キャッチボール
※地の文のミスを訂正しました。(2022年3月20日)
1913(明治46)年10月11日土曜日午後3時、皇居。
「ねぇ、どなたがよろしいですか、増宮さん?」
私と兄が参加して開かれる月1回の梨花会が終わった後。いつもお母様が謁見に使っている部屋で、私は優しくお母様に問いかけられた。
「誰が、と言われても……」
私の前にある机には、何十枚かの写真が並べられている。写真の被写体は、全員皇族や華族の令嬢だ。服装やポーズは様々だけれど、顔がはっきり写った全身の写真、というのは共通していた。
「そもそも、私に聞くのが間違っています。お見合い用の写真なんて、前世を含めて、1回も見たことがないのですから」
私が首を左右に振りながら答えると、お母様は「あら……」と呟き、困惑の色を顔に浮かべた。
「そうですか……。増宮さんはご結婚まで、満宮さんと一緒に暮らしていらっしゃったから、満宮さんの女性の好みもご存じなのではないかと思ったのですが……」
「お母様、そんな話、輝仁さまとしたことなんてありませんよ。私が奥手なのは、お母様もご存じでしょう?」
すると、
「まぁ、梨花、落ち着け」
私の右横、長椅子に座っている兄が、私とお母様のやり取りに割って入った。
「だからこそ、俺と節子もここにいるのだろう?」
「そうです。お姉さまの苦手なことは、私が助けます」
兄と並んで長椅子に座った節子さまが、私に向かって力強く言った。
「さぁ、お姉さま、決めてしまいましょう。輝仁さまの御結婚のお相手」
(それが困るんだよ……)
明らかに乗り気になっている節子さまを見ながら、私はこっそりため息をついた。
私のただ1人の弟・満宮輝仁さまは、来月30日に満20歳の誕生日を迎え、成人する。それを機に、輝仁さまは新しい宮家を作るのだけれど、同時に、彼が誰を妃に迎えるのか、という問題も浮上した。そこでお父様とお母様が……正確に言うと、お母様が中心になって、輝仁さまのお妃候補の選定が進められていた。今、机の上に並べられた写真の中の令嬢たちは、全員、輝仁さまのお妃候補なのである。
「さぁ、増宮さん、どの方がよろしいですか?全員、健康状態にも、家柄にも、問題がないことは確認していますよ」
お母様は微笑しながら、私に再び問いかける。今度こそ、ちゃんとした答えを言っていただきますよ――お母様の瞳からは、そんな期待があふれ出ていた。
「……正直なところ、この中の誰でもいいのではないかと思ってしまいます」
お母様の期待を裏切ることになるなぁ、と思いながら、私は口を開いた。
「家柄にも、健康状態にも問題がないということなら、あとは、輝仁さまとの相性がいいかどうかが大事になると思います。ですから、写真や書類だけでこれ以上に候補を絞るのは難しいのではないでしょうか……」
苦労しながら言い終わると、
「お母様、梨花の言う通りです」
兄が私に加勢してくれた。
「俺も梨花も、結婚する相手と幼いころから親しんでいました。それゆえ、相手の人となりもよく知ることができ、仲が深まったように思うのです」
(そうなのかなぁ……?)
