1923(大正8)年9月3日午前8時7分
1923(大正8)年9月3日月曜日午前8時7分、皇居・表御殿にある南溜の間。
「多喜子さまが、産気づいた……?」
栽仁殿下の親友、東小松宮輝久王殿下と結婚している末の妹の名を呟いた私に、
「はい、その通りでございます!」
宮内省の課長さんはそう答えると最敬礼した。
(そんな……!)
多喜子さまは東京帝国大学理科大学理論物理学科をこの7月に卒業した。その時には既に妊娠していて、お母様の策により開催された9月1日の日光御用邸での“園遊会”には参加できなかった。だから彼女は、芝区高輪西台町にある自邸にいるはずだ。
(予定日より早い……って、予定日が9月末から10月上旬だったから、今出産しても早産にはならないか。でも……)
私が頭の中で多喜子さまの状況を確認した瞬間、
「侍医をご差遣、という言葉が聞こえたように思いますが、妃殿下のご体調がよくないのですかな?」
いつの間にか私の隣に立っていた大山さんが課長さんに聞いた。
「いえ、そうではございません。ですが、東小松宮妃殿下のご出産に立ち会うはずの医師、看護師、助産師と連絡が取れないということでして……」
「何ですって?!」
課長さんの答えに私は眉を跳ね上げる。この時の流れでの皇族のお産は、ほとんどが自邸で行われるけれど、医者はもちろん、助産師や看護師が複数立ち会って処置をするのが普通になっている。だから多喜子さまも、自分の分娩の処置をしてくれる医師や助産師、看護師を頼んでいたはずだ。その人たちと連絡が取れないのは、間違いなく関東大震災による混乱のせいだけれど……。
「じゃあ、多喜子さまの赤ちゃんを取り上げる人が誰もいないということですか?!」
「いえ、助産師は1人、いるそうです。しかし、その他の医療関係者は全く集められなかったとのこと。東小松宮家でも、慈恵医院や国軍病院、済生会病院や帝大病院などに、医師と看護師を派遣するよう依頼したそうですが、患者が殺到しているため医師と看護師が派遣できない、と、どの医療機関にも辞退されてしまったとのことです」
私の質問に課長さんは強張った表情で答えた。確かに、昨日、侍従の甘露寺さんも、国軍病院や慈恵病院、帝大病院などの診療機能が残っている医療機関に患者が殺到していると話していた。
「赤十字社は……いや、救護所を開いているんだから、医者を派遣する余裕なんてもっと無いわね。……侍医の先生方は動かせませんか?」
「はい、そちらも難しいです。深夜にも臨時診療所に患者がひっきりなしに訪れていましたし、今日も夜明けと同時に診療を求める患者の列が伸びております。仮眠中の先生方を起こすわけにも参りませんし……」
「ですよねぇ……」
私はため息をついた。次の勤務に向けて寝ている人を起こすなど、絶対あってはならないことだ。
「困ったわね、どこかに多喜子さまのところに行ける医者は……」
両腕を組んで考え込もうとした矢先、私は気が付いた。
「私……?」
「内府殿下?なんとおっしゃいましたか?」
聞き返してきた課長さんに、
「いや、私、内大臣になる前は軍医でしたから、多喜子さまに点滴の針を刺すくらいならできるなぁ、と……」
私は考えながら答えた。
「!」
「それはいい考えです!」
職員さんが一斉に湧き立つのを見て、私は悩んでしまう。本当に、これしか手段がないのだろうか。私が多喜子さまの分娩に立ち会う以外の手段があるのではないだろうか。
と、
「内府殿下、いかがなさいましたか?」
大山さんが私に優しく尋ねた。「いつもでしたら、思いついた策にすぐさま飛び乗られて、誰も追いつけない速さで進んでしまわれますのに……」
「失礼ね、大山さん」
私は少し頬を膨らませた。「何度もそれで失敗したんだから、少しは学習するわよ。だから、本当にこれしか方法がないのかって考え直しているの」
大山さんに言い返すと、私はもう一度状況を打開する策を考えてみる。帝大病院、国軍病院、そして慈恵医院と済生会病院が医師と看護師を派遣する余裕がないということは……いや、東京には、医師開業試験を受ける学生が通う医学校がいくつかある。医学校には学生の勉強のため、医院や病院が併設されているし、その規模も大きい。そこに当たってみる手はある。しかし……。
