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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第70章 1921(大正6)年立冬~1922(大正7)年小満
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伝達

※地の文を一部修正しました。(2023年11月5日)

 1922(大正7)年4月5日水曜日午前9時40分、皇居・表御座所にある天皇の執務室・御学問所。

「ちょっと……これ、すごい数だわ……」

 兄の前にある紙を横から覗くと、私はため息をついた。紙に書かれているのは、来月7日から始まる兄夫婦の鹿児島・熊本・宮崎への行幸啓のスケジュールだ。そこには、兄と節子(さだこ)さまが訪問すべき場所が、予定時刻とともにびっしりと書き込まれていた。

「学校は節子と手分けして回ることになるから、実際に俺が回る場所はこの表より少なくなるが、それでも多いな」

 兄もスケジュールを一瞥して、苦笑いで私に応じる。「一応、鹿児島で休養日は1日設けてあるが、予定をかなり詰め込んでいるから、もう1日くらい予備日があってもいいかもしれない」

「兄上、熊本で休養日を1日入れようよ。熊本での初日、節子さまと手分けして回るにしても、視察先がすごく多いし……」

 私がすかさず兄に提案すると、

「お前、その1日で熊本城を隅々まで見て回るつもりだろう。内大臣は俺のそばにいてもらわないと困るぞ?」

兄が冷たい視線を私に突き刺した。

「えー……いいじゃない、兄上。城郭は元気の源なんだから」

「それはお前だけだ」

 兄の無慈悲なツッコミに、私が唇を尖らせると、

「しかし、確かに熊本での予定は詰め込み過ぎですね」

兄と私の前に立つ宮内大臣の牧野さんが苦笑いとともに答えた。

「熊本のご滞在2日目は、水前寺成趣園(じょうじゅえん)の他、阿蘇神社にご参拝いただく予定ですが、熊本から阿蘇神社の最寄り駅まで、列車で片道2時間以上掛かります。予定では、阿蘇神社からはそのまま港に戻ってご出航ですが、港への到着は午後6時過ぎになってしまいますし……」

 そう言いながら牧野さんは少し考えていたけれど、

「かしこまりました。やはり、熊本には、ご滞在2日目にもご宿泊していただきましょう。その方が、陛下のお身体への負担も少なくなります」

穏やかに笑って私たちに告げた。

「分かった。梨花は……まぁ、問うまでもないか。宿泊場所は第6軍管区の司令部だからな」

 兄は私の方を見て再び苦笑する。熊本での兄夫婦の宿泊場所・第6軍管区の司令部は熊本城の本丸跡にある。熊本での滞在期間が延びるほど、私が熊本城を見学できる時間も自然に増えるのだ。

「ところで……」

 元気に頷いた私から目を外すと、兄は再び牧野さんを見つめた。

「西南戦争では、鹿児島や熊本の近辺だけではなく、延岡や人吉、水俣の近くなどでも激しい戦いが行われたと聞く。この行程表を見ると、その辺りを回る予定が組まれていないように思うが……」

「はい」

 牧野さんは顔から微笑を消し、兄に一礼した。「ご指摘の通りです。しかし、西南の役の激戦地は、九州各地に散っており、戦死した官軍・薩軍の兵士たちの墓地は合わせて100を超えます。今回の行幸啓で回り切れる数ではございません。ですから、その一部をご参拝いただくしかないかと……」

「そんなに……」

 私は眉をひそめた。西南戦争での官軍・薩軍の戦死者は合わせて1万4000人前後と言われている。戦死者が多ければ、墓地の数が増えるのも当然だけれど、こんなに多いとは思っていなかった。

「そうか……」

 兄は一瞬うつむいたけれど、

「西南戦争で命を落とした将兵の冥福を、敵味方の区別なく祈るのなら、やはり一部の墓地や慰霊碑を参拝するのでは足りない。日程の面ですべてを回るのは不可能なのは承知しているが、俺が回れない墓地や慰霊碑にも、代拝の者を漏れなく送るようにしたい」

