臣下の忠言
1921(大正6)年5月5日木曜日午後0時35分、皇居・表御座所。
「また来たのね……」
お昼休憩中、トントン、と外から軽くノックされた内大臣室のドアを開けると、そこに立っていたのは、私の予想通りの人物だった。兄と節子さまの長女、満17歳になった希宮珠子さまである。
「梨花叔母さま、ごきげんよう。お話を聞きに来たわ」
希宮さまは、相変わらずの美しい笑顔を私に向ける。少し首を傾げると、ポニーテールにした艶のある黒髪がさらりと揺れた。
「希宮さま……毎回聞いているけれど、内大臣室に来ても大丈夫なの?乃木さんに怒られない?」
私が少し顔をしかめながら尋ねると、
「平気よ、午後の勉強を始める時間までにはちゃんと戻るから」
可愛い姪っ子は笑顔のままで答え、「ねぇ、お話を聞かせて、梨花叔母さま」とおねだりする。
「……私は章子なのだけれどね」
注意してからため息をつくと、私は希宮さまを内大臣室に招き入れた。
先月の初め、希宮さまを国軍に入れたい、と国軍の一部が考えているという噂を耳にした希宮さまの母・節子さまが逆上して、兄と言い争いになった。お母様の仲裁で節子さまが落ち着きを取り戻したその時、華族女学校の授業でたまたま極東戦争の話を聞いた希宮さまが、“私も薬剤師になれたら軍人になれる”と節子さまに言ってしまった。再び激怒した節子さまと、“どうして自分が軍人になってはいけないのか”と節子さまに問う希宮さまとの間で、激しい親子喧嘩が勃発したのだけれど、
――希宮さんは、軍人のなんたるかをまだよくご存知ではないでしょう。本当に国軍にお入りになるかを決めるのは、軍のことをよく知ってからでも遅くないと思いますよ。
お母様が希宮さまと節子さま双方をなだめたことで一応終息した。
兄によると、その後、希宮さまは家族に国軍の話をすることは無くなったそうだ。しかし、彼女が国軍に入りたいと考えているのは明らかだ。なぜなら、彼女は毎週木曜日、午前中の授業を終えて帰宅すると、昼休み中の私の所にやって来て、私が国軍で働いていたころの話を自分に聞かせるよう、私に要求するようになったからである。
「叔母さま、先週は、極東戦争の対馬沖海戦の後、たくさん出た負傷者を全国各地に収容するために、様々な工夫がされたという話を聞かせてくださいましたよね。叔母さまご自身は、対馬沖海戦の直後、どんな風に働いたか覚えていらっしゃいますか?」
内大臣室の来客用の椅子に座った希宮さまは、目を輝かせて私に昔話をリクエストする。私も話すことは嫌いではないので、ついつい姪っ子のおねだりに応じて色々話してしまうのだけれど、
(私、希宮さまに国軍のことを話していいのかなぁ……?)
