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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第69章 1921(大正6)年小寒~1921(大正6)年霜降
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後輩

 1921(大正6)年7月23日土曜日午後2時55分、赤坂御用地内にある鞍馬宮(くらまのみや)邸。

「さて、蝶子(ちょうこ)ちゃん、体調はどうかしら?」

 鞍馬宮邸の応接間で、私と夫の栽仁(たねひと)殿下は、このお屋敷の主人で私のただ1人の弟である鞍馬宮輝仁(てるひと)殿下と、彼の妃で大山さんの初孫でもある蝶子ちゃんと向き合っていた。1919(大正4)年の4月に長女の詠子(うたこ)さまを産んだ蝶子ちゃんは、現在妊娠5か月である。

「すごくいいです、章子お義姉(ねえ)さま」

 薄い水色の和服を着た蝶子ちゃんは、私に朗らかな笑顔を向けた。「詠子を産んだ時より、悪阻も軽く済みました。だから今はすごく元気ですよ」

「元気って……本当かよ」

 一方、蝶子ちゃんの隣に座る輝仁さまは、蝶子ちゃんに訝しげな視線を投げた。「確かに、点滴をされることはなかったけど、吐くことも多かったじゃないか」

「でも、果物は吐かなかったわよ」

 すると、蝶子ちゃんはすぐに輝仁さまに言い返した。「詠子を産んだ時は、果物も喉を通らなかったことがあったもの。今回は、スープも飲めたし、経口補水液だって吐かなかったし」

「だけど……お粥も食べられない時もあったじゃないか。俺がお前のこと、どれだけ心配したと……」

「あの、輝仁さまも蝶子ちゃんも落ち着いてちょうだい」

 言い争いを始めそうになった弟夫婦を、私は慌てて制した。

「まぁ、喧嘩するほど仲が良い……とは言いますけど、ね」

 私の隣に座る栽仁殿下も、弟夫婦をやんわり止める。

「ご、ごめん、(ふみ)姉上も、栽仁兄さまも……」

「失礼致しました……」

 輝仁さまも蝶子ちゃんも、ばつが悪そうに私たちに頭を下げた。

「えっと……出産予定日は12月だっけ?」

 気を取り直し、私が弟夫婦に問いを投げると、

「ああ、12月の下旬だって主治医の先生には言われた」

輝仁さまはこう答えてくれた。

「分娩に必要な物の準備も少しずつ始めたところなんだけど……(ふみ)姉上、特にあった方がいい物とか、やっておいた方がいいこととか、あるか?」

「あった方がいい物……そうねぇ……」

 弟の質問に私が考え込んだ時、

「いけません、鞍馬宮殿下」

なぜか栽仁殿下が輝仁さまを制止した。

「章子さんにそんなことを聞いたら、医学がらみの膨大な量の情報を浴びせられます。整理するのに時間が掛かって大変なことになりますから、章子さんにそういう質問はなさらない方が身のためです」

