ロシア(1)
1916(明治49)年10月24日水曜日午後4時45分。
「どう、梨花さん?少しは眠れた?」
ドイツの首都・ベルリンから日本海に面した新イスラエル共和国の首都・ウラジオストックに向かってひた走る特別列車は、既にロシア帝国の領内に入っている。その特別列車の貴賓室のベッドの上で私が目を覚ますと、ベッドの端に腰かけた栽仁殿下が私の顔を覗き込んで尋ねた。
「うん……」
身体を起こすと、私は乱れた寝間着の襟を直した。「頭もすっきりした。ありがとう、栽さん、寝るように言ってくれて」
「気にしないで、梨花さん。梨花さんの役に立てたみたいでよかった」
夫はそう言って、私に微笑みを向ける。ベルリンでの最後の夜から、どうしてもお父様のことをあれこれと考えてしまって寝不足になっていた私に、仮眠を取るように強く勧めてくれたのは彼だった。仮眠している間に、お父様の体調に関する新しい情報が入るかもしれないので、仮眠するかどうするか迷ったのだけれど、“もし何かあったらすぐに起こすから”という栽仁殿下の言葉もあったので、思い切って寝ることにしたのである。
「東京から、何か新しい情報は入ってきたかしら?」
私の質問に、栽仁殿下は黙って首を横に振った。
「そっか……」
私はうなだれた。私たちがシベリア鉄道経由で帰国することは、東京の宮内省にはもちろん伝えてある。だから、もし宮内大臣の山縣さんが、移動している私たちに情報を伝えようとするならば、私たちが通過するシベリア鉄道の駅に電報を打ってくれるだろう。
「“重態”という第1報から、新しい情報はまだ来ていない、ということね……」
私は大きく両肩を落とした。「私の時代だったら、飛行器を使えば、とっくに日本に到着しているのに……。もどかしいな……私が日本を離れている時に、私が絶対に日本にいないといけない事態が起こるなんて……」
うなだれたまま呟き続ける私の右手を、栽仁殿下がそっと握ってくれた。
「何が起こっているのかしら、お父様の身体に……。お父様、ちゃんと治療を受けているかな……。もし、お父様がわがままを言って、侍医の先生方の治療を拒否していたら……。侍医の先生方がしきたりを超えられなくて、お父様に侵襲的な治療ができないでいたら……」
「それは心配ないと思うよ」
栽仁殿下が正面から私の目を見つめた。「近藤先生は、皇太子殿下と皇太子妃殿下の御渡欧に付き従って、皇太子殿下の創を縫合したじゃない。それに、5月の天皇陛下と皇后陛下の健康診断にも参加している。三浦先生も5月の健康診断に参加しているし、ノーベル賞を受賞した世界的な医学者なんだ。近藤先生と三浦先生なら、きっとしきたりを乗り越えられるよ。宮中の職員たちが何か文句を言っても、山縣閣下や伊藤閣下が抑えてくれるだろうし。……大丈夫だよ、梨花さん。梨花さんが思い描いている最善の治療は、きっとできているよ」
「うん……」
私は首を縦に振った。栽仁殿下の声には、普段のそれと比べると、硬さが混じっている。彼も私と同じように、この事態に激しく動揺しているのだろう。けれど、そんな中でも、栽仁殿下は私の心の負担を少しでも軽くしようとしてくれている。栽仁殿下の心遣いが、私にはとてもありがたかった。
と、貴賓室のドアが外からノックされた。「若宮殿下、妃殿下、よろしいでしょうか」という大山さんの声も聞こえる。栽仁殿下が「どうぞ」と応じると、黒いフロックコートに身を包んだ大山さんが、ドアを開けて入ってきた。
「大山さん、東京から何か情報が入って来たの?」
「いえ、そうではないのですが……」
私の質問に、大山さんは首を左右に振ると、
「ロシア政府から、少し妙な申し入れがありました」
と私たちに告げた。
「妙な申し入れ?」
あの大山さんが“妙な”と表現する申し入れとは、一体どんな内容なのだろうか。身構えた私に、
「皇帝が、殿下方に会見を申し込んで参りました」
大山さんはこう言った。
「はぁ?!」