「東小松宮家がまだ問い合わせていない大きな病院……例えば、私立の医学校附属の病院に問い合わせる手はあると思う。けれど、電話も電信も復旧していないから、連絡に時間が掛かる。多喜子さまの所に医者が到着するまでには、最低でも1時間以上は見ておかないといけないわ。……多喜子さまの所に医者が不在という状況は、1秒でも少なくしたい。そのための最善の手段は、私が今すぐ多喜子さまの所に行くことね。他の先生が到着するまでのつなぎにはなるわ」
私が結論を口に出すと、
「よく冷静にご判断なさいました」
大山さんがニッコリ笑った。「恐れながら、臨床の現場から数年離れていらっしゃる内府殿下が、お1人で東小松宮妃殿下の分娩を取り扱われるのは少々不安がございます。内府殿下は現役の軍医でいらした頃、産科ではなく外科をご専門としていらっしゃいましたし」
「確かにその通りね」
私は両肩を落とした。「もちろん、現役だった頃は、当直の時に産科の先生を手伝って分娩の介助をしていたわ。帝王切開を手伝ったこともある。ただ、自分1人でお産を全部しろ、と言われるとちょっと自信がない。だから、もう1人医者がいてくれる方が絶対にいいわ。産科の先生が頼めれば一番いいのだけれど……」
「つ……つまり、まず内府殿下が東小松宮妃殿下のところに向かわれ、必要な処置をなさっている間に、産科医を東小松宮妃殿下のところに派遣する、と……こういうことでよろしいでしょうか?」
恐る恐る私に話しかけた課長さんに、
「そういうことになりますな」
頷いて答えたのは大山さんだった。
「……大山さん、観瀑亭に戻って、私の診察カバンを持ってきてちょうだい。それから、平塚さんも借りられると嬉しいな」
「それはよい考えです。ご裁可のお手伝いは、東條くんと松方くんにお願いすることに致しましょう」
私の頼みに、大山さんが笑顔で応じる。平塚さんは内大臣秘書官になる前、国軍の看護少尉、つまり看護師だった。彼女も私と同じく、臨床現場から離れて久しいけれど、心強い戦力となってくれるはずだ。
「よし、頼んだわよ、大山さん。じゃあ、カバンと平塚さんが来たら、主馬寮の人に自動車を出してもらって……」
主馬寮とは、宮内省の中で馬や馬車、自動車などの管理や運用を行う部署だ。皇居から高輪の多喜子さまのところまでは、自動車を使えば30分はかからずに到着するだろう。私がそう思いながら大山さんに言った時、
「お待ちください!」
職員さんの1人が大声を上げた。
「自動車は只今、車庫の扉の故障でほとんどが出庫できません!動かせる自動車も、食料の輸送に使っていて全て出払っておりまして……」
「何っ?!」
課長さんが目を剥いて叫んだ。
「何とか呼び戻せないのか?!」
「無理です!連絡のつけようがありませんから、戻って来るのを待つしか……」
「馬車は……ダメだな、馬車庫が全壊しているから、瓦礫を取り除くところから始めないといけない」
職員さんたちが苦々しげに話し合う中、
(あとは、馬か自転車……だけど、ちょっと避けたいかなぁ……)
私も打開策を考えながら眉をひそめた。診療カバンの中には、ガラス製の瓶や医療器具も入っている。もちろん、振動で壊れないように固定はしているけれど、振動しやすい乗り物に乗ってしまうと、固定が外れて壊れやすくなってしまうだろう。
(どうしよう、盛岡町から自動車を回してもらうのは時間が掛かり過ぎるし、お義父さまが翁島に自動車で行ったから、霞ヶ関の本邸の自動車も無いし……。近衛師団から借りるのも、時間が掛かるよねぇ……)
焦りながら私が必死に考えていると、
「皇宮警察が使っている側車付き自動二輪はどうだ?あの側車に、内府殿下が乗り込まれれば……」
職員さんの1人がこう言い出した。
(側車付き自動二輪……ああ、サイドカーね)
確か、兄が自動車で公式に出かける時に、御料車の前後左右にくっついている乗り物だ。皇宮警察の1人が武骨なフォルムの自動二輪を運転し、もう1人が武器を携えて側車に乗り込み、御料車の警護を行っている。
