ドイツ(2)
1916(明治49)年10月12日木曜日午後6時、ドイツ帝国の首都・ベルリン市内にあるホテル。
「「「……」」」
私はホテルの一室で長椅子に持たれかかり、口を半開きにしてぼんやり天井を見上げていた。私の隣では、栽仁殿下が暗い顔をして両肩を落としているし、栽仁殿下の隣の椅子に座っている輝仁さまも、口をへの字にしたまま黙り込んでいる。激しい倦怠感が、私達3人を襲っていた。
「おやおや、皆さま、疲れた顔をなさって」
紅茶のカップを載せた銀のトレイを持った大山さんが、クスクス笑いながら部屋に入ってきた。
「疲れるに決まっているでしょう……」
私は天井を見上げたままで大山さんに応じた。「なんで、宮殿にも、帝国議会の議事堂にも、オリンピックスタジアムにも、皇帝がついてくるのよ……」
すると、
「そりゃ、皇帝陛下が章姉上のこと、めちゃくちゃ気に入ってるからだろ」
弟の輝仁さまが暗い声で言った。「皇帝陛下の敬愛ってやつを、章姉上がそのまま素直に受け取ってくれれば、俺もこんなに疲れないで済むのに、章姉上、隙があれば、俺を盾に使おうとするから、こっちにまで被害が出るんだよ」
「仕方ないでしょ。全部受け止めていたら、私の心は壊れるわ……」
弟に力無く反論すると、私は大きなため息をついた。
4日前にベルリンに到着してから、私達はドイツ帝国議会の議事堂や、先月末まで開催されていたベルリンオリンピックの会場になったメインスタジアム、ベルリン近郊にある宮殿などを見学して回っていた。そして、私達の全ての見学には、あの皇帝が頼みもしないのに付き添ってきたのだ。1秒でも長く皇帝と離れていたい私にとっては、この状況は拷問以外の何物でもなかった。
「皇帝陛下、今日の博物館と美術館の見学にもついていらっしゃったしね。それだけ僕たちがドイツで丁重に扱われているということなんだろうけれど、ここまで続くと気疲れしてしまうね」
困ったように微笑む栽仁殿下に、
「“ついてこなくていい”と言っても、“これらの建造物を女神に案内するのは朕の責務だから”と主張されて、押し切られてしまったし……。明日の王立プロイセン感染症研究所の見学にはついて来ないからいいけれど、明日の夜はまた皇帝との晩餐会があるし……本当にやんなっちゃう」
私は一気に吐き出すと、再び大きなため息をついた。これで、相手が一般人なら、私も普通の言語か肉体言語で相手に一撃をお見舞いできるのだけれど、仮にも相手は一国の皇帝、そんなことはとてもできない。その事実が、私の疲労を増大させていた。
「明日、アルバトロス社は見学できるけどさぁ……。俺、飛行器をドイツ軍がどう運用しているかも見てみたいんだよな。確かに、博物館や美術館の展示も面白いけど、そればっかりじゃ飽きるよ」
「確かに、鞍馬宮殿下のおっしゃる通りです」
困ったように微笑んだまま、夫は輝仁さまに言った。「僕も、キール軍港のドイツ艦隊を視察したいのですが、章子さんから皇帝陛下に直接頼んでもらってもダメでしたね」
「“女神の夫には、血を流す兵器のそばは似合わない”……って、どういう理由なのよ。じゃあ、私たちを観兵式に出席させたのは何なのよ……」
私が顔をしかめたその時、
「ふむ……皆さま、裏にあるものに気が付いておられないようです」
テーブルの上に紅茶を置いた大山さんがニヤリと笑った。
「裏?あの皇帝に裏があるの?!」
私が大山さんを睨みつけると、
「日本はイギリスと同盟しております。イギリスはドイツの仮想敵国ですな」
大山さんは楽しそうにこう言う。すると、
「なるほど……万が一、ドイツとイギリスが戦争になれば、日本は日英同盟に従って、ドイツの敵に回る可能性が高い。だから、軍事機密に関わる内容を僕ら……というよりは、米内少佐どのと山本大尉どのに見せたくない、ということでしょうか」
栽仁殿下が真面目な表情になって顎を撫でた。
「確かに、未熟な俺とは違って、米内少佐どのは国軍大学校を卒業した優秀な軍人だ。山本大尉どのだって、国軍大学校の学生だし、日本じゃ“空の英雄”と呼ばれて名前も売れている。そんな2人に、ドイツ軍の用兵の実際を見られたら……」
