招かざる客(1)
1917(大正2)年5月21日月曜日午前11時30分、赤坂離宮。
「おい、章子」
明後日・23日から浜離宮で開催されるオスマン帝国とブルガリア公国との講和会議。その会議に出席するアメリカの代表団たちの引見を終え、謁見の間から出た兄に付き従う私に、兄が振り向いて声を掛けた。
「何でしょうか、あにう……じゃない、陛下」
ぼーっとしていたので、呼び方を間違えてしまった。訂正を入れた私に、兄は踵を返して近寄り、
「お前、顔に血の気が無いぞ。身体の具合が悪いのではないか?」
心配そうに尋ねると私の右手を取った。
「体調が悪いのなら、午後の仕事は大山大将に任せて早退しろ。明日は各国の代表団を招いての昼食会があるし、明後日からいよいよ講和会議が始まるし……」
「いや、あの、陛下、ちょっと待っ……」
「こんな大事な時に、お前に倒れられてしまっては、俺は講和会議どころではなくなってしまう。いや、我が国の今後にとって、大切な会議であることは分かっているのだが、お前が重病になってしまったとしたら……」
戸惑う私に向かって、兄は真剣な表情で語り続ける。その仮定の余りの荒唐無稽さに、
「いや、だから、私、喋り過ぎて疲れただけよっ!アメリカだけじゃなくて、オスマン帝国とブルガリアの代表にも、清とロシアの代表にも、朝一番から立て続けに国際連盟のことを喋ったから疲れたの!休めば治るから、放っておいてよ、兄上!」
私は思わず、敬語を使うことも忘れて、兄に全力でツッコんでしまった。
「……なら、安心した」
私の礼を失した言葉に怒ることなく、兄はにっこり笑って頷く。私と同じく、兄に付き従っていた宮内大臣の山縣さんと内大臣秘書官長の大山さんはクスクス笑い、侍従長の奥保鞏さんと侍従武官長の島村速雄さん、その他、侍従さんや宮内省の職員さんたちも笑い声を上げていた。
「では、さっさと執務室に戻ろうか。章子、ついてこい」
兄は私の手を離すと、執務室に向かってスタスタ歩き始める。私は慌てて後を追い、兄に続いて兄の執務室に入った。私の後に大山さんと山縣さんが執務室に入ると、兄は侍従さんに人払いを命じた。
「さて、これで、引見は全て終わったわけだが……」
全員が椅子に座ると、兄はそれぞれに視線を投げ、最後に私と目を合わせた。
「梨花は5か国の代表団それぞれに国際連盟構想の話をした時、どう感じた?」
「そうねぇ……」
兄の質問に、私は両腕を組むと、今朝からのことを記憶から引っ張り出した。
「ブルガリアは、何のことを話されたか理解できてない感じだったわね。それはオスマン帝国の代表もそうだった。オスマン帝国の代表には、今回の狙い、一応理解して欲しかったのだけれど……」
「それは仕方がないことでしょう、内府殿下」
山縣さんが私を横からなだめた。「彼らの意識を、和平交渉や外債返済のことから、将来の世界情勢のことへと向けるには、少し時間が掛かるでしょう。ただ、彼らの滞在先は、内府殿下の義理のお父上であらせられる有栖川宮殿下のご本邸です。他国の代表団に怪しまれずに、内府殿下がオスマン帝国の代表団と接触する機会も作れます。その際に、彼らと話し合えばよいのです」
「なるほど……じゃあ、そうしますか」
義父・威仁親王殿下には、万智子たちを1日おきに霞ヶ関の本邸に遊びに来させるように……と言われている。万智子たちに私がつきそう形を取れば、オスマン帝国の代表団にはいくらでも接触できるだろう。私は山縣さんに頷いてみせた。
「他の3か国……清・ロシア・アメリカについてはどうだ?」
「一番反応が良かったのは清ね」
兄の問いに即答すると、私はお茶を一口飲んだ。「梁啓超さん、“必ず我が皇帝陛下も賛成なさるでしょう!”と叫び始めたから、私の方が戸惑った。正式に国としての態度が決まっていないのに、あんな風に答えるのはよくないわ。アメリカのランシングさんとロシアのローゼンさんのように、無表情を貫くのがベストだと思う」
「今までの経緯から考えると、清は間違いなく、国際連盟構想に賛成するでしょう」
大山さんが私の言葉に付け加えた。「朝鮮の統治に手を焼いている清は、可能なら外国に対する防備に割いている兵も朝鮮に振り分け、統治を完全なものにしたいと考えているようです。アメリカも、大統領が梨花さまに心酔している以上、国際連盟構想に賛成すると思われます」
