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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第75章 1923(大正8)年白露~1923(大正8)年冬至
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横浜・横須賀行幸

 1923(大正8)年10月4日木曜日午前7時5分、皇居・表御座所にある天皇の執務室・御学問所。

「あに……じゃない、陛下、ご機嫌斜めですね」

 いつも着ている通常礼服ではなく、黒紺の供奉服を着た私が、カーキ色の軍装をまとう兄に話しかけると、

「ああ、機嫌は悪いな。今、お前が俺を“陛下”と呼んだから、余計に機嫌が悪くなった」

兄はそばに立つ私に顔をしかめて答えた。

「もう……仕方ないでしょ、公式の移動なんだから」

 私は半ば呆れながら兄に言う。おととい、今日の行幸の詳細な計画を宮内大臣の牧野さんに聞かされてから、兄の機嫌はずっと良くない。

「しかしな、今は、戒厳令が適用されている最中なのだ。そんな時に、どうして俺は華美な御召列車に乗って横浜に行かなければならない」

 やはり、おとといから“気に食わない”と主張していることを、兄は蒸し返す。……もう何度目になるのだろうか。

「御召列車を使わないと、陛下が来たということが横浜の人たちに分からないでしょう」

 私はため息をつくと、前にも使った説得の言葉を口にした。

「それに、特別列車を仕立てないで普通の列車に乗ったら、警備がすごく大変になるのよ。乗客全員の身体検査をしないといけなくなるし……」

「内府殿下のおっしゃる通りです。陛下の身に万が一のことが起きれば大変なことになります。ですから今日は予定通り、御召列車にお乗りになってください」

 私に続いて島村速雄(はやお)侍従武官長が兄に進言すると、

「陛下……」

侍従長の奥保鞏(やすかた)さんが、兄にじっと視線を注ぐ。更に、私の後ろから大山さんも、兄を鋭い目つきで見つめていた。

「分かった。御召列車には乗る。仕方ないな……」

 兄の答えを聞いた私は、ホッと胸をなで下ろした。

 今日これから、兄と私たちは、新橋駅から御召列車に乗って横浜に視察に行く。横浜市内を視察した後は、横浜から軍艦に乗って横須賀に行き、横須賀鎮守府と横須賀市内を視察して、横浜経由で東京に戻る予定だ。

 ところが、御召列車や軍艦を使っての視察に、兄が難色を示した。

――多くの国民が災害で苦しんでいる中、華美な御召列車を仕立てるのは国民に申し訳ない。それに、軍艦は今、避難民や食料の輸送に従事するべきで、俺の視察に使うべき時ではない。横須賀まで列車も開通したことだし、今回の移動は全て微行(しのび)で、普通の列車に乗る形にできないか。

 おととい、横浜・横須賀行幸の詳細を聞かされた兄は、宮内大臣の牧野さんに強い口調で言った。

 けれど、もし兄の言葉通りの移動にしたら、警備はとても大変になる。それに、普段兄がいる東京とは違い、横浜や横須賀を微行(おしのび)で視察したら、兄が来たということが横浜と横須賀の人に伝わらず、彼らをがっかりさせてしまうかもしれない。私をはじめとする側近たちの猛反対により、兄は渋々御召列車と軍艦での移動に同意したのだけれど、やはり不満なようで、おとといからずっとご機嫌斜めなのだ。

(だけど、もう出発まで時間も無いし、これ以上兄上がグダグダ言うこともないかな)

 私がこう思った瞬間、侍従さんが御学問所に入ってきて、出立の刻限であると告げる。兄がそれに黙って頷くと、御学問所の中にいた人々が一斉に動き、兄を中心に列を組んで御車寄へと歩き始めた。

「梨花さまが陛下にお味方なさらなかったので、大変助かりました」

 乗り込んだ自動車が動き出すと、隣に座った大山さんが私に小声で言った。

「そりゃ、味方できないわよ」

 私も小声で大山さんに言い返した。「いくら中央情報院(あなたたち)がいると言っても、万能じゃないのよ。公式の行幸を、たった数日で微行(おしのび)に切り替えるなんて警備上無理よ。兄上には絶対に死んでほしくないんだから、警備は万全にしないと」

「……梨花さまは、最近、原に似てこられましたな」

「なんであの人に似ないといけないのよ。そんなことを聞いたら、原さんが怒るわよ」

「おや、むしろ喜ぶと思いますが」

「そうかなぁ……」

 そんなことを小さな声で話していると、自動車は新橋駅に到着する。数年前に改築された新橋駅は、幸い、関東大震災による被害を受けなかった。けれど、ここから横浜までの線路は所々損傷を受け、震災後、新橋から横浜まで列車で行けるようになったのは、9月18日のことだった。それ以降、東京の物資流通は、目に見えて改善している。

