母の覚悟、娘の覚悟(2)
1923(大正8)年10月18日木曜日午後5時2分、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮家盛岡町邸。
「万智子……」
栽仁殿下のそばに立つ長女・万智子の姿を見て、ホッと胸をなで下ろした私の耳に、
「内府殿下、お久しぶりでございます」
聞き覚えのある男性の声が届いた。ええと、確かこの声は……。
「石原さん……ですか?」
「はい、宮内省の石原でございます。覚えていてくださって、ありがとうございます」
宮内省の職員……実は日本の非公式の諜報機関・中央情報院の職員の1人である石原莞爾さんが、私に最敬礼をする。院に入れられて10年余り、最初は大山さんに反抗して、手ひどい折檻を受けていた彼だけれど、今は中堅どころの諜報員として活躍していると聞いている。
「ええと、あの、石原さんがどうしてここに……」
人には言えない任務中かもしれないけれど、一応聞いておくべきだろう。私が石原さんに尋ねると、
「はい、実は私、今、このお屋敷の敷地にあります赤十字社の臨時病院の運営支援をしておりまして……」
彼は神妙な態度で私に答えた。
「今日の仕事を終えて帰ろうとしましたら、炊事場から、“見舞客を名乗る少女が炊事場を手伝っているが、面会証を持っていない”という報告がありまして……。確認いたしましたら、その少女が万智子女王殿下だったのです。いや、驚きました。当方では、女王殿下が炊事場をお手伝いなさるという話は聞いておりませんでしたので、もう夕方ですし、とりあえずこちらにお送りさせていただきましたが……」
石原さんはこう報告すると、万智子に視線を向ける。万智子はそれに応えず、黙ったままだった。
(炊事場に……)
私が口を開こうとしたその時、背後でドタドタと足音が響く。大山さんと金子さん、そして謙仁と禎仁が私に追いついてきたのだ。
「女王殿下……」
「ご無事でしたか……」
大山さんと金子さんは、万智子の姿を一目見ると安堵の吐息を漏らす。謙仁は強張った表情で姉を見つめ、
「え……?!」
禎仁は小さく叫んでいた。
すると、大山さんと金子さんが素早く動く。あっと言う間に、禎仁の両腕は2人の爺に片方ずつ掴まれていた。
「ちょっ……?!何するんだ、爺!」
拘束から逃れようともがく禎仁に、
「何をする……とは、こちらの台詞でございますよ、禎仁王殿下」
禎仁の右腕をしっかり掴んだ大山さんが言った。
「ええ。行方知れずになっていた姉君にお会いになっての第一声は、“え……?!”では絶対にないはずです。姉君の事件に関わっておられて、“まだ発見されるはずがない”と思われたからこそ、この展開に驚かれた……そう考えるのが自然です」
禎仁の左腕を押さえる金子さんが冷静に指摘する。言われてみれば、確かにその通りだ。
「そんな……そんなの言いがかりだよ!僕はただ、姉上のことが心配で!」
禎仁は大山さんと金子さんに拘束されながら、必死に弁解している。すると、禎仁の兄の謙仁が、大山さんの腕を掴みながら、
「大山の爺、やめてください!姉上を逃がしたのは、禎仁じゃなくて僕です!」
……衝撃の言葉を口にした。
「?!」
「おい、兄上!」
大人たちが目を丸くして動けない中、もがいていた禎仁が大声で兄を咎めた。
「何で兄上がそんなことを言うんだよ!やったのは僕じゃないか!」
「でも、僕も話を聞いていたし、手伝っただろう!」
顔を真っ赤にした禎仁に、謙仁は大きな声で言い返す。
「僕は禎仁を止めなかった。だから兄として、僕に全ての責任がある!」
(え、えーと……)
何が何やら、さっぱり分からない。私が夫と顔を見合わせると、
「では、謙仁王殿下、禎仁王殿下、お話は応接間で伺いましょう」
大山さんがもう片方の手で謙仁の腕を掴んだ。
「……あ、あの、ひどいことはしちゃダメよ!」
謙仁と禎仁を引きずるようにして応接間に去っていく大山さんの背に声を掛けると、「心得ております」と事務的に答えた彼はこちらを振り返り、
「恐れ入りますが、若宮殿下、内府殿下、女王殿下からご事情を聞いてくださいませんか?」
と依頼する。断る理由はもちろんないので、私は千夏さんに3人分のお茶を持ってくるようにお願いすると、栽仁殿下と一緒に長女を共用書斎へと連れて行った。
「……じゃあ、万智子、なんで今日、臨時病院の炊事場に行こうと思ったのかな?」
万智子の共用書斎の予備の椅子に座らせた栽仁殿下は、万智子の姿が見えなくなった経緯を私から聞くと、万智子の方を向いて優しく尋ねた。
「……昨日の夜、自分の部屋で、謙仁と禎仁と喋っていたら、禎仁が、臨時病院の炊事場の職員が、家の都合で急に3人辞めて、人手が足りなくなったって教えてくれました」
栽仁殿下の質問に、万智子はこう答えた。
(は?)
