歩みを止めることなかれ(1)
1913(明治46)年12月19日金曜日午前11時15分、東京市麴町区内幸町2丁目にある帝国議会議事堂。
「つまり、議長決めの集会は、24日の水曜日ですね」
議事堂1階にある貴族院議長室。約9か月ぶりにこの部屋に入った私は、貴族院書記官長の太田峰三郎さんと打ち合わせをしていた。もうすぐ、帝国議会では通常会が始まる。副議長になる徳川家達さんや、各党のまとめ役たちとの打ち合わせは数日後から始まるけれど、太田さんと1対1での打ち合わせは今日からなのだ。
「さようでございます」
太田さんは私に向かって恭しく頭を下げた。数か月ぶりに会ったけれど、とても元気そうだ。
「ということは、24日の午後には、私が正式に議長に任命され、25日の午前に部属分けの抽選がある……この認識でいいでしょうか?」
「その通りです。そして、26日の午前中に、天皇陛下をお迎えしての開院式でございます」
「ああ、また勲章を付けて、お父様を出迎えないといけませんね。ようやく慣れましたけれど、新年拝賀と違って、衆人環視の中で勅語書を受け取らなければなりませんから、本当に緊張します」
私は苦笑いしながら太田さんに答えた。新年拝賀の時は、栽仁殿下と一緒に、他の皇族たちと一緒に並んでいるだけでいいから、そんなに緊張することは無い。ところが、帝国議会の開院式だと、私一人で勅語書をお父様から受け取らなければいけない。もちろん、その間の私の挙動は、開院式の参列者や供奉者、そして議場に並ぶ貴衆両院の議員たちの注目の的となる。緊張しないでいられる方がどうかしていると思う。
すると、
「先日、渋沢閣下も同じようなことをおっしゃっておいででした。“勅語書の奉進が上手くできるだろうか”と」
太田さんがこんなことを言い始めた。
「ああ、そうですね。それも、みんなが注目している中でやらないといけませんからね」
開院式には、貴衆両院の議員だけではなく、内閣総理大臣や閣僚たち、枢密院議長や枢密顧問官も参列する。ちなみに、現時点での内閣は、
内閣総理大臣:渋沢栄一(貴族院男爵議員)
内務大臣:桂太郎(貴族院男爵議員)※11月末まで文部大臣兼任
外務大臣:加藤高明
司法大臣:犬養毅(衆議院議員)
国軍大臣:山本権兵衛
農商務大臣:牧野伸顕
逓信大臣:尾崎行雄(衆議院議員)
大蔵大臣:高橋是清
文部大臣:大隈重信(貴族院伯爵議員)
厚生大臣:後藤新平
……以上のような顔ぶれになっている。これに加え、枢密院議長の黒田さん、枢密顧問官の西郷さんや松方さんも開院式に参列する。更に、宮内大臣の山縣さんをはじめとする宮内官たちもお父様に供奉して議場に入るし、男性皇族の誰かしらもお父様に供奉して議場に並ぶことになる。百戦錬磨の渋沢さんが、この状況に尻込みしてしまうのももっともである。
「まぁ、何とかなりますよ、きっと」
私は太田さんに笑顔を向けた。「私も初めてお父様を議場で出迎えた時にはとても緊張しましたけれど、何とかやり果せましたし……それに、渋沢さんがどんなに頑張っても、去年の閉会式以上に大変なことは起こせませんから」
「た、……確かに」
太田さんは顔を引きつらせながら短く答え、口を閉じてしまった。その様子を見て、
(あ……やらかした……)
私は舌打ちしたくてたまらなかった。これは明らかに、私の話題の選択が間違っていたせいである。気まずい沈黙が、議長室を覆ってしまった。
(うーん、これ、どうしたらいいかな……)
両腕を胸の前で組もうとした瞬間、執務机の上に置いた電話のベルが鳴った。太田さんが弾かれたように動き、受話器を取り上げた。
「もしもし、貴族院の議長室でございます」
受話器の送話口に向かって話す太田さんの表情は柔らかくなっていた。確かに、この沈黙を終わらせるという意味では、非常にいいタイミングで電話がかかってきたわけだ。