(横浜は、今、どうなっているかしら……)

 10日ほど前に表御座所で上映された横浜の被害を映した活動写真を私は思い出した。荒涼とした焼け野原の中心にある石油タンクが、天に届けとばかりに黒煙を延々と吐き出している光景は見ていられなかった。石油タンクの火災は、9月15日ごろにようやく鎮火したそうだけれど……。

 自動車から降りた兄は、私や侍従さんたちを従えて、無言で御料車に乗り込む。あの活動写真より横浜の状況が少しでも良くなっていることを祈りながら、私も特別列車に乗り込んだ。


 1923(大正8)年10月4日木曜日午前8時50分、神奈川県横浜市青木町(あおきちょう)

「あの……あれは何でしょうか?」

 横浜駅にほど近いこの場所は、震災直後に発生した火災により焼け野原になっている。その中に、大きな金属製の壁が曲がって立っていた。それに視線を向けて質問した私に、

「ここにありました、石油会社のタンクの残骸でございます」

案内をしてくれている神奈川県の知事さんが言った。

「!」

「ここの石油や機械油は、10日以上燃え続けました。その火災による熱で、金属も折れ曲がったのでしょう」

「そういうことですか……」

 知事さんの説明を聞き、私は眉をひそめた。東京の火災もひどかったけれど、何日も燃え続けたということはなかった。横浜の人々には、燃え続ける石油タンクは恐怖の象徴のように見えただろう。

「石油は震災と同時に、一部が周囲に漏れだしたようです。それもあって、この周辺では予想以上に火の回りが速く、住民、そして、消火活動に当たっていた消防組の職員や軍人たちも巻き込んで、800人余りの焼死者が出てしまいました」

 知事さんが続けて言うと、

「そうか……」

兄は呟いて、悲しげに石油タンクの残骸を見つめる。次の瞬間、兄は姿勢を正すと、石油タンクの残骸に向かって深々と頭を下げた。恐らく、この場所で亡くなった人たちの冥福を祈ったのだろう。私たちも兄に倣い、この地での犠牲者の冥福を祈った。

 ここから私たちは自動車に乗り、県庁や各国領事館があるエリアへ向かった。道路には、大きな地割れが直されずに残されており、道の両側に立つ西洋館は破損が目立つ。報告で聞いた通り、建物の損傷率は高いようだ。そして、横浜市の中心部に向かうにつれ、無事な建物は少なくなる。神奈川県庁は半壊し、山下町の領事館群は全てが倒壊していた。

「この辺りは、圧死者が多かった地域でして……」

 山下町の中で、“南京街”と呼ばれる地区にやって来ると自動車が止まる。私たちが自動車から降りると、県知事さんが再び説明を始めた。

「我が国の国民は、小学生のころから防災訓練をしておりますから、防災訓練を防災の日にするのは当たり前になっています。しかし、外国にはそのような習慣がないようでして……。9月1日の防災訓練への参加の呼び掛けは、各国語でも行ったのですが、この辺りに住む外国人の多くは、防災訓練に参加せず、自宅にいたようです。それで、地震の発生と同時に、自宅にいた外国人たちが潰れた建物の下敷きになって圧死する結果となりました」

「……」

「まさか、防災訓練の最中に大地震が起こるとは思ってもいませんでした。もし、もっと強く、防災訓練への参加を呼び掛けていましたら、助かる命もあったかもしれませんが……」

 知事さんの言葉を、兄は黙って聞いている。首を垂れる兄の姿を見て、ふと私は、もし関東大震災のことを国民に事前に知らせていたらどうだったのかと考えてみたけれど、

(それは無理ね)

すぐに首を横に振った。そんなことをしたら、いくら対策を講じていても、国民はパニックに陥っていただろう。そうなれば国民の統制が取れず、この時の流れより、いや、下手をすると“史実”より多くの死者が出た可能性が高い。

「悲しいことだな……」

 兄は呟くと、南京街の潰れた建物群に向かって、再び深く頭を下げた。私も兄に引き続いて頭を下げ、亡くなった方の冥福を心から祈った。


 税関の岸壁から艦載艇に乗り、私たちが横浜港の沖に停泊していた2等巡洋艦“鬼怒”に乗りこんだのは午前11時前のことだ。震災の前なら、“鬼怒”のような5500トンの軍艦どころか、1万トン前後の軍艦でも横浜港の岸壁に横づけできたのだけれど、海底地形の変化や港湾設備の損傷により、艦載艇を使わないと大きな軍艦に乗り込めなくなってしまったのだ。