「その情報は日本だけじゃなくて、同盟国のイギリスにも伝えられる。ドイツが仮想敵国とする国に、ドイツ軍の情報が渡るのは良くない。だから私たちを、軍港や、軍隊の飛行場には行かせない、ということか」
輝仁さまの言葉に私はこう続けた。日英同盟の期限は来年の1月までだったけれど、私たちがイギリスを去った直後から、イギリスに駐在している珍田捨巳大使がイギリス側との延長交渉に入り、一昨日の10月10日、1927年1月までの同盟延長が決まった。それを考慮に入れれば、仮想敵国のイギリスと同盟している日本は、確かにドイツにとっては、ニューギニア方面の植民地を脅かす存在に見えるのだろう。
「それじゃ、皇帝が私のことを女神だの何だの言って、異常に褒め称えているのは、皇帝のお芝居かしら。むしろその方が私はやりやすいのだけれど」
少しだけ調子を取り戻した私だったけれど、
「いいえ、皇帝陛下のお気持ちは本物です」
という我が臣下の言葉に、両肩を大きく落とした。
「ですから、今回の場合は、皇帝陛下の妃殿下への崇拝のお気持ちを利用して、皇帝陛下を操っている者がいると見るべきでしょう」
「なるほどね……」
私は顔をしかめた。「“こうなさる方が妃殿下に似合っています”なんて言って皇帝を操って、軍事関連施設の見学予定を組まれないようにしたのかもしれない。あの皇帝なら、ご自慢の軍備や最新兵器を見せびらかしそうなのに、それがないということは、誰かが皇帝を上手く操っていると考えるのが自然……」
「操っているのは、ティルピッツ海軍大臣でしょうか?」
栽仁殿下の問いに、
「彼もですし、帝国宰相のベートマン・ホルヴェーグもです」
大山さんはこう答えた。アルフレート・フォン・ティルピッツさん……今日、博物館と美術館の見学の合間に開催された王宮での昼食会で顔を合わせたけれど、独特な長いあごひげが印象的な人だった。彼がイギリスとドイツの建艦競争のドイツ側の立役者の1人である彼は、軍事機密を守るために、ちゃんと手を打っていたという訳だ。
「難しいなぁ、世界ってのは」
輝仁さまがため息をついた。「日本を守ることだけ考えていればいいんだ、って思ってたけど、そういう訳にはいかないんだな」
「日本を守るからこそ、世界の大勢にも注意しないといけないのよ」
私は苦笑いしながら弟に答えた。「本当に面倒な話だけれど、そうも言っていられない。世界情勢の中で有利に立ち回って、日本という国を生き残らせないといけないのよ」
「めんどくせぇ……そういうの、兄上と章姉上に任せるよ。俺、空を飛ぶ方が楽しいし」
輝仁さまが大きく伸びをしながら言った次の瞬間、
「鞍馬宮殿下、少しこちらに来ていただきましょうか」
大山さんが微笑しながら言った。いや、正確に言うと、口は微笑の形を作っていたけれど、目が全く笑っていなかった。
「あ……」
輝仁さまは、自分の身に危険が迫っていることを悟ったらしい。慌てて椅子から立ち上がり、大山さんから身を遠ざけようとした時、輝仁さまの左手首は、大山さんにしっかり掴まれてしまった。
「どうも、鞍馬宮殿下は、筆頭宮家の当主としての心構えが出来ていらっしゃらないようにお見受けします。今から、鞍馬宮殿下が、この激動する世界の中で、天皇陛下のためにいかに振る舞われるべきか、少しばかりご教授申し上げます」
大山さんの口から冷たい言葉がこぼれ落ち、輝仁さまに突き刺さる。顔を青ざめさせた輝仁さまは、「た、助けてくれ、章姉上!」と叫んだ。
「ごめん、無理」
こうなってしまった我が臣下は、私でも止められない。私が機械的に首を横に振ると、輝仁さまは大山さんに引きずられるようにして部屋から出て行ったのだった。
1916(明治49)年10月13日金曜日午後5時30分、ベルリン市内中心部にあるベルリン王宮。
「まさか本当に、和服を着ることになるとは思わなかったよ……」
王宮に向かう馬車の中、空色の地の白襟紋付を着た私は大きなため息をついた。外国の王宮に和服で参内するというのは異例中の異例なのだけれど、これはもちろん、皇帝の要望により実現したことだ。
「本当だね、僕もびっくりしたよ」
