内大臣、進路相談を受ける
1917(大正2)年8月6日月曜日午後5時35分、静岡県楊原村にある大山さんの別邸。
「大山の爺の別邸って、こんな風になっているのね」
案内された洋間の様子を興味深げに観察しているのは、兄の長女で、13歳になった希宮珠子さまだ。彼女のそばには、輔導主任であり、彼女の臣下でもある乃木希典歩兵中将が付き従っていた。
「ああ、このテラスから、海が見えるのね。綺麗だわ。海が、夕焼けの色に染まって……ここはすごくいいところね、大山の爺。ここに泊まらせてもらっている叔母さまがうらやましいわ」
嬉しそうに、テラスに続くガラス戸に顔を近づけた希宮さまに、
「お褒めにあずかり光栄でございますが……希宮さま、ここにいらした目的をお忘れではありませんか?」
この別邸の家主である大山さんが苦笑しながら聞くと、
「大丈夫よ、爺。ちゃんと覚えているから」
希宮さまは軽く唇を尖らせ、私の前の椅子に座る。そして、
「じゃあ、梨花叔母さま。早速、相談してもいいかしら?」
と、美しい黒い瞳を私に向けた。
……なぜ私たちが東京ではなく、沼津にいるかについては、少し説明を加えなければならない。
先月の28日から、兄一家は避暑のため、ここから1kmほど離れたところにある沼津御用邸に移った。私は内大臣なので、天皇が泊りがけで東京を離れる時は、国璽と御璽を持ち、天皇に付き従って移動しなければならない。だから私も沼津に移動して、この大山さんの別邸にお世話になっているのだ。平日はここから沼津御用邸に通い、避暑中でも東京から間断なく送られてくる書類を、兄と一緒に処理していた。
普段と違う過ごし方にも慣れてきた先週の金曜日、私が兄の書斎を出て自分の控室に戻ると、控室の襖の前で希宮さまが待ち構えていた。
――叔母さま、ご相談したいことがあるの。
真剣な表情で私に告げた可愛らしい姪っ子に、
――いいけれど、ここで話しても大丈夫なの?
と私は確認した。控室の周囲には、侍従さんたちや、兄夫婦の子供たちに付き従う職員さんたちの控室もある。おまけに、希宮さまの一番下の弟、5歳の倫宮興仁さまが、職員たちを相手に屋内で鬼ごっこをすることもあるので、かなり騒がしいのだ。希宮さまは“静かなところで話したい”と私に答えたので、大山さんとも打ち合わせて、今日の終業後に、大山さんの別邸で話を聞くことにしたのだけれど……。
「私の名前は章子なのだけれどね」
いつものように私の名前を間違えた姪っ子に注意をしてから、
「それで、私に相談したいこと、というのは何かしら?」
と優しい口調で尋ねると、
「あのね、叔母さま。わたし、将来、人を助けるような職業に就きたいの」
彼女は私を真っすぐに見て答えた。
「なるほど。そう思うようなきっかけが何かあったのかしら?」
「きっかけは特にないけれど……」
私の質問に、希宮さまは一瞬目を伏せたけれど、すぐに顔を上げ、
「でも、り……じゃない、章子叔母さまを見ていて、そう思うようになったの。他の叔母さま方と違って、章子叔母さまは軍医として働いて、大勢の人をご自身の手で助けていらっしゃった。わたしは華族女学校を卒業したら、どこかの家にお嫁に行くのだろうけれど、お嫁に行く前……ううん、お嫁に行った後も、自分の手で人を助けるような仕事をしたいの」
と、熱っぽい口調で私に話す。希宮さまはこの9月で華族女学校初等中等科第2級……私の時代風に言うと、中学2年生になるのだけれど、既に将来のことをある程度考えていることに私は感心した。
「自分の手で人を助ける仕事ね……。いろいろな仕事が該当すると思うけれど、どんな仕事をしたいなんて、考えたことはあるのかしら?」
すると、
「薬剤師……なんていいのかな、と思っているのですけれど……」
希宮さまは私の問いに、意外な答えを返した。
「それはどうして?」
穏やかな調子で私が尋ねると、
「先月、わたしが夏風邪を引いたの、叔母さまは覚えていらっしゃる?」
希宮さまは私に確認する。
「覚えているわ。普段元気なあなたが体調を崩したから、みんな大騒ぎだったじゃない」
希宮さまが夏風邪を引いてしまったのは、私が兄とお母様の策略で葉山に行った翌日のことだ。幸い、5日ほどで完治したので、関係者は全員胸を撫でおろした。そんなことを思い出していると、
「あの時、迪兄上がお見舞いに来てくださったのだけれど、わたしが処方された薬の内容を見て、それに含まれている植物のことをいろいろと教えてくれたの。“桂皮はシナニッケイの樹皮のことだよ”とか、“小荳蔲は、実を健胃剤として使うんだ。熱帯地方が原産だから、僕は見たことがない”とか」
