大つごもり
1914(明治47)年12月31日木曜日午後0時45分、東京市京橋区築地4丁目にある築地国軍病院。
「お昼を一緒に食べてくれてありがとうございました、平塚さん」
国軍病院内にある医師控室。お昼ご飯用に持ってきたお弁当を食べ終わった私は、前の椅子に腰かけている平塚看護少尉に一礼した。
「い、いえ……」
白の制服の左腕に深緑色の腕章を巻いた平塚さんは、私に向かって深々と頭を下げ、
「お礼を申し上げなければならないのは、私の方でございます。美味しいお弁当まで賜り、誠にありがとう存じます」
と、礼儀正しくお礼を言った。優雅に一礼する姿はとても美しかった。
「平塚さん、お礼はいいですよ。私のわがままで、お昼ご飯に付き合ってもらったのですから」
私は平塚さんにそう応じると、微笑みを向けた。
12月30日から1月3日まで、政府機関は年末年始でお休みになる。それは国軍病院でも同じで、この5日間は、予定手術や外来診療は休止することになっていた。
しかし、休みの日でも、入院している患者さんは診療しなければならない。それに、万が一、緊急処置が必要な患者さんが現れたら、その人にも対応をしないといけない。だから、国軍病院では、夜間や休日にも、各部署の医師が必ず1人待機して、緊急の対応に当たることになっていた。そして、大みそかの今日、午前8時半から午後5時までの当番は私だった。
普段は軍医たちで賑やかな医師の控室も、夜間や休日には人の姿が無くなる。それに、年末年始だと、病院に入院している患者の数も少なくなるので、病院全体からも活気が失われて寂しい雰囲気になる。勉強にもってこいの環境にはなるけれど、普段より少ない業務を終わらせてしまえば、夕方まで1人で静寂の中で過ごさなければならない。それでは気が滅入ってしまうので、お昼ご飯の時だけは気分転換をしようと思い、今日の護衛役である平塚さんと一緒にご飯を食べることにしたのだ。
と、
「お弁当のどの品も大変に良いお味でしたが、特に、梅花玉子がおいしゅうございました」
平塚さんが微笑みながら言った。
「本当ですか?!」
私は会心の笑みをこぼした。「その梅花玉子、私と娘とで作りました」
「妃殿下と、万智子女王殿下が?!」
目を丸くした平塚さんは、
「恐れながら……女王殿下は、まだ3歳でいらっしゃいますよね?」
と驚きの声で私に尋ねた。
「ええ。だから、小さい子でもできる作業を手伝ってもらいました。最初、卵をゆでるのは私がして、冷ましたゆで卵の殻をむいて、黄身と白身を分けるのを、万智子にやってもらいました」
昨日、盛岡町邸の台所で、万智子と一緒に梅花玉子を作った時のことを思い出しながら私は答えた。梅花玉子は、千夏さんが持っていた料理の本で作り方を読み、2年前から私がお正月に作るようになった料理である。
「その後の、黄身と白身の裏ごしや味付け、それから黄身を白身で巻いて、形を整えて蒸すのは私がやりました。けれど、私の作業を娘も見ていましたから、来年はもしかしたら、黄身と白身の裏ごしもやってくれるかもしれませんね。万智子は家の仕事のお手伝いが好きですから」
蒸籠を見つめながら、梅花玉子が蒸し上がるのを待っていた娘の真剣な表情を脳裏に浮かべながら私が言うと、
「素晴らしいですわ」
平塚さんが熱のこもった眼差しで私を見つめた。
「普段も業務でお忙しくしていらっしゃるのに、女王殿下にお教えになりながら、料理をお作りになるなんて……!」
「ま、まぁ、料理が作れるというのを、少しは娘にも認識してもらわないといけないので……娘にとって、私は頼りない母親のようですから」
両頬を紅潮させた平塚さんに、私は苦笑いを向けた。もうすぐ4歳になる万智子は、大山さんが静養から復帰した今でも、弟たちの面倒をよく見てくれ、簡単な家事を手伝ってくれる、よく出来た娘なのだ。
すると、
「恐れながら、“頼りない”ということはありません、妃殿下」
平塚さんが真面目な表情で私に言った。