彼女が内大臣室を出ていくと、毎回こう思ってしまうのだ。希宮さまの母親の節子さまは、希宮さまが国軍に入ることに強く反対している。もし希宮さまが将来の進路を国軍に定めたら、再び激しい親子喧嘩が起こるだろう。
(そうなったら、私、節子さまに、“珠子を悪の道に引きずり込んだ張本人”って言われちゃうのかなぁ……。うう、どうしよう……)
「すごいわ!抗生物質って、そんなによく効くのね!これが無かったら、助からなかった人もいたかもしれませんね、叔母さま」
苦悩する叔母の心を知ってか知らずか、可愛い姪っ子は、とても嬉しそうに私の話を聞いている。
「はぁ、やっぱり叔母さまは素晴らしいわ。戦争で傷ついた人々をお救いになって……わたし、叔母さまみたいな軍人に憧れるなぁ……」
そして、こんなことを言うと、うっとりと私を見つめる。私はため息をつきたいのを必死に我慢した。
「あ、あのね、希宮さま。そろそろ1時になるから、奥御殿に戻らないと……」
私が恐る恐る上機嫌の希宮さまに申し出ると、
「大丈夫よ、叔母さま。まだ1時まで10分あるから、あと5分くらいはお話できるわ」
彼女は私に明るく答える。さて、どう返そうかと考えた瞬間、内大臣室のドアが廊下側から叩かれた。これは希宮さまを穏便に追い出す絶好のチャンスだ。「はい」と返事して椅子から立ち上がった私がドアを開けると、そこには希宮さまの輔導主任である乃木希典歩兵中将が立っていた。
「これは内府殿下」
乃木さんは私に礼儀正しく一礼すると、
「こちらに希宮殿下はいらっしゃいますか?」
と私に尋ねる。
「ええ」
私が頷いたのと、
「あら、乃木、来たの」
こちらを振り向いた希宮さまが言ったのとは同時だった。
「今ね、叔母さまに、国軍にいらした頃のお話を聞いていたの」
希宮さまは突然現れた臣下にも、機嫌よく喋り始めた。
「やっぱり、医師の免許を取って国軍で活躍された叔母さまは素敵だわ。憧れちゃう。わたし、薬剤師の免許を取ったら、叔母さまみたいに国軍に入りたいわ」
希宮さまが希望に目を輝かせながらこう言った時、乃木さんの目がスッと細くなり、
「希宮殿下」
硬い声で自らの主君を呼んだ。
「希宮殿下が軍人になられますと、戦場に出られることになりますが、戦場はどのようなところか、希宮殿下はご存知ですか?」
乃木さんの問いに、
「いいえ。でも、今は平和な時代よ。わたしが戦場に出ることなんてないんじゃないかしら」
希宮さまは左右に首を振りながら答える。すると、
「では、教えて差し上げましょう。希宮殿下、私についていらしてください」
乃木さんは希宮さまにこう言った。希宮さまが「分かったわ」と応じて素直に椅子から立つと、
「内府殿下、立会人としていらしていただけますか?」
乃木さんは私に視線を向ける。彼の視線には有無を言わせぬ迫力が宿っていて、私は黙って頷かざるを得なかった。
(立会人って……何?)
乃木さんの言葉が少し引っ掛かったけれど、承諾してしまったのだから、乃木さんと希宮さまについて行かないと不誠実だ。今日は大山さんが非番だから、出勤している東條さんか松方金次郎くんに午後の仕事を代わってもらうことになる。私は内大臣秘書官室に立ち寄り、“用事が出来たので、私の代わりに兄の午後の政務について欲しい”と出てきた東條さんに頼むと、乃木さんと希宮さまの後を追った。
1921(大正6)年5月5日木曜日、午後1時5分。
希宮さまと私を引き連れた乃木さんは、皇宮警察の武道場に到着した。ここは毎週土曜日、私が東宮武官長の橘周太さんと剣道の稽古をしている場所だ。早朝や、日中の勤務が終わった後の夕方には、皇宮警察の職員でいっぱいになる武道場だけれど、今は人っ子1人もおらず、ガランとしていた。
私が武道場の入り口の前に立った時、
「お二方は、こちらでしばしお待ちを。準備ができたら、声を掛けますので……」
そう言って、乃木さんが武道場の奥へと消えた。
「乃木はどうしたのかしら、叔母さま」
希宮さまの当然の疑問に、「さぁ……」と私が首を左右に振ると、意外にも早く「お二方とも、お入りください」と中から乃木さんの声が掛かる。希宮さまと一緒に武道場の中に足を踏み入れると、入り口のそばにいた乃木さんが、