「何だって……?!」
私と栽仁殿下は同時に叫んだ。
「私たちに、サンクトペテルブルクまで来いというの?!今、そんなところまで行く余裕は無いわ!」
私は右の眉を跳ね上げた。ロシア帝国の首都・サンクトペテルブルクは、広大なロシア帝国領の北西、バルト海に面した街だ。私たちを乗せた特別列車が走っているシベリア鉄道の線路より、何百kmも北に位置している。私たちが今いる位置からサンクトペテルブルクまで往復すれば、丸一日は掛かってしまうだろう。
ところが、
「いえ、先方は、モスクワで殿下方と会見したいと言ってきました」
大山さんは、私が思ってもみなかったことを告げた。「この列車は、この先、モスクワで諸々の補給を受けることになっております。皇帝はサンクトペテルブルクから、ウィッテ総理大臣とローゼン外務大臣を引き連れてモスクワに赴き、この列車で殿下方と会見する……そう申し出てきております」
この特別列車を牽引しているのは蒸気機関車だ。だから、列車は時々停車して、石炭と水の補給を受けなければならない。その、モスクワでの補給停車の時に、皇帝は私たちと会見したい……どうやら、そういうことらしい。
「確か、この列車は、“フランスの実業家がシベリアと新イスラエル共和国の視察のために仕立てた特別列車”……ロシア国内では、そう偽装されていると聞きましたが、皇帝陛下が僕たちに会おうとなさったら、列車に僕たちが乗っていることが露見してしまうのではないでしょうか。それが心配です」
一方、私の隣で大山さんの話を聞いていた栽仁殿下はこう指摘した。この特別列車は、ロシアの同盟国であるフランスの実業家が乗っていると偽装している。ロシア側もこの特別列車が偽装をする件は了承しているはずだけれど、皇帝が実業家に会いにわざわざ出向くというのは不自然だ。その不自然さから偽装が暴かれ、私たちの身に危険が迫る可能性がある。
すると、
「先方は、“地方視察”という態を装って、モスクワに行くとのこと。既にサンクトペテルブルクを出発しているそうです」
大山さんは栽仁殿下の疑問にこう答えた。「モスクワには、クレムリン宮殿がございます。殿下方と会見した後、そこに数日滞在して、実際に地方視察をする……そのように聞き及びました」
「なるほど、それなら……」
納得したように頷いた栽仁殿下の隣で、
(一体、皇帝は何を考えているのかしら……)
私は今回の会見で、ロシア側が何を目的としているのかを考えていた。
日本とロシアは、かつて極東戦争で干戈を交えたけれど、今は国交も回復している。8月に行われた皇帝の結婚式には、閑院宮載仁親王殿下が出席するなど、皇族同士の交流も復活していた。
けれど、相手が私……“皇帝に道を誤らせた魔女”となれば、話は変わって来るだろう。ミハイル2世は、自分の兄の理性を狂わせた女性に、なぜわざわざ会いに来るのか……私にはさっぱり分からなかった。
「……東京の外務省からは、この件に関しての指示は何かある?皇帝とは会え、とか、先方の要求は突っぱねろ、とか……」
大山さんに確認してみると、
「先ほど停車した時に、東京からの連絡を受け取りました。“是非お会いいただきますように”ということでして……」
彼からは、こんな答えが返ってきた。
「……となると、わざわざサンクトペテルブルクから出てきた皇帝には会わないといけないわね。会うのを断ったら、日本は無礼者だと相手に非難されちゃう」
私は顔をしかめた。皇帝には会いたくないけれど、外務省が“会って欲しい”と言うのならば諦めて会うしかない。
「モスクワにこの列車が到着するのは、明日未明の予定です。お疲れであることは重々承知しておりますが、どうか、会見に備えていただきますようにお願いします」
大山さんはここまで言うと、私と栽仁殿下に向かって深々と頭を下げ、
「若宮殿下と梨花さま、そして鞍馬宮殿下の御身は必ずお守りし、無事に東京に送り届けます」
と、強い決意を感じさせる声で付け加えた。
