1921(大正6)年1月の梨花会
1921(大正6)年1月8日土曜日午後2時、皇居・表御殿にある牡丹の間。
「伊藤さん……」
梨花会が始まる直前、私は右手の方を振り返ってため息をついた。
「まだワクチンのことで怒っているのですか?」
私の隣の隣の席に座る枢密顧問官の伊藤さんは、私を恨めしげに見つめている。そして、
「当たり前でございましょう。せっかくの機会を逃したのですぞ!」
彼は私を見つめたまま、やや興奮した口調で喋りだした。
「巡航から戻った後、すぐに懇意にしている医者の所に行ってインフルエンザワクチンを接種してもらったのです!そうして後から話を聞けば、他の梨花会の皆は、内府殿下がお手ずからワクチンを接種したというではありませんか!しかも、天皇陛下と皇太子殿下まで!こんなことなら、よく確かめておくのだった!」
「いや、梨花会の全員に打ったわけじゃないですよ。牧野さんと斎藤さんと浜口さんと幣原さんには、他のお医者さんが接種しましたから……」
お正月に伊藤さんが我が家に新年の挨拶に来た時も、同じように彼をなだめたと思う。その時のことを思い出しながら私が再び伊藤さんに言うと、
「それは分かっております!」
伊藤さんは即座に言い返した。「だがわしは、内府殿下にインフルエンザワクチンを打っていただきたかった!他の医者に打ってもらうより、内府殿下に打っていただく方が、効き目が抜群にあるはず……」
「同じですってば」
私は伊藤さんに冷たく言った。「同じ効力のワクチンなら、私が打とうが他の医者が打とうが効果は一緒です。私が打つ方が効き目があるなんていうのは、非科学的ですよ」
「いいえ、気持ちの問題です!」
「精神論に逃げないでください!」
なぜか胸を張った伊藤さんに私が大声で反論すると、内閣総理大臣の西園寺さんが「まぁまぁ」と横から私をなだめる。
「そろそろ、例の2人が来ますから、そのあたりでじゃれ合いはお止めになって……」
「じゃれ合ってなんかないですよ。私は、伊藤さんの非科学的な発言を訂正しようとして……」
西園寺さんに食って掛かるように発言した私を、伊藤さんと私の間に座っている大山さんが「梨花さま」と優しく制する。私が渋々口を閉じると、
「来たようだぞ、その2人が」
玉座に腰かけた兄が嬉しそうに言う。その言葉通り、牡丹の間の入り口から4人の男性の姿が見えた。
「失礼致します。連れてまいりました」
まず一言言って牡丹の間に入ってきたのは、大蔵次官の浜口雄幸さんだ。その後ろに、私の義父・有栖川宮威仁親王殿下のお付き武官を現在務めている堀悌吉海兵少佐がいた。そのすぐ後ろには、東宮武官の一員である山下奉文歩兵少佐が控えている。山下さんに付き添うようにして、外務次官の幣原喜重郎さんが牡丹の間に入ると、入り口の扉が閉じられた。
と、
「山本……?!」
周囲に素早く視線を走らせていた堀さんが小さく叫んだ。彼の視線は、末席にいる山本五十六航空少佐に注がれている。次の瞬間、山本航空少佐が椅子から立ち上がり、
「すまん、堀!」
堀さんに向かって土下座した。
「俺はお前を、15年以上にわたって騙していた!」
「待て、山本……一体どういうことだ。分かるように説明してくれ」
堀さんは山本少佐に向かって、吸い寄せられるように歩いていく。自分の前に片膝をついた堀さんに、
「今から16年前、対馬沖海戦の際、俺は大けがをした」
山本航空少佐は語り始めた。
「砲が爆発を起こして破片が俺に当たり、意識が遠のいた時、年を重ねた俺自身が殺される情景が頭の中に入り込んだのだ。連合艦隊司令長官としてアメリカやイギリスと干戈を交え、前線の視察に向かった時に、敵の待ち伏せ攻撃を食らって死んだ光景が……」
「何だ、それは……。アメリカやイギリスと我が国が戦うなど、ありえないぞ……」
強張った表情で呟いた堀さんに、
「俺もそう思ったのだ。しかし……それは実際にあったことなのだ。別の世界では、な」
山本航空少佐は真剣に言った。
