閑話:1926(大正11)年冬至 ガッチナの小学校
1926年12月25日土曜日午後0時15分、ロシア帝国の首都・サンクトペテルブルク近郊にある都市、ガッチナ。
この街には、ロマノフ家の代々の皇帝に愛された、広壮で美麗なガッチナ宮殿がある。前々代の皇帝・アレクサンドル3世は、その生涯のほとんどを、首都のサンクトペテルブルクではなく、ガッチナ宮殿で過ごしたほど、この宮殿を愛したと言われている。しかし、前代の皇帝・ニコライ2世から無血クーデターで皇位を奪った今の皇帝・ミハイル2世は、この宮殿の余剰の美術品を外国に売却して国庫に還元し、宮殿そのものは歴史博物館として一般市民に公開した。宮殿そのものに施された華麗な装飾や、少なくなったとはいえ良質な所蔵美術品は、外国人たちの目を引きつけ、ガッチナを訪れる観光客の数は年々増加していた。
そんなガッチナの街を歩く、2人の外国人がいる。しかし、彼らがまとっているのは、観光客が着るような小綺麗な服ではなく、泥と汗にまみれた薄汚いコートだ。ガッチナの街にやって来て数か月経ったこの兄弟、兄の方はヴィットーリオ・エマヌエーレ・トリノ・ジョヴァンニ・マリーア・ディ・サヴォイア=アオスタ、弟はルイージ・アメデーオ・ジュゼッペ・マリーア・フェルディナンド・フランチェスコ・ディ・サヴォイア=アオスタ……。かつて“トリノ伯”と“アブルッツィ公”という儀礼称号を有していた王族であった彼らは、訳あって生まれ故郷のイタリアを飛び出し、極東の島国・日本に向かって、資金を稼ぎながら旅をしている最中であった。
「ロシアの冬は、寒いなぁ……」
身体を震わせたトリノ伯――今は“マリオ・ロッシ”という偽名を名乗っているが――が、隣を歩く弟にぼやくと、
「兄者、こんな気温で音を上げるようでは、ヒマラヤ山脈など、とても制服できないぞ」
登山を愛する弟、“ルイージ・ヴェルディ”という偽名を使うアブルッツィ公が呆れたように言った。
「誰がヒマラヤに行きたいと言った。我々の目的地は日本だろう」
不機嫌そうに応じた兄に、
「甘いな、兄者。日本にはヨーロッパのアルプスほどではないが、3000m級の山々が連なっている地域があるのだぞ。その山々は、冬の寒さが非常に厳しいと聞いた。今からこの寒さに慣れておかなければ、日本の山々を征服するのも夢のまた夢になってしまうぞ」
弟は真面目な表情で忠告する。しかし、弟が両手に先ほど店で買ったピロシキを1個ずつ持っていたこともあって、マリオは弟の言葉に余り真剣さを感じず、
「分かったから、ピロシキをよこせ。腹が減ってしょうがない」
と言って、ルイージの右手からピロシキを奪い取り、口に運んだ。炒めたひき肉と玉ねぎの風味が、生地と絶妙に絡み合い、飢えたマリオの胃と脳に絶妙な快感を与えた。
「……ふう。しかし、こう毎日寒いと、気が滅入る。日照時間が短いからな」
ピロシキを食べ終えた兄が呟くと、
「確かに、日が短いのは辛いが……ここらの緯度は高いから仕方ないだろう」
ルイージは冷静に答えて、左手のピロシキにかじりつく。ガッチナは北緯60度近くに位置するため、この時期の日の出は午前10時前、日の入りは午後4時ごろとなり、日照時間は短い。そして、日中、気温が0度を越えれば暖かい方なのだ。故郷・イタリアとは一味も二味も違う寒さのため、屋外にある水道の配管は凍結により破損しやすく、そのため、水道管修理を得意とする兄弟の仕事は絶えることはない。しかし、この寒さが、彼らの気を滅入らせていることは確かだった。
「早く、日本に行きたいな、弟よ」
「それは間違いないな、兄者。しかし、日本への渡航費はなかなか貯まらないな」
「ワルシャワで、刺客の連中から命からがら逃げだしたから、今まで稼いだ金を置いていくしかなかったのが痛かったな」
「ああ。しかし、今更、どうしようもないことだろう。もう一度、金を貯め直せばいい話だ。しかし……」
ピロシキを食べながらマリオと話し合っていたルイージは、両肩を落とし、
「あとの問題は、日本語をどうやって学ぶかだ」
と言った。
「その前に、まずはロシア語だろう、弟よ。一応、話せるようにはなったが、未だに文字が読めない」
先を見る弟に、兄は現在の問題点を指摘した。「だから、仕事先に行くのにも苦労する。通りや建物の名前が読めなければ、渡された地図も役に立たないからな」
「むむ、兄者の言う通りだ。さて、これからどうするか……」