「ちょっと、何てことを言うのよ」

 隣に座る夫を軽く睨みつけると、

「事実を言ったまでさ」

栽仁殿下は澄ましこんで言い返す。その悪戯っぽい笑顔が、栽仁殿下の父・威仁(たけひと)親王殿下が私をからかう時の笑顔と重なり、私はムッとした。

「仕方がないじゃない。私は医学が好きなんだから、医学のことを話したいの。本当は医者の仕事を続けたかったのに、内大臣をやらないといけなくなって……」

「そんなことを言うと、父上に怒られちゃうかもしれないよ?」

「なんでそこでお義父(とう)さまのことが出てくるのよ……!」

 いつもより意地悪な栽仁殿下にどう言い返してやろうかと、私が頭をフル回転させようとした瞬間、

「あのさ、(ふみ)姉上、落ち着けよ。ここで言い争ってどうすんだよ」

弟が呆れながら私を止めにかかった。

「そ、そうね……。ごめんなさい、栽仁殿下」

 我に返った私が栽仁殿下に頭を下げると、

「ううん、僕こそ悪かった。章子さんをからかい過ぎてしまったね」

栽仁殿下は私の目を覗き込んだ。夫の澄んだ美しい瞳の光に、心を絡めとられた刹那、

(ふみ)姉上……本当に栽仁兄さまに惚れっぱなしだな」

弟が再び呆れたように言う。

「し、仕方ないでしょ……」

 頬を染めながら、私は何とか弟に応じると、

「そ、それより輝仁さま、最近の仕事はどうなの?」

彼に小声でこう尋ねた。

「ああ、楽しくて仕方がないぜ」

 輝仁さまはよく日に焼けた顔に微笑みを浮かべた。「武彦(たけひこ)も任官してくれたしさ、あいつに色々教えてるよ」

 山階宮(やましなのみや)家の嗣子・武彦王殿下は、1918(大正3)年の夏に、航空士官学校の編入試験に実力で合格した。そして、1920(大正5)年の9月に航空少尉となり、輝仁さまのいる所沢の航空隊に配属されたのだ。

「武彦の奴、9月に賀陽宮(かやのみや)佐紀子(さきこ)さまと結婚するだろ。だから、すごく張り切ってる」

「ああ、でしょうねぇ」

(そう言えば、迪宮さまの結婚式だけじゃなくて、武彦さまの結婚式もこの秋だったわ。牧野さん、着任早々忙しくなりそうだけど、大丈夫かしら)

