表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第80章 1927(大正12)冬至~1927(大正12)年(2回目の)冬至
716/803

幼君か、その父か(1)

 1927(大正12)年7月20日水曜日午後3時50分、赤坂御用地内にある東京大宮(おおみや)御所。

「今日はとても楽しかったですよ、増宮(ますのみや)さん」

 大宮御所の玄関で、薄い水色のデイドレスを着て微笑んでいるのはお母様(おたたさま)だ。この5月に78歳になったけれど、立ち姿は美しく、気品と優しさが全身から溢れ出ているのは、今も昔も変わらない。

「はい、私もとても楽しかったです。それに賑やかで」

 私はお母様(おたたさま)に微笑み返すと、お母様(おたたさま)の隣に目をやる。そこには、私の弟・鞍馬宮(くらまのみや)輝仁(てるひと)さまの長女で8歳の詠子(うたこ)さま、長男で5歳の輝正(てるまさ)さま、そして次男で3歳の輝義(てるよし)さまが立っていた。

「章子……伯母さま、今度はいつ会えますか?」

 お母様(おたたさま)にピッタリ寄り添って立つ詠子さまが私に尋ねる。今日、通学している華族女学校の修了式に出た彼女は、帰宅した後、お母様(おたたさま)に学年末の成績表を見せるため、弟2人を連れて大宮御所にやって来た。子供たちに私も付き合い、お母様(おたたさま)と一緒にお喋りの相手をして、おやつをいただいたのだ。

「うーん、いつかしら?8月に入ったら、あなたの伯父さま……天皇陛下について日光に行かないといけないし、9月にはあなたの従姉の希宮(まれのみや)さまのご婚儀があるし、詠子さまに次に会えるのは……」

 この先のスケジュールを考えながら、私が詠子さまに答えると、

「もっと早くお会いしたいです」

詠子さまが私をじっと見つめて言った。

「去年、私が学年末の成績表を伯母さまに見せた時、伯母さまは、“来年の学年末の成績表で算術の成績がよくなっていたら、大典太光世(おおでんたみつよ)を見せてあげる”とおっしゃいました。だから私、頑張って、去年よりいい成績を取りました」

「うん、それは、さっき成績表を見せてもらったから分かっているわ」

 必死に訴える詠子さまに、私は微笑んで頷いた。「だから、ゆっくり会える日を考えないと……」

「伯母さま、その、“ゆっくり会える日”というのは、いつなのですか?」

 やや不満げに聞き返した詠子さまの眼の光が、異様に強くなったように思われて、私はゴクリと唾を飲み込んだ。……ダメだ、詠子さまに見つめられていると、なぜか、彼女の言うことに従わないといけないような錯覚に陥ってしまう。

「……分かったわ。今度の日曜日、大典太光世を持って、詠子さまの家に行くわね。それでいいかしら?」

 確か、今度の日曜日、予定は入っていなかったはずだ。慌てて私が答えると、

「やった!ありがとうございます、伯母さま!」

詠子さまは両手を挙げて喜んだ。彼女の刀剣好きは相変わらずのようだ。

「よかったですね、詠子さん」

 お母様(おたたさま)が詠子さまの頭を優しく撫でると、

「はい、また、大典太光世が見られます!」

詠子さまは嬉しそうにお母様(おたたさま)に言う。

「じゃあ伯母さま、日曜日に!」

「日曜日に!」

 輝正さまと輝義さまが口々に言ったのに笑顔を返してから、

「ではお母様(おたたさま)、これで失礼致します」

私は一礼して車寄せに向かう。車寄せには、私が皇居に戻るために用意された自動車が既に待機していた。私が自動車に乗り込もうとしたその時、

「内府殿下」

突然、右側から声が掛かった。この声は、私を警護するためについてきた皇宮警察官のものではない。東京大宮御所と同じ赤坂御用地に本部がある中央情報院の総裁で、鞍馬宮家の別当でもある明石(あかし)元二郎(もとじろう)さんの声だ。私が少しだけ首を動かして明石さんの顔を確認すると、