「そのことが分かったのは、大けがをした後、横須賀に移送された時だ。ちょうど、横須賀の国軍病院でご勤務なさっていた内府殿下が、別の世界で生きていた俺のことをご存知だったのだ。“山本五十六”と、改姓した後の俺の名前を内府殿下が口にされた時、正直、肝が冷えるような思いがした」
(あの時ねぇ……)
対馬沖海戦の後、初めて山本少佐と会った時のことを私は思い出した。横須賀国軍病院始まって以来の大量の転入患者の受け入れでてんやわんやの中、疲れ果てた私は、まだ“高野五十六”と名乗っていた彼に、“イソロク”の書き方を聞き、うっかり“山本五十六と同じ字を書くのか”と口走ってしまったのだ。それが彼にとっては全ての始まりだったのだろう。
「内府殿下は、俺の中に流れ込んでいた別の世界の記憶をお持ちだった。内府殿下だけではない。ここにいらっしゃる伊藤閣下と斎藤閣下もだ。その世界では、日本はアメリカ・イギリスを敵に回して戦い、沖縄を失い、国土を焦土にされて敗北する。それを避けるために、内府殿下は重臣たちを結集し、日本をより良い未来に導こうと、長年努力なさっていた。そして俺もケガが癒えると、その会合の一員に加えられたのだ」
「いや、ちょっとそれは言い過ぎじゃないかな……?」
私が小さな声で山本少佐にツッコミを入れると、「梨花さま」と大山さんが私の右手を優しく握る。私は仕方なく口を閉じ、山本少佐の言葉を黙って聞くことにした。
「この会合の存在は公にはされていない。だから堀に言えなかった。この会合のことも、俺に流れ込んだ別の世界の記憶のことも……。許してくれ。いや、許さなくてもいい。……堀、俺は友人を裏切るようなことをしまったのだ。軽蔑して、絶交してくれても構わない」
そう言って、再び頭を垂れた山本航空少佐に、
「絶交など、あるものか」
片膝をついたまま、堀さんは優しく言った。
「国家の機密事項だったのだろう。それを俺に、今までよく隠し通せた。並大抵の決心でできることではないよ」
「堀……許してくれるのか?信じてくれるのか、俺のことを?」
「当たり前だ」
堀さんは右手を山本航空少佐の肩に置いた。
「どういう仕組みで記憶とやらが得られたのかは分からないが、お前がそう言うなら事実なのだろう。士官学校以来の親友のお前の言うことを、俺が信じないでどうする」
「堀……!」
「山本……!」
堀さんが山本少佐に身体を近づけ、山本少佐の両肩を力強く抱く。山本少佐は堀さんの腕の中で声を上げて泣いていた。親友にずっと真実を伏せ、騙していたことからの罪悪感……山本少佐は、それからようやく解き放たれたのだ。
(よかったわね……)
私が彼らに思いを馳せながら頷いた時、
「あの……堀も山本も、ここでそんなに取り乱していいのか?」
堀さんの後ろから、山下さんが冷静に声を掛ける。パッと顔を上げた山本少佐と堀さんに、梨花会の面々が無遠慮に視線を突き刺した。更にそこへ、
「気持ちは分かるが……会議が進まないから、後にしてもらってもいいかな?」
という、兄の穏やかな声が降ってくる。
「は、はいっ!」
「ご……ご無礼を致しました!」
山本少佐と堀さんは床の上に正座すると、兄に向かって額を床にこすり付けるように頭を下げた。
「あ、あの……皆さん、とにかく席についてください」
妙な雰囲気になってしまっている。私が慌てて促すと、入り口から入ってきた4人と山本少佐が指定された席に座る。堀さんは山本少佐の向かいの席に、山下さんは山本少佐の右隣に腰かけた。
「ほう……堀は意外と情に厚いなぁ……」
「山下は冷静だな。いや、今までも細心かつ大胆であったのだから、当然ではあるか」
「いずれにせよ、意外な面が見られて何よりです。五十六君も含めて、まだまだ鍛え甲斐がありそうですね」
末席の方に視線を飛ばしながら、梨花会の古参の面々が小声で話し合っている。特に児玉さんや黒田さん、陸奥さんは、とても楽しそうに感想を述べていた。久しぶりの新メンバー加入だけれど、新しい玩具が手に入ったぐらいにしか、この人たちは思っていないのだろう。