私は首を傾げたくて仕方がなかった。結婚する10年以上前から、栽仁殿下のことは知っていたけれど、私が彼を好きになったのは、結婚の4年ほど前、私が成人した後のことである。だから、私と、12歳から節子さまを結婚相手として意識していた兄とでは、少し事情が違うように思うのだ。
と、
「それでしたら、輝仁さまがお妃候補たちと話をする機会を設ければよいのではないでしょうか」
節子さまが右手を軽く挙げながら提案した。
「それはよいかもしれないが、この何十人といる妃候補のそれぞれと、輝仁が向かい合って一対一で話すのか、節子?」
横を向きながら尋ねた兄に、
「違います、嘉仁さま」
節子さまはキラキラした瞳を向けた。
「園遊会を開くんです。候補の方々、全員をお招きして!そうすれば、輝仁さまもお妃候補を一度に見ることが出来ます」
「ああ、それはとてもいいお考えですね、節子さん!」
お母様がはしゃいだ声を上げた。
「是非やりましょう、お妃候補の方々をお招きする園遊会。もし、満宮さんが気になる御令嬢を見つけたら、その場でその方に話しかけることもできますし。ねぇ、増宮さん、いかがですか?」
「いい案だとは、思いますけれど……」
私は結婚した時に開いた園遊会の光景を思い出した。お客様をおもてなししなければならない私も緊張したけれど、招待客たちはもっと緊張していた。特に、園遊会に全く慣れていない国軍病院の職員たちは、全員、緊張で顔が引きつっていた。そして、私に向かっておかしなことを口走ったり、周囲への注意がおろそかになって、物や人にぶつかったりしていたのだ。輝仁さまのお妃候補たちは、全員皇族・華族の御令嬢だから、そんなヘマはしないと思うけれど、普段とは違う環境に置かれたら、やはり緊張してしまって、自分の持ち味が出せないだろう。逆に、輝仁さまのお妃の座を狙い、殊更に自分を飾り立てて、輝仁さまに猛アプローチを仕掛ける人もいるかもしれない。
「……園遊会で、招待された御令嬢たちが、ありのままの振る舞いをするとは思えないのです」
私は必死に自分の考えをまとめ始めた。どういう訳か、軍医や貴族院議長の仕事をする時よりも、頭の働きが鈍くなっている。
「もし、園遊会で、輝仁さまが御令嬢たちに話しかけたら、相手はものすごく緊張すると思います。上手に喋れない人もいるでしょうし、自分を偽り、輝仁さまに媚びを売るような人も出て来るでしょう。けれど、結婚相手は、一緒に長い時間を過ごす人です。相手のありのままの人柄が分からないと、将来、一緒に過ごす上で、不都合が出てきてしまうのではないかと……」
「なるほど、説得力があるな」
兄が私の言葉に頷いた。
「梨花は栽仁に、昔からありのままの人柄を知られているから」
「……兄上、怒っていい?」
ギロリと睨みつけると、兄は「すまん」と私に向かって頭を下げる。その大げさな動作に、お母様と節子さまがプッと吹き出した。
「……しかし、輝仁が出席すると分かれば、それこそ、梨花の言う通り、自らを取り繕う者が増えそうだな。そうでなくとも、緊張してしまうだろうし……そうだ、いいことを思いついたぞ」
兄は唇の端に微笑を閃かせると、自らの考えをとても楽しそうに説明した。
(それ、上手くいくのかなぁ?)
兄の提案にお母様も節子さまも賛成し、トントン拍子で計画が立てられてからも、私の心からは不安が消えてくれなかったのだった。
1913(明治46)年10月25日土曜日午後3時、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮家盛岡町邸。
「何で、こんなことをしなきゃいけないんだよ……」
ぼやいた私の弟・満宮輝仁さまに、
「それは私が言いたいセリフよ……」
紅色の地の白襟紋付を来た私は言い返すと、盛大にため息をついた。
これから、この盛岡町の家の庭園では、私が主催する園遊会が開催される。招待客は2週間前、私が写真を見せられた、14歳から20歳の皇族・華族の御令嬢たち……つまり、輝仁さまのお妃候補たちである。そして、兄たちが立てた計画により、急遽開催が決まったこの園遊会に、輝仁さまも参加することになった。……我が有栖川宮家の職員に変装して。
「結婚なんて、当分考えられないよ」
眉間に皺を寄せた輝仁さまの顔には、立派な口ひげと顎ひげが生えている。これはもちろん、自前のものではなく、変装用のパーツだった。カーキ色の軍服に鳶色の腕章を巻いた技術士官の制服ではなく、輔導主任の金子堅太郎さんに押し付けられた変装用の黒いフロックコートを窮屈そうに着ている輝仁さまの顔には、不満の色が湛えられていた。
