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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第72章 1923(大正8)年小寒~1923(大正8)年穀雨
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航空局長の療養

 1923(大正8)年1月15日月曜日午後3時、東京市牛込区市谷(いちがや)薬王寺町(やくおうじまち)にある児玉さんの家。

「いやぁ、内府殿下。寒い中、よくおいでいただきましたなぁ」

 児玉さんの家の2階にある洋間。ベッドの上に起き上がり、私に向かって頭を下げたのは、この家の主である児玉さんだ。ベッドのそばには、兄夫妻の長女・希宮(まれのみや)珠子(たまこ)さまの輔導主任である乃木希典さんが座っていて、部屋に入る私の姿を見ると立ち上がって一礼した。

「いえ、それより、突然押しかけてしまって申し訳ありません」

 私は室内を見渡すと、壁際にあった小さな椅子を持ち上げ、ベッドのそばに置いた。突然の訪問だったので、私をもてなす準備は全くできていなかったようだ。

「いやはや、これは……こりゃ、乃木。せめて内府殿下に椅子を出して差し上げろ」

 ベッドの上で芝居がかった調子で怒る児玉さんに、

「すまんな、気が付かなくて。うっかりした」

乃木さんは軽く頭を下げる。

「ま、連絡なしで来た私が悪いですから、お2人とも、どうかお気になさらず」

 私は児玉さんと乃木さんに営業スマイルを向けると、持ってきた椅子に腰を下ろした。

 ……なぜ私が、平日の午後に児玉さんの家にいるかについては、少し説明を加えなければならない。

 3日前の1月12日の朝、児玉さんの右手が急に動かなくなった。彼は直ちに自宅近くにある東京女医学校附属病院に往診を依頼した。そして、東京女医学校の校長で私の恩師でもある吉岡弥生先生が診察した結果、児玉さんは“脳卒中が起こった”と診断され、療養に入ったのである。

 この知らせを聞いた兄は、もちろん児玉さんのお見舞いに行きたがった。ただ、療養に入って間もない時期に、兄が児玉さんのお見舞いに行くと、児玉さんが……と言うより、兄を出迎える児玉さんの家族が大混乱に陥ってしまうだろう。そう言って私が兄を説得したところ、

――では、梨花が今から見舞いに行け。その様子でどうするか考える。

兄は先ほど、私にこう命じた。それで急遽、私は児玉さんのお見舞いをすることになったのである。

「内府殿下がお見舞いにいらしていただいた……となると、天皇陛下のお見舞いにも備えるべきですかな?」

 椅子に座った私に、児玉さんは冗談めかして問いかける。右腕は動いていないけれど、思っていたよりは元気そうだ。

「今日、帰ってからの報告で、あに……じゃない、陛下がどう考えるか、だと思いますけれど、その可能性は高いです」

 乃木さんがいるので、私は“兄上”と言いかけたのを、“陛下”と訂正した。

「それでは、密かに準備をしておきましょうか。と言っても、前触れなしで行幸があっても驚かないように、と家人に注意するぐらいですが」

「せめて出発直前には連絡を入れるように、と念を押しておきます。まぁ、牧野さんがいるから大丈夫だとは思いますけれど」

 児玉さんに答えてから、

「……ところで、乃木閣下も児玉さんのお見舞いですか?」

と私は傍らにいる乃木さんに尋ねた。彼も私と同じく、今は皇居で勤務中のはずだ。

 すると、

「見舞いという訳ではないのです。希宮殿下に、日中はここで待機しているように命じられました」

乃木さんは少し不思議な答えを私に返す。“児玉さんの家で待機する”とは変わった命令だな、と思った瞬間、

「誠にありがたい思し召しです」

児玉さんがニコニコ笑って言った。「いつまで療養しなければならないかは分かりませんが、乃木がいれば気が紛れますから」

 児玉さんのその言葉で、ようやく納得がいった。児玉さんと乃木さんは仲がいい。希宮さまもそれを知っていて、児玉さんのことを心配する乃木さんに、変わった待機命令を出したのだろう。

(希宮さまは優しいわね。臣下のことを気遣って)

 私が可愛い姪っ子の成長に目を細めた時、

「しかし……私はしばらく席を外す方がよいか?」

乃木さんが児玉さんの方を見て尋ねた。

「内府殿下が天皇陛下の命でここに見舞いにいらしたということは、天皇陛下からお前に何かご下問があるのかもしれない」

「え、えっと……」

 私は曖昧に微笑した。そんな“ご下問”などという御大層なものなど、兄から託されてはいない。ただ、話の流れで、乃木さんに聞かれたくない話が出る可能性はあるけれど……。困っていると、私の顔を盗み見た児玉さんが、