(堀さんと山下さんが、ストレスで胃潰瘍になりませんように……)
私は心の中でこう祈ることしかできなかった。
山下さんと堀さんに、“史実”のことなどを簡単に説明してから、やっと今日の梨花会が始まった。今回、国内の話題として取り上げられたのは、やはり新型インフルエンザのことである。
ただ、話題のインパクトとしては弱かったかもしれない。昨年11月に流行の第3波に入ってから昨年末までに厚生省に届け出のあったインフルエンザ患者は約20万人……昨年の第2波の同時期とほぼ同じ患者数だったけれど、第3波の昨年末までの死亡者は約1500人だった。昨年の同時期のインフルエンザでの死亡者数が2600人程度だったことを考えると、明らかに減っているのが分かる。
「ワクチンの効果が出て、死亡者の減少につながったと考えています。流石は内府殿下。未来の医学の知識を見事に活用なさった」
厚生大臣の後藤新平さんが報告をこう締めくくったので、山下さんと堀さんが目を丸くする。後藤さんの言葉に驚いたのだろう。そう思った私は、
「あ、私は前世の記憶という形で、“史実”の……別の世界の記憶を持っているのですけれど、その前世では1993年から2018年まで生きていたんです。最後、医者になりたての頃に死んだので、医学の知識が多少あって……」
と補足説明をした。
「だから、インフルエンザワクチンの作り方は大筋で覚えていて、それを医科研に投げて研究してもらったんです。ウイルスの分離をどうすればいいかがよく分からなかったんですけれど、セクハラ野郎……じゃなかった、野口さんが何とかしてくれました。インフルエンザに感染した人間の鼻汁の濾過液を遠心分離して、ウイルスが存在している分画を取り出すんです。それを有精卵の尿膜腔に接種して2日ほど培養します。本当はウイルスを目で見える形に示せればいいんですが、東京帝大の長岡先生にお願いしている電子顕微鏡がまだ完成してなくて、ウイルス構造が捉えられていないんですよね。それが特定できれば遠心分離の方法も更に工夫ができ……」
不意に、冷たい刃のような視線が私の首筋に突きつけられた。私の口の動きが反射的に止まる。恐る恐る振り返ると、隣に座っている大山さんが、私をじっと見つめているのが分かった。彼の全身からは殺気が立ち上っている。
「す、すみません、詳しい話は後程……じゃない、後日……」
隣の臣下の顔色をうかがいながら、とっさに妥協案を提示してみたけれど、やはり彼は許してくれず、殺気のこもった目で私を睨み続けている。
「ご、ごめんなさい、もう梨花会ではこれ以上詳しい話はしません、はい……」
完全に諦める意思表示をすると、ようやく大山さんの身体から殺気が消え、私はほっと胸をなでおろした。梨花会に昔からいる人たちは平気な顔をしていたけれど、最近入った人たち、特に山下さんと堀さんは大山さんの殺気に慣れていないせいか、顔を引きつらせていた。
一方、海外の話題は不穏なものが続いていた。特に警戒しなければならないのは、イギリスのアイルランド独立問題だ。アイルランドはこの時の流れでは1915(明治48)年に自治領となったのだけれど、最近になって、“自治ではなく独立を獲得したい”という動きが活発化している。……外務次官の幣原さんは私たちにそう報告した。
「私がイギリスに行った時は、独立なんて話は皆無だったけれど……」
私の呟きに、
「先日イギリスを訪れた時には、首相以下、アイルランド問題を懸念していました。急に騒ぎが大きくなった、ということをチラッと聞いた記憶があります」
向かいの席に座った迪宮さまが応じる。
「これは……間違いなくドイツが絡んでいるな」
兄が目を光らせながら言うと、
「仰せの通り……アイルランドの新聞社に、黒鷲機関が接触し、アイルランド独立を煽るような記事を記者たちに書かせているようです」
大山さんが静かに告げる。
