1920(大正5)年11月の梨花会
1920(大正5)年11月13日土曜日午後2時、皇居・表御殿にある牡丹の間。
「それでは、本日の梨花会を始めます。……皇太子殿下のことも少々出てまいりますので、まずはアメリカの大統領選挙の結果を取り上げましょうか」
内閣総理大臣の西園寺さんがそう言って視線を末席の方に向けると、外務次官の幣原喜重郎さんが立ち上がった。
「11月2日に行われたアメリカ大統領選挙では、民主党のジェイムズ・ミドルトン・コックス氏……今のオハイオ州知事が当選しました。来年の3月から、彼が大統領として職務を執ることになります」
幣原さんの報告に、梨花会の面々の何人かが声を出さずに笑う。枢密顧問官の陸奥さんなど、両眼に鬼火をちらつかせながら人の悪そうな笑みを顔に浮かべているので、どこかの魔王だかラスボスだかが、自分の立てた策略がうまく行って喜んでいるようにしか見えなかった。
「コックス氏は、“デイトン・デイリーニューズ”など、いくつかの新聞社・ラジオ局を所有しています。そして、中央情報院の協力者の1人でもあります」
幣原さんが更にこう続けると、
「コックス氏には、主に世論操作でご協力いただいておりました」
大山さんが笑みを崩さずに付け加えた。
(わぉ……)
私は口をだらしなく開いてしまった。まさか、アメリカの新大統領が、中央情報院の協力者だなんて……アメリカのことが、ちょっと心配になってしまう。
「逆にこちらがコックスに操られることのないように気を付けろよ」
玉座に座る兄が、大山さんに厳しい視線を向ける。「大統領の権限というものは大きい。それを使って、コックスがこちらに脅しをかけてくる可能性もある。いや、大山大将ならば分かっているとは思うが……」
「ご心配いただきありがとうございます」
我が臣下が兄に向かって恭しく頭を下げた。「実は、大統領選の勝利をもって、院とコックス氏の契約は満了致しました。今後、アメリカの世論操作は別の協力者とともに行いますので、どうぞご安心を……」
「流石、抜かりがないな」
兄は苦笑しながら言った。「これでは、俺と梨花は、ずっと卿らに手玉に取られたままだな」
(だね……)
私は大きく首を縦に振った。こちらがいくら努力して能力を上げても、いつでもこちらの想定を上回る力で私と兄をねじ伏せるのが梨花会の面々だ。私はいつまで経っても、お釈迦様の手のひらの上の孫悟空である。
「しかし、いつかは俺たちを超えようとお励みになっておられる。その努力こそが大事なのですよ」
大山さんは兄に、次いで私に優しい視線を向けると、
「選挙の日取りは、皇太子殿下御一行がニューヨークにお着きになる2日前でしたが、皇太子殿下はコックス氏とお会いになったのですかな、幣原君?」
と、優秀な外務次官に尋ねた。
「皇太子殿下御一行は、7日にワシントンに入られました。停車場にはマーシャル副大統領とともにコックス氏も出迎えに参上しております。晩餐会にもコックス氏は同席したとのことでした」
「早速、コックス氏は与えられた機会を十分に活用しているようですね。皇太子殿下との写真を、自身の経営する新聞に掲載すれば、宣伝効果も得られますし」
幣原さんの言葉を聞いて、陸奥さんが再びニヤリと笑う。迪宮さまの一行には、外務省の職員も含まれている。また、晩餐会にはアメリカ駐在の日本大使も参加しているだろう。アメリカ側としては、日本の皇太子の一行、およびその関係者たちに、新しい大統領の顔を売っておきたいのだろう。もちろん、この訪問を通じて、相手側と有力なコネを作っておこうと考えているのは、日本側も同じだ。今回の迪宮さまのワシントン訪問には、日本とアメリカの双方に、色々とメリットが存在するのだ。
と、
「幣原閣下、質問してもよろしいでしょうか?」
山本五十六航空少佐が末席で手を挙げた。
「新しい副大統領は誰ですか?確か、“史実”のこの年の大統領選挙では、民主党の副大統領候補者がフランクリン・ルーズベルトだったのです」
山本航空少佐の口から、驚くべき情報が飛び出す。確か、“史実”の1920(大正5)年の大統領選挙では、共和党が勝利したと聞いた記憶があるけれど……。
「モンタナ州知事の、サミュエル・バーノン・スチュワート氏ですよ」
幣原さんより早く、大山さんが山本航空少佐に回答した。「ですから、五十六君が恐れるようなことも起こりえません」
「はっ……」
山本航空少佐は大山さんに向かって最敬礼する。彼の表情は、先ほどのものと比べると、明らかに和らいでいた。
「来年になったら、コックスさんに頑張ってもらいましょう。日本と世界の平和のために」
私が大山さんにこう言うと、