 頷く栽仁殿下の横で、私が新しい宮内大臣に思いを馳せたその時、

「殿下、お戻りください!」

「そちらに行かれてはなりませぬ!」

急に、応接間の外が騒がしくなった。

「あ、まさか……」

 輝仁さまが椅子から立った瞬間、応接間と廊下を隔てる襖がサッと開かれて、

「父上、いた!」

桃色の着物をまとった小さな女の子が姿を現した。輝仁さまの長女、もうすぐ2歳3か月になる詠子さまである。

「まいったなぁ……お客に会うから待ってろ、って言ったのに……」

 自分に向かって小走りで近づいた詠子さまを、輝仁さまは屈んで抱き上げた。

「お客?」

 輝仁さまの腕の中で首を傾げた詠子さまに、

「そうだ、詠子の伯父さまと伯母さまだ。栽仁伯父さまと章子伯母さまだぞ」

輝仁さまは言い聞かせるような調子で言う。

「栽仁?章子?」

「栽仁伯父さまと章子伯母さまよ」

 詠子さまに蝶子ちゃんが苦笑いを向ける。「呼び捨てにしちゃダメよ。詠子にとって大事な人たちだから」

「申し訳ございません」

「私たちでは抑えきれず……」

 応接間の入り口に、詠子さまの世話係と思しき女性たちが、息を切らしながら現れる。どうやら詠子さまは、この人たちを振り切って応接間に来てしまったようだ。

「元気だねぇ、詠子さまは」

 輝仁さまの着物の襟を引っ張ろうとしている詠子さまを覗き込みながら私が言うと、

「元気過ぎて困っちゃうぐらいです。障子は破るし、筆を持たせたら、色々なところに落書きするし……」

蝶子ちゃんが悪戯しようとする詠子さまの手を握りながら応じた。

「だから詠子の部屋、ボロボロになってるよ。直した端から悪戯されるんだよなぁ」

「うちの子たちもそうでしたよ。3人とも活発でしたから」

 ぼやいた輝仁さまに栽仁殿下が微笑んだ時、

「若宮殿下、内府殿下、よろしいですか」

詠子さまの世話係たちの後ろから、鞍馬宮家の別当・金子堅太郎さんが顔を見せた。

「付き添ってきた者たちが、そろそろ御帰宅の刻限だと申しておりまして……」

「いけない、じゃあ急いで帰らないと」

「そうだね」

 私と栽仁殿下が頷き合うと、

「なんだ、もっとゆっくりしてくれればいいのに」

 詠子さまに襟をつかまれた輝仁さまが、不満げな顔をした。

「私もそうしたいんだけど、今日これから、人と会わないといけないのよ」

 私が説明すると、

「大変だな、内大臣って。外国の要人とも、色々話し合わないといけないし……悪いな、忙しいのに来てもらって」

弟は、今度は気の毒そうな表情になって、私に頭を軽く下げた。

「気にしないで、輝仁さまも蝶子ちゃんも。じゃあ、蝶子ちゃん、身体を大事にしてね」

 私が弟夫婦に笑顔を向けると、輝仁さまの腕に抱かれた詠子さまが、私と栽仁殿下を見つめて、

「栽仁、章子」

とまた口にした。


 1921(大正6)年7月23日土曜日午後4時、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮(ありすがわのみや)家盛岡町邸の応接間。

「……」

 輝仁さまの所から戻り、急いで服を整えた私と栽仁殿下の前には、1人の青年が座っている。白い詰襟のジャケットに白いズボン、白い軍帽に、左腕に赤い十字が染め抜かれた白い腕章という服装は、私が昔在籍していた国軍軍医学校の学生の制服だ。彼の名前は半井(なからい)久之(ひさゆき)……私が13年前、名古屋で出会った時には、まだ8歳の子供だったけれど、今や名古屋の第八高等学校の医学部を軍医委託生として卒業して医師免許を得た、21歳の青年に成長していた。

「あの、半井君……」

 私は半井君に優しく声を掛けた。今回、半井君は国軍軍医学校への入学準備をするために名古屋から上京し、盛岡町邸に挨拶に来てくれたのだけれど、こちらに向けられた彼の顔は完全に強張っていた。身体もガチガチになっているのが見て明らかだ。

「もっと気を楽にしていいよ」

 更に言ってみたけれど、半井君は微動だにしない。

「お茶とお茶請けもどうぞ。この羊羹、美味しいのよ。もし羊羹が気に入らなければ、果物もあるし……」

「内府殿下」

 何とかして半井君の緊張を解きほぐそうとする私を、今日の面会をセッティングしてくれた大山さんが横から止めた。

「半井君にくつろいでもらうのは、なかなか難しいでしょう。ここは名古屋ではなくて、内府殿下のご自宅ですし……」

「それに、僕もいるからかな」

 大山さんの語尾に覆いかぶせるようにして栽仁殿下が言った。「すまないね。本当はお呼びじゃないのは分かっていたんだけど、章子さんから何度も話を聞いていたから、どうしても半井君に会いたくなってしまって」

「あ、その……」

 ようやく口を動かすことができた半井君に、

「僕はこれで退散するよ。半井君に会うという目的も達成されたし、あとは章子さんと大山閣下とゆっくり……」

栽仁殿下が自嘲めいた言葉を口にすると、

「そ、そんなことはございません!」

半井君が首を左右に振りながら叫んだ。

「若宮殿下は、非常にご立派な軍人でいらっしゃいます。皇族の特権を使えば、無試験で国軍大学校に入学できるところを、若宮殿下は特権を敢えて使わずに入学試験に挑戦なさり、見事に難関を突破なさったと聞きました。そんな立派な方にお会いできて、僕は軍医学生として本当に嬉しいです」

「そうか。……じゃあ、僕はここにいていいのかな?」

 栽仁殿下の質問に、半井君は「はい、もちろんでございます!」と即答する。「驚かせてごめんなさいね」と謝ってから、

「半井君、高等学校卒業おめでとう」

私は改めて半井君にお祝いの言葉を言った。

「これで、医師免許も取れて、医師としての第一歩を踏み出したのね」

 私がこう続けると、

「お言葉ですが、内府殿下」

半井君が一度下げた頭を再び上げ、緊張した顔を私に向けた。「軍医学校に入学するのは、この9月からでございます。ですから、軍医としての第一歩は、まだ踏み出せておりません」

