櫓は立っているか(3)
1924(大正9)年1月17日木曜日午前7時32分、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮家盛岡町邸。
「……」
居間の長椅子に座った私は、今日も禎仁から受け取った朝刊に目を通していた。朝刊には、おとといの丹沢地震の被害……特に、神奈川県西部での被害の状況が大きく取り上げられている。また、内堀沿いの道路の通行止めによる混乱についての記事も掲載されていた。
朝刊を読み終えた私はため息をついた。昨日の夜も義父に大量の書道と和歌の課題を出されてしまい、和田倉門や桜田門に思いを馳せることすらできないまま一日を終えたので、私の機嫌は余り良くない。今日こそは、江戸城の遺構を確認する機会が得られるだろうか。そんなことを考えていると、いつもの定刻より少し早く、川野さんが私を迎えに居間に現れる。私は彼の後について居間を出た。
皇居に到着したのは午前8時15分のことだ。今日も昨日と同じく遠回りでの出勤だったので、桜田門や和田倉門を出勤中に見ることはできなかった。そして、仕事は今日も忙しく、兄が書類を決裁した後、兄が面会しなければならない高官が4、5人御学問所にやって来たので、午前中に仕事を抜け出す暇は全く無かった。
しかも、午前の仕事が終わって内大臣室に戻ると、
「昨日、陸奥どのに先を越されたと聞きましてな……」
内大臣室の前にはお弁当の包みを持った山縣さんが立っていた。お昼ご飯を一緒に食べるのは固くお断りしたかったのだけれど、昨日陸奥さんと一緒にお弁当を食べたから、他の梨花会の古参の面々とお弁当を一緒に食べなければ、後で面倒なことになってしまう。仕方なく、私は昼休みが終わるまで、内大臣室でお弁当を食べながら、山縣さんと国際情勢について意見を交換した。
午後の政務が終わると、昨日に引き続き、兄に馬場へ連れ出された。その頃には、私の苛立ちはピークに達していた。
(いっそこのまま、馬で和田倉門まで行っちゃおうかしら……)
馬場で馬を走らせながら、こんな考えが頭を過ぎる。けれど、私は馬を走らせるのがそんなに得意ではない。だから、馬で馬場を飛び出しても、馬に乗った兄にすぐ追いつかれてしまうのがオチだ。
(でも、今日は大山さんが非番だから皇居にいないわ。ということは、兄上の目さえ誤魔化せれば……)
そこまで考えた私は、馬場の端、厩舎の近くに控えている職員さんの方へと馬を走らせた。
「どうした、章子」
馬上の兄が馬の足を止め、私に尋ねる。それに、
「ちょっと、用を……」
と微笑して答えると、私は馬から降り、お手洗いのある建物へ向かう。けれど建物に入るとすぐにそこを出て、兄が夢中になって馬を走らせているのを確認すると、そっと馬場から離れた。
「さてと、メインディッシュは和田倉門と桜田門だとしても、そこまでにある遺構も、ざっと確認しないとね……」
馬場を離れた私は、皇居の敷地を南へと走る。下乗橋を渡って旧三の丸に入り、更に南に向かって進んだ。まもなく、旧三の丸と宮城前広場の境目にある桔梗門(内桜田門)に差し掛かった。この門の渡櫓の石垣も、関東大震災で一部が破損したけれど、今、ざっと観察した限りでは、破損が広がっている様子はない。
「よーし、次は和田倉門ね」
スキップするように駆け出し、桔梗門をくぐったその時、
「内府殿下?!」
突然、私は後ろから声を掛けられた。桔梗門の左右に立っている皇宮警察の警察官が、私の姿を見て目を丸くしている。
「ああ、ごきげんよう。ちょっと、和田倉門を見に行こうと思って」
にっこり笑って警察官に答え、その場をさっさと立ち去ろうとすると、
「な、なりません!」
警察官がものすごい顔をして叫んだ。
「は?いいじゃないですか。危ない場所までは近づきませんから」
そう言い返して、私が和田倉門に向かって歩き出すと、
「なりません!万が一、内府殿下がこの門から出られるなら、力づくでも止めるように命じられております!」
警察官が聞き捨てならないことを言った。
「は……?冗談じゃないわ。誰が出したんですか、その命令」
私は立ち止まって警察官を睨むと、彼の言うことを無視して歩き出した。
すると、
「か……かくなる上は、やむを得ません!」
警察官が一声叫び、私に向かって走り出した。
「ぬおっ?!」
私は慌てて駆け出した。まさか、本当に私を捕まえようとするとは……けれど、ここで彼に捕まる訳にはいかないのだ。
「内府殿下、お待ちください!」
「い、や、よ!」
私は兄仕込みの逃げ足を駆使し、宮城前広場を和田倉門の方へと全速力で走った。ここから和田倉門までは300mほど、内閣の建物の角を曲がれば、渡櫓の勇姿が拝めるはずだ。
(あれ……?)
