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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第57章 1914(明治47)年処暑~1915(明治48)年芒種
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装甲巡洋艦“榛名”の進水式

 1915(明治48)年3月30日火曜日、午前11時55分。

「いい天気になりましたね」

 新橋駅から横須賀へ向かって動き始めた臨時列車。その一等車の車内で、私は隣に座った山階宮(やましなのみや)菊麿(きくまろ)王殿下に笑顔で話しかけた。

「ええ、本当に」

 山階宮家のご当主・菊麿王殿下は、私に穏やかに微笑んだ。結核の治療を受けたのを機に、兵科を海兵から機動に変更して8年目、彼は現在、第1師団長を務めている。

 と、

「あーあ、こんなに天気がいいなら、飛行訓練がしたいなぁ」

私の向かいの席に座っている異母弟・鞍馬宮(くらまのみや)輝仁(てるひと)さまが、窓から外の景色を見ながら不満そうに言った。

「今からでも列車を降りて、所沢に戻りたいよ」

「何を言っているのよ、筆頭宮家の当主が……」

 成人してもやんちゃな弟に、私はため息をつきながら注意した。

「聞いているのが私たちだけだからいいけれど、他の人に聞かれたら、たしなめられてしまうわよ。それに、万が一、大山さんに聞かれちゃったら、蝶子(ちょうこ)ちゃんと一緒にお説教されるかもしれない」

 私がそう言うと、弟は慌てて口を閉じ、一等車の中をきょろきょろと見回す。その様子を見て、輝仁さまの隣に座っている北白川宮(きたしらかわのみや)家の嗣子・成久(なるひさ)王殿下がクスっと笑った。

 今日は、横須賀の軍港で、金剛型装甲巡洋艦の3番艦“榛名”の進水式が行われる。1番艦の“金剛”と2番艦の“比叡”はイギリスで建造されたけれど、3番艦以降は日本で建造することになった。そして、“金剛”と“比叡”の建造の際、イギリスに派遣され、大型艦建造技術を吸収した技術将校や職工たちが中心となり、横須賀のドックで“榛名”を建造したのである。

 この時の流れでは、大型艦を日本で建造したのは初めてのことである。そのこともあって、“榛名”の進水式にはお父様(おもうさま)の他、兄や迪宮(みちのみや)さま、そして東京にいる軍籍のある皇族が参列することになった。それで私も、軍医大尉の白い礼装を着て、横須賀行きの臨時列車に乗っているのだ。

「あーあ、進水式、もう少し早めにやってくれたらなぁ。そうしたら、春休みと重ならなくて、参列しないで済んだのに」

 一度口を閉じていた輝仁さまは、再び視線を窓の外に固定すると、またぼやき始めた。彼は普段、所沢の航空士官学校の宿舎で暮らしているけれど、春休みで東京に戻ってきたため、この進水式に参列することになったのだ。

「進水式を早めるのは無理ねぇ。帝国議会の通常会と重なるから。今回、国務大臣だけじゃなくて、国会議員、それから、各省の次官や局長まで呼ばれているから、進水式を早めたら、審議日程が1日削られてしまう。そのせいで予算が3月末までに成立しなかったら一大事よ」

 私が弟に言い聞かせていると、

「え……そんなに呼ばれているのですか」

近衛砲兵連隊に所属している成久殿下が軽く目を瞠った。

「ええ。駅に渋沢閣下や他の大臣たちもいたし、国会議員もたくさん見かけたわ。議会に政府委員として呼ばれる局長たちの顔も見たし……」

 成久殿下に答えていると、

「素晴らしいですね、流石章子さまです」

菊麿王殿下がニッコリと笑った。

「議員や各省の局長の顔まで覚えていらっしゃるのは、政治にご才幹を発揮されているからでしょう。我々は貴族院に議席はあっても、議会に出席できませんから、うらやましい限りです。現役軍人に復帰なさって、実は物足りなく思っていらっしゃるのではないですか?」