すると、
「しかし、ロシアはどう出るか分からないな」
兄が呟くように言う。「特に、マカロフ大将だ。梨花に不穏な目を向けていた」
「そうなのよねぇ……」
私は大きなため息をついた。
国際会議の代表は1人か2人だけれど、その代表には、外務官僚や通訳、護衛官などが本国から付き従ってくる。そのロシア代表・ローゼン外務大臣の随行員の1人に、ロシア帝国でただ1人の海軍大将である、ステパン・オーシポヴィチ・マカロフさんがいたのだ。もちろん、こちらは全く呼んでいないのにもかかわらず、である。
「軍人にとっては、不愉快よね。世界が平和になる話、というものは」
彼の前で、私は国際連盟構想の話を、世界平和を成し遂げるための話をした。もし、世界平和が成し遂げられたら、外敵が自国を襲う可能性も、自国が他国に侵略する可能性もゼロに近づく。そんな状態になれば、“軍など無くしてしまえ”と極端な主張をする政治家も現れるかもしれない。極端に言ってしまえば、世界平和は軍人の働く場を奪うことになるのだ。
「ロシアは極東戦争で多くの艦艇を失いました。国家財政が厳しいこともあり、海上防衛は同盟国であるフランスにかなりの部分を頼っている状況です。隣国であるドイツ海軍の脅威が軍縮により減れば、ロシアにとっては喜ぶべきことだと思いますが……」
山縣さんがこう述べた時、壁に掛かっている時計が12時の鐘を打った。昼休みの時間である。「いったん休憩にして、昼休みが終わったら話し合いを再開しよう」と兄は言うと、さっと椅子から立ち上がって廊下に出た。私たちも兄の言葉に反対する理由は無いので、各々の控え室へと歩き始めた。
大山さんを従えた私が、内大臣秘書官の控室の前を通りかかった時、
「内府殿下!」
控室から出てきた東條さんが私を呼んだ。
「先ほど、ロシア大使館から連絡がありまして、明日の午後7時半に、マカロフ海軍大将を盛岡町のお屋敷に行かせてもよろしいか、と尋ねてきたのですが……」
「……国際連盟のことを聞きたい、ということかしらね」
小さな声で言った私に、
「恐らく、そうでしょう」
と答えた大山さんは、「俺もその時、立ち合わせていただきます」と力強く言った。
「じゃあ大山さん、ついでだから、マカロフさんと会う前に、子供たちと一緒に晩御飯を食べない?子供たち、きっと喜んでくれるわ」
「ご相伴にあずかりましょう。……東條くん、ロシア大使館に、内府殿下が承知したと仰せになったと伝えてください」
大山さんの声に、東條さんが一礼して控室に引っ込む。控室のドアの向こうから声がするのは、早速電話でロシア大使館に連絡しようとしているのだろう。
「マカロフさんが、厳しい質問をしてこないといいね」
素直な気持ちを吐き出した私に、
「もしそうであっても、俺がお助け申し上げます。どうぞ、構え過ぎませんように」
大山さんは暖かく優しい目で私を見つめながら答えてくれたのだった。
1917(大正2)年5月22日火曜日午後7時30分、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮家盛岡町邸。
「ほら、見て、大山の爺。これ、有栖川のおじい様とおばあ様に教わって書いたんだよ」
盛岡町邸の居間。10日ぶりに大山さんと会えたことに大喜びした私の子供たちは、大山さんと一緒に夕食を食べた後、大山さんを居間に連れて行って取り囲んだ。居間の長椅子の中央に座らされた大山さんは、私と栽仁殿下の次男、3歳9か月になった禎仁に半紙を見せられている。半紙には、太い筆で大きく“一”の字が書かれていた。
「おお、これは元気なご手跡ですな」
左右を私と栽仁殿下の子供たちに挟まれた大山さんは、禎仁が書いた字を、目を細めて見つめた。
「天皇陛下が小学校に通われていた頃のご手跡によく似ています。その後、天皇陛下は書道のご修練を重ねられ、のびのびとした、王者の風格を漂わせる字をお書きになるようになりました。禎仁王殿下も、ご修練を重ねれば、きっと立派な字をお書きになれますよ」
大山さんが嬉しそうに言うと、
「ねぇ、爺、僕も練習すれば、立派な字が書けるようになるの?」
「私も?」
5歳になったばかりの長男・謙仁と、6歳4か月の長女・万智子が、大山さんに口々に尋ねる。
