鞍馬宮さまの嫁取り(2)
1914(明治47)年8月1日土曜日午前9時30分、東京府千駄ヶ谷町千駄ヶ谷。
「さ、着いたよ」
愛車のハンドルを握った栽仁殿下は、三島彌太郎子爵のお屋敷の横の道に車を入れると、助手席に座った私に微笑んだ。公式の用で出かける時は、川野さんに自動車の運転を任せる栽仁殿下だけれど、今日のように微行で外出する時には、自分で自動車を運転する。そして、夏休みに入った今日、栽仁殿下は私を連れて、早速微行でドライブに出発したのだけれど……。
「栽仁兄さま、ありがとうございます」
私と栽仁殿下の後ろ、自動車の後部座席で、青い背広服を着た私の弟・鞍馬宮輝仁さまが頭を下げた。実は、盛岡町邸を出発した私と栽仁殿下は、まず青山御殿へと車を走らせ、輝仁さまを後部座席に乗せたのだ。そして、青山御殿を出た私たちが向かったのは、千駄ヶ谷町の三島子爵邸だった。
「素晴らしい運転のご技量でございます、若宮殿下」
輝仁さまの隣に座っている秋山さんが、感嘆の声を上げた。何を隠そう、彼こそが、今回の三島子爵邸へのアポなし訪問の仕掛け人である。
「お父君に……有栖川宮殿下に、自動車のことを教わったのですか?」
「はい、実技は、全て父に教わりました。運転免許試験に必要な他の知識は、参考書を使って独学しましたが」
やや興奮気味の秋山さんに、栽仁殿下は穏やかに答えると、
「それより秋山さん、三島子爵はご在宅なんですよね?」
と尋ねた。
「毎週土曜日のこの時間、三島子爵は必ず自宅にいます。そして、昨夜帰宅してから、外出した形跡はありません」
秋山さんはここでいったん言葉を切ると、
「つまり、今が、鞍馬宮殿下が三島子爵に直談判なさる絶好の時……!」
目をギラギラさせながら言った。
(や……彌太郎さん!逃げて!超逃げて!)
助手席に座った私は、心の中で必死に祈らずにはいられなかった。
……6日前の7月26日、輝仁さまは盛岡町邸にやって来て、自分の結婚に関するお父様とお母様への直訴の結果を報告してくれた。そして、宮内省から内々になされた輝仁さまと蝶子ちゃんの結婚の打診を、蝶子ちゃんの父・彌太郎さんが断ったことを知った秋山さんと栽仁殿下は、輝仁さまを交え、とんでもない計画を立案した。……直宮である輝仁さまの、三島家へのアポなし訪問を。
――若宮殿下と妃殿下の微行でのお出かけに、鞍馬宮殿下が同行なさる、という形を取るのが、一番目立たないでしょう。
――それなら、僕が自動車を運転して、章子さんと出かけることにすればいいと思います。そういう時、護衛は1人しかつけないんです。その護衛役を、秋山さんが務めることにすれば……。
――それ、いいですね、栽仁兄さま!いつ決行します?
盛岡町邸の応接間でワイワイと計画を練る男どもを、
――や、止める方がいいと思うよ……。彌太郎さんが失神するだろうし……。
私は恐る恐る止めたのだけれど、
――は?いまさら何言ってんだよ、章姉上!
――章子さん、ここまで鞍馬宮殿下と蝶子ちゃんの話を聞いておいて、それは少し冷たいと思うよ?