異変を感じたのは、角を曲がった直後のことだ。目の前には、格子状に組まれた木材と瓦礫が散乱している。屋根瓦も混じっているようだ。そして……そこに立っているはずの和田倉門の渡櫓は……無残に潰れ、内部の壊れた木組を外気にさらす哀れな姿に変わり果てていた。
「そん……な……」
余りのことに、地面に両膝を付きそうになった私の身体は、
「梨花っ!」
次の瞬間、後ろから追いついてきた兄に支えられていた。
1924(大正9)年1月17日木曜日午後4時10分、皇居・表御座所にある天皇の執務室・御学問所。
「……じゃあ、ちゃんと説明してよね、兄上」
兄と共に和田倉門から御学問所に戻った私は、兄に怒りをぶつけた後、今回の和田倉門の一件に関わっていたという人を呼び出した。宮内大臣の牧野さんと内閣総理大臣の桂さん、そして、今日は非番だった内大臣秘書官長の大山さんである。
「あ、ああ」
椅子に座った兄は、私の声に頷いた。左頬が赤いのは、先ほど、私が渾身の平手打ちをお見舞いしたからだ。ちょっとやり過ぎたかもしれないけれど、私を騙していたのだから、このぐらいのことはさせてもらわないと気が済まない。
「和田倉門が全壊したことを、私から隠そうと言い出したのは誰なの?」
私の問いに、「私めでございます」と頭を深く下げたのは桂さんだった。
「斎藤に丹沢地震のことを確認したところ、“史実”では、関東大震災で傾いた和田倉門が、丹沢地震で崩壊したということでございました。この時の流れの和田倉門の破損状況でも、同じ結末になるのは必定……ですが、内府殿下は関東大震災の際、傾いた和田倉門をご覧になって気を失われています。再び同じことを繰り返してはならないと、梨花会一同と天皇陛下とで相談した結果、丹沢地震発生後、内府殿下からは和田倉門のことを隠しておこうということに相成りました」
「あのね、桂さん。……形あるものは、いつか壊れるんです」
桂さんの弁明を聞いた私はため息をついた。「今回の地震で壊れるのは仕方ないことです。だから、隠さなくてもよかったんですよ。まぁ、気絶はしたかもしれませんけれど……」
すると、
「それがよくないと思ったから、こうして策を立てたのだ」
兄がしかめ面で私に言った。「関東大震災でお前が倒れた時は、世間も混乱していたから隠し通せた。しかし、今はそういう訳にはいかない。お前が倒れたことが万が一世間に漏れたら大騒ぎになる。新イスラエルのストラウス大統領や、ドイツの皇帝がやって来たらどうするのだ」
兄の言葉に、私はとっさに返答できなかった。確かに兄の言う通りだ。万が一、私の見舞客が外国からやって来てしまったら、今の日本には彼らをもてなす余裕は無い。
「だから、和田倉門のことは、落ち着いてからお前に話そうと思っていた。それまでは、お前に和田倉門のことを考えさせないようにと、牧野大臣にも協力してもらってわざと仕事を多くしたり、昼休みの間、お前を内大臣室から出さないようにするために、伊藤顧問官たちに頼んで一緒に昼食をとらせたり、義兄上に、お前への和歌と書道の課題を出してもらって、家でも和田倉門のことを考える時間を奪ったり……まぁ、色々やっていたのだが、お前の城に対する欲求の強さを甘く見ていた」
「当たり前でしょう」
私は兄を睨んだ。「皇居に参内するたびに見ていたものが、急に見られなくなったのよ。そりゃ、見たくて仕方なくなるわよ。……で、確認しておくけれど、和田倉門以外の江戸城の遺構にも、今回の地震で破損したところが出たのかしら?」
「和田倉門以外は、異常ありません」
牧野さんがサッと一礼して言った。「こう申し上げても信じていただけないでしょうから、ご希望がございましたら、明日以降、職員に江戸城の遺構を順次案内させますが……」
「そうですね。職員さんの手が空いているならお願いしたいです」