「では希宮殿下、こちらをお持ちください」
と言って、鞘に入った刀を希宮さまに手渡した。
「乃木!これ……真剣じゃない!一体どういうこと?!」
顔をひきつらせた希宮さまが叫ぶ。確かに、居合の練習をする人のために、武道場には真剣も置いてあるけれど、それをここで内親王に手渡すのは尋常なことではない。
「乃木閣下、どういうことですか?!」
私の問いに乃木さんは答えず、武道場の中央まで静かに歩いて行くとこちらを振り向き、
「さぁ、立ち合いを致しましょう、希宮殿下。もちろん、こちらも真剣を持っております」
そう言いながら、鞘に入った刀を前に突き出した。
「ちょっ……?!」
私が乃木さんを止めるのよりも早く、
「待って!それじゃ乃木がケガを……ううん、死んじゃうかもしれないじゃない!」
希宮さまが乃木さんに言葉をぶつけていた。
「乃木に……わたしの大事な臣下に、刃を向けろだなんて、そんな……」
「……戦とは!」
希宮さまの言葉の語尾をかき消すように、乃木さんの声が武道場いっぱいに響き渡った。
「戦争とは、そういうものでございます!」
「……っ!」
乃木さんの声が、私の肌をビリビリと打つ。過去、色々な人の殺気を数えきれないほど浴びせられている私だけれど、今、乃木さんが放つ殺気は、その中でも5本の指に入る鋭さで、私は立ち尽くすことしかできなかった。
「戊辰の役の後、我が国では数々の内戦がおこりました。佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、そして西南の役……。私は萩の乱で、実際に刃を交えることはありませんでしたが、乱に参加した弟と学問の師を失いました。西南の役では、数々の知己と刃を交えることになりました。私だけではありません。山縣、大山、奥、児玉、黒田……。あの時、官軍にいた者は皆、私と同じような、いや、私よりも辛い経験をしております」
「……」
顔を強張らせたまま、希宮さまは口を動かせないでいる。両手で持つ鞘に入った刀は、先端が微かに震えていた。
「天皇陛下の御命令があれば、例えどんな者が相手であっても……それが親しい友や血を分けた親兄弟であっても、戦わなければならない。それが軍人というものでございます」
乃木さんは希宮さまを見据えながら、一言、また一言と、重い言葉を紡いでいく。
「希宮殿下も軍人におなり遊ばすのであれば、内親王として、そのお覚悟をしっかりなさっていただかなければ、他の臣民たちに示しが付きませぬ。……さぁ、刀を抜いて、この乃木と真剣で立ち合い、軍人としての覚悟をお示しください。それがおできにならなければ、この乃木は希宮殿下の臣下として、希宮殿下が軍人におなり遊ばすこと、認めませぬ!」
希宮さまは、手にした刀をじっと見つめている。乃木さんが彼女に押し付けるようにして渡した刀は、鞘から抜き放たれる気配はなく、小刻みに震えているままだ。そして、
「無理よ……」
両膝を床についた希宮さまは、刀を自分の前に置くと言った。
「無理よ……乃木に刀を向けるなんて、無理よ……」
希宮さまの声に嗚咽が混じる。姪っ子のそばに駆け寄ろうとした私を、乃木さんは視線で制した。
「ごめん、乃木……。わたし、軍人にはなれない……。乃木に刃を向けるなんて、そんなこと、できない……」
うつむいた希宮さまの肩は、泣き声とともに上下する。その肩に、静かに近寄った乃木さんが、優しく手を置いた。
「乃木……ごめん。不甲斐なくて、ごめん……。叔母さまみたいになれなくて、ごめん……」
「……それでよろしゅうございます」
泣きじゃくる希宮さまに、乃木さんは言った。
「無理に、内府殿下のようにならなくてもよろしいのです。希宮殿下には、希宮殿下だけの良さがございます」
「乃木……」
「内府殿下には歩めない、希宮殿下にしか歩めない道を、一途に歩いてくださいませ。この乃木も、お供致します」
乃木さんの真心のこもった言葉に希宮さまは頷くと、
「ありがとう、乃木……」
そう言って、幼い子供のように泣きじゃくる。そんな彼女を、私は黙って見つめることしかできなかった。