弟と夫は私にこう抗議した。
秋山さんに至っては、
――確かに、三島子爵は恐慌状態に陥ってしまうかもしれません。混乱の余り、三島子爵が自殺を図る可能性もあります。そうなった場合、三島子爵の命を救えるのは、医師であらせられる妃殿下だけでございますが……。
などと言い、私の同行をやんわりと強いた。3人の思わぬ迫力に、私は首を縦に振るしかなかった。
しかし、彌太郎さんを説得するなら、もっと穏やかなやり方があるはずだ。大山さんに説得してもらうのは無理だけれど、宮内大臣の山縣さんや、鞍馬宮家の別当で中央情報院の現総裁でもある金子堅太郎さんが説得してもいい。場合によっては、彌太郎さんと同じ立憲改進党に所属する山田さん、桂さん、井上さん、更には内閣総理大臣の渋沢さんや党首の大隈さんに協力してもらってもいいのだ。
(とにかく、彌太郎さんの家へのアポなし訪問なんてまずい。誰かに相談して、この計画を止めないと……)
決行の日が8月1日に決まり、輝仁さまが青山御殿に戻って行った後、私は密かにこう思ったのだった。
さて、私がこの手の問題を相談できる相手は、まずは兄か大山さんになる。大山さんは佐世保にいるから、連絡が非常に取りづらい。そこで、7月30日、沼津で避暑中の兄と節子さまを訪ねて相談したところ、
――なぜ輝仁を止めなければならないのだ?
――そうですよ。とても素敵なのに。
兄にも節子さまにも、むしろ私の反応が腑に落ちない、という態度を取られてしまった。それどころか、
――決行はあさってか。節子、いったん東京に戻って、輝仁と蝶子の顛末を見届けるか?
――ええ、是非!お供します、嘉仁さま!
2人とも、輝仁さまのアポなし訪問に非常に乗り気だった。
――それは止めて。兄上と節子さままで一緒に来たら、彌太郎さん、本当に心臓麻痺で死ぬわよ……。
ノリノリの2人を何とか止めた私が、
――はぁ、兄上がこんなんじゃ、もう、電話か電報で、佐世保の大山さんを呼び戻すしかないかしら……。
とため息とともに吐き出したところ、
――やめておけ、大山大将は静養中だろう。それに、初めての内孫にも会わせてやらなければ。
兄はニヤニヤ笑いながら言い、こう付け加えた。
――むしろこの場合、大山大将がいると邪魔だ。何も知らせずに、佐世保でゆっくりさせてやれ。いいな。
(……輝仁さまのこと、止めるどころかけしかける気だろ、兄上!)
兄の笑顔に向かって、私は思わず心の中でツッコミを入れてしまったのだけれど……。
そして、意外にも、広瀬さんや千夏さんなどの盛岡町邸の他の職員、そして鞍馬宮家の別当である金子さんや、宮内大臣の山縣さんも、輝仁さまの計画を止める気は無いようだった。
――鞍馬宮殿下にとっては、良いご経験になるのでは。
男性たちは私にそんな反応を返し、千夏さんは、
――す、素敵です、大恋愛です!これは、これははかどりますよ……!宮さま、そのお話、詳しく教えていただいてもよろしいでしょうか?
と目を輝かせながら私の話に食いついて来てしまった。こんな状況では、輝仁さまの計画を止めるのに、誰も協力してくれない。なので仕方なく、私は気が進まないドライブに同行することになったのだった。
(ああ……今日は栽さんと気持ちが通じた記念日なのに、こんな妙なことに巻き込まれるなんて……)
この1週間のことを思い出していた私が、暗澹たる気分に陥っていると、
「さ、章子さん、行くよ」
いつの間にか車から降りた栽仁殿下が、助手席のドアを開け、私に手を差し伸べる。私は渋々その手を取り、車を降りた。
「ごめんください、立憲改進党の使いの者ですが……」
前方の門の前では、秋山さんが門番さんに話しかけている。二言三言、言葉が交わされた気配がした後、秋山さんがこちらを見て頷いた。どうやら、入って欲しいということらしい。秋山さんの後ろに続き、私と栽仁殿下が、そして最後尾から輝仁さまが門の中へと入った。