すぐに顔を上げ、牧野さんに力強く言った。

「兄上……それはいいと思うけれど……」

 諸手を挙げて兄に賛成しようとした私の頭の中に黄信号がちらつく。確かに、特別大演習で地方に行幸する時、その土地にある学校や工場、かつてその土地を治めていた藩主の墓所や格式のある神社などに、天皇が侍従や侍従武官を勅使として派遣することがある。けれど、兄の言う通りにすると、今回勅使を派遣しなければならない場所が非常に多くなってしまう。

「勅使役になる人間が多数必要になりますね。侍従と侍従武官だけでは足りなくなるでしょう」

 まさに私が恐れていたことを言葉にしてくれた牧野さんに、

「そう、そうですよ!どうすればいいのか、思いつかなくて……」

私が引き込まれるように反応すると、

「足りなければ、各県の職員を使いましょう」

牧野さんはサラっと答えた。

「最近は少ないですが、先帝陛下の御代には、県知事が勅使を仰せ付けられて寺社に参向することもあったとか。それを考えれば、各県の職員に陛下の代拝を仰せ付けても構わないでしょう。そうすれば、陛下がいらっしゃれない墓地や慰霊碑全てに、代拝を差し遣わすことができます」

 スラスラと解決策を述べる牧野さんに、

「そうか、では、それで頼む」

兄は頷くと、ニッコリ微笑む。そして、隣にいる私に視線を投げ、「どうした、梨花」と聞いた。

「悔しいのよ。解決策を思いつけなかったから」

 隠しても仕方が無いので、兄に正直に答えると、

「牧野大臣と梨花とで、得意なことが違うというだけだよ、気にするな」

兄はそう言って私の頭を撫でる。

「子供扱いしないでよ。私も、もうすぐ40歳なのよ」

 私が文句を言っても、

「可愛い妹は、いつでも撫でたくなるものさ」

兄はこんな返答をして、再び頭を撫でる。「いい加減にしてよね」と私は諦めつつ兄に言ってから、

「あとは、……今回の行幸啓のことを、西南戦争に直接関係した梨花会の面々にどう伝えるかね」

一番の懸念事項を口にした。

「それだな……」

 途端に兄がしかめっ面になる。「流石に、公表と同時に知らせるのは……」

 梨花会の面々のうち、西南戦争に最後まで従軍したのは、山縣さん、大山さん、児玉さんの3人だ。大山さんは薩軍の指導者・西郷隆盛さんの従弟でもある。また、兄の子である淳宮(あつのみや)さま・英宮(ひでのみや)さま・倫宮(とものみや)さまの輔導主任を務めている西郷従道(じゅうどう)さんは、西郷隆盛さんの弟だ。

「西郷閣下と大山閣下は、大西郷の遺族でもありますから、公表前にお話なさる方がよろしいかと思います」

 牧野さんが進言すると、

「西郷顧問官には、行幸啓の話はした。大西郷の墓参りをする話も」

兄は難しい顔をしたまま答えた。

「私も、大山さんに行幸啓のことは話したわ。西郷隆盛さんのお墓参りのこともね」

 私も兄に続いて答えると、

「では、そのお2人には、形式的な話をするだけでよいでしょうね」

牧野さんは穏やかに言った。

「……ということは、あとは児玉さんと山縣さんかな」

 私が兄の方を向くと、

「児玉航空局長は、恐らく簡単に済むと思う」

兄は私の目を見つめながら言った。「節子と結婚したばかりの頃、俺は佐賀県に視察に行ったことがある。その時、航空局長は東宮武官長として俺に付き従った。航空局長は、佐賀の乱の鎮圧に出動した時、重傷を負っている。佐賀では佐賀の乱で亡くなった者たちの墓を、敵味方の区別なく参拝して冥福を祈ったが、その時、俺は航空局長に“辛くは無いか”と尋ねた。そうしたら、“皇太子殿下と増宮さまのおっしゃる通り、戊辰の戦以来、この国で流れた血は、皆、意見の相違はあれど、天皇陛下を大切に思っていた者たちのものでございます。もちろん、実際に戦っていた時は、この児玉も色々な思いを抱いておりましたが、それももう忘れてしまいました。今は皇太子殿下とともに、戦場に散っていった者たちの冥福を祈るばかりでございます”……航空局長はこう答えた」