1921(大正6)年5月5日木曜日午後2時15分、皇居・表御座所。
「なるほど。それで、珠子は国軍に入ることを諦めた、と……」
天皇の執務室・御学問所。私から先ほどの武道場での出来事のあらましを聞き取った兄は、大きく息を吐いた。
「軍人は、天皇の命令があれば、例えどんな者が相手であっても戦わなければならない、か。……重いな。重い言葉だ」
「乃木さんが言ったから、余計に重かったのかもしれない」
兄に私はこう応じた。「私も、そのことをつい忘れてしまうの。軍医が前線に出ることはほぼないからさ。けれど、本当は、軍人がそんな甘っちょろい考えでいたらいけないのよね。改めて身が引き締まる思いがしたわ」
「そうだな。本来、軍人になるとはとても厳しいことなのだ。いつ戦争が起こるか分からないし、安全だと思われている場所がいつ敵に襲われるかも分からない」
兄は呟くように言うと、
「珠子が国軍に入るのを諦めてくれて、本当によかった。愛しい者が戦に巻き込まれるのは、梨花の事例でもう懲り懲りだ」
と続けた。
「あの時ねぇ……」
私は極東戦争が始まった時のことを思い出した。あの時も、日本近辺の情勢は落ち着きつつあるから問題なかろう、と国軍が判断したから、日本海に出る軍艦に同乗して実習をしたのだけれど、自在丸事件と、それを利用したロシア太平洋艦隊の長官・アレクセーエフの妄言により、私は戦争の真っただ中に放り込まれることになってしまったのだ。
「大丈夫だと思っていても、世界の情勢なんてすぐ変わって、戦争が起こってしまう。もちろん私だって、世界の平和のために努力はするけれど、……やっぱり、危険に巻き込まれるかもしれない職場に、可愛い姪っ子を送り込みたくないわ」
私のため息をつきながらの言葉に、「そうだな」と兄は相槌を打つと、
「ところで、梨花」
と私を呼んだ。
「もし……もし、お前と大山大将が、珠子と乃木中将と同じ立場にいたとして、大山大将に“自分と真剣で立ち合って、軍人としての覚悟を示せ”と要求されたらどうする?」
「はぁ……難しい質問をするわね、兄上は」
私は肩をすくめると、
「まず一発、大山さんを殴るかなぁ」
と兄に答えた。
「殴るのか。しかしそれは、大山大将に拳を止められるだろう。そうしたらどうする?」
「そうね。何だかんだ言いくるめて、立ち合いのことをうやむやにするわ」
再度の兄の質問に、私は即座に答えた。「”剣などという薄っぺらいもので、私の覚悟を測ろうとする愚か者め!“とかなんとか言って。それらしいことを堂々と言えば、人はその理論に巻き込まれてしまうものよ。そうやって時間を稼いでいれば、兄上や梨花会の面々が誰かしら駆けつけて来るだろうから、みんなで大山さんを説得して馬鹿な考えを捨てさせる……こんなところかしらね」
すると、兄がクスクスと笑い出した。その笑い声は次第に大きくなり、兄はとうとうお腹を抱えて大笑いを始める。
「兄上、私の言ったこと、そんなにおかしかった?」
私が顔をしかめながら訊くと、
「すまん、すまん」
兄は謝りながらもまだ笑っている。そして、ようやく笑い声を収めると、
「やはり梨花と珠子は違うな。……乃木中将の言う通りだ」
兄は私に穏やかに言った。
「そうかしら?希宮さまを見ていると、昔の私にそっくりだなと思うけれど……」
私が反論すると、兄は「いいや、違うよ」と左右に首を振り、
「梨花の良さも珠子の良さも、俺はどちらも大好きだ」
と言ってニッコリ笑った。
「はぁ……」
私が不承不承頷くと、
「梨花、政務も終わったし、今日は外に出ようか」
兄が私を誘った。
「今日は天気がいい。散歩にはうってつけだ。どうだ、久しぶりに江戸城の遺構を見て回らないか?」
「いいわね。そろそろ山城の遺構を巡るのにいいシーズンも終わるから、お城に飢えそうなのよ。じゃあ早速外に行こうよ、兄上」
椅子から素早く立ち上がった私に、
「こういうところも、お前と珠子は違うなぁ」
兄は苦笑いしながら応じ、自分も席を立つ。こうして、終業までの時間を、私と兄は宮城の敷地を歩き回って過ごしたのだった。




