閑話:1923(大正8)年冬至 ウィーンのカフェハウス
オーストリア=ハンガリー帝国の首都・ウィーンは、13世紀にハプスブルク家の統治下に入り、以来20世紀の今日までハプスブルク家――1736年にハプスブルク=ロードリンゲン家に名称を変えたけれど――と共に歩んできた。オーストリア=ハンガリー帝国は多民族国家であるので、ウィーンの街には帝国各地から様々な民族が集い、文学に絵画に、演劇に音楽に、果ては医学や自然科学に、それぞれの才能を花開かせている。そんな街では、イタリア語を話す2人の労働者が人々の目を引くことはなかった。
「居心地がいいな、この国は」
ウィーン市街にある1軒のカフェハウス。その席に座って紙にペンを走らせているのは、ヴィットーリオ・エマヌエーレ・トリノ・ジョヴァンニ・マリーア・ディ・サヴォイア=アオスタ、かつて“トリノ伯”と呼ばれた男性である。彼は今年9月、軟禁されていたローマの邸宅を脱出してこの街にたどり着き、マリオ・ロッシと名乗って日中は工事現場で働き、夜はカフェハウスで小説の執筆に勤しんでいた。
「ああ、とても居心地がいい。山にも登れるしな」
マリオの隣の席でこう応じたのは、彼の実弟、ルイージ・アメデーオ・ジュゼッペ・マリーア・フェルディナンド・フランチェスコ・ディ・サヴォイア=アオスタ……以前は“アブルッツィ公”という儀礼称号を有していた男だ。今はルイージ・ヴェルディという偽名を使う彼は、兄と一緒に軟禁されていた邸宅を脱出した後、このウィーンの街で兄と同じように工事現場で働きながら、休日にはウィーン近郊の山々に登る生活を送っていた。
「お前は山に登れるなら、どの国にいてもいいのだろう」
マリオはペンを止めると弟を軽く睨んだ。ルイージはそれに「まあな」と軽く応じると、
「本当は、真っ先にこの国の最高峰……グロースクロックナーに登りたかった。しかし、鍛練を欠かさなかったとは言え、俺の体力は軟禁で落ちてしまっている。だから、グロースクロックナーのような3000m級の山ではなく、ウィーンの近くの2000mもいかない山に登って、登山の感覚を取り戻そうとしているのだ」
軽い口調で、兄が求めていない内容まで回答した。
「やはり山はいいぞ、兄者。頂きを極めるために行ったあらゆる努力が実を結んだという喜びと、下界を見下ろした時の爽快感……あのまま軟禁されていたら、永遠に山に登れなかった。こうして自由に山に登れるようになったんだ。きっかけを作ってくれたあの姫君には感謝しなければ」
「ああ。しかも、日本で無事に生きておられることも分かったのだ。章子内親王殿下、万歳!我らに自由を与えたもうた女神に祝福あれ!」
マリオが小さく叫びながらペンを持った右手を振り上げた時、怪訝な顔をした給仕が、兄弟が注文した品を持ってくる。ホイップクリームを添えたオーストリアの伝統的な焼き菓子・アプフェルシュトゥルーデルと、コーヒーに温かい牛乳を加え、ミルクの泡を乗せたメランジェである。「おお、来たな。では、温かいうちにいただこう」という兄の声とともに、兄弟は目の前の甘味に集中した。
「やはり、メランジェはカプチーノとは少し違うな」
「確か、メランジェは、ドリップコーヒーと温かい牛乳を半々の割合でカップに入れて、そこにミルクの泡を乗せるらしい。先日一緒に山に登ったオーストリア人に聞いた」
カップを手にして難しい顔をしている兄に、ルイージは先日覚えた知識を披露する。
「一方、我らがイタリアのカプチーノは、エスプレッソに温めた牛乳、ミルクの泡が1:1:1の割合だろう。まぁ、客や店の好みで割合は変わるが」
「ふむ。イタリアでは、コーヒーと言えばエスプレッソになってきているからな。すると、メランジェがカプチーノと違うのも納得だ。使われている豆の種類も違うだろうし」
