怖い話
1920(大正5)年9月17日金曜日午後10時、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮家盛岡町邸。
「ねぇ、梨花さん」
本館1階にある居間。子供たちがおやすみのあいさつをしてそれぞれの寝室に引き上げると、私の隣に座っていた栽仁殿下が私を呼んだ。
「何?」
私が振り向くと、栽仁殿下は顔に悪戯っぽい笑みを浮かべ、
「怖い話をしてあげようか」
こんなことを私に言った。
(怪談かぁ……)
怪談に対して、苦手意識は全くない。前世からそうだったけれど、今生でその傾向は更に強くなった。自分が前世の記憶を持ったまま過去に転生するという飛びっきりの謎の現象の当事者になってしまったので、大抵の怪談は動じることなく聞いていられるのだ。
「国軍大学校の敷地って、確か、どこかの藩の屋敷があったところだよね。切り落とされた自分の首を抱えて、ケラケラ笑っている幽霊でも出たとか?」
栽仁殿下が赤坂御用地の隣にある国軍大学校に通い始めて、半月が過ぎている。そんな栽仁殿下の話は、本当に私を怖がらせることができるだろうか。疑問を抱きながら彼に応じると、
「そうだね、ある意味、それよりもっと怖いかもしれないよ」
栽仁殿下は真面目なのかふざけているのか、よく分からない表情で言う。
「何、それは。ちょっと気になるわね。どんな話なの?」
私が微笑して尋ねると、
「今日から大学校で、“宮中作法”という科目の授業が始まったんだよ」
栽仁殿下はこう話し始めた。
「え?宮中での作法?それって、国軍大学校でわざわざ習わないといけないことなの?」
入営したての新兵ならともかく、栽仁殿下は既に国軍で10年のキャリアを積んでいる。栽仁殿下の同級生たちも同じだ。そんな彼らなら、宮中での作法もバッチリ身についているはずなのに、なぜ今、それを大学校で学ばないといけないのだろうか。私の疑問に、
「僕もそう思った」
と栽仁殿下は頷き、
「昨日たまたま、鳩彦に会ったから聞いてみたんだ。この“宮中作法”という授業は、どんなことを習うんだ、って。そうしたら、“僕の時にはそんな授業はなかった”って答えられた」
と続ける。鳩彦というのは、学習院時代、栽仁殿下と同学年だった朝香宮鳩彦王殿下のことだ。歩兵大尉である彼は、栽仁殿下より3年早く国軍大学校に入学し、今年の夏に卒業していた。
「だから、その授業は受けるのをやめようかと思ったんだ。ただ、正当な理由がある訳じゃないのに、授業を抜ける訳にはいかないから、仕方なく、授業に出ることにしたんだ。何でこんな分かり切ったことを、わざわざ習わないといけないんだって思いながらね」
「はぁ……」
どのあたりが怖いのか、よく分からない。訝しく思いながらも相槌を打つと、
「それで今日、その授業に出たんだけど……始業時間から10分経っても、教師が教室に来ないんだよ」
栽仁殿下は不思議なことを言った。
「は?教師が来ない?それ、教師の側でも授業は不必要と思ってるってこと?」
顔をしかめた私の質問に、
「僕もこれはないんじゃないかと思った」
栽仁殿下は明確な答えは与えずにこう返した。
「僕だけじゃない。輝久も同じことを考えたって後で言っていたし、あの時、教室全体がざわついていたから、ほぼ全員が同じように思っていたと思う。“もう帰ろうぜ”って言った同級生も何人かいた。……でもね、1人だけ、その騒ぎに乗らない同級生がいたんだ」
「はぁ……」
話の落ち着きどころが全く見えてこない。一体、栽仁殿下は何を話したいのだろうか。そう思いながら彼の話を聞いていると、
「その同級生……歩兵部隊出身の樋口君っていうんだけど、外国語の本を読むのが好きでね。僕たちが騒いでいる間も、挿絵の入ったロシア語の本を読んでいたんだ。ところが、始業から10分経ったところでふと彼の方を見たら、彼、本を読んでいないんだよ。10分前に僕がちらっと見た時と、同じ挿絵が入ったページが開かれていてさ」
栽仁殿下は気になることを言い出した。
「寝ているのかとも思ったけれど、僕たちが騒がしくしている中で眠るのは難しいだろう。それに、彼、普段は読む速度が速くて、外国語の本でも2ページ読むのに5分もかからないんだ。だから、具合を悪くしたんじゃないかと思ってね」
「確かに、ちょっと心配になるわね」
