名古屋の微行(おしのび)
1927(大正12)年11月20日日曜日午後0時5分、愛知県名古屋市西区にある名古屋離宮。
(あー、やっぱり、名古屋城はいつ見てもいいわねぇ……)
兄と迪宮さまが現在宿泊している名古屋離宮は、名古屋城の本丸御殿と天守閣の建物をそのまま使っている。つまり、名古屋離宮は、江戸時代の貴重な城郭の遺構の1つなのだ。私が食堂の襖に描かれた絵や、欄間に施された見事な彫刻を鑑賞しながら昼食をいただいていると、
「おい、梨花。万智子の結婚の件はどうなっている?」
昼食の席にいる兄が、突然とんでもない質問を私に投げた。
「はぁ?!何言ってんのよ、急に!」
この食堂には、兄と迪宮さましかいない。私がいつもの調子で兄を睨みつけると、
「仕方ないだろう。名古屋城に夢中になっているお前を話に引き込むには、このぐらい刺激的な話題を振らなければ」
兄はこう嘯いて口をへの字に曲げた。
「あのさ、邪魔しないでよ。折角名古屋城に来られたこの機会、有効活用しないといけないのよ!……ああ、やっぱり名古屋城は最高だわ。この完成度の高い豪華絢爛な装飾……。尾張徳川家が心血を注いで完成させたこの本丸御殿、未来永劫残さないと……」
私が兄に名古屋城の素晴らしさを熱く語ろうとした時、
「梨花叔母さま」
迪宮さまが穏やかな声で私を呼ぶ。「何?」と私が返事をすると、
「僕、万智子どののお話、聞きたいです。お父様が先日、有栖川宮さまに、婚約の話を考え始めるようにとお命じになったと聞きましたが、その後、どうなったかが気になって……」
迪宮さまは私に妙なおねだりをする。本当は、もっと襖絵や欄間を鑑賞したかったのだけれど、天皇と皇太子のリクエストなら仕方ない。私はため息をついてから、
「まぁ……期待しているところ申し訳ないのだけれど、万智子の婚約の話、ほとんど進んでいないのよ」
と2人に言った。
「ほとんど進んでいない?どうしてだ?」
「私のせいよ」
兄の質問に短く答えると、兄の顔が険しくなる。どうしたのかと訝しく思った瞬間、
「まさか……近衛のように、梨花を怖がる華族の当主どもが大勢いるのか?」
兄は鋭い口調でこう言った。
「だとすれば、俺はそいつらを全員皇居に呼び出さなければならない。1発ずつ殴って、奴らの腐った性根を叩き直して……」
「何でそんな物騒な話になるのよ!違うから!その拳を下ろして、兄上!」
右の拳を握りしめて良からぬ発言をした兄を慌てて止めてから、
「……万智子の婚約の話がなかなか進まないのはね、私が内大臣という高い地位についているからよ」
私はなるべく誤解を生まないようにと注意しながら兄と迪宮さまに言った。
「叔母さま、それはどういうことでしょうか?」
横から私に尋ねた迪宮さまに、
「つまりね……皇族は、皇族か華族としか結婚できないでしょ」
と前置きをすると、
「我が有栖川宮家としては、万智子は皇族に嫁がせたくないのよ」
私は順を追って説明を始めた。
「私のきょうだいたちのいる家に万智子を嫁がせると、いとこ婚になってしまうわ。まぁ、私のきょうだい、と言っても、全員、私と母親が違うから、嫁がせても、普通のいとこ婚よりは血が薄くなるけどね。他の宮家にも、万智子と年齢が釣り合う男の子はいるけれど、もう婚約者が決まっている。だから、万智子が嫁ぐとしたら華族だ……というところまでは話が進んだのだけれど、その先が、ねぇ……」
「何の問題があるのだ?」
少し苛立ったように訊く兄に、
「あのさ、貴族院の議員の力関係って、一部、家柄の良さで決まっているようなところがあるでしょ?特に、無所属議員の人たち」
