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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第12章 1893(明治26)年立春~1893(明治26)年清明
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コホート研究

※地の文を一部訂正しました。(2019年4月7日)

 1893(明治26)年2月4日土曜日、午後2時。

 いつものベルツ先生たちとの講義に、今日は新しいメンバーが加わっている。2月1日付で、帝国大学の内科学講師となった三浦謹之助先生だ。

「申し訳ない、三浦君。大学に着任したばかりの上、結婚の準備で忙しいところを」

 ベルツ先生が三浦先生に、日本語で話しかける。以前はドイツ語で話しかけていたけれど、日本語に変わったのは、三浦先生の留学が終わったからだろう。

「いえいえ、ベルツ先生。私は大丈夫です」

 三浦先生が、春風のような微笑で答えた。

「本当に大丈夫かね?日本に帰って、2か月も(おしえ)さんに会えなかったんだ。教さんの機嫌が、悪くなってはいないかい?」

 森先生が、心配そうな顔で三浦先生に尋ねる。

「ああ、それですか」

 三浦先生は苦笑した。

「増宮さまのご命令ゆえ、ということで、教さんには納得してもらいました。義父(ちち)も了解してくれましたし……」

「本当に申し訳ありませんでした、三浦先生」

 私は椅子から立ち上がって、三浦先生に頭を下げた。

 実は、三浦先生、帝国大学医科大学の三宅(みやけ)(ひいず)教授の娘さんと、留学前に婚約していたそうだ。留学から戻ったら、すぐに結婚準備に取り掛かるはずだったところ、私が彼の帰朝直後に、伊藤さんに付き添うことを頼んでしまった。しかも、伊藤さんの大磯への移動についていかざるを得なかったので、全く結婚の準備が出来ず、教さんとの結婚式が今月末に延期になってしまったそうだ。私がそれを知ったのは、先週参内した時だった。

――三浦君も、わしに遠慮せず、新婦を呼んでしまえばよかったのに。そうすればわしも芸者を呼べて、怪我の治りがもっと早くなったでしょう。

 軽くため息をつく伊藤さんに、

――いや、三浦のやりようが一番賢い。伊藤の前に新婦を連れてくるなど、獣に生餌を差し出すようなものだ。

真面目な表情でお父様(おもうさま)がツッコミを入れ、伊藤さんが黙って笑った。

(いや、そこは否定しろよ、エロ輔導主任……)

 お父様(おもうさま)からいただいたペンダントを首から下げたままの私は、私の輔導主任として、伊藤さんが本当に適任なのかどうか、大いに疑問に思ったのだけれど……。

「増宮さま。どうぞお気になさらないでください」

 三浦先生が一礼する。

「でも、……結婚って人生の一大事じゃないですか。それを邪魔してしまったなんて、もし知っていたら、他の人に頼んだのに。せめて、結婚祝いとして何か贈らせてください。もちろん、それだけじゃ私の罪は償えないでしょうけれど」

「増宮さま、私と教さんを気遣ってくださる、そのお優しいお気持ちだけ頂戴いたします」

「だけど、それじゃあ……」

「本当に大丈夫ですよ」

「三浦先生が大丈夫でも、教さんが大丈夫じゃないんじゃないの?!」

 私は三浦先生に食い下がった。「長く留学して離れていた婚約者が、やっと帰ってきたのに、結婚式の準備もできないで、婚約者がまた遠くに行っちゃったのよ?辛くないなんてありえない。それとも……何?この結婚って、大学で出世するための政略結婚で、三浦先生も教さんも、お互いのことが好きではないんですか?」

「ち、違います!」

 三浦先生が激しく首を横に振った。「政略結婚なんて、そんな……。少なくとも、私は、教さんを……生涯の伴侶として、その……大事にする覚悟です」

「うん、良く言った、三浦君!」

 北里先生が大きく頷く。

「ほう……教さんが羨ましい」

 森先生が微笑した。その微笑みには、どことなく寂しさが漂っていた。

「皆で、お祝いをしなければなりませんね」

 ベルツ先生がニッコリ笑った。

「それなら、北里先生が帰ってきた時みたいに、何か食べに行きましょうか。あの時は牛鍋だったから、今度は……洋食か、カレーライス、じゃなかった、ライスカレーでも食べにいきますか?」