「どうぞ、旦那様がお入りくださいと……え?!ぎ、議長殿下?!」
一度奥に入り、再び門へと戻ってきた門番さんが、私の顔を見て仰天した。彼の顔には見覚えがある。彌太郎さんの車を運転していたのを、議事堂で1回見かけたのだ。
「あ、あの……」
落ち着いてください、と私が門番さんに声を掛けようとした瞬間、彼は素早く後ずさる。そして、「だ、旦那様あああああ!」と絶叫した。
「どうした、騒がしいぞ。使いの方に失礼だろう」
10mほど奥にある玄関の扉が開き、灰色の和服を着流した男性が姿を現す。現在、立憲改進党所属の貴族院議員としても活躍している三島家の当主・彌太郎さんだ。そんな立派な紳士の顔が、私の姿を見つけた瞬間、ひどく歪んだ。
「ぎ、議長殿下……それに、有栖川宮の若宮殿下?!」
「お、お久しぶりです、彌太郎さん……」
顔を引きつらせている彌太郎さんに、私は営業スマイルを向けながら、穏やかな声で挨拶した。何とか、彌太郎さんを少しでも落ち着かせなければならない。どうすればいいか、と考え始めた瞬間、
「く、く、鞍馬宮殿下あああああ?!」
彌太郎さんが目を剥いた。私たちの後ろにいた輝仁さまの姿を見つけてしまったようだ。
「そ、そんなっ……なぜ、なぜ我が家に……?!」
両腕で頭を抱えて叫んでいる彌太郎さんに、
「もちろん、蝶子さんとの結婚のご許可を得るためです、三島閣下」
前に進み出た輝仁さまが頭を下げた。こちらは直宮、あちらは華族だけれど、輝仁さまは妻にしたい人への礼儀は尽くしたいようだ、けれど、パニック状態に陥った彌太郎さんに、その誠意が届いているか定かではない。
(ああ、だから言ったのに……)
彌太郎さんと同じように頭を抱えた私の耳に、
「お父様、どうなさったの?」
女性の声と共に、軽い足音が届いた。だんだん足音はこちらに近づいて来て、流水と草花をあしらった白地の浴衣を着た若い女性が姿を現した。彌太郎さんの長女・蝶子ちゃんだ。玄関先の様子に素早く視線を走らせた彼女は、輝仁さまの姿を見つけた瞬間、
「な、何でーっ?!」
と悲鳴を上げ、地面に飛び下りた。
「ちょ……蝶子さん?!」
輝仁さまが叫んだのと同時に、蝶子ちゃんは身を翻す。そして、裸足のまま、私たちの左手の方向へと走り去ってしまった。
「ま、待ってくれ!」
輝仁さまは蝶子ちゃんの背中に向かって大声で叫ぶ。けれど、蝶子ちゃんが足を止める気配は全くない。左手に続いている庭園を蝶子ちゃんは突っ切り、奥にある通用門へとまっしぐらに走っていく。父親と同じく、蝶子ちゃんも恐慌状態に陥っているのは明らかだった。
(ど、どうしよう……じゃなくて、私が何とかするのよ!この混乱状態を何とかしないと、大変なことになる!)
自分自身を叱りつけて、何とか平常心を取り戻した私は、
「……輝仁さま、蝶子ちゃんを追うのよ」
動けないでいる弟にこう言った。
「章姉上?」
「蝶子ちゃんは混乱しているわ。あのまま道路に飛び出したら、荷車や人力車にぶつかってケガをするかもしれない。そうなったら大変よ。何とか彼女を止めて、ここに戻すの。いい?」
言いながら、弟をじっと見つめると、
「わかった!」
輝仁さまは頷いて、既に蝶子ちゃんがくぐった通用門へと走った。
「秋山さんは、彌太郎さんに事情を説明してください。それで、こちらからよく謝罪してください」
「妃殿下!なぜ我々が謝らなければならないのですか!」
「当たり前でしょう!人様に迷惑を掛けて!」
抗議する秋山さんを私は睨みつけた。「婚約の件を説得するにしろ、もっと他にやり方があったはずです。こんな馬鹿馬鹿しい計画を立てたのは秋山さんなのですから、責任を持って彌太郎さんを落ち着かせてください。いいですね?」