(誰からの電話かしら。この議長室の電話番号、一般には公開されていないから……)
考えを巡らせようとしたその時、
「議長殿下、ご自宅からお電話です。殿下と直接お話がしたいということでして……」
送話口を右手で押さえた太田さんが、私に受話器を差し出した。今日は大山さんと捨松さんがお休みを取っていて、私についてきたのは運転手の川野さんと中央情報院の新人職員だ。家の誰が電話をかけてきたのかと考えながら受話器を受け取り、受話口を耳に当てると、
「宮さま!宮さまですか?!」
私が何も言わないうちに、殴りつけるような大きな音が受話口から飛び出した。私は思わず受話口から耳を離した。これは、千夏さんの声だ。
「大変です、宮さま!」
「……千夏さん?」
私はやっとの思いで、送話口に向かって話した。「聞こえているわ。もう少し、小さな声で話して」
「あ、も、申し訳ございません」
千夏さんは謝罪して、声を小さくしてくれた。……それでもまだ大きかったけれど。
「それで、どうしたの、千夏さん?」
私が大きな声に耐えながら質問すると、
「すぐ、東京女医学校に向かってくださいませ!」
千夏さんから、私が全く予期しなかった答えが返ってきた。
「ベルツ先生が……ベルツ先生が、ご危篤という知らせが……!」
「は……?!」
手から力が抜け、私は受話器を取り落とした。
1913(明治46)年12月19日金曜日、午前11時50分。
「川野さん……これ以上、自動車の速度は上げられないですよね?」
牛込区の市谷仲之町にある東京女医学校に向かう自動車の中。後ろの座席から、私はハンドルを持つ川野さんに話しかけた。
「申し訳ございません……これが、法定の最高速度です……」
周囲に注意を払って運転を続けながら、川野さんは私に答えた。
「妃殿下のお気持ちは、分かっているのですが……妃殿下に、万が一のことが起こってしまっても……」
「ですよね……」
私は下唇を噛んだ。川野さんが言うことは、至極もっともだ。帝国議会通常会が始まる直前のこの時期に、貴族院議長を務める私が交通事故でケガをしてしまえば、政界が混乱する。それは分かっているのだけれど、心が急いて、理性で抑え付けられなくなってしまいそうだ。
(ベルツ先生……)
窓ガラス越しに、流れていく景色を眺めていると、ベルツ先生との思い出が風景と重なりながら、眼前に次々と蘇った。
初めてベルツ先生に出会ったのは、7歳の夏、伊香保の御用邸で兄と一緒に避暑をしていた時だった。兄が熱を出し、私が医者を探すように伊藤さんたちに命じ、やって来てくれたのが、たまたま伊香保に滞在していたベルツ先生だったのだ。私の言動に疑念を抱いたベルツ先生が私を問い詰め、結果として、私はベルツ先生から、私に特に欠けていた診察の手技など、この時代で医者をする上での必要事項を学ぶことになった。
そして、私の持つ未来の医学知識を、ベルツ先生は様々な医学者たちと協力し、この時代に具現化しようと試みた。アセチルサリチル酸やアセトアミノフェンの臨床応用、ペニシリンの抽出、血圧計の試作……。この時代でも再現できそうなものを1つ1つ具現化していくことで、日本の医学は飛躍的に発展した。
もちろん、ベルツ先生に教わったことはたくさんあった。診察手技は全て彼から教えられたし、一緒に診察をしたり、往診に行ったりすることもあった。私が外科医になったので、医師免許を取った後はベルツ先生と接する機会は減ってしまったけれど、医師として必要な心構えや態度などは、彼の行動や態度を見て、自然と学んでいた気がする。
