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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第60章 1916(明治49)年霜降~1916(大正元)年冬至
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閑話:1916(大正元)年冬至 御料車の乗客たち

※章タイトルを変更しました。

 1916(大正元)年12月23日土曜日、午前6時25分。

 1年の中で日照時間が最も短いこの冬至の日、静岡県の東部、富士山の広大な裾野には、まだ朝日の光は差し込んでいなかった。その暗い裾野に敷かれた東海道線の鉄路の上を、大きな黒い蒸気機関車が、前照灯(ヘッドライト)を輝かせ、煙を煙突から吐き出しながら西へとひた走っている。つい先ほど、沼津の駅を出発したこの蒸気機関車が牽引するのは、明治天皇の埋葬に立ち会うために京都・桃山の地へ向かう天皇・皇后の御召列車だった。

 その御召列車の中枢部、御料車(ごりょうしゃ)の中にある御座所(ござしょ)では、この列車が東京を発った午前2時過ぎから、密談が行われていた。参加しているのは天皇と皇后、そして天皇の妹で、内大臣を務めている章子内親王の3人だ。途中、列車の停車や参加者の休息により中断しながらも、密談は続けられ、

「……で、勅使の甘露寺(かんろじ)さんと、東宮御所に戻る希宮(まれのみや)さまを見送ってから葬場殿に向かったんだけど、葬列を避けて移動しないといけなかったから時間が掛かって……それで、兄上が拝礼する時間ギリギリに葬場殿に着いた、というわけよ」

ちょうど今、章子内親王が、長い長い報告を締めくくったところだった。

「なるほどな」

 幼いころから“絶世の美女”と騒がれている美しい妹に応じると、長椅子に座った天皇は笑みを溢した。

「お前が青山に来るのが遅かったから、乃木中将が自刃してしまったのかと案じていたのだ。しかし、そういう訳では無かったのだな」

「そりゃ私だって、一刻も早く青山に行きたかったよ。でも、新樹(しんじゅ)典侍(てんじ)に、“これから、勅使と皇后陛下の御使がいらっしゃると聞き及んでおります”と言われちゃったの。“その2人が到着するまでは乃木邸に残って顛末を見届けるように”と遠回しに言われたようなものだったから、乃木さんの家に残るしかなかったわ」

 兄に答えた章子内親王は、疲れ切った表情でため息をつく。

 東宮輔導主任兼皇子女輔導主任の乃木希典が、天皇の長女・希宮(まれのみや)珠子(たまこ)内親王に“自刃しない”と誓った直後、赤坂区新坂町にある乃木邸を、皇太后付きの女官である新樹典侍が訪問した。乃木に皇太后の令旨を届けるためにやって来た彼女は、長年皇太后に仕えてきた、皇太后付きの女官の筆頭格である。いくら“怖いものなし”と世上で囁かれる章子内親王であっても、嫡母に仕える新樹典侍の言葉を無視することはできない。内親王は、勅使と皇后の使いが乃木中将にそれぞれ勅語と令旨を渡したのを見届けてから、乃木邸を辞したのだった。

「“自刃せず、新しき世を見届けて天寿を全うし、その後先帝に任務の完了を報告せよ”……勅語も、お母様(おたたさま)節子(さだこ)さまの令旨も、判を押したように同じ文章だったけれど、あれは誰が考えたのかな?」

 章子内親王の質問に、天皇は「俺とお母様(おたたさま)だ」と静かに答えた。

「あの急場では、流石に3人が3人とも、違う文章を書く余裕は無かった。大山大将にせっつかれながら、急いで文章を考えた。お前と珠子が乃木中将を説得できなかった場合に備えたのだが……結局は必要なかったな」

「希宮さまが乃木さんを止められたからね。まぁ、今、落ち着いて考えてみたら、乃木さんが夕方に東宮御所に行った時、希宮さまだけに会わなかったのは、彼女に会ったら死ぬ決心が鈍ると思ったからじゃないか、と推測はできるのだけれど……」