「日々の業務をこなされる中、糸結びの練習をなさったり、医学雑誌で最新の知識を学ばれたり……妃殿下はご自身を磨かれることに余念がございません。そんな方が“頼りない”とは、私にはどうしても思われないのですが……」
「ありがとうございます、平塚さん、褒めていただいて」
私は軽く頭を下げた。「けれど、それは職場でのことです。家では書斎にこもることもありますし、当直で家に帰らない日もあります。ですから、子供たちにしてみれば、“余り自分たちに会ってくれない母親”なのだと思いますよ」
「では、女王殿下に、国軍病院にいらしていただければよろしいのです。そして、妃殿下の普段のご勤務をご覧いただければ……」
「職場の見学ですか……。いいかもしれませんけれど、万智子だけが国軍病院に来るというのは、少し不自然な気がしますね。社会勉強のためなら、他の医師の子供たちにも、普段の親の勤務ぶりを見てもらうべきですし」
前世でも、親の職場を見学する催しがあったなぁ、と思いながら平塚さんに話していると、医師控室のドアがノックされた。平塚さんが私に一礼し、ドアを開けに行く。ドアの向こうにいる小使さんと小声で何かを話した平塚さんは、
「妃殿下、入院患者への面会許可の依頼でございます」
と言いながら私のそばへとやって来て、患者の名前を告げた。
「……本当に、清水海兵大尉に会いたいと言ってきたのね?」
「はい」
平塚さんは私の質問に頷いた。「今朝の回診では経過は順調でしたが……面会は難しい状況でしょうか?」
「いや、そんなことは……」
清水海兵大尉は、29日に緊急入院して、私がその日に虫垂切除術をした急性虫垂炎の患者だ。呉の第2戦隊の参謀である彼は、本省での会合のために上京した時に腹痛に襲われ、この築地の国軍病院に運び込まれた。特に問題なく手術は終わり、平塚さんが言うように、術後の経過は順調なのだけれど……。
「誰がお見舞いに来たか、分かりますか?」
問題は、見舞客が誰なのかということだ。もし、第2戦隊の司令官が見舞いに来たのならば、私にとってはとても厄介だ。そうだとしたら、大山さんとの事前の打ち合わせ通り、私は見舞客と顔を合わせないようにしなければならない。
「いいえ……2人連れの海兵だ、ということしか聞いておりませんが」
「そうですか……」
平塚さんの答えに舌打ちしそうになったのを、私は必死に堪えた。これでは、私は見舞客を避けるべきなのか否か、全く分からない。
(今日の正午過ぎに、汽車で新橋駅に着くという話だったけれど……一回本邸に戻ってから出直すにしては、時間が早過ぎるし……そもそも、大みそかにお見舞いって……)
一体誰が見舞いにやってきたのか、必死に考えていると、
「おい、面会許可はまだ出ないのか」
廊下から男性の鋭い声が聞こえた。内容からして、見舞客が発したものだろうか。聞いたことがない声だ。
「平塚さん、面会して大丈夫だと、早くお見舞いの方に伝えてあげてください」
平塚さんに私がお願いした時、
「これ、そう急くな」
聞き覚えのある、けれど聞きたくはなかった声が聞こえた。
「軍医どののご都合もあるだろう。ここに入院しているのは確かなのだ。ゆっくりしていても、清水が逃げることはない」
声はだんだん、こちらに近づいてくる。この声の主に、顔を合わせたくはない。とっさに私は椅子から立ち上がり、ドアからは覗き込めない控室の奥へ動こうとした。けれど、安全な位置に逃げ込む直前、私の姿は彼の視界に捉えられてしまった。
「これは、章子どの……」
ドアの外で、この5月から第2戦隊の司令官に就任した華頂宮博恭王殿下が、お付き武官の隣で私に笑顔を向けていた。
「……お久しぶりでございます、華頂宮さま」
頭のギアを戦闘モードに切り替えた私は、事務的に頭を下げた。
博恭王殿下とは、余り関わりたくない。私が妙なミスを犯す前に、彼にはさっさと患者さんの見舞いを終わらせていただきたい。けれど、博恭王殿下は、廊下から医師控室に足を踏み入れ、