最後にベルツ先生に会ったのは、一昨日、徳川慶喜さんのお屋敷でだ。リハビリが進み、何も持っていない状態なら、若い人と同じくらいの速さで5kmほど歩けるようになった慶喜さんに、“猟銃を長時間担いでも大丈夫なように、筋力と体力のさらなる向上を図りましょう”と、ベルツ先生と2人で告げたのだけれど……。
「到着致しました!」
川野さんの声とともに、自動車が停止した。目の前には、かつて私が通っていた東京女医学校の玄関がある。川野さんが開けてくれたドアから降りると、私は校舎の中に入った。
玄関で待ち構えていた吉岡弥生先生の夫・荒太先生が私を案内したのは、教員室の隣にある和室だ。私が女医学校に在籍していたころには、診察手技の実習をする時によく利用されていた。その部屋の奥の布団に、ベルツ先生の身体が横たえられていた。その両目は閉じられている。
「……殿下のご自宅にお知らせ申し上げて、10分も経たないうちに亡くなられました」
ベルツ先生の枕元に正座した弥生先生が、低い声で私に告げた。
「ウソ……」
「内科学の授業をなさっている時に倒れられて……死因は胸部大動脈瘤の破裂でしょう」
「どういう、ことですか……?」
私は弥生先生を見つめた。「胸部大動脈瘤破裂と、どうやって診断を付けたのですか?あっという間に亡くなったのなら、エックス線写真を撮る暇はないでしょうし、第一、この校舎にエックス線撮影装置はありませんよね?では……」
更に弥生先生に質問しようとした時、
「去年の春に、診断したのです」
彼女の口から、信じられない言葉が飛び出した。
「は……?」
「去年の春、殿下が謙仁王殿下をお産みになったころ、ベルツ先生の胸部エックス線写真を至誠医院で撮影して、私がたまたま見つけました」
「そんな……!」
私は目を見開いた。
胸部大動脈瘤……私の時代でも、もし破裂したら、患者の半数以上が病院に到着する前に亡くなってしまう病気だ。だから、私の時代では、破裂する前に手術で動脈瘤を切除して人工血管に置き換えたり、ステントグラフトで治療したりする。けれど、血管手術がほとんど発展していないこの時代では、どちらの治療手段も取れない。有り体に言ってしまえば、発見したとしても、破裂して体内に大出血を起こして死ぬのを待つしかない、不治の病なのだ。
「では……ベルツ先生は、大動脈瘤のことを知らずに……」
私が喘ぐように言うと、
「いいえ、ご存じでした」
弥生先生は、更に衝撃的な事実を私に告げた。
「?!」
「ご自分が胸部大動脈瘤を患っているということを、ベルツ先生はご存じでした。そして、誰にもこのことを教えないで欲しいと強くおっしゃったのです。女医学校の教職員たちや生徒たちにも、今まで医科大学で育てて来られた大勢のお弟子さんたちにも、そして、殿下にも」
「そんな……それでは、ベルツ先生は、私たちに大動脈瘤のことを、ずっと隠して……」
一昨日、最後に会った時、ベルツ先生は普段と変わらず元気そうだった。その前に会った時も、更にその前に会った時も、変わった様子は全く無かった。自分の身体の中に、いつ爆発して自分の命を奪うか分からないものが潜んでいると知ったら、どこかで、精神的な重圧に耐えられなくなる場面も出てくると思うけれど……。
「自分が死んだら、遺体を剖検して欲しい。そして、女医学校や医科大学の生徒・教員たちの、教材にして欲しい……ベルツ先生は、私にそうおっしゃいました。奥様にも、同じことをおっしゃったという、ことでしたが……」
弥生先生は、低い声で私に説明を続ける。いつもより抑揚のない話し方をする弥生先生の声は、時折震え、不自然に止まった。
「ご家族と協議の上、医科大学の先生方と、剖検について、相談しようと思います」
弥生先生の言葉を聞きながら、私はベルツ先生の顔にじっと視線を注いだ。目を閉じたベルツ先生の顔は、口元にうっすらと笑みを湛えていた。