「なるほど、戦争を仕掛けることができないならば、敵に内輪もめを誘発させて力を削ごう、ということですか。対外戦争を仕掛ければ、国際連盟に介入される可能性がありますからねぇ」
少し楽しそうな陸奥さんの声を聞きながら、
(これでMI6と黒鷲機関が潰し合ってくれたら一番いいけれど、そう上手くはいかないかなぁ……)
私は大山さんが聞いたら“腹黒い”と評されてしまいそうな感想を抱いてしまった。
……梨花会が終わって兄が奥御殿に戻った後、私はすぐに堀さんと山下さんの方へ歩いて行った。彼ら2人にとって初めての梨花会は、兄に注意を受けたり大山さんに殺気を飛ばされたり、散々なものになった。だから、フォローをする方がよいと思ったのだ。
山本航空少佐と何かを話し合っていた堀さんと山下さんは、私が近づいてくるのを認めるとサッと立ち上がって最敬礼する。山本少佐も立ち上がって頭を深く下げたので、
「3人とも、堅苦しい挨拶は無しにしてください。例え相手が誰であっても、遠慮なく討論をするのがこの会の流儀ですから」
私は微笑しながらこう言ってみた。しかし、3人の態度はあまり変わらない。マスクをして口元が見えないせいかもしれないけれど、マスクを外してもう一度笑顔になるのも面倒くさいので、
「いかがでしたか、今日の感想は?」
私はさっさと頭を切り替え、私とほぼ同年代の3人に尋ねてみた。
すると、
「いやぁ、肩身の狭さが無くなりました」
山本航空少佐が即座に答えた。「今まで、皇太子殿下を除けば、この会で一番年下なのは俺でしたからね。国軍大学校の同期が2人も入ってくれたので、本当に良かったです。堀に、俺の身に起こったことも打ち明けられましたしね」
(本当に肩身が狭いと思っていたのかしら)
私は訝しく思った。山本航空少佐は、梨花会でいつも堂々と発言しているからだ。
「この会合に参加することができ、感無量です」
山下さんは大柄な体を折り曲げるようにして私に頭を下げ、今日の感想を述べた。
「この会合は定期的な歌会だという話もあったのです。今日、皇太子殿下の供奉を仰せつけられて皇居に参り、この部屋に入るまで、この会合は本当に俺たちが予想していた、国家の最高意思に関わる会議なのかと半信半疑でした」
「歌会は100%……いや、絶対無いですね」
私は山下さんに向かって断言した。「私、和歌が苦手なんです。これがもし歌会だったら、私、毎月死んでますよ」
「おや?内府殿下は歌御会始に、毎年和歌を詠進なさっておられたと思いますが……」
控えめな態度で確認する堀さんに、
「妹たちが出すので仕方なく、ですね。同調圧力、という奴です」
私はこう答えると苦笑した。
「だから毎年、歌御会始の題が発表されると大変なんです。毎回毎回、へぼ歌をひねり出すのに苦労して……兄や夫に手伝ってもらっても、一首詠むのに一か月かかってしまいます。こんな立場じゃなかったら、私、和歌から生涯離れていたいですよ」
私が正直な思いを吐露したその時、
「聞き捨てなりませんね」
私の背中を厳しい声が打った。恐る恐る振り返ると、すぐ後ろに、私の義父・有栖川宮威仁親王殿下が立っていた。
「いつか嫁御寮どのに申し上げたことがございますが、我が有栖川宮家の専門は、もともとは和歌と書道なのです。仮にも我が家に嫁いだ人間から、“和歌から生涯離れていたい”という言葉が出てくるとは……情けないですよ」
(し、しまった……)
義父の硬い視線を、私はただ受け止めることしかできなかった。そう言えば、義父はどこかの歌道団体の総裁を務めていて、お父様やお母様と同じように、和歌には熱心なのだ。どうやら、私は義父に一番聞かれてはいけない言葉を聞かれてしまったようだ。真冬なのに、私の額には汗がにじんだ。
「嫁御寮どの、今日はこのまま私の家に来なさい。和歌の何たるかを、たっぷり教えて差し上げますから」
そう言うや否や、義父は私の手首をつかむ。引きずられるようにして車寄せまで連れて行かれた私は、そのまま霞が関の義父の家に同行させられ、和歌の講釈をたっぷり聞かされることとなった。