「僕もだよ、梨花さん」
栽仁殿下も、私とつないでいた手に力を込めた。「皇帝陛下が、何を考えているか分からない。だけど、何があっても、僕は梨花さんのことを全力で守るからね」
「ありがとう。大山さんも、栽さんも」
私は頼もしい臣下と頼もしい夫にお礼を言った。
「とにかく、この会見、無事に切り抜けられるように努力しよう」
私の言葉に、大山さんと栽仁殿下は、力強く頷いた。
1916(明治49)年10月25日午前1時、ロシア帝国・モスクワ駅。
「一体、皇帝は何を考えてるんだろうな」
特別列車に連結されているサロン車。軍服の正装を着た私の弟・鞍馬宮輝仁さまは、私に質問を投げると大きなあくびをした。
「結局、よく分からないわね……」
私は首を横に振った。「考えても分からないから、考えるのはやめたわ。何かあっても、栽仁殿下と大山さんが守ってくれるし、とにかく、無事にこの場を切り抜けることに集中しないとね」
すると、
「俺もいるんだぜ、章姉上」
輝仁さまが、キッと私を見つめてきた。
「ロシア側が章姉上に手を出そうとしたら、俺、章姉上を守るからな」
「それは頼もしいわね」
私が口の両端を少しだけ上げた瞬間、
「皇帝陛下が到着なさいました」
サロン車の入り口に立っていた秋山さんが私たちに報告する。私と栽仁殿下、そして輝仁さまが姿勢を正して数秒後、ロシア陸軍の軍服を着た、額の広い中年の男性が、広瀬さんの案内でサロン車に入ってきた。現在のロシア帝国の皇帝・ミハイル2世である。
そして、彼の後ろには、ミハイル2世の即位以来ロシアの内閣総理大臣を務めているセルゲイ・ユリエヴィチ・ウィッテさん、そして、数年前に外務大臣に就任したロマン・ロマノヴィッチ・ローゼンさんが付き従っていた。ローゼンさんは駐日公使をしていた時期があったので、私も何度か顔を合わせたことがあるけれど、ウィッテ総理大臣とは初対面だった。
『ミハイルと申します。今回は、僕たちの突然の要望をお聞き届け下さり、誠にありがとうございます』
会談冒頭、ミハイル2世はフランス語でこう言って頭を下げた。皇帝としての威厳が全く感じられない彼の様子に、私は少し拍子抜けした。その思いは輝仁さまも同じだったようだ。一瞬目を瞠った彼は、慌てて真面目な表情に戻ると、『輝仁と申します』と、ミハイル2世と同じようにフランス語で挨拶した。
そこから、両国の出席者たちは、互いに自己紹介を始めた。ロシア側の出席者は、皇帝とウィッテ総理大臣とローゼン外務大臣、そして皇帝の侍従と通訳の合計5人である。日本側の出席者は輝仁さまと栽仁殿下と私、幣原さん、大山さん、広瀬さんの6人だった。広瀬さんがこの席に呼ばれたのは、国軍にいたころにロシアに留学していたことがあり、ロシア語が話せるからである。
大山さんがフランス語で自己紹介した時、ロシア側の出席者の表情が一斉に固くなった。ウィッテ総理大臣とローゼン外務大臣が、ロシア語らしき言葉をつぶやきながら、大山さんを怯えた眼で見つめている。
「広瀬さん、ウィッテさんとローゼンさん、何を言っているか分かりますか?」
私が広瀬さんにそっと尋ねると、
「“あれがロシア兵50万人に匹敵する強さを持つ日本最強の男か”“右手を振り上げただけでロシア兵1000人が死ぬという……”と言っておられますが……」
広瀬さんは私に小声で答える。そして、
「大山閣下も、いたずらが過ぎますな」
と、更に声を潜めて付け加えた。
(本当にね……)
私は広瀬さんと目を合わせると、軽く頷いた。極東戦争が発生する数年前、大山さんは“章子内親王に仕えている大山という男は恐ろしい”という噂をヨーロッパに流した。他の国では沈静化して、今では忘れ去られているけれど、ロシアでは、なぜか大きな尾ひれがついて広まってしまった。ロシアの中枢部では、“大山1人で50万のロシア兵を倒せる”という説が未だに信じられているそうだ。