「なぁ、章姉上、俺、今からでも、青山御殿に帰れないかな?」
しかめ面のまま私に尋ねた弟に、
「ダメよ。私がお母様と兄上と節子さまに怒られちゃう」
私は首を左右に振って答えた。
「輝仁さまが変装して園遊会に紛れ込めば、結婚相手候補のありのままが見られる……3人とも、そう言ってすごく乗り気だったのよ。そんなの、私に止められる訳がないでしょう」
「そりゃ、奥手な章姉上には、そこまで期待しないけどさ……あーあ、俺、編入試験に集中したいのに、何で見合いなんてしなきゃいけないんだよ」
輝仁さまはぶつくさ文句を言い続けている。確かに、彼の気持ちも分かる。今年の夏、技術士官学校を首席で卒業して技術少尉になった輝仁さまは、来年の夏に行われる航空士官学校の編入試験に合格するべく、勤務の合間を縫って猛勉強を続けているのだ。今の彼にとって、結婚の話は、自分を邪魔するもの以外の何物でもないだろう。
「ま、あなたの正体がお客様たちにバレなければ、それでいいわ」
私は苦笑いを顔に浮かべると、お客様たちの方に向かって歩き出した。気が進まないのは、兄に園遊会の主催を押し付けられた私も同じだ。おかげで、この2週間、私だけでなく、我が家の職員さんたち全員が、園遊会の準備に忙殺されることになった。とにかく今は、園遊会を無事に終えるしかない。
「議長殿下、本日はお招きいただき、ありがとうございます」
「議長殿下とお話できること、大変光栄に存じます」
色とりどりの和服で着飾った令嬢たちは、私の姿を見ると優雅に歩みより、礼儀正しく挨拶をする。私に対して緊張しても不思議ではないけれど、令嬢たちが堂々と、そして自然体で振る舞えているように見えるのは、各ご家庭や学校での教育の成果だろうか。
「みんな、しつけがいいわね、ねぇ、大山さん……」
令嬢たちが全員、私に挨拶をしてくれた直後、そう言いながら斜め後ろを振り返ったけれど、そこに我が臣下の姿はなかった。
「千夏さん、大山さんはどこに行ったの?」
私の後ろにいた千夏さんに聞くと、
「宮さま、忘れておしまいになったのですか?お孫さんがこの園遊会に招待されているから、今日はお休みするということになっていたではないですか」
彼女は苦笑しながら私に返答した。
「あ、そうか、そうだったわね……」
千夏さんに言われて、私はそのことをようやく思い出した。大山さんの長女・信子さんの娘である三島蝶子ちゃんが、何十人かいる輝仁さまのお妃候補の1人になっているため、
――蝶子が俺の孫と知って、満宮さまが変に意識してしまえば、他の御令嬢方が不利になってしまいます。満宮さまに、御令嬢方を公平にご覧になっていただくため、俺は園遊会の日、欠勤させていただきます。
大山さんは私にそう申し出たのだ。その蝶子ちゃんは16歳、園遊会が始まったばかりの時に、「祖父がいつもお世話になっております」と礼儀正しく私に挨拶してくれた。スポーツ万能で、特に叔父の三島彌彦君から教えられた野球が得意……お母様の所で見た写真の説明書きにはそう書かれていた。あと、なかなか口が達者なのは、オリンピック予選会の時に私も目撃したから知っている。
(だけど、印象に残っているのは、彼女と女王殿下方ぐらいだなぁ。まぁ、みんないいお嬢さんなのは確かだけれど)
私は手に持った小さなバッグから、今日の招待客のリストを取り出した。輝仁さまのお妃候補たちを、もう一度確認しておこうと思ったのだ。
まず、目を引くのは、閑院宮家の三姉妹である。長女の恭子女王殿下は17歳、次女の茂子女王殿下は16歳、三女の季子女王殿下は14歳だ。ふっくらした愛らしい顔立ちの三姉妹の周りは、穏やかな雰囲気に包まれていた。
彼女たちの隣で、友人と思しき令嬢たちと談笑しているのは、華頂宮家の一番上の女王殿下だ。彼女の名前も閑院宮家のご長女と同じく恭子、と書くけれど、こちらの読みは“やすこ”である。この11月で15歳になる彼女は、面長の整った顔立ちで、動作も優雅である。
彼女たち皇族だけではなく、華族の御令嬢方も多数招待している。その中で注目すべきなのは、岩倉具張公爵の妹、16歳の花子さまと、同じく16歳の季子さまである。近衛文麿公爵の妹で、15歳になる武子さまもいる。浅野長勲侯爵の孫娘、16歳の礼子さまもいる。その他、伯爵・子爵・男爵家のお嬢さま方も多数参加しており、園遊会は令嬢たちの見本市のような様相を呈していた。
(あれ?)