「おう、どうやら乃木の予想が当たっているようだな」

と言う。話についていけない私に向かって、児玉さんは悪戯っぽく微笑んでみせた。

「では、話が終わるまで、私はこの部屋から出ていよう」

 乃木さんはそう言いながら椅子から立ち上がり、廊下へと歩いていく。ドアの向こうへ消えようとする乃木さんの後ろ姿に、

「ちゃんと暖かくしてくださいね!」

と私は声を掛けた。これで乃木さんが風邪を引いてしまったら、児玉さんも希宮さまも悲しむ。

「ふう……これで聞きたかったことを確認できます」

 ドアが外から閉められると、児玉さんはそう言って屈託のない笑顔を見せた。

「私に聞きたかったことですか?」

 私は首を少し傾げた。突然見舞いをするように兄に命じられたので、児玉さんに話すことは特に用意していない。困惑していると、

「何、一昨日の梨花会のことでございますよ」

児玉さんは私に明るい声で告げた。「頭はいつも通りに動きますからな。きちんと外界の情報は頭に入れて、考察を加えておきたいのです」

「ああ、それなら……」

 私は胸をなで下ろしながら、座っている椅子をベッドに近づけた。「一昨日のことですから、流石に内容は大体覚えています。どうぞ、何でもご質問ください」

「恐れ多いことでございます。それでは、遠慮なく……」

 児玉さんは軽く頭を下げ、私に再び愛嬌のある笑顔を向けた。


「さて、早速ですが、一昨日の梨花会では何が話し合われたのでしょうか?やはり、先日の皇族会議で無礼な振る舞いに及ばれた久邇宮(くにのみや)殿下と梨本宮(なしもとのみや)殿下への報復内容ですかな?」

「それはもう、とっくに決着がついたじゃないですか」

 冗談なのか本気なのか判断がつかない児玉さんの問いに、私はため息をついた。「私はお咎め無しでいいと言っているのに、相手の謝罪を受けさせられて、おまけに、兄上は大山さんたちをいつの間にか焚きつけて、久邇宮さまと梨本宮さまを脅迫させてるし……。かわいそうに、あの後、伊都子(いつこ)さまが顔を真っ青にして私に謝りに来ましたよ」

 伊都子さまは、梨本宮守正(もりまさ)王殿下の妃である。彼女は華族女学校で私の1年先輩で、私とは宮中で会えば気楽にお喋りをする仲だ。そんな彼女は、自分の夫が私を侮辱して兄に激怒されたと知ると、夫を叱りつけた後、盛岡町邸に謝罪にやって来た。私は恐縮しきりの彼女を落ち着かせると、今回の一件を口外しないようにとお願いしたのだけれど……。

 すると、

「内府殿下、今のは冗談でございますよ」

児玉さんは私に笑顔で言った。

「やめてくださいよ、笑えない冗談は……」

 私が大きなため息をつくと、

「恐らく、一昨日話し合われたのは、エドワード皇太子の来日についてでございましょう」

児玉さんは梨花会の議題をピタリと当ててみせた。

「大まかな計画が決まっただけですけれどね」

 今年の4月に、イギリスのエドワード皇太子が日本を訪れることになった。日本に向かう途中で、エジプトやインド、シンガポール、香港などにも立ち寄るので、エドワード皇太子は既に軍艦でイギリスを出発している。実際に彼が来日するのは3か月先だけれど、そろそろ準備は始めなければ間に合わないので、まずは接待役の人選をすることになったのだ。

「皇族の接待役は、伏見宮(ふしみのみや)さまに頼むことになりました」

「妥当な判断ですな」

 私の説明に児玉さんは頷いた。「イギリスへの訪問経験がおありになりますし、皇族中の重鎮であらせられますから」

「他の接待役は、全員は決まっていないのですけれど、幣原さんと米内さんを起用することは決まりました」

 更に私がこう言うと、

「なるほど、チャーチル海軍大臣が、エドワード皇太子に随行してきますか」

児玉さんはニヤリと笑う。

「ええ。恐らく、こちらの軍事力を見定めに来るのでしょうけれど……またあの人とやり合わないといけないのは気が重いですね」

「何、内府殿下ならば問題ないでしょう。前回、チャーチルが日本に来た時も、見事に返り討ちにしていたではないですか」

「あの時は、向こうがこちらの土俵に乗って来てくれたから何とかなったようなものです」

「そうですか。では、枢密顧問官の方々に、内府殿下の討論の技能を更に鍛え上げていただきますよう……と、依頼しておきましょうか」

「やめてくださいよ、そんな悪夢……」

 私が思わず両腕で頭を抱えると、児玉さんはカラカラと笑った。

「ところで……」

 私はため息をつくと、椅子に座り直し、児玉さんに向き直った。

「まだ全く考えていないかもしれませんけれど……児玉さんは療養が終わったらどうするのですか?」

 ……そのことは、一昨日の梨花会でも話題に上っていた。ただ、本人の意向も考慮に入れなければならないだろう、ということで、いったん保留することになったのだ。そこで、児玉さん本人はどう考えているか、今確認しようと思ったのだけれど……。