言葉に精一杯の力と威厳を込め、秋山さんをじっと見つめると、秋山さんは私に最敬礼した。
「さてと、私も蝶子ちゃんを追いますか」
私は履いていた草履を脱いだ。今日は和装だったので草履を履いたけれど、草履では走り慣れていない。かなりお行儀が悪いけれど、足袋で走る方が早く走れる。草履を両手で持つと、私も輝仁さまの背中を追って走り始めた。
通用門を出ると、屋敷の前の通りを輝仁さまが東に向かって駆けていくのが見えた。彼の背中を追っていくと、200mほど走ったところで、輝仁さまの走る速さが急に上がった。よく見ると、千駄ヶ谷町の町役場の前で、蝶子ちゃんがうずくまっていた。
「おい、大丈夫か?!」
輝仁さまが叫ぶと、
「わ……私のことは、ご放念くださいっ!」
蝶子ちゃんが怯えた表情で叫び返した。
「私は、殿下に無礼な振る舞いをした不届き者でございます!本来、殿下とお話しできる資格などございません!それなのに、なぜ我が家においでになりましたか!」
蝶子ちゃんは叫びながら、じりじりと輝仁さまから身体を遠ざける。彼女の両眼には涙が湛えられているように、私には見えた。そんな彼女に向かって素早く踏み込んだ輝仁さまは、彼女の右手を掴んだ。
「で、殿下?!」
目を見開いた蝶子ちゃんに、
「今、転んだろ。ケガ、してないか?」
輝仁さまは優しく尋ねた。
「だ、大丈夫です。膝を擦りむいただけで……」
蝶子ちゃんは輝仁さまから顔を背けた。「殿下、どうか……どうか手を離して……」
蝶子ちゃんが輝仁さまに訴えたその時、私の肩が後ろから優しく叩かれた。栽仁殿下が追いついてきたのだ。
「少し、2人の様子を見ようか、梨花さん」
「栽さん……でも、蝶子ちゃんに事情を説明しないと、パニックでどう動くか……」
顔をしかめながら栽仁殿下を見上げると、栽仁殿下は右手を伸ばし、私の頭を撫でた。
「それは、鞍馬宮殿下がやってくれるよ。僕たちが出て行くより、鞍馬宮殿下に、ゆっくり事情を説明してもらう方がいい。2人きりでね」
栽仁殿下を軽く睨みつけたけれど、微笑を含んだ彼の視線は、いささかも揺るがない。そうしているうちに、夫に反論する気力が失せてしまい、私はため息をついた。
輝仁さまは蝶子ちゃんを立ち上がらせると、2人で右手にある石の鳥居をくぐる。どうやらここに、神社があるようだ。「つけていこうか」という栽仁殿下の言葉に頷き、彼と一緒に石の鳥居の前まで進むと、輝仁さまと蝶子ちゃんが、奥にある拝殿の前で一緒に頭を下げているのが見えた。私たちはとっさに木の陰に潜んだ。
拝礼を終えた2人は、手水舎の前に移動していた。蝶子ちゃんの足元に屈んだ輝仁さまが、ひしゃくの水を彼女の膝に掛けている。どうやら、擦りむいた傷を洗っているようだ。
「これでよし……。後で戻ったら、章姉上に傷を診てもらおう」
やがて、処置を終えた輝仁さまは、蝶子ちゃんに微笑みかけた。
「あ、あの……ありがとう、ございます」
蝶子ちゃんは屈んだままの輝仁さまに頭を下げた。
「で、ですが、殿下、……もう、これ以上は、本当におやめください。こんなことをしていただくなど、私には、恐れ多すぎて……」
「ああ、気にするなよ。当たり前のことをしただけだ。だから、もっと気楽にして欲しい……って言っても、無理だよな。俺が皇族だってわかっちゃったから」
輝仁さまは苦笑いしながら立ち上がった。そして、背筋を伸ばすと、
「実は、俺が今日蝶子さんの家に来たのは、蝶子さんのお父上に、蝶子さんと結婚させて欲しいと直談判するためなんだ」
そう蝶子ちゃんに告げた。
「は、はぁ?!」
途端に、蝶子ちゃんの目が丸くなった。
「な、何考えてるの?!正気なの?!わ、私を妃にするなん……」
輝仁さまに更に激しく言い募ろうとした蝶子ちゃんは、左手で口を押え、急いで最敬礼した。