私の隣では、燕尾服を着た栽仁殿下が微笑している。今日はこれから皇帝に謁見して、ドイツの皇族たちとの晩餐会に出席する。明日、私たちはドイツ帝国南部にあるバイエルン王国に向かうから、名残の宴ということにはなる。ただ、バイエルン王国と、ドイツ帝国の北部にあるメクレンブルク=シュヴェリーン大公国を訪問した後は再びベルリンに戻って、皇帝との食事会に臨むことになっているから、皇帝と完全にお別れはできないのだけれど。
『おお……何と素晴らしい……』
私が栽仁殿下と手をつないで謁見の間に入ると、皇帝は椅子から立ち上がり、涙を流しながら私のそばまでやって来た。
『これが日本の女性の礼装か……しかし、ご結婚式の時に着ていらしたものとは違うようだが?』
首を傾げた皇帝に、
『ああ、あれは五衣唐衣裳と言って、今では皇族や宮中の女官が、特別な儀式の時にだけ着用するものです。ですから、ドイツには持ってきておりません。今私が着ている白襟紋付の方が、和装に基づいた女性の礼装としては一般的です。私は帝国議会に出席する時、特別な儀式でない限りはこちらを着ています』
私はドイツ語で簡単に説明した。本当にこの説明でいいのか不安なところはあるし、細かく言えば、私という存在のために、“史実”の今頃の一般的な女性の服装と、この時の流れでの一般的な女性の服装が変わってしまっている可能性はあるけれど……それは今言うべきことではない。
『なるほど……なんとも奥ゆかしい。実に美しいものだ。では、朕の麗しい女神よ、一緒に写真を撮ろうではないか』
私が営業スマイルで頷くと、皇帝は大喜びでカメラマンを呼び寄せた。
(頑張れ私……耐えろ私……あと数時間を乗り越えられれば、皇帝と別れてバイエルンに行けるんだから……)
本当は、この場から逃げたくてたまらないし、皇帝の馬鹿面に正拳をぶち込みたくてたまらない。けれど、本当にそんなことをしてしまったら、日本とドイツの関係が悪化してしまうかもしれない。私は剥がれ落ちそうになる営業スマイルを必死に顔に貼り付けながら、皇帝と一緒の写真に納まった。
いったん控室に下がって、白襟紋付から中礼服に着替えた後、食堂で晩餐会が始まった。やはり皇帝は、私にしきりに話しかける。栽仁殿下も、皇帝と私の会話に何とか割り込んで、私の負担を減らそうとしてくれているのだけれど、通訳に会話の内容を確認しながらの作業なので、良いタイミングで会話に入り込むことが出来なかった。
けれど、とてもありがたかったのは、皇帝の弟で、私と旧知のハインリヒ殿下が、私と皇帝の会話に積極的に入ってくれたことだ。彼はその場を適切に盛り上げ、時には皇帝に、“外交儀礼に反するから”と、日本側の他のゲストに話しかけるよう促す。彼のおかげで、私の負担はだいぶ軽減された。
『あの……ありがとうございました、ハインリヒ殿下。大変助かりました』
食後のコーヒーが運ばれたころ、私がハインリヒ殿下にそっと話しかけると、
『いえいえ、お気になさらず』
穏やかで理知的な目をしたハインリヒ殿下は、私に小声で返答した。
『ベルリンにいらした日の晩餐会の時より、貴女が疲れて見えましたので、これは兄の相手でお疲れになってしまったのだろうと思いましてね』
『これでも、だいぶ元気を回復したのですよ』
私はハインリヒ殿下に苦笑いで応じた。『今日は、王立プロイセン感染症研究所を見学できましたから。研究所の中にあるコッホ先生の廟所にもお参り出来ましたし、所長のノイフェルド先生から肺炎連鎖球菌のお話もたくさん聞けました。好きな医学に触れることが、私にとっては一番の薬のようです』
そう囁くように言うと、ハインリヒ殿下の口元がほころぶ。けれどすぐに、彼は真面目な表情に戻り、
『シュヴェリーンでは、フリードリヒの墓参りをなさるのですか?』
と私に尋ねた。
『はい、やはり、私が初めて恋をした方ですから』
私は答えると目を伏せた。『夫が許してくれなければ、お墓参りはやめておこうと思ったのですが、夫も快く許してくれました』
『そうでしたか』