「梨花さま」

 私の横に座った大山さんが、苦笑しながら私を呼んだ。「仮にも、人生の節目となる出来事ですよ。最上級の祝意をお示しになるのなら、この花御殿で、新郎新婦をお招きして、昼食会を主催されるべきでしょう」

「そうね……じゃあ、この面々に、教さんをお招きして、昼食会をするか。……三浦先生、もしよろしければ、私の招待を受けてくださらないかしら?」

 三浦先生に私は微笑を向けた。だけど、三浦先生は、首を傾げていた。

「あ、あの、増宮さま?」

「どうしたんですか、三浦先生?」

「恐れながら、増宮さまの御名は“章子”であったと記憶しておりますが……その、今、大山閣下のおっしゃった“梨花”という名は……?」

「ああ……」

 私は大山さんをちらっと見た。私の視線に気が付いた大山さんは、

「構わないでしょう。もともと、今日は三浦先生に、梨花さまのことをお話になる予定だったではないですか」

と言って、微笑した。

(確かにそうだけどね……)

 まさかこんな風に、大山さんがバラしてくるとは思わなかった。

「あの、三浦先生、驚かないで聞いてほしいんですけど……輪廻転生ってご存知ですか?」

 もう何度目になるのだろう。いつものお決まりの質問を、三浦先生にぶつけた。

「あ、はい……」

 三浦先生はキョトンとしている。それに構わず、私は言葉を続けた。

「私、前世の記憶があるんです。今から125年ぐらい未来の日本で、女医として生きたという記憶が」

 すると、三浦先生が、座った椅子から床に崩れ落ちた。

「ちょ……、三浦先生、大丈夫?!」

「三浦君?!」

 倒れた三浦先生に、私たちは慌てて駆け寄った。


「ああ、びっくりしました……」

 5分後、私の居間の床に寝かせられた三浦先生は、大きなため息をついていた。三浦先生の両脚の踵は、別の部屋から持ってきた座布団を4、5枚積み重ねた上に置いてある。

「ですよね……本当にごめんなさい、三浦先生」

 三浦先生の頭の脇に正座した私は、深々と頭を下げた。まさか、転生の事実を告げられたショックで、血管迷走神経性の失神を起こして倒れるなんてことは、私も想定していなかった。

「今の血圧が、88の56か……。三浦君、やはり血圧が低い。もう少し、横になっている方がよい」

 三浦先生の血圧を測定していた森先生が、そう言って聴診器を耳から外す。血圧計も聴診器も私のものだけれど、今はそんなことは言っていられない。

「はあ……申し訳ありません、増宮さま。余りのことで、仰天してしまいまして……」

「気にしないでください、三浦先生。むしろ……今まで同じ話をされて、平然としていた人たちの肝が太すぎるんだと思います」

 特に、“梨花会”の面々だ。思い返してみると、“授業”の時、私に前世があるということを、ほとんど驚きなく、平然と受け入れていたような気がする。

(流石、修羅場をいくつもくぐってきた維新の元勲は違うなあ……)

 大山さんの方を見ると、彼は澄ました顔をしていた。

「すると、“梨花”というのは……」

「半井梨花。それが私の前世での名前でした」

 私は三浦先生に答えた。

「な、何ですって……あの名門の医家、半井家の方だったのですか?」

「森先生にも言われたけど、残念ながら無関係です。曾祖父の代から医者だったけど、曾祖父は1900年生まれだから、まだ生まれてないんですよ」

 私はため息をついた。「今の時代とは、色々教育制度が変わっていて、女子でも大学の医学部に入れて、国家試験に合格すれば医者になれたんです」

「ええと……それは、女子だけの大学ですか?」

「いえ、私が通っていたのは男女共学の大学です。女子だけの医科大学もあったけれど」

 それを聞いた三浦先生が、目を丸くする。

「まあ、私が医師免許を取れたのは、記憶力と……それから、人間的な成長に必要なことを多数振り捨てた結果なので、あまり自慢にはなりませんけれど」

 “梨花の記憶力の良さは異常”と、小学生のころから、家族やクラスメートによく言われたものだ。それを駆使して、女性らしいことに関する興味を、一切排除して勉強したら、試験の類は簡単にこなせた。

