冬の地震(2)
玉川上水は、江戸時代に江戸の町に飲料水を供給するために築かれた上水道である。その役割は、江戸が東京と名を変えた今でも変わってはいないけれど、水道の近代化という時代の要請に押され、現在では玉川上水の水は東京市の西・淀橋町にある淀橋浄水場に導かれ、そこで処理を受けてから東京市内に供給されている。
淀橋浄水場に水を導くため、明治時代になってから、玉川上水から分水する新しい水路が建設された。新しい水路は浄水場から4kmほど西にある世田ヶ谷村の代田橋のあたりで玉川上水と別れる。そして、築堤の上に作られた直線的な水路で浄水場へと向かっているのだけれど……。
「決壊が起こったのは、浄水場から1.5kmほど西にある本村隧道のすぐ近くでございます」
1921(大正6)年12月9日金曜日午前8時20分、皇居・表御座所。御学問所では、急遽参内した内務大臣の後藤さんと内閣総理大臣の桂さんによって、詳しい状況が報告されていた。
「地震発生直後の目視による点検では問題なかったということですが、本日の午前5時ごろ、突如大音響とともに築堤が崩壊し、付近に大氾濫をもたらしました。直ちに新水路の取水は取りやめて排水をしましたので、氾濫した水は引きましたが……」
「今度は、浄水場までの新水路をどうやって復旧させるか、という問題が生じたのだな」
兄が渋い顔で指摘すると、「そういうことになります」と言って後藤さんは頭を下げた。
「聞きたいことはたくさんありますけれど、それは置いておいて……水路は何日ぐらいで復旧できそうですか?」
「築堤が崩れた長さは約43mです。そこに大きな木の樋を渡し、樋の中に水を通して浄水場まで流します。もちろん、応急処置になりますので、いずれ鋼管に変えるか、築堤を建設し直すかしなければなりませんが……」
後藤さんが私の質問に答えて一礼すると、
「後藤閣下、東京市の水道が断水する可能性に関してはいかがでしょうか?」
まだ残っていた迪宮さまが顔をしかめて問うた。
「浄水場の沈殿池、ろ過池などに、約41万7000㎥の水がございます。東京市の水道使用量が1日に16万から19万㎥ですので、このままですと2日余りで水が無くなる計算になりますから……」
「2日?!」
私は目を丸くした。「ヤバすぎでしょ、そんな……」
衛生的な水を得るのは、都市の衛生を保つために非常に重要なことだ。それを怠れば、コレラや赤痢、腸チフスなど、汚染された水を摂取することで感染する病気が発生しやすくなる。万が一、これらの感染症も流行してしまえば、インフルエンザに対する緊急事態宣言が出ているこの状況下では医療が崩壊する。そうなれば、本来助かるはずの人たちが、死に追いやられてしまう。
「工事は、明日の朝に終わる予定ですが……」
後藤さんがこう報告すると、
「予定通りに終わらない可能性は考えておくべきでしょう」
大山さんが横から指摘した。「中央気象台の天気予報によれば、今晩から明日にかけて雨が降るということでした。雨ならば、工事の進みは遅くなってしまいます」
「これ……浄水場の水が無くなるまでに工事が終わらない可能性があると考えて動く方がいいんじゃないかしら」
顔を真っ青にした私の呟きに、
「俺もそう思う」
兄が重い声で同調した。「もちろん、最悪の事態を回避する策は、全てやらなければならないが」
「まずできることは、東京市民に節水を呼び掛けることね」
「それから、火の用心もだ。冬になったから、火事は燃え広がりやすい。消火には多量の上水を使うから、火は出さないに越したことは無い」
「そうね、兄上。院も使って、節水と火の用心は徹底的に呼びかけてもらいましょう。それから……」
私と兄が言葉を交わしていると、
「後藤閣下、よろしいですか?」
緊張した表情の迪宮さまが軽く右手を挙げた。
「淀橋浄水場のそばを、玉川上水の旧水路が流れていた記憶があるのですが、あの水は上水として使うことはできるのでしょうか?」
「旧水路の水ですか……」
後藤さんが難しい顔になった。「確かに旧水路は、淀橋浄水場のそばを流れています。しかし、淀橋浄水場よりも低い位置を流れているのです。旧水路の水を使うには、ポンプを使ってくみ上げなければなりませんが……」
「……それ、やるしかないですね」
私は後藤さんの言葉に被せて言った。「少なくとも、何もやらないよりはいいはずです。もちろん、それだけで東京市の1日使用量を賄える訳ではないですけれど……」
「では、工兵部隊も出動させましょう」