「それはそうだ。珠子が最初に言うことができた言葉は“のぎ”だったからな。幼い頃の梨花を彷彿とさせる美少女に、涙ながらに迫られたら、乃木中将も自決の決意を翻さざるを得ないだろう」

「あんなに自分に懐いてくれる可愛い女の子が相手じゃ、ねぇ……」

 口の端に笑みを浮かべて兄に答えた章子内親王は、急に形のいい眉を歪め、

「それに引き換え、私は全然いいところがなかったなぁ……」

と言って両肩を落とした。

「おいおい、どうした。お前が“どろっぷきっく”とやらで迅速に乃木中将の部屋を開けたから、自刃を止められたのではないのか?」

 天皇がなだめるように問うと、

「だって、私、皇居を出る時、“梨花さまなら必ず乃木さんを止められます”と大山さんに言われて送り出されたのよ?」

憂鬱な表情の章子内親王はため息をついた。

「それなのに、私の力じゃ、乃木さんを止められなかった。大切な臣下の期待に応えられなかったのよ。それに、児玉さんから私に電話がかかってきた時も、大山さんがいろいろな所への連絡を全部やってくれて、勅語や令旨を乃木さんの家に届ける手配もしてくれて、おまけに私の代わりに葬列に加わってくれて……今回、私は全然役に立たなかった。あーあ、こんなんじゃ、“史実”と同じように、大山さんが内大臣をやる方がいいんじゃないかな……」

 最後は弱々しい声でぼやいた章子内親王に、

「馬鹿なことを言うものではないぞ、梨花」

天皇は彼女の前世の名を呼んで、微笑を向けた。

「いいか、大山大将は梨花の臣下なのだから、梨花のために動いているのだ。梨花が内大臣として俺に尽くしてくれるから、大山大将のすることは、結果としては俺のために、国家のためになっている。だが、もし梨花が俺に尽くしてくれていないのであれば、別の結果が待っていただろうよ」

「うーん、確かにそうかもしれないけどさぁ……」

 兄の言葉を聞いた章子内親王は、両腕を胸の前で組んで難しい顔をした。

「大山さんのやることが兄上のためになっているのは、私が大山さんと君臣の契りを結んだ時に、“私のそばで陛下と皇太子殿下に仕えて職責を全うせよ”って命じたからだと思うの。だから別に、私が内大臣じゃなくても、大山さんに“内大臣として天皇陛下に仕えよ”と私が命令すれば、大山さんは兄上に尽くすと思うけれど……」

 すると、

「その仮定は成り立たないな。俺の内大臣は梨花だけだ」

天皇はニヤリと不敵な笑みを見せた。

「えー……じゃあやっぱり、私が内大臣をするしかないのかぁ……」

 そう言って唇を尖らせた内親王に、

「ああ、そうだ。これからも内大臣として、大山大将の主君として頼むぞ、梨花」

天皇は穏やかな視線を向けた。

「主君……主君ね……」

 天皇の視線を受けた章子内親王は、黒曜石のように輝く瞳で虚空を見つめた。

「希宮さまも、主君になったのね、乃木さんの……。あの時の私と同じように……」

「そういうことになるな」

 美しい妹の呟きに、天皇は軽く頷きながら答えた。「俺はお前と大山大将が君臣の契りを結んだ時のことを、伊藤総裁と山縣大臣から聞いて知ったが……あの時の梨花も、昨夜の珠子も、大切な人間を必死にこの世に繋ぎ止めようとして、君臣の契りを結んだのだな。……梨花、主君の先輩として、珠子にいろいろ教えてやってくれ。主君としての振る舞い方とか、臣下との接し方とか……」

「それは、それぞれの主君と臣下によって違うと思う。私の場合、今でも臣下にしてやられてばかりだから、希宮さまの参考にはならないよ」

 兄に答えた章子内親王は、顔に苦笑いを浮かべる。幼いころから、彼女は臣下であるはずの大山秘書官長に、様々な形で課題を与えられ、上医になるための修業を重ねてきた。その過酷な日々のことを思い出したのだ。

