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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第59章 1916(明治49)年大暑~1916(明治49)年霜降
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敦賀、東京、そして……(1)

※曜日ミスを修正しました。(2022年10月23日)

 1916(明治49)年11月6日月曜日、午前7時10分。

「近藤先生……」

 東京に向かって走り始めた特別列車。人払いをしてもらった一等車で、私は東京帝国大学医科大学外科学教授の近藤(こんどう)次繁(つぎしげ)先生と向かい合っていた。

「はい」

 頭を垂れた近藤先生は、暗い声で私に応じる。そんな彼に、

「この……お父様(おもうさま)の診療録に書いてあることは、本当なのでしょうか?」

私は手に持った“極秘”と書かれた大きな封筒から、お父様(おもうさま)の診療録の写しを取り出しながら尋ねた。

「“筑摩”の百武(ひゃくたけ)艦長から、お父様(おもうさま)の診療録の写しをいただきました。その末尾に、侍医の先生方の他に、三浦先生と近藤先生のお名前がありました。……本当に、お父様(おもうさま)に、ここに記載されているような診察所見と検査所見があったのですか?」

「残念ながら……真実でございます」

 頭を垂れたまま、近藤先生は暗い声で答えた。

「では、食欲不振と倦怠感も、腹部触診時の苦悶様表情も、両側の腋窩リンパ節と鼠径リンパ節の腫脹も、空腹時血糖値の若干の上昇も、胸部エックス線検査での両側の肺門リンパ節の腫脹も、両側下肺野の結節影と浸潤影も、全部……全部、本当なのですか?」

「はい。まことに、恐れ多きことですが……」

 下を向いたままの近藤先生の顔が、歪んだ気配がした。

(そんな……!)

 目を見開いた私に、

「……天皇陛下のおそばに仕える方々や皇后陛下が、天皇陛下のご体調が優れないのではないかと疑われたのは、今から2か月ほど前、9月上旬のことだったそうです」

近藤先生は、微かに震える声で説明を始めた。

「お食事を召し上がる量が、若干少なくなった。お歩きになる速さが、少しだけ遅くなった……その程度の軽微なご変化だったとのことです。もちろん、皇后陛下と宮内大臣の山縣閣下は、“ご体調が悪いのではないか”と天皇陛下にご質問になったのですが、天皇陛下はそのたびに“そのようなことはない”と明確に否定され、食事を多くお摂りになったり、速くお歩きになったりなさいました。侍医の先生方の毎日の診察の際も、痛みを訴えられたり、ご苦悶の表情をお見せになったりすることはありませんでした。ですから、皆、天皇陛下はご健康であらせられると信じていたのです」

「……」

「10月21日、今から15日ほど前のことでございます。午前のご政務が一段落ついた時、天皇陛下は侍従たちに、表御座所から出て、人払いをするように命じられました。……山縣閣下から伺いましたが、天皇陛下は表御座所で、人払いをして和歌をお詠みになることがあるそうですね。ですからその時も、和歌をお詠みになるのだろうと侍従の方々は考えたそうです。……ところが、午前のご政務の終わりの時間になっても、天皇陛下が奥にお戻りになる気配がございませんでした。そこにたまたま、皇太子殿下と皇太子妃殿下がご参内になられました。侍従たちから事情をお聞きになった皇太子殿下は、“それはおかしい”と仰せになり、御自ら表御座所にお入りになったそうです。すると、天皇陛下が床にうずくまって苦しまれておられた、と……」

 その時の表御座所の様子を、私は脳裏に描いてみた。兄と節子(さだこ)さまは、その翌日から行われる予定だった南九州への行啓の出発報告をするために参内したのだろう。そして、持ち前の鋭い勘で、お父様(おもうさま)の身に何かが起こっていることを察知した兄が、表御座所に踏み込み、苦しんでいるお父様(おもうさま)を助け起こした。ひょっとしたら、お父様(おもうさま)の侍従たちが制止したのを、兄は無理やり振り切ったのかもしれない。

「……その日の午後、私は三浦先生と一緒に急遽参内いたしました。そして、侍医の先生方とともに、翌日にかけ、皇居の医療棟で、天皇陛下の検査を行いました。胃のエックス線検査は、天皇陛下のご苦悶甚だしいため施行できませんでしたが、5月の健康診断で行った他の検査は全て施行いたしました。胸部のエックス線検査では、妃殿下が仰せになったような所見が認められました。血液像と便の血色素検査では異常がなかったことを考えると……」