「梨花さまも、だいぶ腹黒くなられましたな」
大山さんが私を見てニヤッと笑った。
アメリカの話題が終わったところで、梨花会の議題は国内の諸問題に切り替えられる。今日の主な議題は、今月の1日から接種が始まったインフルエンザワクチンについてである。
「接種の進捗率には、地域によって差があります」
ワクチンの接種を主導している厚生大臣の後藤さんが、険しい顔で説明している。
「接種順位は、直接インフルエンザの診療に関わっている医療従事者、満65歳以上の高齢者、妊婦、基礎疾患を持つ者……としましたが、高齢者への接種が3割ほど終わった県もあれば、医療従事者への接種が終わっていない県もあります」
「ふむ……何が原因なのか、調べはついているのか?」
宮内大臣の山縣さんが静かに後藤さんに尋ねると、
「1つの原因は、ワクチン製造所の質に差があることです」
後藤さんはこう答えた。
「ワクチン製造所は、各道府県に最低でも1つは設置しております。東京にある医科研の付属製造所では、1日に5000から6000人分のワクチンを製造することができます。ところが、その医科研の製造所と同程度の製造規模を有していても、1日に1000人分ほどしかワクチンを製造できない製造所もございます」
「……つまり、製造所で働く人たちの技量の差が出ている、ということです」
私は後藤さんの回答に付け加えた。「医科研の付属製造所は、ワクチンの研究段階からワクチンの製造に関わっていますから、一連の作業に慣れています。ところが、新しく作られた製造所の職員は、ワクチンの製造にまだ慣れていません。よいワクチンを作れるかどうかは、職員の技量によるところが大きいので、未熟な職員が多い製造所では、生産量が下がってしまうのです」
すると、
「それならば、ワクチン製造所をある程度集約して、職員も熟練した者だけを残せばいいのではないのですか、内府殿下?」
農商務大臣の牧野さんが私に尋ねた。
「その通りなのですけれど、集約ができないのです。実は、ワクチンは10℃以下にした環境で輸送しないといけなくて……」
私の答えを聞いた牧野さんがサッと頭を下げる。この時代、冷蔵庫は開発されているけれど、電気を使う冷蔵車両は開発されていない。一応、氷を使った冷蔵車両はあるけれど、一定の時間ごとに冷却に使う氷を補充しなければならないのだ。氷は製造設備の問題で簡単に補充できないので、長距離の輸送に使うのは難しい。だから、冷却しながら輸送が必要なインフルエンザワクチンの製造を1か所にまとめるのは難しく、ある程度分散させて製造所を作らなければならないのだ。
「自分は優先順位の高い人間であると偽って、ワクチンの接種を受けようとする不届き者も出てまいりまして、接種業務の妨げになっております。満年齢ではなく数え年を申告して接種を受けようとするのはまだかわいい方で、自分が医療機関に勤務していると嘘をつく者もおります。そ奴らをつまみ出すので、現場が忙しくなってしまっているようで……」
「あー……」
そう言えば、私の時代で新型インフルエンザが発生して、それに対応するワクチンの接種が始まった時も、優先接種対象ではない人が、色々な手段を使って、先にワクチンを受けようとした……という話を、前世の祖父から聞いたことがある。そんなことがこの時の流れでも起こったか……と暗澹たる気分に陥ったその時、
「何とか致しましょう」
私の隣に座っている大山さんがニッコリ笑った。
「……命まで取ったらダメだよ」
考えていることが大体分かってしまったので、先回りして止めると、
「心しておきましょう」
大山さんは私に言う。……ズルをしようとする人がこれ以上出現しないことを、私は心から祈った。
「ワクチンの数自体は足りそうですか?」
立憲改進党の桂さんが後藤さんに質問する。確かにそれはとても大事なことだ。
「一応、全国でのワクチンの1日当たりの生産量は約18万人分です。全国で医療従事者が約20万人、65歳以上の高齢者が約290万人おりますから、20日あれば、そこまでの接種分は余裕をもって確保できる計算になります。しかし、地域によっては需要が供給を上回っております。一般市民がインフルエンザワクチンを希望する時に接種することができるようになるまでには時間がかかりそうです」
「なるほど。ワクチン接種率の上昇速度、そしてインフルエンザが広まっていく速度……どちらが上かは分からないということですかな」
後藤さんの回答に原さんが質問を加えると、
「はい、残念ながら。ワクチン接種が広まっていけば、インフルエンザの死亡率が下がることも期待できますが、インフルエンザが広まる速度がそれを上回ることも十分考えられます。これは、統計を地道に取って判断するしかないでしょうな」