「それに、主君としての振る舞い方なら、希宮さまの方が私よりできているよ。私は前世で平民として生きた記憶がある突然変異種だけど、希宮さまは生まれながらのお姫様だから」

 章子内親王が、昨夜の乃木邸での光景を思い返しながら天皇に言ったその時、

「……どこが、生まれながらのお姫様なのですか」

御座所の中に、天皇でも章子内親王でもない人の声が響いた。天皇の隣で、今まで黙って兄妹の話を聞いていた皇后である。漆黒の通常礼装(ローブ・モンタント)に身を包んだ彼女の表情筋は強張っていた。

「東宮御所から自転車で飛び出して、警備の者たちを自転車で振り切って、たまたま開いていた皇居の通用門を突破して、おまけに、宮殿の中を走り回るなんて……」

「あー、節子……」

 天皇は困惑した表情で皇后に声をかけた。「その……言いたいことは分かるのだが、結果として、乃木中将が自決を思いとどまったし、自転車で御所を飛び出すのも、皇太子だったころには俺もたまにやったし、珠子のことを、少し大目に見てやっても……」

「それはそうなんですけれど!」

 “凛々しくて美しい”と外国の大使たちから評される皇后は、涙の溜まった眼で天皇を睨みつけた。

「せめて……せめて、もう少し、お転婆ではない、女の子らしいやり方はできなかったのだろうか、と……」

 そう嘆いた皇后は、両腕で頭を抱えてうつむいてしまう。

「ああ、どうしましょう。珠子がお転婆なまま成長してしまったら……。私たちから頼んでも、宮家や華族から、珠子の縁組を断られてしまうかも……」

「いや、それは大丈夫じゃない?希宮さまは美少女で可愛いし、それに、私も皇族におびえられていたけれど、無事に結婚できたし……」

 章子内親王が冷静に兄嫁をなだめると、

「梨花お姉さまの場合とは違うのですよ!」

皇后は章子内親王に全力で抗議し始めた。

「梨花お姉さまには、栽仁(たねひと)さまという相思相愛の殿方がいらっしゃったではないですか!梨花お姉さまが、廃帝ニコライの魔の手から逃れるために、軍医になるという修羅の道を歩まれることになっても、栽仁さまは一途に梨花お姉さまのことを想い続けられて……」

「あ、あの、ちょっと待って、節子さま……」

 頬を紅くした章子内親王は、やや目を伏せながらも皇后に反論した。

「そ、その……私と栽仁殿下の気持ちが通じ合ったのは、婚約が内定した次の日で……だから、私が軍医になったばかりのころから、栽仁殿下と相思相愛だったというのは、その……ちょっと違うと思うのだけれど……」

「でも、お姉さま、栽仁さまのお気持ちに気づいていらっしゃらない時でも、栽仁さまのことは憎からず思われていたのでしょ?!」

「に、……憎からず、というか、いい弟分だとは、思っていたけれど……」

「弟分?!弟分だなんて、栽仁さまがかわいそうじゃありませんか!」

「いや、だって、栽仁殿下、私より年下だし、それに、私、栽仁殿下は、昌子(まさこ)さまたちのうちの誰かと結婚すると、思っていたから……」

 自他ともに“奥手”と認める章子内親王は、時々言葉に詰まりながらも、何とか皇后に反論を続ける。そっぽを向き、両頬を紅く染めた彼女は、ほとんど泣き出しそうになっていた。

「確かにそうかもしれませんけれど、お姉さま。栽仁さまは中等科に通われているころも、酔いつぶれたお姉さまを抱きかかえて……」

「節子、節子、そのくらいにしておけ」

 更に声高に主張を続ける皇后の肩を、天皇がそっと叩いた。「話が外れているぞ。梨花をからかうのは楽しいのだが、節子は珠子のことを話していたのではないのか?」

「そ、そうでした……」

 皇后は長椅子に座り直すと軽く咳払いをして、

「と、とにかく、母親としては、珠子の将来が心配なのです!」

と、大きな声で言った。

「将来ねぇ……」

 ようやく、苦手分野の話題から解放された章子内親王が、両腕を組んだ。「なるようになる、としか言いようがないわよ。ただ、希宮さま、昔の私みたいに、結婚は絶対あり得ない、なんて考えている訳じゃない。乃木さんに、“お嫁に行って、子供を生んで、子供を育てているのも全部見てほしい”……って言っていたから、自分が将来結婚するということは考えているんじゃないかな?まぁ、結婚までに何かしたいことがあるか、という話になると、そこは分からないけれど……」

