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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第61章 1917(大正2)年冬至~1917(大正2)年小満
525/803

招かざる客(2)

 1917(大正2)年5月25日金曜日午前11時30分、東京・新橋駅。

「梨花さん?」

 新橋駅のプラットホームに立つ私は、隣に立っている夫・栽仁(たねひと)殿下に、小さな声で呼び掛けられた。

「何?」

 私が視線だけ夫に向けると、

「あのさ、いくらチャーチルさんが来るから、と言っても、ここまで警戒しなくてもいいんじゃないかな?今の梨花さん、身体から殺気が出て……もうちょっと、穏やかにならなきゃ」

海兵中尉の紺色の礼装をまとった夫は、なだめるような調子で私に言った。

「でも、相手が相手だからさぁ……」

 私は唇を尖らせた。「議論を吹っ掛けられたら、勝てる気が全然しないもの。もし、私がチャーチルさんとの議論に負けたら、国際連盟の設立が難しくなるんじゃないかと思うと……」

 すると、

「大丈夫だよ」

栽仁殿下が私の右手を優しく握った。

「もし、向こうが無礼な言動を取ったら、僕が止める。それに、米内(よない)少佐どのも一緒なんだ。万が一のことがあったら、彼も梨花さんのことを守る」

「それは……わかっているけれど……」

(だからって、この新橋駅で、日の高いうちから酒盛りをさせる訳にもいかないしなぁ……)

 私が後ろを振り返り、栽仁殿下のお付き武官・米内光政(みつまさ)海兵少佐の姿を確認した時、汽笛がプラットホームに響き渡った。あれよあれよという間に、イギリス代表を乗せた特別列車はこちらに近づき、プラットホームに入線した。

『おお……素晴らしい光景だ!』

 そう言いながら、黒いフロックコートを着た初老のイギリス人男性が、特別列車の一等車から降りてくる。鼻の下に蓄えた口ひげが印象的な彼の名はデビッド・ロイド・ジョージ。イギリスの大蔵大臣を長年務めている人物である。また、1890(明治23)年の初当選以来、庶民院に議席を持ち続けているベテラン国会議員でもあった。

『ええ、とても素晴らしいことですな。東京に到着してすぐに、我々と親睦を深めた方々とこうして出会えるとは』

 ロイド・ジョージ大蔵大臣の後ろから、チャーチル海軍大臣も姿を見せる。ふてぶてしい態度なのは、イギリスで出会った時と変わらない。

(いや、あんたらがリクエストしたからでしょう……)

 私はロイド・ジョージさんとチャーチルさんに、心の中でツッコんだ。

 当初、今回の一連の国際会議において、各国代表が新橋駅に到着した際は、閣僚の誰かが出迎えることになっていた。ところが、イギリスから、“栽仁王殿下と章子内親王殿下に、是非とも新橋駅でお出迎えいただきたい”という強い要望があった。他の国からの要望なら、丁重にお断りするのだけれど、相手は同盟国のイギリスである。なので、リクエストに応じざるを得なかったのだ。

『お久しぶりでございます。栽仁王殿下も、章子内親王殿下も、お元気そうで何よりです』

 上機嫌であいさつするロイド・ジョージさんに、

『こちらこそ。僕たちの貴国への訪問から1年も経たないうちに、またこうして閣下とお目にかかることになるとは思ってもおりませんでした』

栽仁殿下は英語で事務的にあいさつを返す。私も夫に倣い、ロイド・ジョージさん、続けてチャーチルさんと英語であいさつをして、握手を交わした。

『講和会議は、大成功だったそうで』

 上気した顔で話しかけてきたロイド・ジョージ大蔵大臣に、

『はい。各国のご協力もございまして、無事に終えることができました。貴国のご理解と並々ならぬご支援、誠にありがとうございました』

私はリップサービスも込みで、一応お礼を言っておいた。

 オスマン帝国とブルガリア公国の講和会議は、昨日24日、無事に終了して、講和条約が結ばれた。講和条約の内容は、オスマン帝国がブルガリア公国の独立を認めること、そして、ブルガリア公国はオスマン帝国に50万英ポンドの賠償金を支払うことだった。

