度で参列した。そして、12月3日に行われた山陵50日祭の儀に参列した詠子さまは、私たちと一緒に帰京の途についた。
「ねぇ、梨花さん」
1929(昭和元)年12月3日火曜日午後3時。東京に戻る列車の中で、私の隣に座る栽仁殿下が私を呼ぶ。「何?」と私が応じると、
「詠子さまがどうやって御召列車に乗り込んだか、分かったの?」
夫は前を見ながら、私に小声で尋ねる。私たちの向かいの座席には、輝仁さまと蝶子ちゃんが、詠子さまを挟むように座っている。輝仁さまも蝶子ちゃんも詠子さまも、列車の揺れに身を任せてぐっすりと眠っていた。
「大宮御所でお母様の棺を見送ってから、お母様に仕えていた女官さんたちに紛れ込んで、葬場殿に行ったらしいの」
輝仁さまたちを起こさないように注意しながら、私は小さな声で説明を始めた。
「大宮御所によく出入りしていたから、詠子さまはお母様に仕えていた女官さんたちと仲が良くてね。それで、お母様の棺を見送った後、女官さんたちに“葬場殿まで連れて行って欲しい”って頼み込んだんだって。女官さんたちも、詠子さまがお母様に可愛がられていたのは分かっていたし、彼女が毎日お母様のご遺骸のそばにいたのも知っていたから、つい情にほだされて、葬場殿に連れて行ったそうよ」
「なるほど、あの格好なら、太皇太后陛下の女官さんに混じっても分からないね」
私の話を聞いた栽仁殿下は、詠子さまに目を向ける。彼女が身に着けているのは、黒橡色の袿と柑子色の袴……お母様に仕えていた女官たちが着ている喪服と全く同じだ。大喪儀に参列した女性の大部分は、黒い色の通常礼装を喪服として着ていたけれど、詠子さまはまだ身体が成長しきっていないから、サイズ直しが後々やりやすい和装が喪服として選ばれたのだろう。それが、詠子さまをお母様に仕えていた女官の集団に紛れ込みやすくした。
「警察や軍隊の人も、洋装の女性は出入りを細かくチェックしていたけれど、和装の女性が集団で葬場殿に現れたら、“太皇太后陛下に仕えていた方々だ”で一くくりにして、個人の面体はチェックしてなかったみたい。だから詠子さまは葬場殿に入り込めて、その後、御召列車に忍び込んで……」
私が話を続けると、「あの厳重な警備の中を?」と驚きの声を上げた栽仁殿下は、
「それ、もしかしたら、明石閣下が詠子さまに隠密行動のやり方を教えてたんじゃないかな?そうじゃなきゃ、説明がつかないよ」
声を更に潜め、真剣な表情で私に言う。
「まさかぁ……って言いたいけれど、鞍馬宮家の別当は明石さんだから、可能性はゼロ、と言い切れないのよねぇ」
私はため息をつくと、前に座っている詠子さまを再び見つめた。両親に挟まれた彼女は、すやすやと寝息を立てて眠っている。その寝顔は穏やかだった。
「だけど、確実なことが1つあるよ」
「へ?」
やや思わせぶりなことを言った夫に、私は首を傾げて問う。すると彼は、
「東京に戻ったら、詠子さまはきっと明石閣下にお仕置きされるよ」
と、悪戯っぽい笑みとともに言った。
「それは間違いないわねぇ……」
明石さんは詠子さまに、彼女の苦手な算術の問題をたくさん解かせるのだろうか。それとも、彼女が大好きな刀剣の鑑賞を、長期間にわたって禁じるのだろうか。いずれにしろ、詠子さまは東京に戻ってからそれ相応の罰を受けるだろう。眠りこけている両親に挟まれて眠る詠子さまに、私はほんの少しだけ同情した。