栽仁殿下と同級生なら、30歳前後だろう。突然の心筋梗塞や脳卒中の発症は考えづらい年代ではあるけれど、それ以外の原因で急に意識を失う可能性もある。
「それで、僕、輝久にも話をして、2人で一緒に樋口君のそばに行って、声を掛けたんだ。“大丈夫か、さっきから全然ページが進んでいないようだけど、身体の具合が悪いのか”って……」
「うん」
「そうしたら……樋口君が、本に視線を落としたまま、“フフフ……”って笑いだしたんだ。今までに聞いたことがない、不気味な声でね。僕も輝久も、思わず後ずさったし、教室で騒いでいた同級生たちも急に静かになって、樋口君に視線を集中させた。とにかく、そのくらい、とても不気味な笑い声だったんだよ」
その時の情景を思い出したのか、栽仁殿下は一瞬身体を震わせた。
「樋口君は、“流石は盛岡町邸の主……”と僕に向かって言いながら立ち上がった。でも、彼の顔、樋口君の顔じゃなかったんだ。……明石閣下だったんだよ」
「は?!」
私は文字通り目を丸くした。「明石閣下って……中央情報院の明石さん?!確かに、オスマン帝国から日本に戻ってきているはずだけど……何で国軍大学校の教室にいるのよ?!」
「僕も分からなかったよ」
栽仁殿下は力無く首を左右に振った。「みんな、明石閣下のことは知らなかったみたいだけれど、この人間は只者じゃないってことは気が付いたみたいで……。とにかく、僕ら、その場に突っ立っていることしかできなかった。明石閣下は僕らの間をすり抜けて教壇に上がると、“申し遅れました。私は中央情報院の明石元二郎と申します”と挨拶して、ニヤッと笑ったんだけど、その笑顔が本当に恐ろしくてさ……」
(だよなぁ……)
国軍関係の学校は、常にきちんと警備されている。栽仁殿下のように、皇族がその学校で学んでいるケースもあるからだ。そんな、安全であるはずの所に、学生に変装した人間が入り込んでいたのだ。絶対にありえない事態に、学生たちはパニックに陥ってしまったに違いない。……もっとも、教官側は、明石さんが学生に変装して学校に侵入することを認めていたのだろうけれど。
「確かにこれは、ある意味怖い話ね……」
私はため息をついた。「……で、“宮中作法”って、結局何をするの?明石さんが出てきた時点で、真面目に作法を教えるつもりなんてないと思うけれど」
「諜報の授業だよ」
私の質問に、夫はサラっと答えた。
「“極東戦争で我が国と清が勝利したのは、我々中央情報院の力も大きいのです。1人の諜報員は、しばしば10個師団、そして艦隊よりも大きな力となって戦場を支配します。また、先ほどのように敵将官たちの中に入り込み、彼らの生殺与奪の権を握るのも容易いこと……君たちにはこれから諜報の神髄をとくと教えてあげましょう”……教壇に立った明石閣下に殺気を放たれながらそう宣言されてしまったら、真面目に授業を受けるしかないよね」
「間違いないわね……」
まだ秋分の日まで間があるのに、何だか寒気がして、私は両腕で自分の身体を抱き締めた。極東戦争で日本と清が勝利したのは、間違いなく明石さんの功績が大きい。彼がロシア政界に工作して、ニコライを帝位から引きずり降ろさなかったら、対馬沖海戦の後もロシアは抵抗を続けていただろう。万が一、陸戦が展開されていたら、日本と清が勝てていたかどうか分からない。
「ところで、栽さん、この授業のこと、秘密にしなくて大丈夫なの?授業科目まで偽装されていたのに、部外者の私に諜報の授業があることを話しちゃったら、問題になるんじゃないかしら?」
ふと気が付いて私が尋ねると、
「ああ、それは問題ないよ。許可を取ってあるから」
栽仁殿下は事も無げに答えた。「授業が終わった後、梨花さんに今日のことを話していいか、って明石閣下に聞いたら、“ご自宅でなら構いません”と答えられたから」
「ああ、そうなのね……」
この盛岡町邸は、中央情報院の新人職員たちの教育の場としても機能している。もちろん、防諜には細心の注意が払われているから、ここでした話は外に漏れることはない。だから明石さんも、物騒な“宮中作法”の話を、盛岡町邸でならしてもいいと言ったのだろう。
「とりあえず、この話は、場所と相手と状況を慎重に選んでするわ……」
私のため息まじりの結論に、「そうだね」と夫は苦笑いして頷いた。
1920(大正5)年9月18日土曜日午前8時30分、皇居・表御座所にある内大臣室。