「そんなことはありませんよ。医師としての仕事は、議会の仕事より好きです」

 私は菊麿王殿下にこう言った。「自分が治療した患者さんが元気になるのを見るのは、何にも代えられない喜びです。やはり私にとって、天職と言えるのは医師で……」

「嫁御寮どの」

 硬い声が浴びせられ、私は口の動きを止めた。私たちから少し離れたところに、他の皇族たちと一緒に座っていた義父の威仁(たけひと)親王殿下が、私に尖った視線を向けていた。

「議会の仕事より医師の仕事がお好きとは、聞き捨てなりませんね。嫁御寮どのは、軍医としても、そして時には貴族院議員としても働くことが許されている身。天皇陛下に尽くすための手段を選り好みするとは、並の女子なら許されましょうが、我が有栖川の嫁には許されませんよ」

 義父の厳しい声に、自然と頭が下がった。孫たちには甘い顔を見せ、嫁の私に対しても、からかいながらも好意的に接してくれる義父だけれど、ごくまれに、謹厳な態度で私を諭すことがある。こういう時の義父の言葉は決まって正論なので耳が痛いけれど、きちんと聞かざるを得ない。

「はい、申し訳ございませんでした」

 素直に義父に頭を下げると、

「な、何と……」

「あの鬼のような妃殿下が、おとなしく頭を下げた……?!」

義父の向かいに座っていた、久邇宮(くにのみや)家の当主・邦彦(くによし)王殿下と竹田宮(たけだのみや)家の当主・恒久(つねひさ)王殿下が顔をひきつらせた。2人とも、近衛師団に所属しているため、今日の進水式に出席するのだ。

「これこれ、邦彦どのも恒久どのも、章子妃殿下を怖がり過ぎですぞ」

 義父の隣に座っていた伏見宮(ふしみのみや)家の当主・貞愛(さだなる)親王殿下が、邦彦王殿下と恒久王殿下をたしなめる。更には、近衛師団長を務めている閑院宮(かんいんのみや)載仁(ことひと)親王殿下も「さようさよう」と貞愛親王殿下に同調する。皇族の重鎮である2人の言葉に、邦彦王殿下と恒久王殿下は黙り込んでしまった。

「あれ?成久殿下、あなたのお父上は、今日はいらっしゃらないの?」

 私は皇族専用となっている一等車の中を見回しながら尋ねた。東京にいる軍籍のある皇族のうち、兄と迪宮さまはこの後の特別列車で横須賀に向かう。けれど、歩兵大将である北白川宮家のご当主・能久(よしひさ)親王殿下の姿が見当たらない。彼も東京にいるから、ここにいるはずなのだけれど……。

 すると、

「実は、体調が良くないのです」

成久殿下が声を潜めて私に答えた。

「あら、先月肺炎に罹られて、医務局長が往診したと聞いたけれど……」

 去年の10月に、長年国軍の医務局長を務めていた高木(たかき)兼寛(かねひろ)軍医中将が予備役に入り、西郷(さいごう)吉義(よしみち)軍医少将が新しい医務局長に就任した。その西郷医務局長が先月能久親王殿下の往診に行き、彼を築地の国軍病院に連れてきて胸のエックス線写真を撮った……という話はちらっと耳にした。

「ええ、実はまだ、それが治りきっていなくて、熱と咳が続いているのです」

「そうなのね……」

 私はとりあえず、成久殿下に頷いた。先月からの肺炎が治りきっていない……今ある抗生物質が効かない肺炎なのか、それとも別の病気が一緒に起こっているのか……何が能久親王殿下の身体で起こっているかは分からない。けれどそれは、能久親王殿下の診療に携わっていない私が根掘り葉掘り聞いていいことではない。

「お大事にしてくださいね、お父上」

 私の見舞いの言葉に、「ありがとうございます、姉宮さま」と成久殿下は丁寧に頭を下げた。

 と、

「俺も、真面目にやらないといけないなぁ……」

輝仁さまが軽くため息をついた。

「本当は軍艦なんて、余り興味が無いんだ。技術士官だった時も、設計図はよく見たけど、現物は見てなくてさ。でも、いつ軍艦を飛行器で攻撃するようになるか分からないし、高野大尉の話だと、将来、軍艦の上から飛行器が飛び立てるようにするってことだし……」