お父様(おもうさま)は膵臓のガン……それも、閉塞性黄疸を来たしやすい膵頭部ではなく、膵体部か膵尾部に発生したガンになった可能性が高い、ということですか……」

 私は近藤先生の言おうとした結論を先回りして口にすると、歯を食いしばった。

 膵臓ガン。医療が進んだ私の時代でも、予後が非常に悪い病気の1つである。その予後の悪さは、膵臓ガンが、発見された時に既に進行していることが多いことが影響している。

 もちろん、ガンが進行する前に発見できれば、膵臓ガンも治る可能性は高くなる。けれど、膵臓という臓器は、非常に病気が見つけにくい臓器なのだ。

 膵臓は、胃や十二指腸に囲まれた、腹腔内の奥にある。身体の表面から膵臓の触診や打診をしようとしても、胃や腸はもちろん、脾臓や腎臓、様々な筋肉や骨が膵臓の邪魔をする。だから、一般的に、膵臓の触診や打診は出来ないのだ。私の時代のようなCTやMRIなど画像検査ができれば、膵臓ガンを早期に見つけることも可能ではあるけれど、それでも、ガンを見つけた時には既に進行していることが多い。まして、そのような検査ができないこの時代では、膵臓ガンを早期に見つけることは不可能だ。

「エックス線検査で肺に認めた結節影は、膵臓ガンの転移巣ですよね……」

 低い声で尋ねた私に、

「そのように考えます。それさえなければ、原発巣に対する手術も考えられなくはないですが……」

近藤先生は悔しそうに答えた。

「私の時代でも、この状態では手術はできません……しかも、私の時代のような抗ガン剤も無い。お父様(おもうさま)を治療する手立ては無い、ということですね……」

「はい。もし、手術で治る病気でしたら、私も勇を奮って、天皇陛下の手術を執刀しておりましたが……」

 絞り出すような私の確認の言葉に、近藤先生はうつむいたまま応じると、右の拳で自分の膝を叩いた。

「悔しい……悔しいっ!日本一の外科医たれ、と……妃殿下の御不在中でも、天皇陛下の手術が滞りなく執刀できるようにと、必死に磨いてきたこの手技が、天皇陛下のお役に立つことなく終わってしまうとは……!」

 涙混じりの近藤先生の咆哮を聞きながら、私も両方の手を握り締めて下を向いていた。

 ……私も、近藤先生と同じなのだ。兄とお父様(おもうさま)を、医者として助けたい。その一心で、私は小さい頃から努力を続け、今生でも医者になった。それなのに、お父様(おもうさま)は、私の時代の医学でも完治が難しい病気にかかり、どんな名医でもどうすることもできない容態に陥ってしまった。私が外遊せずに、東京にずっといたとしても、お父様(おもうさま)を医者として助けることはできなかっただろう。

「……22日に諸検査が終わった段階で、皇后陛下と皇太子殿下と山縣閣下に、検査結果と我々の診断とを報告いたしました。その直後、皇太子殿下と山縣閣下が、政府の高官の方々とも協議なさって、妃殿下の御一行にご帰国を命じる至急(ウナ)電を出されました」

 私たちにお父様(おもうさま)に関する第一報がもたらされるまでの事情を、近藤先生はこんな言葉で締めくくった。私は黙ったまま、頭の中と、自分の気持ちとを落ち着けることに専念していた。

「近藤先生……お父様(おもうさま)はまだ、生きていますか……?」

 私がようやく近藤先生に聞けたのは、私の両眼からあふれた涙が、軍服の胸元をぐしょぐしょに濡らした後だった。

「……私が東京を出立したのは昨日の朝ですが、その時は、天皇陛下の意識はご明瞭でございました」

 私に答える近藤先生の声は、意外にも落ち着いていた。

「しかし、ご容態は、日に日に、急速に悪くなっております。腹部を触診させていただいた時のご苦悶は、次第に激しくなっています。初めは触れなかった鼠径と腋窩のリンパ節が、10月27日以降は触れるようになり、大きくなってきております。倦怠感は増強し、ご食欲も無く、水分をお摂りになるのも嫌がられますので、最低限の水分補給をしていただく意味合いで、点滴を行っております。ですが……いつ急変しても、おかしくない状態です」

 私は両眼を閉じた。膵臓ガンであるにしても、病状の進行がかなり速いように思うけれど、近藤先生たちの見立ては正しいだろう。

お父様(おもうさま)に……痛みはありますか?」

 膵臓ガンは、腹部の消化管を包み込んでいる“腹膜”という膜や、その周辺にある神経を侵すことが多い。その場合、痛みが生じることが多いのだ。けれど、お父様(おもうさま)の診療録には、“ご苦悶の表情”という記載はあったけれど、お父様(おもうさま)が“痛い”“苦しい”などの言葉を発したという文章は見当たらなかったのだ。