「そう……」

 児玉さんは最前線で、敵部隊と刃を交えていた。彼はかつての戦いを、既に自分自身で咀嚼して、過去の傷を見つめるとともに、前に向かって進んでいる……私にはそう思えた。

 けれど、山縣さんはどうだろうか。西南戦争で官軍の実質的な総司令官を務め、最終的に敵味方の将兵をぶつけて反乱を鎮圧する決断をして多くの戦死者を出し、40年以上経った今も、鹿児島の人々から恨まれている山縣さんは……。

「……直接、聞いたことが無いのよね。山縣さんが、西南戦争についてどう思っているか」

 私がそう言ってうつむくと、

「俺も聞いたことがない。だから、怖い。山縣顧問官が、どんな反応を示すか……」

兄は眉間の皺を更に深くした。

「……でも、言うしかないよ」

「ああ……進むしかないな」

 兄の両手が微かに震えている。私は思わず、兄の右手を掴んだ。

「これから、枢密院会議がある。それが終わったら、山縣顧問官をここに呼んで話をする。……梨花、その時、一緒にいてくれるか?」

「もちろんよ」

 首を縦に振って兄の手を強く握ると、兄も私の手を握り返す。

「ありがとう、梨花」

 兄は私の目を見つめてお礼を言うと、「では、会議に行こうか」と牧野さんに声を掛け、御学問所から出て行った。


 1922(大正7)年4月5日水曜日午前11時10分、皇居・表御座所にある内大臣室。

「……」

 椅子に座った私は、何をするでもなく、ただぼんやりしていた。毎週水曜日に開かれる枢密院会議には、内大臣は出席できない。だから兄が枢密院会議に出席している間は、内大臣室で調べ物をしたり、最新の医学雑誌に目を通したりして暇を潰す。けれど、今日は何もする気が起きなかった。

「内府殿下、失礼致します」

 内大臣秘書官の1人、松方金次郎くんが内大臣室のドアをノックしたのは午前11時15分のことだ。今日は大山さんが非番なので、私に関係する雑用は彼が処理することになる。部屋に入ってきた金次郎くんは、枢密院会議が終わって表御座所に戻った兄が私を呼んでいる、と私に告げた。

「もう間もなく、山縣顧問官もこちらに来るだろう」

 御学問所に私が入ると、兄は私に言った。兄の顔は緊張のために強張っている。いつもの指定席、兄の執務机の袖机の前に座ると、

「失礼致します」

黒いフロックコートを着た山縣さんが、静かに表御座所に入ってきた。

「まぁ、座ってくれ」

 山縣さんを案内した侍従さんに人払いを言いつけると、兄は山縣さんに椅子を勧める。

「いかがなさいましたか、陛下。もしや、先日の演習の問題に、何か不備がございましたでしょうか?」

 少し心配そうに兄に尋ねた山縣さんに、「そうではない」と左右に首を振って答えると、

「山縣顧問官に、伝えておかなければならないことができたので、来てもらった」

と兄は告げる。そこで、兄の唇が動かなくなってしまった。顔にはうっすら、苦悩の色が浮かんでいる。

(兄上……言わなくちゃ!ここで黙っちゃったら、何のために山縣さんを呼んだか、わかんなくなっちゃうよ!)

 兄をハラハラしながら見つめていると、兄の顔がこちらに向けられる。私の視線を受け止めた兄は軽く頷くと、再び前を見た。

「……実は、来月の7日から、節子とともに出かけることになった」

 話し始めた兄の声は、しっかりしていた。

「行き先は、熊本・宮崎・鹿児島……お父様(おもうさま)が倒れられたために、俺と節子が行けなかった3県だ。鹿児島が8年前の桜島大噴火から復興しているのを確かめ……西南戦争で命を落とした将兵の冥福を、敵味方の区別なく祈ろうと考えている」

 すると、山縣さんの身体が、小刻みに震えだした。両目は閉じられ、頬は赤く染まっている。

(まさか……怒っている?!)