「数時間前、現地時間の7月20日午前2時15分に、ルーマニアの国王陛下が崩御なさったとのことです」

明石さんは小さな声で私に告げ、一礼した。

「そうですか、ありがとうございます」

 お礼を言って車に乗り込みながら、私は少し憂鬱になる。ルーマニアのフェルディナンド国王陛下がガンにかかり、衰弱して余命いくばくもなさそうだ、という情報は、先月から伝えられていた。国王陛下は十分な治療を受けられたのだろうか。最期の病床で、苦しむことはなかったのだろうか。個人的にはそこが心配だけれど、本当の問題はそれではない。

(じゃあ、本当に、5歳の子が国王になるの?王太孫、いや、王太子……どっちが正しいのか、よく分からないけれど……)

 国王陛下の後継者である5歳の孫・ミハイ殿下の顔を脳裏に思い浮かべたその時、

「増宮さん」

車寄せまで出てきたお母様(おたたさま)が私を呼んだ。

「どうなさったのですか?怖いお顔をなさって……」

 心配そうな表情のお母様(おたたさま)の隣で、

「明石、お前は伯母さまに何を言ったの?」

詠子さまが明石さんを睨みつけている。その鋭い視線を受け流すと、

「難しい算術の問題でございますよ。後で内親王殿下にも、算術の問題を出して差し上げましょう」

明石さんは詠子さまに優しく言う。詠子さまは慌てて明石さんから視線を外した。

「失礼いたしました、お母様(おたたさま)。少し、ぼんやりしてしまいました」

 私は自動車の座席に座り直すと、お母様(おたたさま)に微笑んだ。「そう?」と首を軽く傾げて私に応じたお母様(おたたさま)は、

「来週、私も参内いたしますけれど、お(かみ)によろしくお伝えください。……増宮さん、身体に気を付けて、お仕事に夢中になり過ぎないようにしてお過ごしくださいね」

と私に微笑んで言う。

「かしこまりました」

 お母様(おたたさま)の微笑に、私への変わらぬ愛情を感じながら、私はお母様(おたたさま)に最敬礼した。


 1927(大正12)年7月20日水曜日午後4時50分、皇居・表御座所にある天皇の執務室・御学問所。

「そうか、お母様(おたたさま)は元気だったか」

 椅子に座った兄は、私の報告を聞き、更に、私が携えてきたお母様(おたたさま)から兄への手紙を読み終えると、満足そうに頷いた。

「うん、本当にありがたいことだよ」

 私は兄の言葉にしみじみとした口調で返した。

お母様(おたたさま)、毎日の散歩でも、結構な距離を歩くみたいね。輝仁さまのところや迪宮(みちのみや)さまのところにも、散歩のついでにちょくちょく寄るみたい。輝仁さまの子供たち、すっかりお母様(おたたさま)に懐いているわ」

「そのようだな。特に詠子は、お母様(おたたさま)にべったり甘えているようではないか」

「そうね。詠子さま、華族女学校から帰ると、すぐに大宮御所に行くみたい。それで、夕食の前まで、習字をしたり、和歌を詠んだりするんですって」

「なるほど。……梨花さま、詠子内親王殿下と一緒に、皇太后陛下のところで和歌をお詠みになるのはいかがですか?」

 御学問所の隅に控えていた大山さんが、からかうように私に言う。

「遠慮しとくわ。お義父(とう)さまの課題をこなすのでお腹いっぱいよ」

 私が少し唇を尖らせて言い返すと、「確かにな」と言って兄は苦笑する。そして、不意に真面目な表情になると、

「しかし、ルーマニアのフェルディナンド国王陛下の崩御の件、少し問題だな」

両腕を組んで呟くように言った。

「そうだよねぇ。新しい国王陛下が5歳って、明らかにマズいでしょ」

 私も眉をひそめて兄に応じた。

 亡くなったルーマニアの国王陛下には、3人の息子がいる。そのうち、三男のミルチャ殿下は、幼い頃に亡くなっているけれど、長男のカロル殿下と次男のニコラエ殿下は健在だ。だから、普通なら長男のカロル殿下が王位を継承するべきなのだけれど、そうもいかない事情があった。カロル殿下は王位継承権を放棄しているのだ。