なぜ禎仁が、臨時病院の職員のことを知っているのだろうか。戸惑ったのは、栽仁殿下も同じだったようだ。
「それは……なぜ禎仁が、病院のことを知っていたのかな?」
首を傾げながら問うた栽仁殿下に、
「私も変だな、と思ったので聞いてみたら、うちの職員さんたちが話してたのを聞いたと禎仁に言われました。禎仁、“危険な場所の情報は常に仕入れないといけない”なんて言っていました。私は、病院は危険な場所じゃない、って禎仁に言いましたけれど」
万智子も首を傾げながら答えた。
「なのに、なぜおじい様は、私が病院で働いてはいけないとおっしゃるのかしら……と言ったら、禎仁が、“じゃあ、病院に潜り込んで、炊事場で働いてみたらどうか”と言い出したんです」
「それは……とんでもないことを言い出すわね、禎仁は」
「私もそう思いました」
ため息をついた私に、娘が相槌を打った。「謙仁も反対したんです。“病院への人の出入りは、門のところで皇宮警察の人に監視されているから、姉上が入ろうとしたらすぐに露見する”って。そうしたら、禎仁、“門じゃないところから病院に入ればいい”と言ったんです。“ここの本館と、病院の敷地の間に建てた塀を乗り越えればいい。こっち側から生えている大きな木が、太い枝を塀の向こうに伸ばしているところを知っている。そこから木に登って枝を伝って、病院の敷地に入ればいい”って」
(禎仁―っ?!)
私はうなだれ、左の手のひらを額に当てた。確かに、禎仁はやんちゃで悪戯好きだ。小学生になったばかりの頃、警備の隙をついて別館に入り込んだこともある。けれど、まさか姉の願いを叶えるために、こんな破天荒な計画を立てるとは思ってもみなかった。
「塀のところでは、職員さんが見張っているはずだよ。そう簡単に、こちら側から塀を乗り越えることはできないけれど……」
戸惑いながら尋ねた栽仁殿下に、
「その見張りはいつも1人しかいないから、禎仁と謙仁がその人の注意を引きつけておけば大丈夫だと禎仁に言われました。実際、あの2人が、見張りの人をキャッチボールに巻き込んでくれている間に、私、禎仁の言った通りに、木に登って枝を伝って、病院の敷地に入り込みました」
万智子はしっかりした口調で答えた。先ほど、禎仁は、万智子がいなくなった時間帯には“外で遊んでいた”と言ったけれど、それは姉が病院の敷地に入るのを助けるためだったのだ。
「それで、炊事場らしきところを見つけて、そこで働いていたおばさんに言いました。“この病院に入院している父を見舞いにきましたが、何か病院にお礼がしたいので、ここを手伝わせて欲しいです”って。そうしたら、“ちょうど人手が足りなかったから助かる”と言われて、炊事場で野菜を切ったり盛り付けをしたりしていました。でも、病院の職員さんに見つかってしまったんです。臨時病院では、お見舞いする人全員に面会証を渡しているそうなんです。それを知らなくて、“面会証は?”と聞かれて、言葉に詰まってしまって……。禎仁に言われて、華族女学校に行く時の服ではなくて、それより質の良くない服を着て、皇族らしくないように見せていたつもりだったのですが、露見してしまいました」
(無茶したわねぇ……)