兄弟が話し合いながら歩いていると、ガッチナの街の中心部にある広い通りに出た。通りの左側には、3階建ての立派な石造りの建物がある。その玄関からは、荷物を持った子供たちが、ぞろぞろと道路に出てきていた。
「あれは、小学校か」
マリオの質問に、「だろうな」とルイージは答える。2人は示し合わせるように、石造りの建物へと足を進めた。子供たちが出てくる玄関脇の壁には、貼り紙がしてある。しかし、書かれている文章はロシア語だったので、兄弟は読むことができなかった。
「読めないな」
ルイージの呟きに、マリオが「ああ」と頷いたその時、
「ねえ、おじさんたち、この貼り紙、読めないの?」
玄関から出てくる子供たちが、イタリアから来た兄弟を取り囲んだ。
「うむ。……もしよければ、何と書いてあるか、教えてくれないか?」
マリオが素直に子供たちに頼むと、子供の1人が貼り紙の前に進み出て、
「えーと、“用務員”……あれ?これ、何て読むんだ?」
と言って首を傾げる。
「何だよ。偉そうに前に出たのに、読めないじゃん」
「だって、知らないんだもん」
マリオとルイージのことを放っておいて、わちゃわちゃと話し始めた子供たちの後ろから、初老の男が歩み寄って、
「それは、“募集”と読むのだよ」
と、子供たちに教えた。
「アレクセイの学年では、まだ教えていない言葉だね。だが、知らないことは、ちっとも恥ではない。学んで知ればいいことなのだから」
初老の男が、貼り紙の前に進み出た子供の頭を撫でると、「校長先生だ……」という言葉が子供たちの口から折れる。その声には応じずに、初老の男は、マリオとルイージに近づくと、
「もしかしたら、この求人に応募される方ですか?」
紳士的な態度で2人に尋ねた。
「いや……そもそも、ロシアの文字は読めなくてだな……」
戸惑うマリオに対し、
「しかし、我々は、常に職を求めています。今は、日雇いの仕事で生計を立てているので……」
ルイージはしっかりした口調で“校長先生”と呼ばれた男に答えた。
「ならば、この学校の用務員として働くのはいかがですか?」
すると、初老の男は微笑みながら兄弟に提案する。
「職員寮に住み込んでもらうことになりますから、給料の他に、食事は3食、全て出ます。それに、読み書きや計算も習えますよ。もちろん、学費は無料です。……今は少なくなりましたが、学齢期に学校で教育を受けることができなかった大人も、この小学校に通って、読み書きと計算を習っていますよ。皇帝陛下が、小学校の授業料を、年齢に関わらず無料にしていますからね」
男が引き続いて語った言葉に、マリオとルイージは顔を見合わせた。
「どうする?最高に魅力的な職場だぞ」
イタリア語で問う兄に、
「うん。……しかし兄者、我々は日本に行かなければならないのだぞ」
弟はやはりイタリア語で反論する。「むう……」と兄は呻くと、初老の男に向き直り、
「お誘いはありがたいのだが、我々は、資金を稼ぎながら、日本へと旅をしている身だ。だから、1年程度なら働けるが、数年間ずっと……というのは難しい」
とロシア語で答えた。
「ほう、日本……ですか」
マリオの答えを聞くと、男は目を丸くして、
「実は私、日本に何年か滞在していたことがあります。日本から遠く離れたこのガッチナで、日本という言葉を聞くとは思いませんでした」
懐かしむような口調でこう言った。
次の瞬間、
「おい!日本に数年いたというのは本当か?!」
「日本語は分かるか?!日本語を教えてくれ!」
マリオとルイージが男との距離を一気に詰め、掴みかからんばかりの勢いで質問を投げつける。勢いに押された男は、何とか態勢を立て直し、
「に、日本語を教えることは可能ですが……」
と言うと、
「つまりそれは、私があなた方に日本語を教えれば、この小学校で働いてくださる、ということでしょうか?」
マリオとルイージに確認した。
「もちろんだ」
「うむ」
訝しげに自分たちを見つめる子供たちに囲まれながら、揃って胸を張った2人に、「では、契約成立ですね」と頷くと、
「申し遅れました。私はこのガッチナ第3小学校の校長、ウラジーミル・イリノチ・ウリヤノフです」
初老の男は自分の名を名乗り、手を差し出した。
「マリオ・ロッシだ」
「ルイージ・ヴェルディと言う」
自分たちに差し出された手を、マリオとルイージは握り返す。こうして、イタリアの兄弟は、ガッチナ第3小学校で用務員として働くことになったのだが、これが後に大変な騒ぎにつながることを、この時点では誰も予想できなかったのである。
うああああああ……(作者、崩れ落ちる)