と私は言った。
「ある家に皇族の女子が嫁げば、その家に箔が付く。しかも、万智子の母親は内大臣……。だから、万智子が嫁いだ家は、家の格がとんでもなく上がるのよ。それは、貴族院の議員の力関係にも影響する。だから、貴族院議員の家に、万智子を嫁がせられないのよ。公・侯爵は貴族院議員になってしまうから、貴族院議員になっていない伯爵や子爵の家なら、万智子を嫁がせられるかなと思うけれど、政治的な野心を持っていない華族って、なかなかいないからね。それで難航している、という訳」
「なるほど。だから、簡単には決まらないということか」
そう言って苦笑した兄に、
「そうよ。大変なのよ」
私は言い返して軽く睨みつける。
「よく分かりました」
微笑して頷いた迪宮さまは、
「ところで、肝心の万智子どのは、婚約の話が進んでいることをご存知なのですか?」
と私に尋ねる。
「ええ。突然、“あなたの婚約が決まった”なんて言われたらびっくりしちゃうだろうから、ちゃんとお義父さまから話したわ」
「そうですか。何か言っていましたか?」
「“栄養学校には通いたいので、結婚は栄養学校を卒業してからにするという条件をつけてください”と言っただけで、話を進めてくれて構わない、という感じね」
甥っ子の問いに私は答えた。
「それを聞いて、ああ、万智子は若い頃の私と違って、ちゃんと自分の結婚のことを考えているんだな、って思ったわ。私、婚約が内定したって聞かされるまで、自分が結婚するなんて考えてなかったからなぁ」
「そうだったな」
私の述懐を聞いた兄は、大きなため息をついた。
「まったく……。幸せな恋と結婚を諦めない、とお父様とお母様に誓ったし、俺も何度も言い聞かせたのに、結局、栽仁との婚約が内定するまで、梨花は仕事に夢中だったな」
「しょうがないじゃない。仕事が楽しかったんだもん」
私は兄に言い返すと、
「それよりさ、兄上も迪宮さまも、午後からどこに微行に行くか決めたの?」
妙な形勢になってしまわないように、兄と迪宮さまに先手を打って質問した。
「話を逸らされたような気がするが……大須観音に行きたい」
兄は私をジロリと見るとこう言い、
「僕は鶴舞公園に行きます。その後で、名古屋駅前の物産館に寄って、お土産を揃えようかと」
迪宮さまは明るい表情で答える。特別大演習の後、地方の宿泊先で休養日を1日設け、その日に兄と迪宮さまが、宿泊している街を微行で見て回るのは、ここ数年の通例となっていた。
「すると、最後は合流してしまいそうだな。俺も最後は物産館に寄るつもりでいるから」
そう言いながら顎を撫でた兄に、
「僕もお父様も変装しますから、露見することはないと思いますが、連れ立って歩けば露見する可能性も上がりますから、もし、物産館で鉢合わせてしまったら、お互い、距離を取りましょう」
迪宮さまは提案をして、ニッコリ笑った。
「じゃあ、お昼ご飯を食べ終わったら、それぞれ着替えと変装を済ませて集合だね」
上手く話題を変えられたようだ。密かに私が安堵したその時、
「その前に、だ」
兄は再び私をジロリと見てから、迪宮さまに視線を向け、
「裕仁、栽仁と梨花の婚約が決まる前、栽仁がどれだけ梨花を好いていたか、聞きたくないか?」
と言ってニヤリと笑う。
「は?!兄上、何を言って……」
せっかくその話題から兄の意識を逸らすことができたと思ったのに、見込みが甘かったらしい。けれど、これ以上の被害は防がなければならない。私は兄の口の動きを止めようとしたのだけれど、
「はい、是非聞きたいです」
その前に、迪宮さまが悪意のない笑顔で自分の父親に答えた。
(ウソぉー!)