 すると、

「お痛みは……あるのだろうと思うのです。実際、鎮痛剤を点滴から投与させていただくと、お顔がしばし和らぎますから」

近藤先生は、私が思いも寄らないことを言った。

「しかし、天皇陛下は、お顔をゆがめられても、絶対に“痛い”“苦しい”とは仰せにならないのです。こちらから、“お痛みはありませんか”とお尋ね申し上げても、“痛いとはどういうことか”と仰せになるだけで……」

「……!」

――帝王たる者、“痛い”とは言わぬものだ。

 5月の健康診断の時、お父様(おもうさま)が私に言った言葉が耳の奥に蘇った。……お父様(おもうさま)は、苦痛に必死に耐えているに違いない。けれど、自分の信念に、お父様(おもうさま)は忠実に従っているのだ。その身体を、死の床に横たえながらも……。

「もしかすると、皇后陛下や山縣閣下が、天皇陛下のご体調の悪化を疑われたころから、天皇陛下は人知れず、ご苦痛に耐えていらっしゃったのかもしれません。しかし、“痛い”とは、ついに仰せにならなかった。もし、“痛い”とさえ、一言おっしゃっていただければ、もう少し早く、天皇陛下の治療に取り掛かれたかもしれませんが……」

「……それでも、手術ができなかった可能性は高かったと思います」

 悔しそうに言う近藤先生に、私は冷静に指摘した。「その時点で、ガンが腹膜に転移していた可能性は高い。腹膜に転移があれば、手術はできません。開腹しても、手術ができないくらい悪くなっていると分かって、何も処置をしないで閉腹したという結果に終わっていたと思います。それに……お父様(おもうさま)は、痛くても、絶対に“痛い”とは言わない人です。だから、先生の仮定自体が成り立ちません」

 近藤先生が、私に向かって深く頭を下げる。彼の頭をぼんやり見つめながら、私は悲しみとやるせなさで心がいっぱいになっていくのを感じていた。


「……それでは、皆様に、天皇陛下のご病状につきまして、ご説明申し上げます」

 1916(明治49)年11月6月曜日。近藤先生が、特別列車の貴賓車で、私たち全員に向けて説明を始めたのは、私と近藤先生が、一等車に西郷医務局長を呼び入れて協議した後……正午を過ぎた頃だった。事前の打ち合わせの結果、説明は、お父様(おもうさま)が体調を崩してから、お父様(おもうさま)をずっと診察していた近藤先生が行い、私と西郷医務局長は、近藤先生の説明を補足することになった。けれど、近藤先生の説明には、補足しなければならないところは全く無く、私と西郷医務局長も、他の面々と同じように、近藤先生の説明を黙って聞いていた。

「……よく分かりました」

 近藤先生の長い、それでも分かりやすい説明が終わると、私の弟・鞍馬宮(くらまのみや)輝仁(てるひと)さまが、近藤先生に一礼した。

「要するに、お父様(おもうさま)は、今の医学では、早く発見することも、治療することも難しい病気にかかってしまった、ということですね」

「……おっしゃる通りでございます」

 近藤先生が輝仁さまに最敬礼した。

「それで、もう、何が起こってもおかしくない……。俺たちがこうしている間にも、お父様(おもうさま)の意識が無くなったり……」

 そこまで言って、輝仁さまの口が動かなくなる。それ以上の、最悪の事態が起こることは承知していると思うけれど、言いたくないのだろう。……私だって言いたくない。そのまま、貴賓車は、沈黙に包まれた。

「もし、我々が新橋に到着する前に……天皇陛下のご容態に変化があった場合は、何らかの連絡がこちらに入るのでしょうか?」

 重苦しい雰囲気を破り、近藤先生の話を聞いた全員がしたかったであろう質問をしたのは、山本航空大尉だった。

「その手はずとなっております」

 近藤先生が低い声で答えた。「1時間ほど前、名古屋で補給のために停車した時には、連絡はありませんでした。次は、浜松で停車すると聞いておりますが……」

「新橋に着くまで連絡が入らないことを、祈るしかないわね……」

 私はうつむいたまま呟くと、両方の拳を握り締めた。「もちろん、覚悟はしているけれど、少しだけでもいいから、お父様(おもうさま)と話がしたい。小さいころから、こういう時に役に立ちたいと思って、ずっと努力してきたのに、何の役にも立たなくて、申し訳ありません、って、お父様(おもうさま)に、お詫びしなきゃ……」

 手のひらの肉に、爪の先が食い込む。痛いけれど、この程度の痛みは受け入れなければならない。お父様(おもうさま)は、もっと激しい苦痛に耐えているのだから。そう思って、力任せに手を握り締め続けていると、手の上に、ぬくもりがふわっと覆いかぶさった。この手は……栽仁(たねひと)殿下の手だ。