 カロル殿下は1914(明治47)年、父親の国王即位とともに王太子となった。そして、24歳になった1918(大正3)年、平民の女性と結婚した。これがルーマニアの王室法に反する結婚であるとして翌年に無効とされ、カロル殿下は1921(大正6)年に、ギリシャ王女のエレナ殿下と結婚した。エレナ妃殿下は長男のミハイ殿下を出産したけれど、カロル殿下は愛人を作ってしまったため、2人の結婚生活は破綻した。しかも、カロル殿下の愛人は夫のいる女性だったため、ルーマニア国内ではカロル殿下とその愛人に対する批判が渦巻いた。特に、首相のイオン・ブラティアヌさんは激しく怒り、“カロル王太子殿下は正教会の信徒であるべきなのに、愛人はカトリック信者である。エレナ妃殿下を裏切るのみならず、信仰の違う者と淫らな関係を続ける男は、将来の王位にふさわしくない”と、カロル殿下を猛然と非難した。結局、カロル殿下は1925(大正10)年の末に王位継承権を放棄してルーマニアを出国し、フェルディナンド国王陛下の後継者はカロル殿下とエレナ妃殿下との間に生まれたミハイ殿下と定められたのだけど……。

「カロル殿下が王位継承権を放棄した時の騒動は、どうもキナ臭かったわね。愛人がどうこう、と言う話、この時代だとここまで騒ぎ立てる話じゃないと思うのよ。……まぁ、私が伊藤さんや西郷さんに毒されたからかもしれないけど」

 カロル殿下が王位継承権を放棄した時のことを思い出しながら私がこう言うと、

「カロル殿下とイオン・ブラティアヌ首相は、元から馬が合わなかったとのこと。フェルディナンド国王陛下は、首相の言うことを全面的に受け入れていたようですが、仲が悪いカロル殿下が国王となれば、首相にとっては邪魔になります。そんな考えから、首相はカロル殿下の醜聞を利用して、カロル殿下を王太子の座から引きずり下ろした……それがルーマニアに派遣した院の者からの報告でしたが」

大山さんが私の記憶を補足し、私に向かって一礼する。

「本当、無茶苦茶な話よね……。首相の考えに乗っちゃう国王陛下や議員たちもどうかと思ったけど……」

 私がため息をつくと、

「ただ、カロル殿下が好色なのは間違いない。この時の流れでは日本に来ていないが、斎藤参謀本部長に聞いたら、“史実”では7年前に来日したらしい。……この時の流れで、カロル殿下が日本に来なくて本当によかった。もし来ていたら、俺はお前と節子(さだこ)をどう守るか、必死に考えなければならなかった」

兄もため息をついて宙を睨んだ。

 すると、

「ええ。この時の流れで来日なさらなかったのは、カロル殿下にとって幸運なことでしょうな。万が一、梨花さまや皇后陛下に色目を使われましたら……」

大山さんはこう言って、不気味な笑みを見せる。……一瞬だけ大山さんの身体から殺気が放たれたのを感じてしまった私は、カロル殿下が来日しなくて本当によかったと心の底から思った。

「ところで、カロル殿下は今、どこにいるのだ?」

 兄の質問に、

「パリでございますな」

大山さんは即座に答えた。「例の愛人と一緒に暮らしているとか」

「そうか。カロル殿下は、お父上の葬儀に出席するのかな?」

 続いての兄の質問に、「さぁ、そこまでは……」と大山さんは首を横に振る。

「色々な考え方があるわよね。いくら仲が悪い親子でも、葬儀の話は別、と言って葬儀に参列するかもしれないし、双方の抱えているわだかまりが大きかったら、葬儀に参列しないかもしれないし……」

「なるほど。……つまりは、カロル殿下本人にしか分からない、という訳だな」

 私の言葉に兄はそう言って首を縦に振ると、

「さて、終業時刻だから、俺は奥に戻る。梨花、今日はゆっくり休めよ」

椅子から立ち上がり、御学問所を後にする。そして、ルーマニアの国王陛下崩御の話題は、それきり表御座所で話されることはなかったのだけれど、数日後、ルーマニアを大事件が襲った。


 パリに滞在していたカロル殿下が、父親の葬儀に参列するために突如ルーマニアに帰国し、国王の座に就いた。

 それは1927(大正12)年7月24日、日曜日のことだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
王位継承権を放棄した者が継承するってのがなんとも理解できない。 まぁ全員が首を捻る話なんでしょうけど。
カロル陛下は、あんなでもミハイ殿下は理想の君主だよね。史実も、殿下と敬称をされていたくらい。 ミハイ殿下、まだ幼少期だったから、父親に嫌悪感を抱くのも理解できるよ。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