希宮さまは私にこう言った。
「へぇ、迪宮さまは、やっぱり植物のことに詳しいわね」
「はい。普段、一緒にお散歩をしている時も、わたしに植物のことをいろいろ教えてくれます。薬効のある植物のことも。それで、わたし、薬のことが面白く思えてきたの」
私に希宮さまは嬉しそうに教えてくれる。迪宮さまは植物の観察が好きで、休日には植物図鑑を持って赤坂離宮の庭園を散歩する。そんな時、迪宮さまのそばには希宮さまがいることが多く、迪宮さまが希宮さまに植物のことをいろいろ教えている様子を目にする機会もある。
「だから、薬のことを扱う仕事に就けば、自分の興味のあることで人を助けることができると思ったの。それで迪兄上に相談したら、“薬剤師という職業があるらしい。ただ、どうやってなればいいかは分からないから、梨花叔母さまに聞けばいいのではないかな”と言われたから、叔母さまに相談することにしたのよ」
「……うん、事情はよく分かったわ。ありがとう」
私は可愛らしい姪っ子に頷いた。残念ながら、薬剤師免許の取り方については、おおざっぱなことしか覚えていないけれど、分からないことは後で調べて伝えることにしよう。私は姿勢を正すと、
「薬剤師になるためには、3つの方法があるの。まず1つ目は、帝国大学医科大学の薬学科に入学することね」
希宮さまに説明を始めた。
「て、帝国大学?」
「うん。薬学科を卒業すると、自動的に薬剤師の免許がもらえるわ」
「帝国大学って、多喜子叔母さまが通っていらっしゃる一高より、上の学校ですよね……」
あっけにとられたような表情で呟く希宮さまに、
「しかし、時には敢えて難関に挑むことも必要でございますぞ」
希宮さまの後ろに控えている乃木さんが進言する。
「分かっているわ、乃木。ただ、大学に通っていたら、すごく時間が掛かると思っただけよ」
希宮さまは振り向いて乃木さんに答えてから、また私の方に顔を向け、
「叔母さま、あと2つ、薬剤師になる方法があるのでしょう?」
と私に確認する。
「ええ。2つ目は、高等学校の薬学科に入学する方法ね。これも、卒業と同時に薬剤師の免許がもらえるわ。そして3つ目は、帝国大学にも高等学校にも通わずに、薬剤師試験に合格すること。その気になれば今からでも受けられるけれど、希宮さまの今の学力だととても歯が立たないわ」
この時代、医術開業試験をパスすれば、学歴不問で医師免許が取れるのと同じように、薬剤師試験をパスすれば、学歴不問で薬剤師免許を取ることができる。ただ、出される問題は中学校や女学校で習う知識が全てなければ解けないし、医術開業試験と同じように実地試験もある。中学校や女学校を卒業した後、私立の薬学校に通って知識と実技を身につけて薬剤師試験に臨むのが一般的だけれど、独学で知識を身につけて薬剤師試験に合格する人もいない訳ではない。
「そうなのですね……」
そう言いながら何度も頷く希宮さまに、
「希宮さま、もしよければ、薬剤師の先生に話を聞いてみない?」
私はこう言ってみた。
「薬剤師の先生に?」
「うん。実はね、叔母さまも、薬剤師にどうやってなるかについては、これ以上の情報がないのよ」
首を傾げた姪っ子に、私は苦笑しながら言った。
「それなら、実際に薬剤師になっている人に話を聞く方がいいわ。それに、もしかしたら、実際に仕事をしている様子も見せてくれるかもしれないしね」
侍医の先生方が書いた処方箋は、宮内省に所属している薬剤師が調剤することになっている。そのため、今回の兄一家の沼津行きにも、侍医の先生方と一緒に薬剤師の先生が供奉しているのだ。
「山縣さんに話を通さないといけないから、実際に話を聞けるのは何日か後になると思うけれど、それまで待っていてもらえる?」
私の問いに「もちろんよ!」と上機嫌で答えた希宮さまは、
「ありがとう、叔母さま。やっぱり、叔母さまに相談して良かったわ」
と私に笑顔で言ってくれたのだった。
1917(大正2)年8月10日金曜日午前10時30分、沼津御用邸。
「ねぇ、兄上」
今日やるべき仕事を終えた後、2人きりになったタイミングを見計らい、私は書斎の大きな机の前に座っている兄に声を掛けた。
「ん?」
ゆったりとした動作でこちらを向いた兄に、
「希宮さまが宮内省の薬剤師の先生方に会う話、どうなったか知ってる?」
と私は尋ねた。希宮さまの相談を受けた翌日、兄と宮内大臣の山縣さんにその件をお願いしたのだけれど、その後の展開を聞いていなかったのだ。
「ああ、昨日、お前が大山大将の別邸に戻った後で会ったようだぞ」