ハインリヒ殿下は穏やかな笑みを見せた。『案じておりました。17年前に私と貴女が出合い、話がフリードリヒのことに及んだ時、貴女はずっと涙を流しておられた。貴女のフリードリヒに対する想いの深さに胸を打たれましたが、しかし私は、密かに心配したのです。あの時の貴女は、まだ16歳でした。このまま、フリードリヒを亡くした悲しみが、若い貴女の心を縛り付けて、貴女の視界から、愛や恋というものを全て消し去ってしまうのではないかと……それが心配だったのです』
私は軽く眼を瞠った。確かにそんな時期が……フリードリヒ殿下への初恋で傷ついた心から目を背けたくて、愛や恋と名のつくものから逃げたいと思っていた時期が、私にはあった。
『しかし、貴女は今、本当にお幸せそうです。貴女が栽仁殿下に向ける笑顔を……魂が安らいでいるような笑顔を拝見いたしまして、貴女は栽仁殿下と、本物の愛を育んでおられるのだと……そう実感いたしました』
『……ありがとうございます、殿下』
私はハインリヒ殿下に軽く頭を下げた。『奥手で鈍感で、恋で受けた悲しみからなかなか立ち直れないでいる私を、夫は幼いころから、一途に愛してくれていました。そして私も今、夫を心から愛しています。栽仁殿下と結婚することができて、本当によかったです』
「……章子さん、大丈夫?」
私が長くハインリヒ殿下と話し込んでいるので、気になったのだろう。私の隣に座っている栽仁殿下が私に声を掛けた。
「ん……大丈夫よ。栽さんは素敵な人だ、って話していただけだから」
私が囁いて夫に微笑むと、
「それはありがとう。梨花さんも素敵だよ」
栽仁殿下は私にこう囁き返した。
そして、晩餐会は無事に終了したのだけれど、
『朕の麗しい女神のために、ちょっとした余興がある』
と皇帝が言い出し、晩餐会の終了後、私たちは別室に移動した。案内された部屋には数十脚の椅子が6列に、劇場の客席のように並べられている。私は栽仁殿下と一緒に、最前列、真ん中よりやや右の椅子に並んで腰かけた。
「余興って何だろうね?」
「さぁ……奇術とか、楽器の演奏とかじゃないかしら?」
夫婦で言い合っていると、最前列のど真ん中の椅子に座っていた皇帝が立ち上がった。彼は会場内を見渡すと、『うむ、皆、揃ったな』と満足げに頷き、
『では、これからお目にかけよう。朕の麗しい女神がドイツ帝国にいらっしゃってからの日々の記録を!』
と叫ぶ。次の瞬間、部屋の照明が落とされ、前に掛けられていた活動写真の大きなスクリーンに『日本より来独した麗しい女神の記録』というドイツ語が映し出された。
(げっ)
私が戸惑っている間に、無音の活動写真は、私たちがドイツに到着した日、ポツダム駅での光景を映し出した。スクリーンの中の皇帝が、輝仁さまや栽仁殿下、そして私と、次々に握手を交わしている。
『これは女神たちが、このベルリンに到着した時の光景だ!朕は麗しい女神を、膝をついて出迎えたのだが、朕の麗しい女神は“かようなことをなさらないで欲しい”と仰せになった……』
皇帝は上機嫌で、自分の席から解説を加えている。
(うわあああ……)
思わぬ形で、最悪の光景を再び見せつけられた私は、両手で頭を抱えてしまった。
「章子さん、どうしたの?皇帝陛下、何ておっしゃっているのかな?」
小声で尋ねる夫に、私は首を左右に振って、
「死んでも言わない」
と答えた。
「え、何で?」
「何でもよ!黒歴史を追体験しろ、だなんて、どんな新手の拷問なのよ!」
私の小声での抗議をよそに、活動写真は次々と新しい場面を映し出していく。ベルリン到着の日の晩餐会、観兵式、オリンピックスタジアム、ベルリン近郊の宮殿……皇帝と付き合わざるを得なかった、ここ数日の苦行の様子を、活動写真は容赦なく再現してみせた。
『うむ、実に素晴らしい!朕と麗しい女神との夢のような数日間が、余すところなく記録されているではないか!』
永遠とも思われた黒歴史、いや、活動写真の上映が終わると、皇帝は興奮しながら叫んだ。
『この活動写真、複製を作って日本の天皇陛下に贈るのだ!愛娘の様子、さぞご覧になりたいだろうからな!』
皇帝の非情な命令に、侍従が『かしこまりました』と頭を下げる。その忌まわしい声を聞きながら、
(悪夢だ……)
私は本日何度目になったか分からないため息をついたのだった。