「こちらこそ、お久しぶりでございます。まさか、章子どのにお目に掛かることができるとは、思ってもみませんでした」
そう言って、私に恭しく頭を下げた。
「面会許可を出すのが遅れてしまって申し訳ございませんでした。清水大尉には、面会していただいて差し支えございません。病室までご案内いたします」
私は再び頭を下げ、控室の扉から外に出た。小使さんには、清水大尉の病室の場所は分からない。平塚さんも、私の警護役なので、病棟の仕事に余り関わっていないから、どの患者がどの病室にいるかまでは把握していない。だから、私が清水大尉の病室まで、博恭王殿下を案内するしかないのだ。
「章子どの、他の軍医に案内をさせます。章子どのが動かれなくても……」
鷹揚に言う博恭王殿下に、
「今日は休日ですから、外科の軍医は私しかおりませんの」
顔に営業スマイルを張り付けた私はこう答え、廊下を歩き出した。博恭王殿下は、私の後ろをついてくる。本当は全力で走って、博恭王殿下を振り切ってしまいたいけれど、それでは私がミスを犯すだけになってしまうので、私はおとなしく病室へと歩いた。
「章子どのは、休日なのに出勤なさっているのですか?」
歩きながら、博恭王殿下は私に話しかける。答えたくはないのだけれど、“無視された”と騒がれても嫌なので、
「はい。今日の日中の当番は私ですから」
私は不快感が滲み出ないように気を付けながら彼に答えた。
「そうでしたか。新年拝賀のために上京して、新橋の駅からそのまま清水大尉の見舞いに来て正解でした。屋敷に戻っていれば、章子どのに出会えなかったでしょう。先月の大演習では章子どのにお目にかかれませんでしたから、とても残念に思っていたのです」
「築地国軍病院の職員は、大演習に召集されませんでしたからね……」
博恭王殿下と会話をしながら、
(分からない……)
私は首を傾げたかった。博恭王殿下の本音が、どうやっても汲み取れないのだ。
(栽仁殿下の奥さんに、私なら会いたくないけれど、なんでこんなに声が明るいのかしら。……ああ、“イジメたいから会いたかった”という論理も成り立つのか。それで、こんなに嬉しそうな声を……でも、もし本当にそう思っているのだとしたら、単なるサディストじゃない、博恭王殿下は。ああ、大山さんの言う通り、今日の当番、誰かに代わってもらう方がよかった。けれど、まさか大みそかに、部下のお見舞いに来るなんて思わないし……)
そんなことを考えながら、機械的に足を前へと動かしていると、
「軍服姿は数年ぶりに拝見いたしましたが、ご結婚前と変わらぬ美しさだ」
私に話しかける博恭王殿下の声に、賛美の響きが混じった。
「貴族院議長もご経験なさったからか、落ち着きと威厳とが、お身体から自然とにじみ出ておられる。正に国軍の女神、プリンセスの中のプリンセス……」
貴族院議長、という言葉に、私の足が止まりかけた。思い出してしまったのだ。今年の3月、帝国議会の閉会式で、博恭王殿下が私をじっと見つめていたことを。あの時の、僅かな冷たさと粘り気を含んでいた視線が記憶の底から浮かび上がり、私の背筋がぞくりと震えた。
「おや、章子どの。どうなさいましたか?」
私の変化を感じ取ったのだろう。博恭王殿下がゆったりした口調で私に尋ねた。
「別に……」
とっさにこう答え、足を動かし続けていると、
「もしや、“国軍の女神”と申し上げたのが、お気に召さなかったのでしょうか?」
博恭王殿下は私に更に聞いた。
(お気に召さないのは、あなたがここにいること、それ自体なのだけれど)
心の中でついた悪態を、博恭王殿下にそのまま投げつける訳にはいかない。けれど、彼の質問に返すべき言葉も見つけられない。仕方が無いので黙っていると、
「つれないお方だ」
博恭王殿下が苦笑する気配がした。
「少しは打ち解けてくださってもよろしいですのに。あのような話もあった間柄なのですから」
(あのような話?)