私は左の手のひらを額に当てたまま、万智子の話を黙って聞いていた。病院の炊事場を手伝おうとしたり、木登りして病院の敷地に侵入したり、……娘のやったことは本当にお転婆だ。けれど、私自身、昔は万智子よりもっとお転婆だったので、彼女のことを叱るに叱れない。
「父上、母上、ご迷惑をおかけして本当に申し訳ありませんでした。けれど、私、どうしても病院のお手伝いがしたいのです。ですからどうか、おじい様にお許しをいただけるよう、お口添えをいただけないでしょうか」
万智子は立ち上がり、深々と頭を下げる。私はその姿を見ながら考え込んでしまった。もし、私と栽仁殿下が“口添えはしない”と答えたら、万智子はまた、何とかして臨時病院に潜り込もうとして無茶をするに違いない。彼女の姿からは、そんな強い意志が感じられた。
(どうしたものかしら、これは……)
ため息をついた時、共用書斎のドアが外から叩かれる。私が急いでドアを開けると、そこには大山さんが立っていた。
「謙仁王殿下と禎仁王殿下に、お話を伺いました」
そう前置きすると、大山さんは私の息子たちから聞いた内容を語り出す。全て万智子の言った通りで、万智子が臨時病院に潜り込む計画は禎仁が主導し、実行に移したことが裏付けられた。
「禎仁王殿下が女王殿下が戻ってこられたときの対応を間違えなければ、謙仁王殿下と禎仁王殿下がこの行方不明騒ぎに関わっているという確証を持つことができませんでした。まずは相応の罰を受けていただかなければいけませんが、もし禎仁王殿下にその気があるのでしたら、一度、中央情報院の手でしっかり鍛えてみたいものです」
報告をそんな言葉で締めくくって静かに微笑む大山さんに、「はぁ……」と機械的に頷いてから、
「それより、万智子の方が問題よ」
と私は言った。
「臨時病院で働きたいから、おじい様に許可をいただくお口添えを頼みたい……あの子、私と栽仁殿下にそう頼んだわ。本当は止めて欲しいけれど、私、昔はあの子より無茶なことをしていたから、万智子を説得できなさそうでねぇ……」
ため息交じりに私が言うと、
「おっしゃる通りですな。梨花さまは、女王殿下が裸足で逃げ出すほどのお転婆でしたから」
大山さんは私にこう返してクスっと笑う。
(そこ、ちょっとフォローして欲しかったんだけどな)
私が大山さんを恨めしげに見つめた時、
「話は金子から聞かせてもらいましたよ、嫁御寮どの、大山閣下」
廊下にまた別の人影が現れた。私を“嫁御寮どの”と呼ぶのは、この世でただ1人しかいない。
「お義父さま……」
大山さんの後ろには、群青色の着物に同じ色の羽織を着た私の義父・有栖川宮威仁親王殿下が立っていた。
「嫁御寮どの、随分と困った顔をしていますね」
義父の言葉に、私は答えることができない。黙ったままでいると、
「まぁ、嫁御寮どのは、昔、もっとお転婆でしたからねぇ。万智子を叱る資格はないでしょう」
威仁親王殿下はズバリと言う。返す言葉を完全に失った私の前を通り抜け、義父は共用書斎に入ると、
「万智子」
と孫の名を呼んだ。弾かれたように顔を上げた万智子に、
「このまま、1人でおじい様の書斎に来なさい。いいね」
そう言い残すと義父は廊下に出て、2階に通じる階段を上がっていった。