華やかな園遊会の会場を、リストとにらめっこしながら眺めていた私は、輝仁さまの姿が消えていることに気が付いた。せっかく集まった御令嬢方に目もくれず、弟はどこかに行ってしまったようだ。
(まぁ、仕方ないか。明らかに気乗りしてなかったしね)
そう思った瞬間、本館の方からガシャン、と大きな音がした。ガラスが割れた音に似ている気がするけれど……。
「千夏さん、ちょっと本館の様子を見てきてちょうだい。私はここで、お客様たちの接待を続けるから」
後ろに控えている千夏さんにそっと声を掛けると、彼女は別の職員を連れて本館へと向かう。千夏さん自身も講道館で鍛えている柔道の猛者だし、彼女について行った職員も、中央情報院の新入職員だから、武術には精通している。
(侵入者……白昼堂々と?だけど、こんな風に普段と違う時の方が、侵入しやすいのかもしれない。とにかく、万が一の場合は、お客様たちをパニックに陥らせないようにして、ここから脱出させないと……)
平静を装いながらも、頭をフル回転させていると、
「宮さま、こちらにおいでいただけますか!」
千夏さんが全速力でこちらに向かって走って来た。「少し失礼しますわ」と会場に向かって優雅に微笑むと、私は千夏さんの後を追った。
千夏さんが私を導いたのは、本館のそば、1階の職員控え室の裏手だ。見ると、職員控え室の窓ガラスが1枚、割られているのが分かった。そして、その割れた窓の前に、職員に変装した輝仁さまと、緑色の襟付紋付を着た三島蝶子ちゃんが立っていた。2人とも、顔が真っ青だ。
「ええと……これ、どういう状況かな?」
何が起こったのかさっぱり分からない。とりあえず、そこに立っている2人に訊いてみると、
「ごめんなさい……俺の投げた野球のボールが、窓ガラスに当たって……」
輝仁さまが私に向かって最敬礼した。彼の手には、野球のグローブがはめられていた。
(え?こんなもの、どこから出てきたの?まさか、輝仁さまが持ち込んだのかな?)
グローブの出所が分からず、困惑している私に、
「違います!」
蝶子ちゃんが叫ぶように言った。彼女も左手に、グローブをはめていた。
「私が悪いのです。私がこの職員さんを、無理にキャッチボールに誘ったから、こんなことに……。ですからどうか、罰するなら私一人を、議長殿下!」
すると、
「はぁ?!」
顔をしかめた輝仁さまが、蝶子ちゃんに詰め寄った。
「お前……俺が皇族だからって、かばうのかよ!ボールを最後に投げたのは俺だろ?!」
「あなたこそ、変なことを言うんじゃないわよ!しかも議長殿下の前で!」
蝶子ちゃんは詰め寄ってきた輝仁さまをキッと睨みつけた。
「こんな形のひげを生やした皇族なんて、私、見たことがないわよ!議長殿下のご自宅で働いているからって、皇族を詐称できるとでも思ったの?馬鹿じゃないの?!」
「ああん?!お前、俺のこと、馬鹿って言ったな?!確かに、昔はそうだったけど、それじゃあ航空士官になれないから、俺、これでも努力してきたんだぞ!」
「今度は軍人になる妄想?いい加減にしなさいよ。あんなに入学試験の倍率が高い学校、あなたみたいな職員が業務の片手間に勉強して合格できるところじゃないわよ!」
「それは分かってるんだよ!だから俺は、ずっと努力を続けて……」
「あ、あの……2人とも、落ち着いてちょうだい」
本気の言い争いをしている2人に、私は恐る恐る声を掛けた。すると、輝仁さまも蝶子ちゃんも口を閉じ、パッと私に身体を向けて頭を下げた。
「あのさ……ひげ、外したら?自分で皇族だって言っちゃった以上、変装を続けても意味ないと思うよ?」
輝仁さまにこう言うと、彼は無言で顔に手を掛けた。顔の下半分を覆っていた口ひげとあごひげが取り除かれると、つるんとした、輝仁さま本来の顔が現れる。