目を見開いた私の前で、兄は「だろう?!」と我が意を得たりとばかりに頷き、私と栽仁殿下が婚約した前後の事情を迪宮さまに語り始める。顔から火が出るような昔話を、私は黙って聞いていなければならなかった。
1927(大正12)年11月20日日曜日午後1時45分、名古屋市電の本町御門停留場。
「梨花、そうすねなくてもいいだろう」
停留場で市電が来るのを待っている私に、隣に立つ兄がなだめるように話しかける。
「だってさぁ……」
藤色の着物の上に瑠璃色の羽織を着た私は、軽く唇を尖らせる。微行での外出なので、髪型はシニヨンから束髪に変え、銀縁の伊達メガネも掛けているので、変装はバッチリだ。けれど、先ほど、私の婚約内定前後のあれこれを、兄が迪宮さまに話してしまったので、機嫌はいいとは言えなかった。
「あんな風に公開処刑されてさ、私、恥ずかしかったのよ。勘弁してよね、本当に」
灰色の背広服を着て、顎に付け髭をして黒縁の眼鏡を掛けた兄を私は睨んだ。商社の務め人風の格好をした兄は、私の頭に左手を置くと、
「すまなかったな。許せ」
そう言って、頭を優しく撫でる。
「……まあ、いいけど」
私がため息をついた時、市電の車両が向こうからやって来るのが見えた。私は兄と言い争うのを止め、ちょうど前に停止した市電に乗り込んだ。
名古屋の街を微行で回るのは、栽仁殿下と婚約する直前に名古屋を訪れた時以来、約20年ぶりだ。その20年の間に、名古屋の市電はどんどん延伸し、今は東京と同じように、市内の至る所に線路が張り巡らされている。そのため、市内の移動は、以前と比べるととても楽になっていた。
市電を乗り継いで、大須観音の最寄りの停留場・門前町で市電から降りると、日曜日なのもあってか、大須観音までの道は大勢の人でごった返していた。
「これは、うっかりするとはぐれてしまうな」
そう言いながら、兄が私の右手を取る。
「大丈夫よ、手はつながなくても」
私が苦笑しながら兄に言うと、
「そんなわけにはいかない」
兄は左右に首を振り、真面目な表情で私を見た。
「栽仁がいない今、俺は栽仁の代わりに、お前を守らなければならないのだ。そのためには、しっかりと手をつないで、お前が俺のそばから片時も離れることのないようにしなければな」
兄の言葉そのものには、筋が通っていない。けれど、私を見つめる兄の目には、妙に気迫がこもっていて、私は首を縦に振るしかない状況に陥った。
「それでよい」
頷いた私を見た兄は、私としっかり手をつなぎ、大須観音の観音堂へと歩いて行った。
「どうした、梨花?」
参拝を終え、大須観音の境内や門前町の様子を私が観察していると、兄が私に尋ねた。
「いや……私の時代の大須と、だいぶ様子が違うから……」
「そうなのか」
「うん。まぁ、大須観音や大須の商店街は、太平洋戦争の空襲で燃えたらしいから、様子が変わってて当然なんだけど、戸惑っちゃってね……」
私は兄と手をつないだまま、兄に説明する。
「私の時代、映画館や劇場、こんなに大須になかったと思うんだよねぇ。だから、ここが本当に大須なのか分からなくなっちゃって」
「なるほどな」
頷いた兄は、前を見ると、突然右手を動かし、
「梨花、見てみろ。せんべい屋があるぞ」
と言って、1軒の店を指し示す。
「ああ……あのおせんべい、鯱の形をしているから、名古屋みやげだね。うちの職員さんたちに配るのにちょうどよさそう。1箱買おうかな」
店頭に並べられているおせんべいの箱に近づこうとした時、誰かに見つめられているような気がして、私は周囲を見回した。私から2、3m離れたところに立っている、紺色の着物に灰色の羽織を引っ掛けた青年が、私をジッと見つめている。彼の顔を見た私は、思わず「あっ」と声を上げてしまった。
「あ……あなた、半井君?!」
約20年前、この名古屋で出会った半井久之君は、私の顔を見つめたまま、両目を丸くしている。その口が動きかけたのを見て、私は彼に向かって慌てて走り、前から口を押さえた。
「にゃ……にゃいふで……」
「しーっ!」
私に押さえられても、半井君の口はなおも動こうとする。私は口を押さえる手に力をこめると、
「お願い!黙ってて!今、微行中なのよ!」
彼の耳元に慌てて囁いた。「あ、はい……」と半井君が頷いたのを確認すると、私は彼の口から手を離した。
「ああ、驚いたわ……。中尉に昇進して、宇都宮の連隊にいるのは知っていたけれど……元気だった?」
ようやく落ち着いた私が半井君に聞くと、
「は、はい、元気にしております」
彼は緊張した表情で私に応じた。
「今、名古屋にいるのは……実家に帰っているのかしら?」
「はい、特別大演習でこちらに参りましたので、母にゆっくり会おうと思って、大演習の後、5日間休暇を取ったのです。それで、買い物のついでに、大須に活動写真を見に来たのですが……」
私の問いに、半井君は更に答えると、
「驚きました……」
と付け加えた。
(だよねぇ……)