 本当は、ブルガリアからの賠償金は、もっと多くてもよかったのかもしれない。しかし、現在のブルガリアの状態がそれを躊躇させた。前ブルガリア公・フェルディナントが、己の欲望のためにドイツの皇族を殺害しようとしたという情報は、ヨーロッパ全体に広がり、ブルガリアに対する印象を悪化させていた。ヨーロッパ各国では、ブルガリアに投下していた資本を引き上げる動きが出ている。特にドイツは、今まで密かに提供していた軍事費を返せとブルガリアに要求しているらしい。その総額は、ブルガリアの国家予算の5年分以上という莫大なものだ。このため、急激な国内経済の悪化からブルガリアが財政破綻する懸念が出てきた。財政破綻をきっかけに、ブルガリア国内の利権が列強各国、特にドイツとイギリスに漁られることになれば、今度はブルガリア問題をきっかけに世界大戦が発生してしまう。なので、賠償金の額は、経済苦境に陥りつつあるブルガリアでも支払いが可能な金額に設定した。

 そんなことを思い出していると、

『それより、国際連盟構想ですよ』

ロイド・ジョージさんの横から、チャーチルさんが私に笑顔を向けた。

『横浜に船が到着する直前、船内新聞で拝見しましたが、実に素晴らしい構想だ。もしこのような世界的な組織ができるのであれば、世界で紛争が発生する頻度は確実に減り、世界大戦が起こる危険性も少なくなるでしょう。いずれ、内大臣殿下と、この国際連盟構想について、ゆっくりお話をしたいものですが……』

 チャーチルさんの言葉に、私が身構えた瞬間、

『チャーチル君、仕事の話は後だ。まず彼を探さなければ』

ロイド・ジョージ大蔵大臣が不思議なことを言う。それを聞いたチャーチルさんは『そうでした』と応じると、栽仁殿下に身体を向け直し、

『恐れながら栽仁王殿下、米内君はおりますか?』

と尋ねた。

『僕のお付き武官の米内ならば、後ろにおりますが……』

 栽仁殿下は訝しげな表情を作ると、米内さんを手招きする。米内さんがこちらにやって来ると、チャーチルさんとロイド・ジョージさんは米内さんのそばに素早く動き、

『おー、米内君!』

『やはりいたか!』

2人で彼を挟み、なれなれしく米内さんの肩を叩いた。『は、はぁ……』と戸惑ったように頷く米内さんに、

『君に会える日を待っていた!君と再び酒を酌み交わすために、私は日本にやって来たようなものだ!』

チャーチルさんは信じがたい言葉を放った。

(は?)

『早速宿舎に入って一緒に飲もう!日本にも、うまい酒はあるのだろう?!』

『もし足りなかったら、イギリス大使館から上等のウィスキーを持ってこさせるぞ!』

 呆然とする私と栽仁殿下の前で、チャーチルさんとロイド・ジョージさんはとても楽しそうに話している。そして、そのまま米内さんを引っ張って駅舎の外へと出ようとした。

『閣下!』

『一杯やるには、まだ早いですよ!』

 通訳さんや護衛官など、イギリス代表の随行員たちが慌ててロイド・ジョージさんとチャーチルさんを止めに掛かる。

『おお、そうだったな』

『すまんすまん、久しぶりの再会に、心躍ってしまって』

 そう言いながらイギリスの大臣2人は、随行員たちに連れられ、決められた位置へと引きずられるように歩いていく。その姿はまるで、居酒屋で酔っ払って羽目を外し、部下たちに慌てて止められる私の時代の上司を思わせた。

(大丈夫なの……?この人たち、大丈夫なの?)