「横浜港の復旧も喫緊(きっきん)の課題ですね。今のままでは、物資の輸送に時間が掛かり過ぎます。せめて、大型船が岸壁か桟橋に横付けできるようにしなければ……」

 以前は農商務大臣を務めていた牧野さんは、“鬼怒”の上甲板から横浜港全体を眺めると、そう言ってため息をついた。

 横浜から1時間ほどで横須賀の港に到着する。ここには仮の桟橋ができていたので、艦載艇を使わずに地上に降り立つことができた。

「これはひどい……」

 案内されて鎮守府の敷地内を歩きながら、兄は眉をしかめる。庁舎、工場、ドック……横須賀軍港内の建物は、ほとんどが震災で被害を受けていた。私も何度か訪れたことがある鎮守府の庁舎は倒壊していて、庁舎の機能はそばに建てられたバラック群に移されていた。

「いくつかの偶然が重なり、最悪の被害は免れましたが、それでも相当な被害が出ています」

 バラックの1つに入った私たちに、横須賀鎮守府司令長官が説明を始めた。

「9月1日は防災の日でしたので、総員、屋外に出て防災訓練を実施し、一部の者は横須賀市外に出て市民の防災訓練に参加していました。そこに地震がやって来たので、全員、圧死は免れました。また、工場の殆どは倒壊しましたが、ドックに入っている軍艦はありませんでしたので、軍艦に被害は出ませんでした」

(斎藤さんのおかげね)

 司令長官の説明を聞きながら、私は“史実”の記憶を持つ参謀本部長の顔を思い浮かべた。斎藤さんによると、“史実”では、関東大震災により、横須賀のドックに入渠(にゅうきょ)中だった潜水艦2隻が大破し、戦艦から空母に計画を変更して建造中だった“天城”が大破して、最終的に解体されることになったそうだ。この時の流れでは、ドックに軍艦は不在で、横須賀港所属の軍艦もあらかじめ伊豆半島の西岸に避難していたので、軍艦は全艦健在だった。

「もし、重油タンクに重油が残っていれば、大惨事になったかもしれません。しかし、重油タンクは点検のため、8月下旬に空にしていましたので、火災の発生や油漏れもありませんでした」

 司令長官がこう言った時、

「ちと、やり過ぎましたかなぁ」

大山さんが後ろから私に囁いた。

「重油タンクには何もしない方がよかったかもしれません。ここまで“偶然”が続くと、怪しむ者も出てくるかも……」

「……でも、重油の流出は、環境を汚染するから避けたいのよ」

 私は大山さんに囁き返す。“史実”では、横須賀軍港の重油タンク群に、他からの火災の火が燃え移ってしまい、10数基のタンクから海に漏れた重油にも引火して、横須賀の海が文字通り火の海になったらしい。重油が海に流出すると、周辺の漁業に影響が出るので、斎藤さんに”史実”での横須賀の重油タンクの話を聞いた時、“重油の流出は阻止して欲しい”と頼んだ。だからこそ、“点検”が行われ、震災の日に重油タンクは空になっていたのだけれど……。

「それに、“偶然”が怪しまれるのなら、9月1日の正午前から正午にかけて防災訓練をやったということ自体、怪しまれるじゃないの?」

 小声で反論した私に「それは……」と大山さんが口ごもった時、私は寒気を感じた。慌てて周りを見渡すと、兄の後ろに立つ奥侍従長が、私と大山さんをものすごい目つきで睨みつけている。私と大山さんは急いで姿勢を正し、口を閉じた。

「……横須賀までは、行けたな」

 午後2時。横須賀鎮守府、そして横須賀市内を視察し終えた兄は、2等巡洋艦“鬼怒”の上甲板に立つと私に言った。

「そうね」

 気の利いた言葉を返せず、私が相槌だけ打つと、

「小田原町と片浦村(かたうらむら)には、一体いつ行けるのだろう……」

兄はため息をつき、眉を曇らせた。

「鉄道が復旧したら……だろうけれど、横浜から先の鉄道は、復旧しきってないからね……」

 私は暗い声で兄に応じる。関東大震災により、東海道線では、相模川にかかる橋が崩壊している。また、国府津(こうづ)から分かれて小田原方面に向かう線路も、酒匂川の橋梁などが破損しており、鉄道で小田原に行けるようになるまでには時間が掛かりそうだった。

「軍艦で行くにしても、まだ、港が復旧してないだろうし……我慢だね、兄上。いつか、行ける日は来るよ。そう信じて待とう」

「そうだな。気持ちは急いてしまうが……時を待つしかないな」

 私の言葉に兄が答えた時、“鬼怒”が動き始めた。兄は遠ざかる陸地に視線を動かす。その兄の瞳は、横須賀市も、横須賀市のある三浦半島も飛び越えて、その西にある小田原町、そして片浦村に向けられている……私にはそんな気がしてならなかった。

※2等巡洋艦”鬼怒”が出てきますが、これは実際の長良型5番艦と同一の軍艦ではないです。拙作では利根型の5番艦ということになっています。ご了承ください。

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