「しかし、その記憶力に、今、我々が助けられているわけです」

 北里先生が言う。

「基礎から臨床まで……増宮殿下の記憶は多岐に渡ります。本当にありがたいことです」

「でも、北里先生、これからその理論や物質が、実際にあることを証明しないといけないですよ。まだまだやることは多いです」

 病原菌も見つけ出さないといけない。アドレナリンは単離できて、今は論文を準備中だと、大阪の高峰先生から年明けに連絡をもらったけど、アドレナリン以外のホルモンだって見つけないといけない。抗生物質や抗結核薬や、ビタミンも……見つけないといけないものは山とある。

「それに、血圧のことだってやらないと」

「血圧……ですか?」

 寝かされたままの三浦先生が、私に質問する。

「ええ、今の三浦先生みたいに、低すぎる血圧も問題だけど、高すぎる血圧も問題なんです」

「そう言えば、この血圧計を作った時、ベルツ先生にも同じことを言われましたが……まさか、増宮さまがおっしゃったのですか?」

「私の時代では、それが証明されていました」

 私は三浦先生に頷いた。「これから、それを私たちの手で、証明しないといけません」

「どうやって?」

「そうねえ……、一つの町に住んでる人全員の追跡調査をやれたらいいのだけど」

「一つの町につき、全員ですか?!」

 森先生が目を丸くする。

「うん、まず、対象者の血圧を測定して、生活習慣もチェックして、それで追跡。高血圧や喫煙、飲酒が危険因子として私の時代で知られている病気……例えば、脳卒中や心筋梗塞、肺がんなんかの発生数を、数年にわたって調べるの。全員、半年か1年に1回ぐらい、健康診断を受けてもらう。もし、追跡調査中に亡くなった方が出たら、原則全員解剖して死因を調査」

「なんと!そこまでするのですか」

 北里先生が叫んだ。

「ええ、そこまでしたいです。だって、死亡時画像診断(エーアイ)なんて、この時代、できないでしょう?」

 CTはおろか、その前段階のレントゲンだって、まだ開発中の段階だ。高校時代に習ったエックス線の知識は、昨年“産技研”に行ったときに、村岡さんと島津さん親子に伝えたけれど……。

「それで、何年かした後に、血圧の高さや、喫煙や飲酒の習慣の有無が、病気や死亡の発生に関与しているかどうか解析するんです。積み重なれば、絶対いいデータが取れるはずです」

「おっしゃることは分かりました。しかし、それには人手が要りますね……」

 ベルツ先生が腕を組んだ。

「そうですね。三浦先生の主導でやるにしても、三浦先生はそう簡単に東京を離れられませんしね。まず、現地で調査する人も必要でしょう?それに、結果をまとめて統計学的に処理する人も……あ、これは菊池先生に頼めばいいかな」

「私が主導するのは、もう決定済みなのですか……」

「当たり前でしょう。“血圧の三浦”なんですから。それにしても、すごい二つ名が付きましたね」

 私は苦笑した。血圧測定の時に、動脈をカフで締め付けて生じる血管の音は、“史実”ではコロトコフ音と言ったけれど、今は“三浦音”と呼ばれている。日本だけではなく、ドイツでもフランスでも、だそうだ。何百年経とうが、三浦先生の名前は後世に残るだろう。

 と、

「梨花さま」

大山さんが私を呼んだ。「調査の現地に派遣する人物ですが、心当たりがあるので、(おい)が当たってみてもよろしいでしょうか?」

「それは構わないけれど……」

 私は首を傾げた。帝大卒の医師なら、ベルツ先生と三浦先生の伝手で何とか引っ張ってこられるだろう。軍医さんも、森先生の伝手や、西郷さんの伝手もあるから、派遣は簡単だろう。

(大山さんがわざわざ動かないといけないお医者さんって、一体誰だろう?)