私は渋い顔を作って牧野さんに答えた。「今は内堀沿いの道路も大変なことになっているから、職員さんたちも出勤するのに苦労しているでしょうし、地震のせいで余計な業務も発生しているでしょうし……」
すると、
「ご安心を。宮内省の業務は、既に通常通りに戻っております。内堀沿いの道路は無事でございますから」
今まで一言も発していなかった大山さんがこう言って、私に微笑を向けた。
「ああ、内堀沿いの道路の修理、終わったのね。復旧に1週間ぐらいかかるって、桂さんに教えてもらったけれど……」
「いいえ、そもそも、道路の修理などしておりません。内堀沿いの道路には、今回の地震による被害は全く生じておりませんから」
「は……?」
我が臣下からの思わぬ言葉に、私は一瞬混乱した。深呼吸して心を落ち着かせると、おとといの地震発生からの出来事を必死に思い出す。
「そんな……おとといの午前中、桂さんから、内堀沿いの道路の地割れについて報告があったけれど……あれが嘘だと言いたいの?」
私が問うと、
「はい、さようでございます。誠に申し訳ないことでございますが……」
大山さんではなく桂さんが私に答え、深々と頭を下げる。
「ウソ……だって、昨日の新聞にも、今日の新聞にも、内堀沿いの道路の地割れで市電が混乱しているという記事が載っていたわ。昨日の新聞なんて、写真までついていたし……それに、私、昨日の朝、甘露寺さんとも内堀沿いの道路の話をして……」
「ですから、そちらも嘘でございます。新聞は院が作りました偽物です。宮内省の職員たちにも、梨花さまが内堀沿いの道路の話をなさったら、話を合わせるようにと命じておりました」
「な、何ですって……」
月並みな言葉を返してしまった私に、
「偽の新聞に載っていた市電の写真は、関東大震災の時に撮られたものを、説明書きを変えて載せたものでございます。禎仁王殿下が、梨花さまに偽の新聞を張り切って渡されていたと、今日金子さんから聞きました。……いやはや、とても楽しい3日間でございました」
大山さんは朗らかに言うとクスクスと笑い始める。その笑い声を聞いた瞬間、私は椅子から立ち上がった。
「許せない……」
「り、梨花?」
少し身体を引いた兄に、
「だから、許せないって言ってるの!」
私は思い切り怒りを爆発させた。
「気持ちはありがたいわよ。私を倒れさせたくないっていうその気持ちは!だけど、それ、偽の新聞を作ったり、宮内省の職員さんたちまで巻き込んだりしてすることなの?!おまけに、禎仁まで巻き込んで!あなたたち、私を傷つけたくないって言いながら、自分たちが悪戯を楽しんでいるだけじゃないの!」
「あ、あのな、梨花……」
「ダメ、言い訳は聞かない!そりゃ、見抜けなかった私も悪いけどさ、それと話は別よ!梨花会に関係のない人たちまで巻き込んだのは許せないわ!」
……こうして、兄や大山さんを叱りつけた私は、“史実”ではなされていない和田倉門を再建することを兄に確約させ、それで矛を収めることにした。もちろん、“関東大震災からの復興が落ち着いたら”という但し書きがついた形ではあるけれど。
※皇居の内堀は1919(大正8)年ごろまでに埋め立てられているそうで(確かな文献に当たれていませんので違うかもしれません)、下乗橋はこのころには実際には無くなっています。ですが、主人公が内堀埋め立てを許すはずがないと思うので、下乗橋はあるものとして書きました。ご了承ください。
※また、主人公の移動ルートですと、大手三ノ門(下乗門)を通っているのですが、この門が実際の1924年に残っていたのかいないのかは分かりませんでした。従って、この頃には無くなっている(=主人公が転生したと自覚する前に撤去された)として話を書きました。こちらも併せてご了承ください。