青ざめているウィッテさんとローゼンさんに、大山さんがニヤっと笑う。ロシア語は分からなくても、この2人が自分を見ながら何を話しているか、大山さんは察してしまったようだ。大山さんの不気味な笑みを見せつけられてしまったウィッテさんとローゼンさんの顔が引きつった。
『仕方がない、では僕が話しましょう』
ウィッテさんとローゼンさんが使い物にならないと判断したのか、ミハイル2世は困ったように微笑むと、
『僕たちがあなた方に会いに来た目的は2つあります』
と、私たちにフランス語で言った。
『1つは、ロシア帝国の領内を経由して日本に急ぎ帰国なさっているあなた方の安全を保障すると、皇帝である僕の口から告げることです』
『……それは大変ありがたいです』
輝仁さまが慎重に答えると、
『……と僕が言っても、信用していただけないかもしれません』
ミハイル2世は自嘲するように言った。
『我が国はかつて、愚かな動機により、貴国と清に戦いを挑みました。そんな我が国にこう言われても、信用できないというのがあなた方の本音でしょう』
すると、
『陛下、それは言い過ぎです!』
ウィッテ総理大臣が慌てて立ち上がった。
『あの戦争は先帝が引き起こしたもの!先帝が国の舵取りを誤ったからこそ、陛下がお立ちになって先帝を廃したのではありませんか!』
『そんな言い訳が日本に……章子妃殿下に通用すると思っているのか?!』
ミハイル2世も椅子から立ち上がりながら、ウィッテ総理大臣にフランス語で怒鳴った。
『章子妃殿下には、謝罪をしなければならない。僕は即位してから、ずっとそれを思い続けていた!』
『陛下!謝罪ならば、ご結婚式に出席した閑院宮殿下になさったではありませんか!私はあの時も、“陛下がそこまでなさる必要はない”と申し上げましたが!』
ローゼン外務大臣も椅子から立ち、ミハイル2世に意見し始めた。けれど、
『それだけではダメだ!兄をもっと早くに止められなかったのは、ただ1人の弟である僕の責任だ!だから、機会があれば、僕は章子妃殿下に、直接許しを請いたかったのだ!だからこそ、僕は今日、ここまでやって来たというのに!』
ミハイル2世は激しい言葉を、ローゼン外務大臣に投げつける。ウィッテ総理大臣もローゼン外務大臣も、うつむいて黙り込んでしまった。
「大山さん……あの皇帝の言葉は信じていいの?」
私は隣に座っている大山さんに小声で尋ねた。
「と言いますと?」
「余りにも、自分の気持ちを率直に出し過ぎているような気がして……」
そう言って、私はミハイル2世たちをチラッと見た。「ウィッテさんもローゼンさんもお芝居に協力して、“皇帝は誠実な人物だ”とこちら側にアピールしようとしている可能性を考えたのだけれど……」
「あれは、元からの御性格、とのことでございます」
大山さんは私の耳元で囁いた。「国民に対しても、あのように誠実に接するので、国民の皇室に対する信頼も徐々に戻ってきているとのこと。……さて妃殿下、皇帝にどのようにお答えになりますか?」
「そうねぇ……」
少し考えた私は、「フランス語で表現しきれる自信がないから、訳してもらっていいかな?」と大山さんに頼んでから、ミハイル2世の方をじっと見つめた。
「かつて、日露両国に対立があったことを物ともせず、私たちにわざわざお会いいただいたこと、感謝申し上げます。皇帝陛下の率直なお気持ちもよく分かりました。……しかし、皇帝陛下が謝罪なさるお気持ちがあるのならば、謝罪なさるお相手は、私の他にもいるのではないでしょうか」
私の日本語を、大山さんが見事なフランス語に訳していく。それを聞くロシア側の出席者たちに、緊張が走るのが分かった。
「それは、極東戦争で傷ついたり亡くなったりした日露両国の国民、そして、極東の地で強制労働に駆り出されたユダヤ人たちです。私は日本の皇族の1人として、亡くなった彼らの冥福を祈り、戦争で傷ついた人たちに寄り添い援助していこうと思っています。そして、戦争が2度と起きないように力を尽くそうと考えています。それは、私が一生しなければならないことです」