「……」
11月に入ってから、神戸や横浜などで、インフルエンザの発生報告が出始めている。東京や大阪に流行が拡大するのは時間の問題だろう。少しずつ進められているワクチン接種は、新型インフルエンザに対して効果を発揮してくれるだろうか。
(確か、効果が出るまでに、接種してから2、3週間かかるのよね……。南半球で9月にインフルエンザに感染した人からウイルスを採取して、それを元にワクチンを生産しているけれど、ウイルスのタイプが日本で流行しているものと合っていない可能性もある。……運を天に任せるしかないわね)
私がここまで考えた時、
「内府殿下」
国軍航空局長の児玉さんが私を呼んだ。
「内府殿下のお手元にワクチンが届くのはいつになるでしょうか?」
「私のところ?医師免許は持っていますけれど、インフルエンザの診療に直接従事している訳ではないので、私が接種を受けられるのはかなり後になりますよ」
私が児玉さんに答えると、
「いえ、内府殿下ご自身の接種のことを申し上げているのではなく、内府殿下が医師として患者に接種するワクチンが、内府殿下のお手元に届くのはいつになるのか、ということをお聞きしたいのですが」
児玉さんは私が思ってもみなかったことを私に言った。
「私が他の人に打つワクチンを……?」
内大臣になるまでは、国軍病院に出入りしている医薬品卸業者にお願いして、往診の時に必要な薬剤や医療器具を仕入れていた。けれど、内大臣になってからは往診することがなくなったので、付き合いが無くなっている。
「卸業者との付き合いを再開して、その上でワクチンを取り寄せないといけないので、かなり時間がかかりますよ?1か月近くかかるんじゃないかしら……」
私の答えを聞いた瞬間、
「その程度なら待てます。私は内府殿下にインフルエンザワクチンを接種していただきたいのです」
椅子から立ち上がった児玉さんは、私に向かって最敬礼した。
「?!」
あまりのことに固まってしまった私の耳を、
「ずるいぞ、源太郎!」
山本国軍大臣の大声が打った。
「それならば俺も、インフルエンザワクチンは内府殿下に接種していただきたい!」
「俺もだ!源太郎と権兵衛に先を越される訳にはいかない!」
山本国軍大臣に続いて、桂さんも立ち上がると、
「恐れながら、山本閣下が内府殿下から接種されるのであれば、内務大臣のわたしにも、内府殿下からワクチンを打たれる権利があるでしょう」
「その通り!厚生大臣の我輩にも、内府殿下から接種を受ける権利がある!」
内務大臣の原さんと厚生大臣の後藤さんが、血相を変えて主張した。
すると、
「ほう……小童どもが、俺を出し抜こうとはいい度胸じゃなぁ……」
西郷枢密顧問官がのんびりと言う。けれど、声の調子に反して、西郷さんの身体からは怒りのオーラがにじみ出ていた。
「ああ、許し難いですな」
「ならばわしらも、内府殿下にワクチンを接種していただかなければ不公平というもの……」
「その通りですね。……内府殿下、内府殿下は、かつて僕の結核を治してくださった主治医です。よもや、僕にインフルエンザワクチンを接種してくださらないということは無いでしょうね?」
黒田さん、山縣さん、陸奥さんが次々に発言する。陸奥さんはなぜか私を睨みつけた。
「陸奥さん、それはないでしょう。陸奥さんが結核にかかっていたのははるか昔のこと。今のことには関係ありません。内閣総理大臣であるこの僕が、内府殿下から真っ先にワクチンを接種していただくべきですよ」
そこに西園寺さんが意を決したように立ち上がって主張する。すかさず、
「何を言うんであるか、西園寺総理!ここは総理より年上である吾輩に、接種一番乗りの権利を譲るべきなんである!」
野党・立憲改進党党首の大隈さんが、謎の論理を展開する。
「大隈さん、そうおっしゃるなら、わしは大隈さんより年上だから、一番はわしがいただこう」
枢密顧問官の松方さんも、重々しい声でこう言うと、大隈さんを睨みつける。
「何をおっしゃる皆様方、ここは梨花さまの臣下である俺が、真っ先に梨花さまからワクチンを接種されるべきでしょう」
そして、なぜか我が臣下も、おどけるように居並ぶ一同に向かって宣言する。
「ふむ、大山大将が梨花にワクチンを打ってもらうのなら、俺も梨花からワクチンを打ってもらおうかな?」
更には兄も、首を傾げながらこんなことを言った。
「あ……あなたたち、いい加減にしなさいーっ!」
牡丹の間に私の怒りの叫びが響いて、消えた。
……こうして、梨花会の面々に押し切られた結果、私は医師として、彼らにインフルエンザワクチンを接種することになってしまった。