 流石に、日本に到着するという大事な日に、朝から飲んでいたということはないと信じたいけれど、この様子ではそれも怪しい。それとも、これは日本側を戸惑わせる芝居なのだろうか。……よく分からないけれど、せめて、会議の本番や、皇居に参内する時には、シラフでいて欲しいと、私は心から願わずにいられなかったのだった。


 1917(大正2)年5月26日土曜日午後2時50分、赤坂離宮の大食堂。

「なるほど。イギリスからやって来たのは、2人の酔っ払いだった、と……」

 臨時に開催された梨花会の席上。私と大山さんから、イギリス代表団が新橋駅に到着した時の様子を聞いた陸奥さんは、そう言ってニヤリと笑った。

「いや、単なる酔っ払いではないと思いますよ、陸奥さん」

 私が陸奥さんに反論して、ため息をついた。「昨日の夜、実際に米内さんがイギリス代表の宿舎に呼ばれて、あの2人と夜通し飲みました。今朝、米内さんが盛岡町に来てくれたので、“何か有用な情報が得られたか”と訊きましたけれど、収穫は無かったということでした。チャーチルさんとロイド・ジョージさんが酔っぱらって、機密を漏らしてくれないかと期待していたのですけれど」

「ふむ、流石、我が国と同じく、諜報機関を有する国の閣僚ですね。情報漏洩には十分に気を付けているという訳ですか」

 陸奥さんがそう言って顎を撫でた時、

「……ここは、俺の出番のようですね」

参謀本部長の斎藤さんが、とても嬉しそうな表情で立ち上がった。

「アメリカにいた頃、毎日1ダースの瓶ビールを飲んで鍛えたこの身体、まだまだ衰えてはいないつもりです。米内に代わって、俺がチャーチルとロイド・ジョージをベロンベロンに酔わせて、イギリスの機密情報を聞きだ……」

「ダメだぞ、(まこと)!」

「それはダメです、斎藤さん!」

 斎藤さんの言葉に、後藤さんと私の怒鳴り声が重なった。

「実!一体、どれほど講義してやれば、大量飲酒の害が分かるのだ!今日の梨花会が終わったら、アルコールの害について、またたっぷりと教え込まなければならないようだな!」

「後藤さん、私も協力します。なんなら、“二度と酒を飲むな”という令旨も出しますよ」

 憤慨する後藤さんに、私が力強く言ったその時、私の感覚に嫌なものが引っ掛かった。私の隣に座る大山さんが、殺気を放っているのだ。彼の視線の先には、枢密院議長の黒田さんが座っていた。

「……言われずとも、酒は飲みませんよ。内府殿下に酒は飲まぬと誓った身ですから」

 あきれたようにこう言った黒田さんに、

「ああ、分かってはいるのだが、念には念を入れんとな」

東宮御学問所総裁の伊藤さんが冷たい言葉を突きつける。梨花会の古参メンバーたちが伊藤さんの言葉に一斉に頷いた。

「……そう言えば、私が国際連盟構想のことを話してから数日経ちましたけれど、各国からの評判はどうですか?」

 流石に、このままずっとアルコールの話をしている訳にはいかない。話題を変える必要性を感じた私が問いを投げると、

「はい、かなり好意的です。特に、海軍を保有している国には非常に歓迎されています」

末席にいる外務省取調局長の幣原さんがこう答えた。

「!」

「うむ。日本が誇る才色兼備の内府殿下のご提案、反対する国などあるまいて」

 嬉しそうに頷いている伊藤さんに、

「……他にも理由はございまして」

大蔵大臣の高橋さんが右手を挙げながら言った。

「海軍を持つ国は、各国とも、金銭的にかなり無理をして海軍の整備をしている状況なのです」

「そんなに無理をしています?」

 私は首を傾げた。「確か、イギリスの昨年度の決算では、軍事費は30%余り……ドイツも似たような数字だったと思います。国債費も多くなっている訳ではないですし、無理をして海軍を整えている印象がないのですけれど……」