「おはようございます」
定刻通りに内大臣室の前に着くと、いつものように大山さんが私を出迎えてくれた。非番でない限り、大山さんは朝、私をこうして内大臣室の前で待ち受けている。そして、内閣や各省から、どんな書類が兄の裁可を受けるために回されてきているかや、その日の兄の予定を私に教えてくれるのだ。
「おはよう、大山さん」
私は大山さんに挨拶をすると、内大臣室のドアを開けて中に入った。
「今日は、裁可が何件あるのかしら?」
カバンを置きながら大山さんに聞くと、
「今日は3件でございます。本日は天皇陛下のご面会の予定はございませんので、ご政務が終われば、お2人でゆっくり過ごしていただけるかと」
大山さんは優しく微笑み、私に答えてくれた。
「それはありがたいわね」
私は微笑みを大山さんに返すと、
「ところで、大山さん。全然関係ない話をしてもいいかな?」
と彼に確認した。
すると、
「梨花さまがお話になりたいのは、昨日、若宮殿下がお受けになられた授業のことでございましょう?」
経験豊富で非常に有能な我が臣下は、私に向かってニヤッと笑う。
「……その通りよ。やっぱり、大山さんはなんでもお見通しね」
「何、明石君が、昨日が初回授業だと言っておりましたから」
私の言葉に大山さんはこう応じると、
「さて、お聞きになりたいことには、何でもお答えいたしましょう。今なら邪魔者もおりませんし」
と、私におどけた調子で言った。
「……あの“宮中作法”の授業、国軍大学校では毎年やっているのかしら?」
本当に、大山さんには敵わない。そう思いながら尋ねると、
「もちろんでございます」
彼は恭しく回答した。
「そうよね。じゃないとおかしいわ」
戦時だろうと平時だろうと、諜報は非常に大切だ。その授業を、上級将校の養成機関である国軍大学校でやらないなら、国軍の教育はお粗末だと言うしかない。
「毎年、別の科目名で偽装しておりますし、このことを他の学年の者には言うなと学生たちには指示しておりますから、毎年、初回授業を受けた学生たちは肝を潰しております」
大山さんの補足情報に、
「本当に、院は恐ろしいわね」
私はため息をついて応じた。
「今だって、迪宮さまの一行に付き添っている院の人たちが、世界各国の中枢の動静を探っているんでしょ。私の時代のCIAだかKGBみたいな組織がこの時の流れの日本に存在して、しかも、その初代総裁が私の臣下って……本当に理解に苦しむわ」
「おや、中央情報院の生みの親が何をおっしゃいますか。梨花さまが未来の活動写真のお話をして下さらなければ、中央情報院は生まれていなかったのですよ」
おどけるように言い返す我が臣下に、
「ところで、全然話は変わるけれど、各国の主力艦の廃艦は進んでいるのかな?迪宮さま、確か今頃はジュネーブにいるはずだけど、迪宮さまに付き添っている院の人たちからその辺りの報告がないから、どうなのかしらと思って……」
と私は尋ねた。
「主力艦の廃艦は、順調に進んでいるようです」
大山さんはすぐに私に答えた。
「しかし、軍縮条約に規定された“主力艦”に該当しない巡洋艦の建造が、イギリス・ドイツ・フランスなどで活発になっております。空母の方は航空戦艦化を懸念して、20.3cmを超える砲を搭載してはならず、砲は8門までしか搭載を認めない、という規定が最終的に軍縮条約に加えられたため、ドイツとイギリス以外での建造の動きはありませんが……」
「“史実”通りの展開ということね」
私の確認に、大山さんは軽く一礼した。
「困ったものね。次の軍縮会議では、巡洋艦にもメスを入れないといけないわ。それから、空母にも。……空母は、日本としてはあまり制限をされたくないけれど」
私は顔をしかめたけれど、すぐに真面目な表情を作り直し、
「世界大戦という破滅的状況を起こさないこと、そして、万が一、世界大戦が発生した時でも被害が極力抑えられるよう、世界各国の軍事力を徐々に削っていくこと……大変だけど、少しずつでもやっていかないといけない。理不尽な理由で人が死ぬのをできるだけ少なくするために」
と呟くように言った。
「そのためにも、院の力は絶対に必要ね。……大山さん、これからもよろしく」
私が大山さんをしっかり見つめると、大山さんも優しく暖かい瞳で私を見つめ返し、
「御意に」
と言って最敬礼した。