 やはり、官軍の実質的な総司令官だった山縣さんには、西南戦争の犠牲者を敵味方の区別なく弔うという考えは受け入れがたいものなのだろうか。何とか、山縣さんを説得しなければ……私が拳を握りしめた時、

「陛下……なぜ……なぜわしが宮内大臣であった時に、鹿児島への行幸啓を仰せ出されませんでしたか?!」

山縣さんが叫ぶように問うた。

(え……?)

 軽く目を瞠った私の前で、

「心待ちにしておりました……!」

山縣さんは両目から涙を溢れさせながら唸った。

「先帝陛下が倒れられたために叶いませんでしたが、南九州3県へのお出ましは、陛下が熱望なさっておいでだったこと。ですから、いつかは行幸を仰せ出されると思っておりました。ところが、わしの在任中に、南九州3県へのお出ましのことは、一度も仰せにならず……」

「山縣顧問官は、西南戦争で実質的な総司令官だったのだろう?」

 兄は山縣さんを辛そうに見た。「だから、鹿児島では、山縣顧問官を恨む者も多いだろう。宮内大臣は、天皇の行幸に付き従うのが常……だから、山縣顧問官に鹿児島行きのことを言い出せなかった」

「それしきのこと……」

 山縣さんは、兄を睨むように見つめた。「宮内大臣としての任務とは、全く関係ありませぬ。わしは果たすべき職務を、ただ粛々と進めるだけでございます」

「それでは山縣顧問官が……山縣顧問官が、鹿児島で恨みを持つ者に殺されるかもしれないではないか」

 微かに語尾を震えさせた兄に、

「それでも一向に構いませぬ。一介の武弁として、死ぬ覚悟は常にできております」

山縣さんは力強く言い切った。

「ふざけるなっ!」

 叩きつけるように兄は言った。

「政府高官を狙った襲撃事件が起こってしまえば、世に不満を持つのなら政府高官を殺せばいいという風潮が広まって、世の役に立つ者を幾人も犠牲にすることになってしまう!そのような暴力的な事件が起こらぬように、梨花が転生したと分かってから30年余り、お父様(おもうさま)をはじめ、皆が努力してきたというのに……山縣顧問官はその努力を無駄にする気か?!」

 兄の言葉は説得する、というよりも、感情をそのままぶつけているようにも聞こえた。

「しかし陛下っ……!」

 椅子から半ば腰を浮かせ、反論しようとする山縣さんに、

「それに……俺は卿を失いたくない!」

兄は叫んだ。

「俺の心を許せる人間を……俺の考えを全てぶつけられる人間を、俺は失いたくない!だから……だから言えなかった、鹿児島に行きたい、とは……」

 兄の目に、涙が光っているのが見えた。「ああ……」と呻いて、糸の切れた操り人形のように椅子に腰を下ろした山縣さんの顔にも、涙が流れていた。

「老臣に対し……なんとお優しくあらせられることか……」

 涙で声を震わせる山縣さんに向かって、兄が静かに歩いていく。それに気が付いて立ち上がろうとする山縣さんを手で制すると、兄は山縣さんのすぐ前に立ち、片膝を床についた。

「山縣顧問官……卿の思いは、俺と梨花で背負う。そうして鹿児島に行って、卿の分も祈りを捧げてくる。だから卿は、俺たちが戻るのを、東京で待っていてくれ。……いいか、死ぬのは許さないからな。卿には俺と梨花と裕仁(ひろひと)を、まだまだ鍛えてもらわなければならないのだ」

 兄は山縣さんと目の高さを合わせると、山縣さんの右手を取り、言い聞かせるように命じる。山縣さんは椅子から滑り落ちるようにして床に正座すると、

「重ね重ねのご慈悲……誓って、陛下のご命令通りに致します」

うつむいて、声を絞り出した。

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[良い点] >政府高官を狙った襲撃事件が起こってしまえば、世に不満を持つのなら政府高官を殺せばいいという風潮が広まって、世の役に立つ者を幾人も犠牲にすることになってしまう! このセリフ、まさに安倍元…
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