閑話:1917(大正2)年小寒 ブルガリアの危険な年末
1917(大正2)年1月12日金曜日午後8時、ブルガリア公国の首都・ソフィア。
「……つまり、それで我が軍は、国境まで追い返されてしまったということか」
ブルガリア公・フェルディナントは、ブルガリア軍の実質的な最高司令官であるミハイル・サヴォフ将軍の報告を聞くと唇を噛んだ。サヴォフ将軍が報告していたのは、オスマン帝国領の北端に近い場所にある、クラトヴォの街の近郊で行われた大規模な会戦の結果である。
「オスマン帝国側は、我が国との国境近くにかなりの兵力を集めています」
明らかに機嫌を悪くしているブルガリア公に対し、サヴォフ将軍はあくまで冷静に報告を続けた。「その数はおよそ25万人……すべて近代化された部隊で、武器・弾薬の供給も十分に受けています」
「ヴィルヘルムのせいだ」
フェルディナントは忌々しげな声を漏らした。「ヴィルヘルムの奴、国際社会での体裁とやらを重んじ過ぎるのだ。武力によらずしてオスマン帝国の利権を漁ろうとするから、かえって我々の戦略の邪魔をしている」
「おっしゃる通りです」
サヴォフ将軍も、ブルガリア公の言葉に頷いた。「ドイツは、オスマン帝国が抱える債務の額を増やすため、多数の兵器を買わせましたが、それが我が国との国境近くに配備されています。オスマン帝国を弱らせるための策が、かえって我々を苦しめている……皮肉なものです」
「それが多少なりとも、他の地域に分散すれば、我々の勝利も見えてくるのだが」
そう言ってフェルディナントは顔をしかめる。「セルビアもモンテネグロもギリシャも、オスマン帝国に攻め込まないかという我々の誘いに全く乗ってこない」
フェルディナントが挙げた国は、バルカン半島でオスマン帝国と国境を接している国々……“史実”では、第1次バルカン戦争で、ブルガリアとともにオスマン帝国と戦った国々である。しかし、彼はそのことを知る由もない。
「やはり、国家の財政状況を理由に参戦を断ってきたのですか?」
「ああ。その実、オーストリアとイタリアの出方をうかがっているのだろうが……それにしても愚かな連中だ。オスマン帝国の軍が我が国との国境地帯に集中している今、出兵すれば簡単に新たな領土が手に入るというのに」
将軍の質問に、ブルガリア公は吐き捨てるように答えた。彼の額には、深い皺が刻まれている。
「オスマン帝国の意表を突くために、わざわざ、冬のこの時期に攻め込んだのに……。新年までに、コンスタンティノープルが陥落するのではなかったのか?!」
怒りをぶちまけたブルガリア公に、サヴォフ将軍は頭を下げた。このブルガリア公国では、日本で使われているグレゴリオ暦ではなく、ユリウス暦を使っている。従って、ブルガリア公国では、今日は1916年12月30日である。ユリウス暦のクリスマスが目前の時期には出兵しないとオスマン帝国は読んでいると見て、10日ほど前に独立宣言と宣戦布告、そしてオスマン帝国領への出兵を行ったブルガリア公だったが、ブルガリア軍は今やオスマン帝国に国境の外へ叩き出されそうになっていた。
「ドイツ軍が参戦してくれれば、この戦局をひっくり返せますが……」
そう言ったサヴォフ将軍に、
「そう、ドイツだ!近い将来に参戦すると我々に約束しておきながら、兵を動かす気配が全くない!」
フェルディナントは恐ろしい形相で叫んだ。そして、
「……こうなったら、ドイツ軍を、なんとしてでもバルカン半島に引きずり出してやる。己の手を汚さずにいられると思うな、ヴィルヘルム」
次の瞬間、ニヤリと、声も無く笑う。悪魔を思わせる笑みに、サヴォフ将軍の背筋がぞくりとした。
「将軍よ。清で袁世凱という重臣が暗殺されたのを覚えているか?」
「……余り」
動揺を気取られぬよう、サヴォフ将軍は頭を下げて答えた。「数年前に起こったのは記憶にありますが、それ以上は……」
叱責されるかと、サヴォフ将軍は緊張していたが、
「……袁世凱を暗殺したのは、朝鮮人だった」
意外にも、ブルガリア公の怒声は頭上に落ちてこなかった。
「袁世凱が殺されるまで、清では、朝鮮を属国としたまま支配するという方針を取っていた。朝鮮を清の領土にした場合、そこを支配するのに必要な人材が不足していたからだ。清の国民も、その方針を支持していた。しかし、朝鮮統監を務めていた袁世凱が朝鮮人に暗殺されると、清の国民は激昂し、朝鮮を即刻併合するべしという意見が大勢を占め、朝鮮は袁世凱の暗殺から半年も経たないうちに併合された。たった1人の人間の死が、世論を動かし、国を動かしたのだ。……さて、質問しよう、将軍。もし、ドイツの要人……大臣や皇族、そして皇帝が暗殺されてしまったら、ドイツの国民はどう思うかね?」
「そ、それは……」
サヴォフ将軍の顔から血の気が引いた。「危険過ぎます!我が国の人間がドイツの要人を殺したとなれば、ドイツ軍は、報復として我が国に……!」
すると、
「誰が、我が国民が下手人になると言った」
フェルディナントは呆れたように応じた。更に深く頭を下げた将軍に、
「捕まえたオスマン帝国の兵士か住民を、オスマン帝国の密命を受けて派遣された暗殺者に仕立て上げるのだ」
フェルディナントは計画を淡々と話す。
「別に暗殺が失敗しても構わない。オスマン帝国がドイツの要人を狙ったということが、世界中に喧伝されればそれでよい。さすれば、ドイツ国民は怒り狂い、我々と共にオスマン帝国に攻め込むだろう。ドイツ国民が怒らなくても、ヴィルヘルムが怒りさえすれば、ドイツ軍はオスマン帝国に攻撃をする」
「し、しかし……」
恐ろしい君主だ。その思いを何とか隠しながら、サヴォフ将軍は口を動かした。
「ドイツの国内で要人を狙えば、狙う前に阻止されるでしょう。そこまで上手く事が運ぶか……」
「ヴィルヘルムの次男が、スペインを訪問するらしい。あと20日ほど後だったかな」
ブルガリア公は将軍の懸念の言葉を無視し、淡々とした調子で続けた。
「スペインはドイツほど治安が良くはない。殺す機会には恵まれるだろう。例え暗殺できなくても、オスマン帝国の息が掛かった下手人を、さりげなくスペインの官憲に突き出してやればいいのだ。……将軍、大至急、適当な人間を選び出せ。そしてこう告げるのだ。暗殺に成功したら、残されているお前の家族に大金をくれてやる。暗殺に失敗しても、スペインの官憲に“オスマン帝国の命令で暗殺を試みた”と供述すれば、同じように家族に大金をくれてやる、とな」
「はっ……」
緊張する顔を隠すかのように、将軍は頭を下げ直した。そんな彼の頭の上で、
「ふふふ……ヴィルヘルムよ、己の欲するものは、己の鉄と血で購ってもらうぞ……」
ブルガリア公のくぐもった笑い声が響く。そして、この笑い声を聞いた者は、ブルガリア公と、彼の怯えた将軍以外にはいなかったのである。