桂さんが私の言葉に続いて口を開いた。「旧水路からの水のくみ上げに、ポンプを貸すこともできます。それに、水路の復旧工事にも協力できるのではないでしょうか」
「なるほど。……こんなところでしょうか」
大山さんが御学問所の一同の顔を順番に覗き込むと、
「だろうな」
兄が大山さんに頷いてみせる。すると、大山さんは私と迪宮さまを交互に見て、
「では、梨花さまと皇太子殿下はここまでです」
厳かな口調でこう言った。
「は?!何で?!」
思わず詰め寄った私に、
「もう、8時30分でございます。勤務交代の時間ですから、御帰宅いただかなくてはなりません」
大山さんは平然と告げる。
「そんな……私はまだ働けるわ!なめないでちょうだい!」
「昨日、俺が梨花さまと今朝交代すると申し上げましたでしょう。過剰な勤務は身体に毒でございます」
反論する私に、大山さんが正論を突きつける。何も言えなくなってしまった私に、
「大山大将の言う通りだな。梨花、今日の勤務は休め」
兄がニヤニヤしながら命じた。
「では、御車寄までお送りいたします」
「いやぁぁっ!働かせてー!」
大山さんが私を後ろから抱き締め、御学問所の外へと引っ張っていく。その強い力に逆らうことができず、私は御車寄へと引きずられ、待機していた有栖川宮家の自動車に押し込まれてしまった。
1921(大正6)年12月10日土曜日午前11時50分、皇居・表御座所にある天皇の執務室・御学問所。
「昨日1日の東京市の水道使用量が14万5000㎥、本日午前0時時点で淀橋浄水場に残っている水が29万㎥弱、か……」
書類の決裁が終わった後、私と兄はいつものように人払いをしてお喋りをしていた。いつもは他愛もない話をするのだけれど、東京市が断水するかもしれないというこの状況では、のんきな話はできない。私は内務省から上がってきた報告書を見ながら、数値をメモに書き写していた。
「水道使用量が減っているのは、節水を呼び掛けた効果かしらね。でも、浄水場に残っている水が多すぎる気がするけれど……」
「それは、旧水路から浄水場に水をくみ上げているからだな」
首を傾げた私の呟きを、兄が素早くとらえて答えた。「昨日の正午ごろから、消防ポンプ20台でくみ上げている。理論上は、1日で約3万2000㎥がくみ上げられる……昨日の午後にそう報告を受けた」
「そうなのね。じゃあ、それを考慮して……ああ、これなら大体計算が合うわね」
私は計算を終えて鉛筆を置くと、
「問題は、工事が予定通りに進んでいるかどうかね。出勤した時、雨が降っていたけれど、まだ止んでいないのかしら……」
そう言いながら、出入り口の障子の向こうを睨んだ。
「どうだろう。見に行こうか」
兄が椅子から立ち上がり、障子を開ける。廊下のガラス戸の向こうを見た兄は、「駄目だ、まだ降っている」と言って再びこちらに戻ってきた。
「……これ、間違いなく雨のせいで工事が遅れているわね」
「確かに、まだ工事が完了したという報告も来ていないからな」
兄は椅子に座りながら私の言葉に応じる。
「作業している東京市の職員や工兵部隊が、低体温症になっていないか心配ね……」
私が眉をひそめた時、兄がつい先ほど閉めた障子の向こうから、「ご歓談中の所、失礼致します」という大山さんの声が聞こえた。
「ああ、大山大将、入ってくれ」
兄の言葉で静かに障子が開き、黒いフロックコートを着た大山さんが兄の前に立つ。そして、
「陛下、内務省から報告が参りました。玉川上水の応急工事は何とか完成し、樋に水を通しましたが、結果が思わしくありませんでした。従って、樋を補強して再度水を通すとのことでございます」
と兄に報告した。
「工事の完了は、明日の朝を予定しているということです」
「そうか、分かった。ありがとう、下がっていいぞ」
大山さんが兄に最敬礼して障子の向こうに姿を消すと、
「最悪じゃない……」
私は吐き捨てるように言った。
「ええと、今のペースで東京市民が節水してくれれば、13日の午前0時までは確実に水があるのか。消防ポンプのくみ上げもあるけれど……本当に明日の朝で工事が終わるの?」
メモの数値を睨みながら呟いた私に、
「まぁ、落ち着け」
兄が私の肩を優しく叩いた。
「この時代でできる限りのことはしている。だから、あとは現場で働いている者の頑張りが実を結ぶように祈るしかない。とにかく、明日を待とう」
兄は私にそう言うと、口を私の耳元に近づけ、
「本当は俺も不安なのだ。しかし、この程度で動揺していたら、関東大震災はとても乗り越えられない。……一緒に耐えよう、梨花」