「……確かにそうね。半井君は真面目ね」

 私は苦笑すると、

「半井君は軍医委託生だったから、軍医学校にいるのは1年間ね。私は軍医学校に2年間いたけれど」

話題を少し変えることにして、半井君にこう言ってみた。

「はい。そのうち半年は、師団や艦隊での実習と聞いています」

 半井君の表情はまだ強張っていたけれど、この応接間に入った時より表情は和らいでいた。

「ですが……こんなことを言っては恥ずかしいのですが、実習は緊張します。万が一、日本と他国の間で戦争が起きたら、僕も戦争に巻き込まれる訳ですし」

「そうね、その可能性は、絶対に無いとは言い切れないわ」

 私が半井君に答えると、

「内府殿下は、軍医学校の実習で“日進”に乗っておられた時に、極東戦争に巻き込まれましたからね」

大山さんが横から付け加える。

「そうでした……」

 半井君はうつむくと、

「内府殿下、僕、戦争に巻き込まれたら、軍医学生としてどう振舞えばよいのでしょうか?ご教示いただければ幸いです」

そう言って、私に向かって頭を深く下げた。

「これは難しい質問ねぇ……」

 顔をしかめた私は、両腕を胸の前で組んだ。

「軍医学校に入ると決めた時、“戦争には勝って、私の手の届く限り、できるだけ多くの人を、敵も味方も関係なく助けて帰って来る”なんて大口をたたいたけれど、実際に戦争になってみたら、正直そんな余裕は無かった。仕事を……負傷者の治療を続けるので手一杯で、何かを考えることなんてできなかった」

 話しながら、大山さんの方をちらっと見る。怒られてしまうかと思ったけれど、大山さんは反応を示さなかった。

「ただね、それでも、日本にいる大切な人たちを守ることはできていたかな、と思うの。もちろん、大切な人って、あの頃の私にとっては家族だったのだけれど、あの東朝鮮湾海戦で日本が負けていたら、ロシアに日本海の制海権を取られて、最終的に日本が負けてしまう確率が上がった。そうなれば、家族の身にも何かあったかもしれない。だから、私がきちんと仕事をすることで、大切な人たちを守れた……今はそう思う」

 ここで言葉を切った私は、お茶を一口飲み、

「だから、目の前の仕事をやること……それが自分の大切なものを守ることにつながるんじゃないかな、と私は思うわ。そう考えて、実習に臨んだらどうかしら」

と半井君に言ってみた。もちろん、もっと階級が上がっていけば、仕事をどう部下にやらせるか、とか、師団や艦隊全体の目標を達成するためにどう動くか、とか、高度なことを考えなければならないけれど、今はそこまで思考を広げる余裕はないだろう。

「かしこまりました、内府殿下。軍医学校での勉強、そして実習も、内府殿下の教えを胸に励んで参ります」

 顔を上げ、私をしっかりと見つめて言った半井君に、

「軍医学校を卒業したら、またこのお屋敷においでなさい、半井君」

大山さんが微笑みながら告げた。

「内府殿下のお話は、学生向けのほんの初歩的なものです。君が軍医少尉になれば、軍医少尉にふさわしい、そして階級が上がっていけば、その階級にふさわしい訓示が内府殿下からあるはずです。ですから、それを聞きにおいでなさい」

「大山さん……!」

 ハードルを上げないで欲しい、と大山さんに抗議しようとした時、

「じゃあ、また半井君と会えるということだね」

栽仁殿下が明るく言って、私に笑顔を向けた。

「……そうね、また、会えるのね」

 栽仁殿下に微笑み返して、私がそのまま半井君を見ると、半井君も嬉しそうに頷いた。その笑顔は、初めて彼に出会った8歳の時の笑顔と変わりなかった。

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