 輝仁さまの言葉に、「そうね」と私は相槌を打った。将来、航空母艦を中心とした機動部隊を編成できるよう、軍艦を整備していくこと。それは、この時の流れにおける日本の国軍の方針の1つである。

「俺、真面目に進水式に参加するよ、(ふみ)姉上」

「私もそうする」

 私は弟に微笑を向けた。「本当は私も、進水式に参列する暇があったら手術をしたいもの。でも、金剛型を見るのは初めてだし、勉強のつもりで参列するわ」

「そうじゃないと、有栖川宮さまだけじゃなくて、栽仁(たねひと)兄さまにも怒られるしな」

 生意気を言う弟を、私は軽く叩く真似をした。それを見た成久殿下と菊麿王殿下は、堪えきれずに吹き出したのだった。


 1915(明治48)年3月30日火曜日午後3時、横須賀港。

(すごい人の数ね……)

 兄と迪宮さまの乗った列車から更に1列車後のお召し列車で横須賀にやって来たお父様(おもうさま)に従って進水式の会場に入ると、“榛名”の左右にある観客席には大勢の人がひしめいていた。手前には、貴衆両院の議員たちや役人たち、そして武官たちの姿がある。カメラを構えた一団は、新聞記者たちだろうか。8年前、呉で参加した2等巡洋艦“利根”の進水式とは比べ物にならないほどたくさんの人が、観客席に詰めかけている。恐らく、全体の人数は、軽く1万人を超えるだろう。

 進水式を待つ“榛名”の船体の向こうには、東京湾の海面が見える。そこには、第1艦隊の軍艦がずらりと並んでいた。その中に栽仁殿下が所属する戦艦“朝日”を見つけ、思わず私の頬が緩む。栽仁殿下も“朝日”の艦上から、会場の様子を見守っているのだ。

(そう言えば、“榛名”が完成したら、“朝日”はどうなるのかしら?)

 “朝日”を見つめながら、私はふと疑問を感じた。

 極東戦争の開戦直前、日本は6隻の戦艦を保有していた。“富士”・“八島”・“敷島”・“朝日”・“初瀬”・“三笠”である。このうち、“初瀬”は、私も参加した東朝鮮湾海戦で沈没したため、日本はその代艦として、東朝鮮湾海戦で鹵獲したロシアの戦艦“レトヴィザン”を“瑞穂”と改称して使っていた。

 しかし、対ロシア戦を想定して配備された戦艦も、極東戦争から約10年が経過し、老朽化が目立つようになっていた。そこで国軍は、既存の戦艦6隻を、金剛型装甲巡洋艦に順次置き換えることにした。ちなみに、“富士”と“八島”は既に“金剛”と“比叡”に置き換えられ、フランスに売却されている。金剛型の数が増えれば、いずれは“朝日”も売却されるだろう。“史実”ではもっと多くの戦艦が建造されていたけれど、飛行器や航空母艦が発展すれば、戦艦をたくさん建造しても意味がない。それよりは、海上護衛に適した巡洋艦や駆逐艦、航空母艦を建造していく……というのが、国軍の方針だった。

 総理大臣の渋沢栄一さんが前に進み出て、“榛名”の命名書を読み上げる。その瞬間、待機していた軍楽隊がファンファーレを高らかに奏で、船体の両側に“榛名”と大きく書かれた幕が垂れ下がった。観客たちから大きな拍手が湧き上がる中、ホイッスルの高い音が会場を切り裂く。順々に“榛名”の下にあるすべり止め用の材木がどかされていくと、工廠長がこちらを振り向いた。

 すると、お父様のそばに控えていた皇族たちの中から、兄と迪宮さまが前に出て、式場に設置された台へと歩いて行く。兄は海兵少将の、迪宮さまは海兵中尉の礼装姿だ。工廠長から手渡された小さな銀の斧を一緒に持った兄と迪宮さまは、ホイッスルの最後の響きが会場に溶け込んで消えた瞬間、呼吸を合わせて台の上にセットされたロープに斧を振り下ろした。

 すると、“榛名”の2万7450トンの巨大な船体が、海に向かって静かに滑り出した。軍楽隊の演奏する“軍艦行進曲”と観客のどよめきが混じり合う異様な雰囲気の中、“榛名”は吸い寄せられるように海面に向かい、その巨体をやすやすと海面に浮かべた。

(うん、絵になるねぇ、これは。提案してよかったなぁ)

 皇族の列に戻っていく兄と迪宮さまを眺めながら、私は軽く頷いた。実は、兄と迪宮さまがロープを切ったのは、私が先月の梨花会で提案したことが元になっていた。

――せっかくの機会ですから、迪宮さまに進水式のロープを切ってもらうのはどうでしょうか?