と囁いた。
「……そうね」
確かに、兄の言う通りだ。それに、こんなに動揺しているところを大山さんに見られてしまったら、何と言われるか分かったものではない。
「私、なるべく頑張ってみる。動揺しないようにして、明日の朝を待つ」
「そうだな」
私の答えに兄は頷くと、私の頭を撫で、奥御殿へと戻って行った。
帰宅してからは、私はなるべく普段通りに過ごすように心がけた。家族一緒に夕食をとった後は、居間で子供たちを相手に、気楽なおしゃべりをする。楽しい話に興じていると、あっという間に就寝の時間になった。
「梨花さん、落ち着いているね」
栽仁殿下が私にこう言ったのは、2人で一緒に寝室のベッドにもぐった時だった。
「夕刊を読んだけれど、玉川上水の復旧工事が遅れていて、東京市が終日断水になる可能性もあるんでしょ?」
「……正直、不安でしょうがないわ」
私は寝返りを打って、栽仁殿下に顔を向けた。
「でもね、兄上と約束したの。なるべく動揺しないようにする、って。この程度で動揺したら、関東大震災は乗り越えられないから……」
すると、栽仁殿下は私の目を覗き込み、
「じゃあ、今は不安を吐き出していいよ」
と優しい声で言った。
「栽さん……」
「もちろん、動揺しないのは大切なことだ。戦場で指揮官が動揺したら、兵士にまで動揺が伝染して、軍の士気が下がって、勝てる戦いにも勝てなくなってしまう」
戸惑う私に、夫は私の頭を撫でながら語り掛ける。
「でも、余りに我慢してしまったら、梨花さんの心が壊れてしまうと思うんだ。……ここには僕と梨花さん以外、誰もいない。だから、不安な気持ちを存分に吐き出していいよ」
「うん……」
私は栽仁殿下に身体を寄せると、彼の胸に顔を押し付けた。
「じゃあ、甘えさせてもらう。……ありがとう」
「気にしなくていいよ。梨花さんを支えるのは僕の役目だから」
お礼を言った私に、栽仁殿下は微笑んで頷いてくれた。
夫の申し出に甘えて、不安をぽつぽつと吐き出していたら、次第に不安よりも眠気が勝り、私はいつの間にか眠りに落ちていた。
「うわあああああああああああああ!」
男性のものすごい叫び声で目が覚めた時には、夜明けの光が差し込んで、寝室が少し明るくなっていた。
「栽さん……今の、何?」
「分からない。でも、用心しないと」
夫と2人でベッドから起き上がった時、廊下でドタドタと足音がして、
「な……内府殿下!内府殿下!」
当直の職員さんが、狂ったように寝室のドアをノックした。慌ててドアを開けると、
「な、内府殿下、きゅ、宮城から、お電話が!」
当直の職員さんは顔を引きつらせ、叫ぶように報告する。私は寝間着のまま、電話が置いてある部屋へ走った。
「章子でございます」
宮城……皇居から私宛に電話がかかって来るなんて、内大臣になってから初めてのことだ。どんな緊急事態が起こってしまったのだろうか。身構えながら私が電話に出ると、
「ああ、梨花」
受話器の向こうから聞こえたのは、なんと兄の声だった。
「兄上?!」
一体何があったのか、と私が問う前に、
「喜べ、梨花!玉川上水の復旧工事が完成したぞ!」
兄は私に嬉しそうに告げた。
「兄上、本当?!」
「嘘をついてどうする。当直をしていた甘露寺が先ほど俺に伝えてくれたから、すぐにお前にも教えなければと思って電話したのだ」
受話器からは、兄の弾んだ声が流れてくる。それを受け止めた私の頭の中に疑問符が点滅した。
「あのさ、兄上」
「ん?」
「今の電話って、最初は甘露寺さんが掛けて、それから兄上に代わったの?」
私の質問に、
「最初から俺が掛けたぞ」
兄はさも当然のように答えた。
「はぁ?!何でそんなことしたのよ!」
「失礼な。俺だって電話ぐらいは掛けられる。ちゃんと交換手にお前の家の番号を言って、出た相手に“嘉仁だが、章子はいるか?”と尋ねて……」
「いや、だからさ!」
頭の中にツッコミが怒涛の如く浮かび、私は頭を抱えたくなるのを必死に我慢した。
「電話に出たうちの職員さん、肝を潰していたのよ!出た電話の相手が天皇だったら、誰だって驚くってば!」
「お前の家に俺が直接行くよりはマシだろうが」
「そうかもしれないけど!」
言い返した私の耳に、兄の朗らかな笑い声が響いた。
「まぁ、いい。とりあえず、玉川上水の件は解決した。今回のような事態がなぜ起こったかとか、今後に向けてどう対応するかとかはまた考えなくてはいけないが、それは明日以降の話だな。じゃあ、梨花、また明日な。……ああ、それから、年明けにでもお前の家にまた行きたいからよろしくな」