一体、何のことなのだろうか。心当たりが全くない。第一、私と彼には、個人的な接点がないのだ。
(何を言っているの、博恭王殿下は……?)
心の中で疑問が膨れ上がり、後ろを歩く博恭王殿下に訊き返そうとしたその時、
「妃殿下」
私の斜め後ろを歩いていた平塚さんが、小さな声で私を呼んだ。
「ご自宅から、火急の用向きの使者が参ったとのことです。いかがなさいますか」
「会いましょう」
私は即答した。盛岡町邸からの急ぎの用事……おそらく、いい知らせではないだろう。けれど、ここから逃れられるのであれば、何だっていい。
「……では、応接室の準備を」
私の答えを聞いた平塚さんが、後ろにいた小使さんに命じる。どうやら、この小使さんが、使いのことを知らせたらしい。
「妃殿下、華頂宮殿下のご案内はどうなさいますか?」
「そこの看護師詰め所に、誰かはいるでしょう。仕方がありませんけれど、その人に病室の場所を聞いて、平塚さんが案内してください。応接室までは1人で行きます」
尋ねた平塚さんに、私は早口で命じる。そして、
「華頂宮さま、申し訳ございませんが、呼ばれてしまいましたので、これで失礼させていただきます」
博恭王殿下に向かって優雅に一礼し、私はその場を立ち去った。
応接室の前には、黒いフロックコートを着た大山さんがいた。私を待ち構えている彼の表情は、緊張の色に染まっている。
「大山さん……!」
私は大山さんの左手をつかむと、応接室に引っ張り込み、扉を素早く閉めた。
「栽仁殿下や子供たちに何かあった?!それとも、お義父さまやお義母さまに……!」
「いいえ、ご安心ください。何事も起こっておりません」
身体にしがみついた私に、大山さんは優しく答えたけれど、次の瞬間、その顔は暗くなった。
「梨花さま、申し訳ございませんでした。手の者が、華頂宮殿下が新橋駅から直接国軍病院に向かったと知らせて参りましたので、急ぎ駆け付けましたが……梨花さまに、辛い思いをさせてしまったようです」
「ううん、大山さんは悪くない」
頭を下げる大山さんに、私は首を左右に振りながら答えた。「まさか、大みそかにお見舞いに来ることはないだろうと思っていた私の判断ミスだ。あなたが忠告してくれた通りに、誰かに当番を代わってもらうべきだった」
そう言うと、私は顔を上げ、
「ねぇ、大山さん。私と華頂宮さまの間に、何かあったの?」
縋るようにしながら大山さんに尋ねた。
「は?」
「華頂宮さまが言ったの。私と華頂宮さまとの間に、“あのような話”があったって。でも、私、華頂宮さまと、今までにトラブルを起こした覚えはないの。そもそも、昔から、何かの時に挨拶する程度の間柄で、特別深く関わったことはないのに……」
話しながら、私はまた、首を左右に何度も振った。分からないのだ。博恭王殿下がなぜ、あんなことを言ったのか。“あのような話”とは、一体何なのか……。
「ねぇ、大山さん、私、どうすればいいの?私と華頂宮さまの間に、一体何があったって言うの?」
私は大山さんに、問いをぶつけ続けた。けれど、問いに対する答えは、我が臣下からは返ってこず、彼はただ、私をあやすように抱き締めるだけだった――。