 私が提案したところ、梨花会に出席していたほとんどの人が賛成してくれた。けれど、

――万が一……ということがありますので、お父上にあらせられる皇太子殿下と一緒におやりになるのがよろしいのではないでしょうか。

皇孫御学問所の総裁である伊藤さんがこう指摘したのもあり、結局、兄と迪宮さまが一緒にロープを切ることになったのだった。

(迪宮さま、まだ13歳だから、御学問所で講義や訓練はあると言っても、まだ軍のことはよく分からないよね。今回のことが、軍の理解を深めるきっかけになるといいけれど……)

 そんなことを思いながら、式場から出て行くお父様(おもうさま)に従って歩いていると、

「やはり親子でございますな、皇太子殿下と迪宮殿下は」

私のすぐ後ろを歩いていた渋沢さんが、そっと私に話しかけた。

「歩かれるお姿がそっくりでございます。先ほど、斧を振り下ろされたのも、息が合っていました」

「そうですね」

 私は前方に視線を動かした。この場にいる皇族で一番席次が高いのは兄、その次が迪宮さまだ。だから、皇族たちの先頭にいる兄の背中に、迪宮さまはピッタリくっついて歩いている。2人が揃って軍装でいるのを初めて見たけれど、確かに渋沢さんの言う通り、兄と迪宮さまの歩き方はよく似ていた。

 すると、

「思いがけず総理大臣となり、皇太子殿下と親しく接する機会を得られて、本当によかったと思っています」

渋沢さんはこんなことを言い始めた。

「将来の天皇としてご研鑽に励まれ、皇太子としての威厳を備えられておられる。その一方、極東戦争で、……いいえ、それだけではなく、戊辰の役以来、我が国で起こった戦で身体や心を傷つけられた者に仁慈をもって接される……まことに素晴らしいお方だと、お会いするたびに思います」

「私も、兄を尊敬しています」

 私は渋沢さんに小声で答えると、前を歩いている兄の後ろ姿をじっと見つめた。

 “史実”の兄は、病弱であるために、学業が遅れてしまっていた。両親と引き離された上、年が近いきょうだいが身近におらず、孤独な生活を送らざるを得なかったことも、兄の心身に悪影響を及ぼした。節子(さだこ)さまという伴侶を得て、彼女の努力によって心身も次第に安定したけれど、それまでは本当に心配だった……いつか、原さんがそう語っていた。

 けれど、この時の流れでの兄は、少なくとも私と一緒に花御殿で暮らし始めてからは、ほとんど病気にかかることなく過ごしている。御学問所時代には、かけがえのない親友たちも得て、厳しい教育を乗り切った。“史実”ではできなかったヨーロッパ訪問も果たした。兄が次代の天皇として、順調に成長しているのは、誰の目にも明らかだ。

(何か、私が助けられるの、医学分野だけになりそうだなぁ……)

 そう思った瞬間、振り返った兄と目が合った。私は兄に、尊敬する頼もしい兄に、心からの笑顔を向けたのだった。

※進水式の招待客、次第などはアジ歴の「薩摩進水式の部」「軍艦陸奥命名進水式一件」などを参考に適当に書いています。ご了承ください。

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― 新着の感想 ―
[一言] 戦艦の進水式は国家としては立派な宣伝活動になるから。榛名は日本初の国産戦艦として名をはせるでしょう。
[良い点] やはり菊麿様がお元気なのは良いものです [気になる点] 造船所間の建艦競争は起きてないとは思うのですが、この後誰かが自刃したりしないかは少し心配です。
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