「国軍からは退こうと思っておりますよ」

 児玉さんはサラっと答えた。

「極東戦争が終結して以来、五十六(いそろく)と一緒に航空を発展させようと頑張ってきましたが、今や、国軍の航空は“史実”以上に発展しております。それに、もうすぐ関東大震災がやってきます。その際、国軍の航空部隊は、被害状況の把握に緊急の連絡、更には人や物資の輸送と、八面六臂の活躍をしなければなりません。そんな時に、体調に不安を抱える私が航空局長であっては、航空部隊は十分に力を発揮できません。ですから、国軍はこの機会に辞めることにしたのですよ」

「そうですか……」

 確かに、児玉さんの言う通りだ。けれど、幼いころから児玉さんに親しんでいる私としては、児玉さんが国軍を辞めるのは少し寂しい。そんな私の胸中を見透かしたのか、

「いずれは必要なことでございますよ、内府殿下」

児玉さんは私に明るく言った。

「“史実”の記憶があるからかもしれませんが、五十六の成長は素晴らしい。いずれ堀と山下と一緒に国軍を背負って立つのは間違いないでしょう。ですから、斎藤に航空局長を預かってもらって、実際には五十六に航空局を切り盛りしてもらおうかと考えているのです」

「いい考えだとは思いますけれど……児玉さんは、国軍を辞めたらどうするのですか?」

「そうですな。二宮の飛行器会社を手伝うのも面白そうですが……」

 私の質問に児玉さんは微笑むと、

「金子どのと相談して、何か商売を始めてもいいかもしれませんな」

更にこう続ける。

(なるほど、隠れ蓑を作るのか)

 “金子どの”というのは、中央情報院の総裁である金子堅太郎さんのことだろう。恐らく児玉さんは、中央情報院の職員の活動拠点とするために、何らかの商社を立ち上げることを考えているのではないだろうか。

「それは、なかなか忙しくなりそうですね」

「ええ。しかし、頭はちゃんと動きますから、これくらい面白い仕事の方がよいでしょう」

 児玉さんは私に答えると、

「それに、私の命は内府殿下からいただいた命ですから、日本のために使わなければなりません」

と言った。

「え……」

 目を瞠った私に、

「おや、内府殿下、もしや私が“史実”でいつ死んだか、ご存知ないのですか?」

児玉さんは意外そうに尋ねる。

「あ、いや、その……」

 もちろん、兄や迪宮(みちのみや)さまが“史実”でいつ亡くなったかは知っているし、梨花会の面々でも、伊藤さんや原さんなど、“史実”で暗殺された人の死期は把握しているけれど、他の人たちが“史実”でいつ死んだかは、私は積極的に知ろうとはしていない。だから、児玉さんにどう答えればいいかと悩んでいると、

「斎藤に聞きましたら、私は“史実”では、明治39年に脳溢血でポックリ逝ってしまったそうでしてな」

児玉さんがニコニコ笑いながら言った。

「はぁ?!明治39年?!」

 私は思わず口をあんぐり開けてしまった。明治39年は西暦にすると1906年……今から17年も前だ。つまり、“史実”では日露戦争が終わった翌年に、児玉さんは亡くなってしまったことになる。

「ああ、これは本当にご存知ないようだ」

 私の様子を観察していた児玉さんは笑い声を上げる。その愛嬌ある笑顔は、自分が仕掛けた面白い悪戯が見事に成功して得意になっている子供のようだった。

「本当に驚きましたよ。まさか、“史実”だと日露戦争が終わった直後に亡くなっていただなんて……」

 呟くように言った私に、

「梨花会に入ったばかりの頃、内府殿下からお話いただいたことがありますが、脳溢血というものは、血圧が高いと起こりやすいのだそうですな」

児玉さんは穏やかな声で言う。

「ええ、そうですけれど……あ……」

 児玉さんの持病は高血圧だ。だから、運動療法や食事療法に取り組んでもらっていたし、極東戦争の頃からは、インドジャボクの抽出物から作った降圧薬を内服してもらっていた。

「つまり、私は内府殿下に高血圧の治療をしていただき、寿命を延ばしていただいたわけです」

 児玉さんはこう言うと、私に微笑みを向けた。

「思い残すことは何もない……と言いたいところですが、まだ命が尽きた訳ではありませんし、頭はしっかり動きます。折角ならば残りの命、大切に、面白く使いたいものですな」

「児玉さん……」

 私は身体を児玉さんに近づけると、彼の両手を握った。

「どうか、お大事にして、療養に努めてください。私、待ってます。児玉さんが新しい形で活躍するのを」

「もちろんです。天皇陛下と内府殿下のために、また世界を相手に、面白い悪戯を仕掛けてやりましょう」

 私の言葉に、児玉さんは愛嬌ある笑顔で、しっかり頷いてくれた。

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[一言] あけましておめでとうございます。 今年も作品更新楽しみに待ってます。
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