「そうだな。多喜子(たきこ)のように、高等学校に進学したいと言い始めるかもしれない」

 内親王の言葉に、天皇は自分の末の妹の名前を挙げて同意する。「余りに無茶なことを言いださなければ、珠子の希望に反対はしない。ただ、望むものは、己の力だけで勝ち取ってほしいが……」

 呟くように言った天皇は、不意に顔を妹の方に向けると、

「ところで梨花、確認しておくが」

と真面目な口調で尋ねた。

「珠子は、乃木中将と君臣の契りを結ぶ時、他に何か命じていたか?」

 すると、

「“わたしに仕えなさい”と、“二度と死のうとするな”とは言っていたのよね……」

章子内親王は両腕を組んだまま、眉根にしわを寄せた。「あと、“おじじ様の代わりにわたしを見ていて”とは言っていたのだけれど……」

「お前が大山大将に命じたように、“天皇と皇太子に仕えよ”とは命じなかったのだな……」

「うん……」

 章子内親王は頷くと、大きなため息をついた。

「勅語を受け取った時も、節子さまとお母様(おたたさま)の令旨を受け取った時も、乃木さんの様子、いつもと違っていたのよね。前なら、勅語や令旨を受け取る時は、誰よりも恐縮していたのだけれど、恐縮の仕方が、人並みのレベルに落ち着いた感じがして……」

「ふむ」

「勅語や令旨を受け取った時も、すぐに返事はしなかったの。希宮さまに、“ほら、お父様(おもうさま)もこう言っていらっしゃるから、わたしの命令に従って”と言われて、しぶしぶ頷いた感じで……だから、乃木さんが、兄上の命令に従うのは、今後期待できないんじゃないかなぁ。“ご主君のお父様”ということで、乃木さんに敬われはするだろうけれど」

「あり得ますね」

 皇后も眉をひそめ、ため息をついた。「乃木閣下の性格を考えると、嘉仁(よしひと)さまのご命令に従う気が余りしません。乃木閣下に裕仁(ひろひと)の輔導主任をしていただくには、どうしたらいいでしょうか?」

「希宮さまに命じてもらえばいいんじゃないの?」

「それでも乃木中将が従わなかったらどうする?」

迪宮(みちのみや)さまの輔導主任は空席にして、乃木さんを“東宮御用掛”に任命して、輔導主任の仕事をさせるしかないんじゃない?」

「お姉さま、裕仁はそれでいいかもしれませんが、雍仁(やすひと)尚仁(なおひと)興仁(おきひと)はどうするのですか?あの子たちの輔導主任を空席にするわけにはいきませんし……」

「そうなんだよねぇ……うまい方法が思いつかないから、これ、東京に戻ったら山縣さんたちと検討しないと……」

 富士山の裾野を西へ向かって走る御召列車の背後からは、夜明けの光が、じわりじわりと暗い天球へと伸びていく。もう間もなく、澄み切った大気の中に太陽も躍り出て、一日の始まりを高らかに告げるだろう。そんな夜明け前のひと時、御料車の乗客たちは、長い前夜の出来事の後始末を付けるため、必死に知恵を絞っていたのだった。

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[一言] どろっぷきっく あーあ、これは完璧に大山さん(以外からも?)から、教育的指導が入る流れだなあ。 節子さま あなたも幼いころは『黒姫』の異名をお持ちだったのでは? 血は争えないと言う事です。 …
[気になる点] もう教えることがないといっている人に、むりやり輔導主任をさせるのはどうなんだろう
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