「申し訳ございません!私、また殿下に無礼を……!」
すると、
「いや……だからいいんだ」
輝仁さまは蝶子ちゃんに再び微笑した。
「へ……?」
「蝶子さんは、自分を飾らずに、ありのままの自分で俺にぶつかってくれる。だから好きになった。結婚したいと思った」
一瞬呆けたような表情になった蝶子ちゃんは、再び顔を強張らせると、
「お、恐れながら……」
輝仁さまに向かって、再び深く頭を下げた。
「殿下のお妃にふさわしい女性は、皇族にも、華族にも、たくさんいらっしゃいます。子爵家の娘に過ぎない私が、殿下の妃にふさわしいとは、どうしても思えないのですが……」
そんな蝶子ちゃんの反論に、
「俺たちが初めて出会った、章姉上主催の園遊会のこと、覚えてるか?」
輝仁さまは笑顔で応じた。
「は、はぁ……」
「あの招待客、全員、俺の結婚相手候補だったんだ。お母様があらかじめ、皇族や華族から、書類で選抜した……だから、あの園遊会に蝶子さんが呼ばれたってことは、蝶子さんは俺の結婚相手として全く問題ないっていうことなんだぜ」
(ま、確かにそうなんだけど……)
木の陰に隠れた私が、輝仁さまに心の中でツッコミを入れようとした時、
「で、ですが殿下、私は殿下にあんな無礼をしてしまいましたし……」
蝶子ちゃんもやはり、輝仁さまに反論をした。
「それに、私、物の言い方が、つい、礼を欠いたものになってしまうのです。母方の祖父には、それは淑女にふさわしくないと毎度たしなめられ、あの園遊会の後も、厳しく叱られてしまって……」
暗い表情になった蝶子ちゃんに、
「そんなの、必要な時だけ、猫を被っておとなしくしてればいいんだよ」
輝仁さまは笑って言った。
「章姉上だって、仕事の時は女神様みたいだけれど、それ以外の時は結構だらしないぜ」
「え、ええ?あの、議長殿下が?」
蝶子ちゃんの驚く声に、
「本当だぜ。俺、何年間か章姉上と一緒に住んでたから知ってるけど、大山閣下……蝶子さんの母方のおじいさんに、“淑女にはふさわしくありません”って、叱られてることも多かった」
輝仁さまは近親者だけが知っている私の内情を暴露してしまった。
(て、輝仁さま、余計なことを……これじゃあ、姉としての威厳が……)
「梨花さん、落ち着いて。今出て行ったら、2人ともビックリしちゃうから」
顔をしかめた私の身体を、後ろから栽仁殿下が抱き締めて止める。そんな私たちの前で、
「それに、万が一、蝶子さんを悪く言う奴が出てきたら、俺がそいつらから蝶子さんを全力で守る。それで、絶対蝶子さんを幸せにする。だから、どうか、俺と結婚して欲しい。頼む」
輝仁さまは、誠意を込めて蝶子ちゃんに一礼し、真剣な眼差しで蝶子ちゃんを見つめた。
(やだ……自分のことじゃないのに、私までドキドキしちゃう……)
私が顔を赤くしたその時、
「ちょ……蝶子?!」
聞き覚えのある男性の大きな声が、神社の境内に響いた。声のした方を見ると、石の鳥居の前に、三島彌太郎子爵が立っている。その後ろには、今回のアポなし訪問の仕掛け人である秋山さんもいた。
「蝶子……お前という奴は、鞍馬宮殿下にまた無礼な振る舞いを……許さん!」
木の陰にいる私たちに気が付かないまま、怒りで顔を真っ赤に染めた彌太郎さんは、蝶子ちゃんに向かって大股で歩いて行く。その前に、両腕を広げて輝仁さまが立ちはだかった。
「く、鞍馬宮殿下?!」
「蝶子さんは、俺に何もしていません」
驚く彌太郎さんに、輝仁さまはキッパリと言った。
「無礼な振る舞いをしたのは俺の方です、閣下。連絡もなく、突然押し掛けてしまって……ですが、こうしなければ閣下が会ってくださらないと思ったので、このような手段を取りました。どうかお許しください」
彌太郎さんに一礼した輝仁さまは顔を上げると、