「かしこまりました。では、仰せの通りに。外国人の女性看護師ですが、腕は確かかと」

 大山さんが一礼した。

(あ、なるほど……)

 看護師さん、しかも外国人の女性ということであれば、確かにここにいる医者たちでは伝手がないだろう。ちなみに、“看護師”という名称、この時代では“看護婦”だったのだけれど、「私の時代では男性の看護師もいたし、戦場だと男性がけが人を看護するケースも多いのではないか」と“梨花会”の皆に話して、憲法発布と同時ぐらいに、公的機関内での名称が“看護師”に改められた。全国統一の免許制度や教育カリキュラムの制定も、内務大臣の山縣さんにお願いした。

「よし、じゃあ、派遣する人材は、大山さんに任せましょう。あとは研究を実際に行う町だけれど……」

 私たちは、横たわっている三浦先生を囲んだまま、調査の打ち合わせに入った。


 そして、3月12日、日曜日。

「なぜ……そのような格好なのですか?」

 日本鉄道の上野停車場。ここは、前橋や仙台の方に行く列車の始発駅だ。3年前の夏、伊香保に行く時にも使った。その上野停車場で、私は待ち合わせた三浦先生に首を傾げられていた。

「ああ、これですか。もし、放線菌のいそうな土壌を見つけたら、採取しようと思ったんです。そろそろ暖かくなってくるから、放線菌が見つかりにくくなってしまうし」

 私が今日着ているのは、例の“野外活動服”である。背負ったランドセルの中には、現金を入れた財布だけではなく、土壌採取に使う、園芸用の小さな円匙(シャベル)と、採取した土を入れる小さな布の袋も準備してある。

「はあ、なるほど」

 大きな布の手提げ袋を持ったベルツ先生は、納得が行ったように頷いた。手提げ袋の中には、花御殿の料理人さん謹製のお弁当が6人分入っている。現地で昼食を調達するのが難しい可能性もあるので、準備して持っていくことにしたのだ。

(おし)でも、土壌を採取されるのですね。大磯でも土壌を採取していただいたので、石神君が喜んでいました」

「環境が違えば、生息している放線菌も違っている可能性がありますから」

 ベルツ先生に答えながら、私はほくそ笑んだ。

 話は1か月前にさかのぼる。新メンバー・三浦先生を加えた、私たち医科分科会は、追跡調査を行う街の選定に入っていた。

 調査は現地でやるけれど、データの分析は東京ですることになる。だから、東京から簡単に行ける町がいいのだけれど、あまりに東京に近すぎると、近い将来起こるであろう、郊外地域のベッドタウン化に巻き込まれ、人口構成が大きく変わる危険がある。だから、「東京から近すぎず遠すぎず」という条件がまず絶対だった。

 そして、本格的なコホート研究になるので、調査対象とする40歳以上の人の年齢構成や職業の割合などが、全国平均とほとんど同じぐらいになれば、調査人数次第では「日本全体のサンプルを取った」ことになるのでベストだ。ところが、この時代、人口の調査はされていたけれど、まだ国勢調査がされておらず、職業分布についての資料が手に入らなかった。

――国勢調査、いずれはやるようにしないといけないですねえ……。現状把握は大事だって、前世の上級医(オーベン)に何度も言われたし。

 ため息をつきながら呟く私に、

――しかし、現時点では、早く研究を始めることが大事だと思います。増宮さまのおっしゃられた国勢調査が行われるまでは今回の街で、もし、国勢調査が行われて職業構成などが判明し、今回の街が全国平均とかけ離れている場合は、別の全国平均と似通った街に調査対象を移すことを検討することにすれば……。

三浦先生がこう言って、皆それに頷いた。私の横に座った大山さんも、黙って首を縦に振り、とりあえずは「年齢構成が全国平均と似通っていて、東京から近すぎず遠すぎない」という街を探すことになった。

 そして、最終的に候補として残った町は、1月に私も行った神奈川県の大磯町と、今から向かう埼玉県の忍町だった。

――どちらにしましょうか?