(可愛いなぁ……)
長椅子の端に座った私が、子供たちと大山さんの様子を眺めていると、廊下の方で足音がして、
「宮さま、ロシアのマカロフ海軍大将がいらっしゃいました」
私の乳母子の千夏さんが姿を現した。
「……わかった。千夏さん、マカロフさんを応接間にご案内して」
私に命じられた千夏さんが急いで居間から立ち去ると、
「ごめんね、万智子、謙仁、禎仁。さっきも言ったけれど、母上、これから伯父上の御用で、大山の爺と一緒にお客様に会わないといけないから、千夏さんが来たら、ここで一緒に遊んでいてちょうだい」
私は子供たちにこう言った。
「えー……」
不満そうに声を上げる末っ子の禎仁を、
「禎仁、わがままを言ってはダメよ。伯父上の御用は大事なの」
「姉上の言う通りだよ。我慢しなきゃ」
万智子と謙仁がなだめにかかる。
「ん……分かったよ」
渋々頷いた禎仁の頭をまず撫でて、次に謙仁と万智子の頭を撫でると、私は戻ってきた千夏さんの後ろについて、応接間へと向かった。
私が大山さんと一緒に応接間に入ると、軍服を着たマカロフさんが、座っていた椅子から立ち上がった。従卒や通訳らしき人はそばにいない。1人でこの盛岡町邸にやって来たようだ。
『これは内府殿下。突然のお願いを聞いていただき、ありがとうございます』
フランス語でお礼を言うマカロフさんに、
『とんでもありません。閣下は遠方からお越しいただいた大事なお客様です。それに、私がヨーロッパから日本に戻る時、閣下には大変お世話になりましたから』
私もフランス語で応じると、椅子を勧めた。
『閣下、私の秘書官の大山にそばにいてもらってもよろしいでしょうか。私、フランス語にはほとんど不自由しませんけれど、本当に込み入った表現は自信がありませんの。彼の方が私より、フランス語が得意ですから』
『もちろんですとも』
私のお願いに、マカロフさんは快く応じると、ちらりと大山さんの方を見て、
『それに、殿下よりも、大山殿に尋ねる方が、今回の一件についてはよく分かるかと思いますし』
と、気になることを言った。
『どういうことでしょうか?』
首を傾げた私に、
『昨日、内府殿下がおっしゃった、国際連盟構想についてですよ』
マカロフさんはこう言うと、身体を大山さんの方に向けた。
『一体、貴殿は何を企んでいるのか?』
『企んでいるとは、穏やかではありませんな』
鋭い視線を投げたマカロフさんに、大山さんは落ち着いて返答した。
『世界各国が国際連盟に集う。そこで国際協力と世界平和を推進していく。崇高ではありませんか。そのどこに、閣下のご心配なさるような企みがあるのですか?』
大山さんの質問には答えず、
『……今、ドイツは、イギリスに対抗して軍艦を盛んに建造している』
マカロフさんは低い声で言った。『そして、ドイツに対抗して、イギリスも海軍を増強している。我が国もドイツ海軍が強大になってきているため、フランスと協力して対応しているところだ。しかし、国際連盟の設立は、その軍拡の流れに反するものだ。だからこそ、こちらとしては、貴殿が何を企んでいるのか知りたい』
『なるほど……ではそれは、内府殿下にお答えいただく方がよろしいでしょう』
『何?』
眉をひそめたマカロフさんに、大山さんは、
『国際連盟構想を最初に言い出されたのは、内府殿下でございますから』
と答えると、私に優しくて、暖かい瞳を向ける。私は軽くため息をつくと、
『……閣下は海軍の方ですから、海軍を例にして説明しますけれど』
そう前置きをしてから話を始めた。
『閣下がおっしゃったように、今、イギリスとドイツは競い合うように戦艦を建造しています。すごい時には、1年間で7、8隻の戦艦が起工されている状況です。けれど、軍艦は建造するのに大金が掛かるというのは、閣下もご存じのことかと思います。もう20年以上も前になるでしょうか、日本は“富士”という戦艦を発注しました。今では古びた軍艦ですけれど、あれ1隻で、当時の日本の国家予算の8分の1ほどの値段がしました。子供の頃にそれを聞いて、とても驚いた記憶があります。そんなものが1年に何隻も起工したら、国家予算がいくらあっても足りません。各国が他国に侵略される不安を打ち消すために、競い合って軍艦を建造していけば、それだけで各国の財政は苦しくなるでしょう』
『……』