「ああ。それに、このアプフェルシュトゥルーデル、昔アメリカで食べたアップルパイとは全く違う。生地にリンゴが包まれているのは、イタリアのラビオリにも少し似ているが、この生地はとんでもなく薄いな、兄者」
「一説には、下に新聞紙を置いて読めるぐらいまで生地を薄くすると言うぞ、ルイージ。先日、現場で一緒になった奴が言っていた」
「そうなのか。しかし、こうして食べると、リンゴの甘味とシナモンの風味、そして生地の香ばしさが最高に合う。ホイップクリームと一緒に食べると、またまろやかな味わいが楽しめる。料理は我がイタリアが一番だと思っていたが、どうしてどうして、世界には美味いものが山のようにあるな、兄者」
イタリアから流れ着いた兄弟は、アプフェルシュトゥルーデルとメランジェに舌鼓を打ちながら、料理談議に花を咲かせる。兄はその合間にも紙にペンを走らせ、小説の執筆を進めていた。
「ふう、食った、食った。やはり、仕事終わりに甘いものを食べるのはいいな」
やがて、ルイージが満足そうな笑みを浮かべてカップを置く。アプフェルシュトゥルーデルの皿も、メランジェが入っていたカップも、綺麗に空になっていた。
「うむ。労働の後に甘味を食す。さすれば私の筆も活力を得て、前へ前へと進むことができるのだ。甘味は人生の潤滑油だよ」
マリオは喋りながら、器用にペンを進めている。彼のアプフェルシュトゥルーデルの皿も、殆ど空になっていた。
「なぁ、兄者」
「どうした、弟よ」
「あの姫君は、こんなに美味いものは食べていないだろうなぁ」
チラリと視線を投げた兄に、ルイージはこんなことを言う。マリオはペンを止め、
「確かにその通りだ」
と言って深く頷いた。
「あの姫君はオーストリアを訪問しようとした直前で日本に帰国した。だから訪問予定だった我が国、そしてこのオーストリアは訪れることができなかった。だからこんなに美味い菓子やメランジェは、楽しみたくても楽しめなかったわけだ。そして、我らがイタリアのパスタやピッツァもな」
すると、
「食べさせてやろうじゃないか」
ルイージはギラギラした目を兄に向けた。
「東京での復興の手伝いが終わったら、東京にリストランテを開くんだ。俺たちが今までに味わってきた美味いものを出す店を……。評判になれば、皇族だって来るだろう。そして、あの姫君が俺たちの店にやってきたら、美味いものをたらふく食べさせるんだ!」
「そいつは素敵だ!」
ペンを握ったままマリオは立ち上がった。「既に我々は一介の市民だ。しかし、市民でも、名を上げれば皇族に出会える。確か、私が日本を訪れた時、イタリアの料理を出す店は殆ど無かった。イタリアのみならず、このオーストリア、そしてこれから訪れる国々の美味い料理を出す店を東京に開けば、評判になること間違いなしだ!」
「おうよ!」
ルイージも椅子から立ち上がり、右の拳を振り上げた。
「そうと決まれば、俺は山登りと仕事の合間に、この国の料理の本を手に入れよう」
「うむ、ではお前に任せよう。私は前借分の小説を書き上げてしまわなければならないからな。……しかし、1つ話を書き上げたら、この国を出よう。いつまでもオーストリアにとどまってはいられないのだ」
「ああ、俺たちの最終目的地は東京だ。それを忘れないようにしなければな」
もし、東京にいる章子内親王が彼らの会話を聞いていたら、“そのまま忘れて日本に来ないでくれ”と言っただろう。しかし、残念ながら、この兄弟の記憶力は抜群だった。
こうして数日後、小説を書き上げたマリオと、オーストリア料理のレシピ本を手に入れたルイージは、ウィーン西駅から新たな地へと旅立ったのである。