 ベルツ先生に訊かれて、

――忍町にしましょう。

私は即答した。

――え、なぜですか?大磯なら、政府高官の別荘もありますし、増宮殿下も長期滞在しながらの調査も可能かと……。

 ベルツ先生が戸惑いながら私に尋ねたけれど、

――逆に別荘地だから、人口分布が他の町と異なっている可能性があります。それに、伊藤さんが、大磯に本籍も住所も移すって言っているから、伊藤さんに追随して大磯に移住する政府高官が出るかもしれない。そうしたら、その配下の人も大磯に増えてしまって、大磯の人口の年齢構成がおかしくなるかもしれません。

 あと、ベルツ先生たちにはまだ言えないけれど、1923年の関東大震災のことも考えなければならない。震源については諸説あるけれど、山梨から神奈川県西部、相模湾までの範囲だったはずだ。忍町よりも確実に大磯町の方が被害が大きくなるから、大震災の後で、人口構成が変動する可能性が高い。まあ、そこまで言わなくても、ベルツ先生たちは納得してくれて、調査対象は埼玉県忍町に決定した。

 そして、

――そこで調査をすることになるなら、まず現地視察をしてみたいです。

という私の提案も、すんなり通った。

(ふっふっふっふ……)

 その瞬間、私はニンマリしそうになるのを、必死に抑えていた。

(これで……これで、忍の城址に行ける!)

 忍城。豊臣秀吉の小田原征伐の際、石田三成らが水攻めにしたが落とせず、結局、小田原城が先に落城したため開城したという堅城である。湿地帯と沼を効果的に利用した平城だったらしいけれど、前世(へいせい)で見学した時には、湿地帯や沼が埋め立てられ、かなりの部分が失われてしまっていた。

(明治初年に建造物は破却されちゃったはずだけれど、往年の沼や湿地帯はまだ残っているかも……前世(へいせい)より確実に開発の手が及んでいない、明治時代の今なら!)

 だから、城跡探索をする可能性を考えて、今回は野外活動服を着て、上野停車場にやってきたのだ。今日私に同行するのは、ベルツ先生と三浦先生、大山さんと外国から来た看護師さん、そしてその看護師さんのお付きの女性の計5人だ。ベルツ先生と三浦先生は“放線菌がいる土壌を探す”と言えば言いくるめられるし、大山さんも看護師さんたちの相手で忙しいだろう。

(つまり、私一人で、じっくり忍城址を堪能できる!ふふふ……完璧な計画……)

 私が心の中でガッツポーズを決めた時、馬の蹄の音が聞こえた。音のする方を見ると、2頭立ての馬車がこちらに近づいてきて、私たちの前で止まった。馬車の扉が開いて降りてきたのは、灰色のフロックコートを着た大山さんだ。地面に降り立つと、そのまま扉の脇に立ち、中にいる女性たちが馬車から降りるのを介添えする。どこか華やかさを感じさせる洋装の日本人女性が降り立ち、続いて、彫りの深い顔立ちの、外国人の女性が馬車から降りた。髪の色は黒に近い茶色だ。

(なんか、見覚えがあるなあ……)

 黙っていれば美人で通りそうな、外国人の女性の顔を見た私は、少し記憶を探って、愕然とした。

(う……嘘でしょ?!)

 私の前に立っているのは、京都で私を殺そうとした、ロシアの先帝の暗殺犯、ヴェーラ・ニコライエヴナ・フィグネル、その人だった。

※「看護婦規則」が制定され、看護師の資格制度が導入されたのは1915(大正4)年のことでした。ちなみに、「産婆規則」は1899(明治32)年に、「保健婦規則」は1941(昭和16)年に制定されています。


※国勢調査が日本で最初に行われたのは1920(大正9年)年です。人口調査は行われていますが、この1893年の時点では、職業分布などが分かっていないという解釈で話を組み立てています。なお、忍町と大磯町の当時の年齢別人口については、資料を探せておりませんので、実際と異なっている可能性があります。ご了承ください。

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