「私は構わないですけれど……」
そう答えた私の声は、
「いや、それはダメだ」
という、別の職員さんの言葉にかき消された。
「運転できる皇宮警察の者は全員、宮城前広場や赤坂御用地などで臨時警備の任に就いている。赤坂御用地では塀が崩れたところもあるから、警備の人数を減らすわけにはいかない」
その言葉を最後に、南溜の間が絶望的な沈黙に覆われた瞬間、
「僕、運転できます」
私の後ろから、若い男性の声が聞こえた。山階宮菊麿王殿下の次男・山階芳麿伯爵だ。
「はぁ。運転とは、何を……?」
訝しげに尋ねた宮内省の職員に、
「自動二輪です。僕、自動二輪の運転免許を持っているんです」
芳麿さまはしっかりした口調で答えた。
「よ、芳麿さま、あなた、なんで自動二輪の運転免許なんて持ってるの?!」
学究肌で華奢な印象の芳麿さまと、武骨な自動二輪……どう考えてもミスマッチで、思わず問い質してしまった私に、
「僕、自動二輪に乗るのが好きなんです」
芳麿さまは気を悪くした様子もなく、ニッコリ笑って答える。
「そ、それなら、分かるけれど……悪いわよ、あなたに高輪まで送ってもらうなんて。あなたは、佐紀子さまや範子さまのそばにいてあげないと……」
慌てて止めようとした私を、
「内府殿下」
芳麿さまは真正面から見つめた。
「僕、できることをやりたいんです。この大災害の中で、困っている人に、自分のできることを……。ですから、内府殿下を高輪まで送らせてください。お願いします!」
芳麿さまは最後は叫ぶように言い、私に向かって最敬礼する。頭を下げる前に私に向けていた真っ直ぐな瞳の光は、どこか、栽仁殿下に似通っていた。
「……分かったわ」
私は首を縦に振った。「私、芳麿さまに側車付き自動二輪で高輪まで送ってもらいます。……じゃあ、さっさと準備をしないと。大山さん、私の診察カバンを持ってきて。平塚さんが高輪に向かえるように調整も頼むわ。それから、南溜の皆さんは、側車付き自動二輪の準備をお願いします」
「御意に」
「「かしこまりました!」」
大山さんと、その場にいた宮内省の職員たちが一斉に返事をする。芳麿さまも「はい」と元気よく返事をした。
……20分後、宮内省の本庁舎前。
「陛下にも、お許しを得て参りました」
側車付き自動二輪の側車に乗り込んだ私に、大山さんは診察カバンを渡しながら伝えた。
「“しっかりやってこい”とのことでございます。それから、平塚くんも出る仕度をしております。もう間もなく、皇居を出発できるでしょう」
「ありがとう、大山さん。平塚さんには、怪我をしないように気を付けて来て、と伝えてね」
私は大山さんに命じると、受け取った診察カバンを膝の上に置いた。私がしっかりカバンを抱きかかえていれば、カバンの中身が破損することはないだろう。
「それから、内府殿下。皇居の中、それからすぐそばにも、まだ危険が残る箇所がございます。瓦礫の破片などがぶつかったり、目に入ったりしたら大変ですから、山階伯爵が“よい”とおっしゃるまでは、ヘルメットをしっかりかぶって、目をつむっているようお願いします」
「分かった。安全第一だもんね」
私は鉄製のヘルメットをかぶりながら大山さんに答えた。隣で自動二輪にまたがっている芳麿さまもヘルメットをかぶっている。背広服姿の華奢な青年がヘルメットをかぶり、武骨な自動二輪に乗っている……なんとも奇妙な取り合わせだけれど、芳麿さまの姿は非常に頼もしく見える。彼をぼーっと見ていると、
「内府殿下、目を閉じてください」
大山さんの注意が飛んでくる。私は慌てて前を向き、両眼をしっかり閉じた。
周りから聞こえていた職員たちのざわめきを、すぐそばから轟く大きなエンジン音が吹き飛ばす。自動車のエンジンと自動二輪のエンジンは、構造が違うのだろうか。残念ながら、エンジンの構造には詳しくないのでよく分からないけれど、とにかくすごい音だ。すぐ近くで聞いているからだろうか。
「では内府殿下、参りますよ!」
芳麿さまの声と頼もしいエンジン音と共に、私の乗った側車はゆっくりと動き出した。