「改めてお願い申し上げます。蝶子さんと、俺との結婚をお許しください!」
そう言って、再び深く頭を下げた。
「で、殿下!その儀は……その儀だけはご勘弁を!」
彌太郎さんは、首を左右に振りながら後ずさった。「このような無作法な娘、殿下のおそばに上げれば、必ず過失を犯し、殿下にご迷惑をかけてしまいます!どうか、殿下の将来のためにも、それだけは……!」
「俺は、蝶子さんと一緒にいられない将来など考えられません」
そう言いながら、輝仁さまは彌太郎さんに向かって一歩踏み出した。
「万が一、蝶子さんが過失を犯したとしても、俺は蝶子さんを全力で守ります。そして、蝶子さんは必ず幸せにします。ですからどうか、蝶子さんとの結婚をお許しください」
強い目で自分を見つめる輝仁さまに対し、彌太郎さんは黙っている。直宮が自ら、自分の結婚の談判をしに来るなど、異例中の異例である。その事実の重みや、園遊会での事件のことなどを考えあわせ、どうすればよいのか、必死に考えているのだろう。すると、私を抱き締めていた栽仁殿下が、その腕を解いて木の陰から出て、
「どうか許してあげてください、三島閣下」
と、彌太郎さんに優しく話しかけた。
「鞍馬宮殿下のご決心は固いです。章子さんも何度も翻意を促しましたが、引き下がりませんでした。その上、天皇陛下に直訴なさったのですから」
「なっ?!」
彌太郎さんは目を見開いた。
「ま、まさか、そんな……」
「本当です」
木の陰から顔を出し、私は小さな声で言った。「“お前にはあのような元気な娘が合っている”……お父様は輝仁さまにそうおっしゃったそうです」
私の言葉に、彌太郎さんは両膝を地面についた。蝶子ちゃんも目が点になっているけれど……突然、私と栽仁殿下が現れたのにも驚いているのかもしれない。
「三島閣下、お願いします!どうか、どうか蝶子さんと結婚させてください!」
輝仁さまがもう一度最敬礼すると、
「かしこ、まり、ました……」
彌太郎さんが観念したように言った。
「ふつつかな……本当にふつつかな娘ですが、殿下がそれほどまでにお望みならば、蝶子をおそばに差し上げましょう。……蝶子、それでいいな?」
「は、はい、お父様……」
蝶子ちゃんが緊張の面持ちで頷くと、
「ありがとうございます!」
彌太郎さんに向かって、輝仁さまはこれ以上ないくらい深く頭を下げた。そして、緊張している蝶子ちゃんに歩み寄ってその手を取った。
「よろしくな、蝶子さん」
「あ、あの……よ、よろしく、お願いします……」
輝仁さまに手を握られ、目を白黒させている蝶子ちゃんを眺めながら、
「……これで、鞍馬宮殿下の結婚のことは解決したかな」
栽仁殿下が優しく言った。
「だいぶ騒動になったけれどね……」
私は大きなため息をついた。「全く……足袋は汚れるし、彌太郎さんが倒れないかってハラハラしたし、折角の栽さんとの記念日なのに、散々なことになったわ」
と言って、再び大きなため息をついた。
「そうだね。梨花さん、相当気を揉んでいたからね」
栽仁殿下は顔に苦笑いを浮かべると、私の頭を軽く撫で、
「でも、あの2人には、幸せになってほしいな。僕たちの記念日に、婚約が決まったんだからね」
と言った。
「……それはそうね。私にここまで迷惑を掛けて、幸せにならなかったら許さないわ」
私たちの視線の先では、輝仁さまがまだ蝶子ちゃんの手を握っていた。蝶子ちゃんの目からは戸惑いの色が消え、こちらに向けた右の頬は、ほんのり紅くなっている。それを認めた私と栽仁殿下は、無意識のうちに互いの手を求めて手を伸ばし、次の瞬間には手をつないでいた。そして、目を合わせると、私は愛する夫と微笑を交わしたのだった。
※神社は一応、八幡神社を想定しています。今は「鳩森八幡神社」と呼ばれることが多いと思います。