「あ、ちょ、兄上……」
言い返そうと思ったとたん、受話器から音はしなくなった。兄が電話を切ったのだろう。
「いい加減にしてよ、兄上……」
私は深い深いため息をつきながら、受話器を元の位置に戻した。
玉川上水の応急工事が無事に完成したため、東京市は断水の危機を脱した。沈殿池の水位を回復させなければならないので、旧水路からのポンプによる水くみは12月12日の月曜日まで続いたけれど、その後は通常通り、東京市民に衛生的な水道水が供給されるようになったのである。
「はぁ……しっかし、今回の地震、本当に大変だったわね」
1921(大正6)年12月13日火曜日午前11時、皇居・表御座所。私は人払いをした御学問所で兄に向かってこう言った。
「だな」
兄はお茶を一口飲むと、顔に苦笑いを浮かべる。
「斎藤参謀本部長と山本少佐の記憶にない地震だった。だから、大した地震ではないと思ったのだが……」
「まさかこんなことになるなんてね」
私もそう言いながら、湯飲み茶碗に手を伸ばした。「……でも、仕方ないのかもね。斎藤さんは、“史実”の今頃は朝鮮総督だったし、山本少佐も国内の細かい情勢に気を配っていられなかった頃だと思う。この地震のことを覚えていなかったのも無理はないわ」
「ああ。……だが、この東京が、こんなにも脆い都市だとはな」
「まさか、水の手がこんなに脆弱だなんてねぇ……」
兄のため息に、私もため息で応じるしかなかった。
「将来のことを考えると、上水道を玉川上水だけに頼るのはよくないな。利根川、荒川も上水道の水源として活用しないと、東京の発展は望めないぞ。それに、どちらかの水源がやられても、残っている水源から水を得ることができるしな」
「兄上の言う通りね。でも、今から新しい水源開発をしても、関東大震災には絶対に間に合わないから、玉川上水を何とかする方に全力を注ぐ方がいいと思うな」
「確かにな。今回の地震で新水路の築堤が壊れたのは、地震で入った亀裂から水がしみ込んだためだ、ということだったが、この程度の地震で壊れるならば、関東大震災でも絶対に壊れてしまう。せめて補強工事をして、少しでも被害を減らさなければ……」
「それから兄上、旧水路から淀橋浄水場に水をくみ上げるポンプも常設するべきだと思うな。新水路を補強しても、壊れないという保証はないから……」
兄と私の話し合いが続いていたその時、
「陛下、梨花さま、よろしいですか」
障子の外から、大山さんがこちらに声を掛けた。
「ああ、大山大将か。入っていいぞ」
兄の言葉に応じるように静かに障子が開き、大山さんが御学問所に入って来る。「どうした?」と問うた兄に、
「いえ、今回の地震への対応が、各部署、適切であったのかを検討していたのですが……」
そう答えた大山さんは、私と兄を交互に見て、
「どうも、陛下と梨花さまの御対応に、不十分なところが見受けられるように思いまして……」
……信じがたい言葉を口にした。
「どういうことだ?」
「そんな!私も兄上も、一生懸命やっていたつもりよ?!どこに不十分なところがあるというの?!」
気色ばんだ私と兄に、
「ええ、一生懸命、智嚢を絞っていらっしゃるのは感じられました」
大山さんは穏やかな声で説明を始めた。
「しかし同時に、お二方とも、……皇太子殿下もですが、動揺なさっておいでなのも感じられました。臣下に動揺を悟られるなど、上に立つ者として、あってはならないことです。……陛下も皇太子殿下も梨花さまも、ご修業が足りませんな」
大山さんがギロリと睨むと、私も兄も、大山さんに反論する気力を失ってしまった。
「動揺しなくなるためには、修羅場をいくつも潜り抜けることが大切です。しかし、よく治まっている現代においては、机上演習で代替するしかありません。ですから、これから週に1度は、災害や内乱など、国家の緊急事態に関する机上演習を行います。俺たちが交代で演習を担当致しますので、よろしくお願いいたします」
(そんなぁ!)
……こうして、私と兄は、毎週火曜日の午前中、そして迪宮さまは毎週木曜日の午前中、梨花会の古参メンバーによる国家緊急事態に関する厳しい机上演習を受けることになってしまったのだった。
※今回の話は、『淀橋浄水場史』(東京都水道局,1966) 、「1921年龍ヶ崎地震と1923年関東地震による玉川上水の被害とその対応」(中村亮一.『歴史地震』2018年 第33号 pp.39-46, 歴史地震研究会)を参照しました。