「自分を責めてはいけないよ、章子さん」

 固く握り締めた私の両手の指を、夫は優しくほどいていった。「章子さんが、医師として、天皇陛下にできることが、完全に無くなってしまったかどうかは、まだ分からないんだ。東京に、……天皇陛下のおそばに行くまでは、まだ……」

「……」

「だから、いたずらに自分を傷つけてはいけないよ。章子さんが、医師としての力を発揮する時のためにも……」

 私の背中に、後ろからぴったりと身体をつけた栽仁殿下は、私の手のひらを開くと、閉じる隙を与えずに、自分の手のひらを重ね合わせた。自分を激しく罵倒しようとしていた私の心の声は、夫のぬくもりで消え去った。行き場を失った思いは涙に変換され、私は声を上げずに泣き続けた。

 浜松、静岡、沼津、山北……東へ向かう特別列車は、補給のために停車する。何か知らせを持ってくる人間はいないかと怯えながら、私は列車が停まるたびに、プラットホームの様子を窺った。幸いなことに、私が恐れていた展開になることはなく、特別列車は午後8時過ぎ、無事に新橋駅に到着した。

 新橋駅には、鞍馬宮家から差し回された自動車3台と、私と栽仁殿下の自宅である盛岡町邸から川野さんが運転してきた自動車が待機していた。川野さんとは、約3か月ぶりの再会だ。こんな状況でなければ、霞ヶ関本邸の義両親の様子、それから、留守を捨松さんと一緒に守ってくれた子供たちの様子を川野さんに確かめたかったけれど、とにかく、今はお父様(おもうさま)の容態が一番大事だ。「御重態であることに変わりはないということです」という返事を川野さんからもらうと、私と栽仁殿下は自動車の後部座席に、大山さんは助手席に乗り込み、我が家の自動車は輝仁さまの乗った自動車の後ろについて、皇居へと動き始めた。

 自動車の車列は北上して、日比谷公園の横を通り、宮城(きゅうじょう)前の広場に近づいていく。堀端の道に出たところで、窓の外を眺めていた大山さんが、

「これは……!」

とうめくように言った。

 堀にかかった橋を渡れば、宮城前の広場だ。広場に敷かれた大通りの両脇には、アーク燈が立ち並んでいる。その明かりが照らし出しているのは、広場を埋めた群衆だった。直立不動の姿勢で、あるいは最敬礼をしたり地面に正座したりして、彼らはみんな皇居の方を向いている。お父様(おもうさま)の回復を祈ってくれているのは、すぐに分かった。

 と、

有栖川宮(ありすがわのみや)家のご紋だ!」

自動車の窓の外から、こんな叫び声が聞こえた。私たちが今乗っている自動車は、公式の外出の時にも使うので、扉に有栖川宮家の紋を描いている。それが、群衆の目を引いたようだ。

「有栖川宮家のご紋……軍医殿下か?!」

「軍医殿下が、ドイツから戻られたのか?!」

 叫びはどんどん増幅し、窓の外に大きく反響していく。大通りの両側に、人々が殺到するのが分かった。

「軍医殿下!」

「軍医殿下が戻られた!」

「これで、天皇陛下も大丈夫だ!」

「どうか、天皇陛下をお助けください!」

 大通りの両側から、縋るようなたくさんの視線が、無遠慮に私の身体を突き刺した。集まった人々の目……そのどれもが、お父様(おもうさま)の回復を願う気持ちに溢れ、希望を私に託している。

(ごめんなさい……。もう、無理なんだ。もう……)

 握り締めようとした私の手を、隣に座った栽仁殿下が取り、指と指とを絡め合わせた。

 車列は坂下門から、宮城の中へと入っていった。

※拙作の世界線の列車がここまで停車する必要があるかについては考察をしていません。ご了承ください。

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― 新着の感想 ―
[一言] 奇しくも、昭和帝と同じ疾病でしたか。 よりによって最も症状の出ない癌とは。 せめて最後の会話だけはしっかりした意識のある状態でしてほしいところ。
[一言] 更新お疲れ様です。 今上陛下の病状・・・・(><) 作中でも章子が愕然としているように現代医学でも予後が大分悪いモノですね。 うちの叔母も数年前になって今は元気という事ですが、たまに心配に…
[気になる点] 複数箇所の癌腫瘍は、覚悟したほうがよろしいですね。 [一言] 梨花様、自分を責めないでください。貴方様は、史実よりも明治天皇を長生きさせましたし、貴方様が上医を目指していけたのは、陛下…
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