『それから、陸での戦闘に話を移しましょうか。今、世界各国の軍隊では、機関銃が続々と配備されています。大量に配備して弾幕を作れば、歩兵や騎兵の正面突撃を確実に防げます。特に、平原の多いヨーロッパ大陸では、機関銃を一列に並べて大量に配備すれば、敵の突撃を確実に防ぐ、何百kmにもわたる防衛線を築くことができるでしょう』
『何……?』
『実際に、欧州の各国間での戦争が発生した時に、そんな戦況が発生するかは分かりませんけれど、機関銃はどこかの場面で必ず使われます。確か、理論上、1分間で400発から500発の銃弾を発射できると聞きましたから、1時間連続で撃てば2万4千発から3万発……。まぁ、実際には、給弾の時間もありますから、発射速度が半分に落ちるとしても、1時間に1万2千発から1万5千発の銃弾を発射する計算になります。ただ、弾幕を作らないといけない時間が、一連の戦闘中、たったの1時間で終わるはずがありませんし、機関銃もたくさん配備されていますから、実際には1日で100万発以上の銃弾が消費されそうですね。戦争をすれば、1日でどのくらいのお金が飛んでいくことになるのかしら。その前に、1日に100万発以上の銃弾を製造する能力を持っている国があるか、怪しいですけれど』
『ま、待て……いや、待ってください!』
マカロフさんが目を見開いた。『それは、実際に戦争が起こったら、という話でしょう!確かに、各国ともに多数の兵器や軍艦を揃え、軍事力の大きさを見せつけてはいます。しかし、それは戦争を抑止するためです。軍事力の大きさを見せつけ、“実際に戦えばひどい目に遭う”と相手に分からせ、実際の戦争には持ち込まない……』
『肥大した軍事力は、国家財政に負担を掛けますよ』
私は冷たい口調でマカロフさんに言った。『ここまで軍事力が肥大化すれば、維持するだけで費用も莫大なものになります。例え新しく装備や軍艦を補充することが無くても、兵器には整備が必要ですし、兵卒には訓練が欠かせませんからね。このまま各国が軍拡を続ければ、国の財政が破綻して、国民が路頭に迷うことになるでしょう。軍が守るべき自国の国民が、軍によって傷つく結果になるのです。国際社会が冷静になり、軍拡を止めることができれば、貴国にとってもよい話になるのではないでしょうか?』
『……これは驚きました』
マカロフさんが嘆息し、大山さんを見た。
『まさか内府殿下がここまでおっしゃるとは。大変失礼した。貴殿の操り人形に過ぎないと思っていたのだが……』
『認識を改めていただいたようで何よりですな』
大山さんが声も無く笑った。『内府殿下は断じて、操り人形などという陳腐なものではございません。天皇陛下の輔弼をなさるお立場に就かれたのは、それだけの理由があるのです』
『なるほど。貴国の重鎮どもが、殿下を過剰なまでに崇めているのがよく分からなかったのだが……』
(そこはもっと言ってやっていいと思いますよ)
私が心の中でマカロフさんに応じた時、視界の隅で何かが動いた。応接間のドアがそっと開いたのだ。ドアと壁の隙間から覗く小さな目が、私の視線とぴったり合い……
「禎仁!」
私は椅子から立ち上がると、ドアを思いっきり開けた。こんなに早く見つかるとは思っていなかったのか、キョトンとしている次男坊を、私は抱き上げた。
「もう……どうしたの、禎仁。急に覗くから、母上、びっくりしたわ」
頭ごなしに子供を怒りたくはない。抱き上げたまま私が言うと、
「だって、母上と一緒にいたかったんだもん」
禎仁はしょげたようにこう答えた。
「もう少し待っていて、禎仁。今、お客様と大事なお話をしているところだからね」
私が真正面から禎仁を見つめて言い聞かせた時、
『わしはこれでお暇しましょう』
椅子から立ち上がったマカロフさんが、穏やかな調子で言った。
『お伺いしたかったことは、十分にお答えをいただきました。……そのお子様は、内府殿下のお子様ですか?』
『ええ、次男です』
私が答えると、マカロフさんは私に身体を近づける。そして、私が抱っこしている禎仁の顔を覗き込んだ。
『いい顔立ちだ。わしの話を立ち聞きするとは……いけない子ですが、将来、有望ですな』
不思議そうに自分を見つめる禎仁の頭を、マカロフさんは大きな手で撫でる。そして、私に一礼すると、玄関へと歩いて行った。