兄は私に答えると微笑した。「侍医の詰所の横に、薬剤の保管場所や調剤室があるだろう。そこにも入らせてもらって、仕事の様子も見せてもらえたらしい。昨日の夕食の後で感想を聞いたら、“将来たくさん勉強して、薬剤師として人を助けたい”と俺と節子に答えてくれたよ」
「おお、そりゃあ良かった」
私は兄に笑顔で応じた。「ということは、皇族で初めての薬剤師誕生を目指して、私も協力しないといけないわね。どのルートで薬剤師になるかは分からないけれど、希宮さまの希望を聞いた上で、学習カリキュラムを作成して……」
「流石に早すぎるのではないか?」
意気込む私をたしなめると、兄は顔に苦笑いを浮かべる。
「確かに、珠子は“薬剤師になりたい”と言ったが、この先、他にやりたいことが見つかる可能性もあるだろう」
「そうね、まだ13歳だものね、希宮さまは。上の学校に進学するまでに、進路希望が変わることも十分にあり得るわ」
「ああ。だが、将来、宮中に閉じこもるのではなく、自分の手で人を助けるような仕事をしたいという気持ちは強くあるようだ。だから、珠子は将来、医療に関係する職業に就くのではないかと俺は思っているよ」
「私という先例があるからね。まぁ、私の場合、医者を目指した理由が特殊だから、希宮さまと一緒にはできないけれど」
私は軽くため息をつくと、
「でも、嬉しいなぁ。知っている後輩が、私と同じ医療分野に進んでくれるのは。私、希宮さまの先輩として、これからもしっかり頑張らないとね」
と言って微笑した。
すると、
「医療分野に進むと言えば……あの少年はどうなったのだ?」
兄が突然、私にこんな質問を投げた。
「あの少年……?」
「ほら、お前が目を掛けている、名古屋の少年だ。お前の前世の曽祖父と同じ名前の」
とっさに思い出せない私に、兄は少しいらだったように言う。
「その少年の、医師になりたいという夢を叶えるために、ベルツ医学育英会を設立しただろう。その少年が中学に進学したのが5年前だったはずだから、そろそろ、中学卒業の時期だと思ってな」
「よく覚えているわね……」
名古屋の半井君のことを兄に話したのは、5年前が最後だと思う。少なくとも、私が外遊から戻ってきてからは一度も話したことがないはずだ。流石、兄の記憶力は良いと思っていると、
「で、どうなった?高等学校に進学したのか?それとも、高等学校には入らず、お前と同じように医術開業試験合格を目指すのか?」
兄は興味津々と言った様子で私に再び聞いた。
「……半井君はね、私の完璧な後輩になるの」
少しもったいぶりながら、私は兄に言った。
「ん?」
「東京を出る直前に、大山さんのところに半井君から手紙が届いたの。彼はね、先月、名古屋の第八高等学校の医学部の入学試験に合格したわ。それでね、軍医委託生の選抜試験にも合格したの」
「何っ?!」
「高等学校を卒業して医師免許を取ったら、半井君は軍医学校に進学して軍医になるわ。だから、私の完璧な後輩になると言ったの」
「そうか!」
兄が嬉しそうに叫んだ。
「良かったなぁ。もちろん、お前は合否の結果に口出しをしていないだろう?」
「当たり前じゃない。目を掛けていると言っても、そこは自分の実力でつかみ取ってもらわないといけないからね」
私は兄に胸を張って答えると、
「半井君と同期のベルツ医学育英会の奨学生たちも、全員、高等学校の医学部に入学できたみたい。だからほっとしたわ。ちゃんと、後進を育てられたんだな、と思って」
と付け加えて微笑した。
「後進を育てる……とても大切なことだな」
兄はそう言って、穏やかな瞳で私を見つめた。「俺もお前も、梨花会の面々やお父様に育てられた。今後は俺たちも、後進を育てていかなければならないな。日本の将来を担う人材を……」
「そうだね」
私が頷いた時、書斎のドアがノックされた。扉が開くと、水兵服を着た兄夫婦の末っ子・倫宮興仁さまが立っている。彼の後ろには節子さまと、輔導主任を務める西郷さん、そして大山さんがいた。
「お父様、お暇でしたら、一緒に散歩をしませんか?」
無邪気に誘う倫宮さまに、
「構わないが、興仁の兄上たちや姉上はどうした?誘ってやらないのか?」
と、兄は優しく尋ねる。
「みんな、もう玄関に出ておりますわ」
倫宮さまの代わりに節子さまが答えた。「ですから、私たちが代表でお誘いに参りましたの」
「そうか。では、俺たちも行こうか。章子、お前も来い」
そう言うと兄はすぐに椅子から立ち、玄関に向かって歩いていく。倫宮さまと手をつなぎ、嬉しそうに歩く兄の背中を、私も慌てて追ったのだった。