私に恋をしたとか、身柄を奪おうとしたとか、そこはどうでもいい。けれど、その結果、多くの人が理不尽に命を失い、身体に、あるいは心に傷を負った。そのことはニコライに認識して欲しかった。
『……妃殿下のおっしゃりたいことは、よく分かりました』
眼を軽く閉じ、大山さんのフランス語を聞いていたミハイル2世は、大山さんの言葉の響きがサロン車の天井に吸い込まれた数秒後、眼と口を開いた。
『僕も、あの戦争で亡くなった人々の冥福を祈り、傷ついた人々を援助していこうと思います。今までも、そしてこれからも。それは僕のみならず、兄も含め、ロシアの全ての皇族が心に留めておくべきことです』
真剣な眼差しで私を見つめるミハイル2世に、私は黙って頭を下げた。
『……皇帝陛下、そして総理大臣閣下と外務大臣閣下の御厚情に、深く感謝申し上げます』
サロン車を厚く覆った沈黙を破ったのは、栽仁殿下のフランス語だった。
『しかし、陛下が僕たちの旅の安全を保障してくださっても、不安が残ってしまうのは残念ながら事実です。特に、僕の妻に恨みを向ける者が、貴国民の中には少なからず存在していると聞き及びます。僕たちの安全を保障する具体的な策があれば、ご教示いただければ幸いです』
『……宮廷と政府は抑えられます』
ミハイル2世は顔をしかめながら答えた。『あなた方に手を出せば我が国がどうなるか、皆分かっておりますから。もしそんなことが起きれば、我が国は世界中から非難され、我が国と国境を接する国々が我が国に一斉に侵略するでしょう。多方面で防衛作戦を行う力は、今の我が国にはありません』
『陛下、それ以上は……!』
ウィッテ総理大臣が慌ててミハイル2世を止める。私も驚いていた。いくら彼が誠実に人に相対する性格であるとは言え、国情をここまで開けっ広げに語るとは思っていなかったからだ。
『陛下、大変申し訳ありませんが、喋るのは我々に任せてはもらえないでしょうか……』
こう言って、苦虫を噛み潰したような表情になったローゼン外務大臣に、
『分かっているよ、僕は喋り過ぎると言うのだろう。でも、これだけは言わせて欲しいのだ。輝仁殿下たちが無事に旅をするための策を』
ミハイル2世はこう言うと、そばに控えていた侍従に何事かをロシア語で言いつける。侍従がサロン車から出て行くと、『ほんの2分ほど待っていてください』と、ミハイル2世は私たちにフランス語で告げた。
「一体、何を待てと言うのでしょうか……?」
幣原さんが首を傾げた時、サロン車の入り口に人の気配がした。ミハイル2世の侍従が戻って来たのだ。彼の後ろには、海軍の軍服を着た1人の男性が立っている。白く長いあごひげから判断すると、少なくとも年齢は50歳よりは上だと思うけれど、がっちりとした体格、そしてきらりと鋭く輝く両眼は、彼を若々しく見せていた。
と、広瀬さんが突然椅子から立ち上がった。サロン車の入り口に身体を向けると、広瀬さんは軍隊式の敬礼を送る。彼の額には脂汗が光っていた。
「広瀬さん?」
どうしたの、と聞こうとする私の声は、
『紹介しましょう。彼はステパン・オーシポヴィチ・マカロフ。この国でただ1人の海軍大将です』
という、ミハイル2世のフランス語にかき消された。
(なっ……?!)
マカロフ海軍大将。それは極東戦争の直前、“あの提督がウラジオストックに出張ってくれば、日本も大きな犠牲を払うことになる”と斎藤さんが警戒していた、“史実”で名高い名提督ではないか。驚愕に包まれた私たちに、
『彼に、新イスラエルとの国境まで、あなた方を送り届けさせましょう。彼は海軍のみならず、陸軍の将兵たちからも尊敬を受けている。彼がフランスの実業家を案内してシベリア方面に向かう……こう全軍に知らしめれば、章子妃殿下が不埒な輩に襲われることもないでしょう』
ミハイル2世は、更に驚くべきことを告げたのだった。