「そこは、ちょっとしたからくりがありまして」

 私の質問に、高橋さんは怒ることなく、穏やかな表情で説明を始めた。「イギリスの場合ですと、軍艦購入のために、イギリス連邦の国々から寄付を募っています。その寄付金で軍艦を建造した場合は、かかった金銭はイギリス政府の収入にも支出にも含めないのです。また、オーストラリアやニュージーランドなど、イギリス連邦の他の国に配備する戦艦は、その国の政府が軍艦を注文し、購入したという形を取ります。その場合も、イギリス政府の会計には、軍艦の建造費は含まれません。このようにして軍事費を少なく見せ、議会による賛成を得やすくする……ロイド・ジョージ大蔵大臣は、この点に相当腐心しているようです」

(うわぁ……)

「ドイツも似たような方法で、軍事費を見かけ上少なくしようとしております。つまり、イギリスとドイツの建艦競争は、両国に莫大な財政負担を強いているのです」

 高橋さんの説明に、私は両肩を落としてうなだれた。各国の状況と財政資料から、各国の内情を上手く読み取ることができなかったからだ。

「恐らく、フランスも似たような状況です」

 高橋さんに続いて、国軍大臣の山本権兵衛さんが言った。「フランス海軍は、ロシアの海上防衛もある程度担わなければならないため、軍艦を多数建造していますが、その財力にはそろそろ限界がきております。英・独・仏の3か国の建艦競争に煽られ、オーストリア、イタリア、ギリシャ、そしてオスマン帝国も、“ドレッドノート”並みかそれ以上の能力を持つ戦艦を建造しようとしていますが、掛かる費用の余りの多さに、戦艦の建造中止や、建造できても国家財政に深刻な影響が出るなどの事態が出現しています。国際連盟が設立され、軍拡の動きが止まるのであれば、各国、特に大蔵大臣は大歓迎でしょう」

「要するに、各国とも、意味のない意地の張り合いを続けているのですよ」

 陸奥さんがニヤリと笑った。「そんな時に出てきた国際連盟構想……現実のものとなる可能性は十分にあります。イギリス・ドイツ・フランスのどこかが言い出したのであれば警戒されるでしょうが、建艦競争にさほど熱心ではない我が国が言い出したとなれば、警戒感は薄れます。各国の理性ある人々、特に財政に関わる人間にとっては、国際連盟構想は是非とも実現させたいものでしょう」

「陸奥さん、質問してもいいでしょうか?」

「何なりと」

「理性が無い人間が支配している国は、国際連盟構想の話に乗って来るでしょうか?例えば、ドイツとか」

 挙手した私が陸奥さんに尋ねると、

「おや、皇帝(カイザー)を制御できる世界でただ1人のお方が何をおっしゃいますか」

彼は平然とこう答えた。「もし、皇帝(カイザー)があくまで軍拡をすると言うならば、内府殿下が皇帝(カイザー)に軍拡をやめるよう、電報か手紙を出せばよろしいのです。さすれば、ドイツは軍拡をやめるでしょう」

(いや、ティルピッツさんもいるから、そんなに上手くはいかないんじゃ……)

 そう思った瞬間、陸奥さんが私をギロリと睨む。彼の瞳の奥には、なぜか鬼火がちらついていた。……どうやら、国際連盟は、私が心の平和を犠牲にすれば、成立する可能性が高くなるようだ。それを悟った私は、大きなため息をついたのだった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 更新ありがとうございます。 [一言] 会に入ってないとはいえ、米内は大丈夫? 終戦のゴタゴタもあったろうけど、晩年は心臓が背中にくっつくくらい酷かったらしいけど。
[一言] 狸親父or大虎 どっちなんでしょうね、こいつら(失礼)。まあ確実に狸親父の方なんでしょうが。 ブルガリア やはり、フェルディナント氏の悪行は知れ渡ってしまっったか… とばっちりを受ける形とな…
[良い点] 更新お疲れ様です。 [一言] 新年あけましておめでとうございます。 ん〜。 「親会社の設備投資を子会社が負担する」って感じですかね。 子会社で資産計上するので親会社の負担はゼロ! なんて…
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