まさか、内大臣が変装して街中を歩いているところに遭遇するとは思ってもいなかっただろう。やや顔を青ざめさせている半井君に、「ごめんね」と謝った時、
「おい、梨花、知り合いか?」
後ろから、私の肩を叩いた人物がいる。振り向くと、灰色の背広服を着た兄がすぐそばにいて、私と半井君を訝しげに見比べていた。
「?!」
半井君がいるのに驚いて、兄のことを完全に忘れていた。
「あ、兄上、ええとね……」
慌てた私が、何とか半井君のことを兄に説明しようと試みると、
「え……“兄上”とおっしゃったということは、ま、まさか、天の……」
半井君が決定的な言葉を口にしようとする。
「ストーップ!!!」
私は叫びながら半井君に飛びつき、彼の口を再び塞いだ。
「ああ……まぁ、その通りなのだが、黙っていてくれ。今は、身分を隠して、名古屋市内の視察をしている途中でな」
兄はバツの悪そうな表情で半井君に言うと、軽く咳払いをして、
「ここは通りの真ん中だから、そこの路地に入ろう」
と、私と半井君に提案する。私たちは人混みを避け、すぐそばにある路地に入った。
「さて、梨花……ではない、章子。この青年は何者だ?」
路地に入ると兄はすぐに立ち止まり、早速私に尋ねる。
「彼はね、半井久之君よ。昔、私がこの名古屋で出会って、その後、医師を目指して奨学金をもらいながら中学校に入って、名古屋の第八高等学校の医学部に入学したの。そして、軍医になって、今は宇都宮の連隊で働いているわ」
昔、半井君のことを兄に話したことはあるけれど、覚えているだろうか。心配しながら兄に小声で説明すると、
「おお、あの少年か!」
兄は急に前に進み出て、半井君の右手を両手で取った。
「話は章子から時々聞いていた。ベルツ医学育英会の奨学金を勝ち取って、高等学校を卒業してから軍医になったと……」
「じょ、上聞に達していたのですか……恐れ多いことです」
ガチガチに固まった表情で答える半井君に、
「そうかしこまらなくていい」
兄はこう言って微笑すると、
「宇都宮の連隊にいるということは、先日の特別大演習に東軍で参加していたのか?」
半井君に更に尋ねる。「は、はい」と半井君が首を縦に振ると、
「そうか……先日の大演習の時、負傷判定を受けた兵を後方に搬送する時の宇都宮の連隊の動きが、とても機敏だった。普段から、優れた軍医の下で救護訓練が行われているのだろうと思っていたが……そうか、半井のいる連隊だったか。褒めてつかわす」
兄はこう言って、半井君を褒めた。
「……!あ、ありがたき幸せ!」
兄に右手を掴まれたまま最敬礼する半井君に、「あまり目立たないようにね」と注意した私は、兄の観察力の高さに舌を巻いていた。普通、兵の動きを観察する時に、負傷兵の搬送の様子まで見ている人はほとんどいない。本職の軍医でも、そこまで観察する人は少ないのだ。
(とんでもなく、いろんなものを見ているわねぇ、兄上は……)
私が兄に対する尊敬の念を新たにした時、
「そう言えば、半井には妻はいるのか?」
兄は半井君に聞いた。
「い、いえ……残念ながら、そのような縁に恵まれず……」
半井君が顔を伏せて答えると、兄は私の方を見て、
「章子、半井に嫁を世話してやれ」
私にとんでもない命令を下した。
「はい?!」
「おい、声が大きいぞ」
思わず大声を出してしまった私に兄は注意すると、
「お前にも人脈はあるだろう。それを使えばいいではないか」
私に小さな声で言う。
「そ、そうだけど……」
私はとても戸惑っていた。お似合いだと思われる男女を仲介して、結婚まで持っていく……この時代ならよくあることなのだけれど、私はやったことがない。
「私、そういうの、やったことがないわよ……」
泣き言を吐いた私に、
「なら、やってみろ。大山大将の言う“ご修業”というやつだ」
兄は容赦なく言葉を投げつけてニヤッと笑う。自分が結婚するわけではないのに、私は顔を真っ赤にしてしまった。
「な、内府殿下……難しいのでしたら、ご無理なさらなくても……」
恐る恐る、私に申し出た半井君に、
「い、いや、これは、やらなきゃいけないのよ!だって、あなたのことだし、勅命だし!」
私は大声で反論する。
「あっ、梨花っ」
兄が慌てて半井君の手を離し、その手で私の口を塞いだのと同時に、
「ん?勅命?」
「あっちから聞こえてきたが……」
和服を着流した数人の男性たちが、私たちのいる路地を覗き込む。そのうちの1人が、
「あれ、あの女、内府殿下に似てないか?」
私の顔を見てこう言い始めた。
(?!)
「おい、逃げるぞ!」
叫んだ兄は私の手を掴み、全速力で走り出す。兄に置いていかれないよう必死に走りながら、私は何とか振り返り、
「半井君、また、連絡するね!」
と、呆然と私たちを見送る半井君に向かって大声で言った。
(なんか、大変なことになっちゃったなぁ……)
私の手を引っ張る兄は、走る速度を緩める気配が全くない。心の中でぼやきながら、市電の停留場までの100mほどの道を、私は一生懸命駆けた。