「満宮……殿下?!」
輝仁さまの顔を見た蝶子ちゃんは、両目を満月のようにまん丸くすると、その場に平伏してしまった。
1913(明治46)年10月25日土曜日午後8時、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮家盛岡町邸。
「……つまり、満宮さまは、倉庫から僕の野球ボールとグローブを持ち出したんだね?」
「そういうこと」
横須賀から戻ってきた栽仁殿下と一緒に夕食をとった後、私は彼と一緒に居間に移動して、今日あった出来事を報告していた。長椅子に私と並んで腰かけた夫は、要点で質問を挟みながら、私の長い話に耳を傾けていた。
「そりゃ、職員さんたちは、輝仁さまの正体を知っているもの。野球の道具がどこにあるかって聞かれたら、素直に教えるしかないわ」
私は夫に答えるとため息をついた。
「それにしても、園遊会が嫌な人たち同士で、意気投合しちゃうなんてねぇ……」
湯飲み茶わんに手を伸ばしながら、私は輝仁さまと蝶子ちゃんから聞いた話を思い出していた。
輝仁さまは園遊会が始まってすぐに、会場から抜け出した。もちろん、この園遊会に参加すること自体が嫌だったからだけれど、本館の周りを歩いていると、人の輪から離れたところに、園遊会の招待客と思われる少女が佇んでいるのに彼は気が付いた。
――それで、彼女に声を掛けてみたんだよ。どうしたんですか、って。そうしたら、“本当は今日、叔父さまと一緒に、東京専門学校と慶応の野球の試合を見に行く予定だったのに、お父さまに議長殿下の園遊会に行けと言われてしまったから、試合を見に行けなくなった”って言われてさ。俺も野球は好きだから、2人で野球の話で盛り上がって……。
事情を根掘り葉掘り聞く私に、輝仁さまはこう説明したのだった。
――それで、彼女が“キャッチボールをしたい”って言い始めてさ。流石にそれはまずいだろうと思って止めたんだけど、“あなた、淑女のお誘いを断るの?”って言い始めたから、仕方なく、職員さんに野球の道具のありかを教えてもらって、栽仁兄さまの野球道具を借りたんだ。
そして、輝仁さまと蝶子ちゃんは、本館のそばでキャッチボールを始めた。学習院にいた頃に野球部のエースをしていた彌彦君が教えただけあって、蝶子ちゃんは和服を着ていたのにも関わらず、輝仁さまが投げる球も軽々とキャッチしていた。
――ふん、この程度なの?もっと、私をきりきり舞いさせるくらいの球、投げてごらんなさいよ。
蝶子ちゃんに挑発された輝仁さまは我を忘れ、全力でボールを放り投げた。しかし、コントロールが無茶苦茶になってしまい、ボールは職員控え室の窓ガラスを直撃した……。それが今回の事件の一連の経緯だった。
「……後始末が大変でね。蝶子ちゃんのお父様がすっ飛んできて、“爵位を返上致します!”って土下座されちゃったの。大山さんも顔を真っ青にして出勤してきてね。2人をなだめるの、本当に苦労したわ」
蝶子ちゃんのお父様の三島彌太郎子爵は、立憲改進党に所属している貴族院議員でもある。そして、今まで立憲改進党の貴族院議員たちをまとめていた渋沢栄一さんが総理大臣に就任したのに伴い、渋沢さんの後任のまとめ役になる予定だったのだ。爵位を返上されてしまったら、貴族院議員としての資格も失われてしまい、まとめ役も出来なくなる。輝仁さまと2人で必死になだめ、“爵位返上は許さない。今まで通り立憲改進党の議員として、立憲政治の成熟に努めるように”と私が令旨を出したことで、彌太郎さんの暴走はようやく止まったのだった。
「関わった人には全員、きつく口止めをしておいた。それから、金子さんに話して、彌太郎さんの家の様子は、院の職員に見張ってもらうことにしたよ。最初の勢いだと、彌太郎さん、蝶子ちゃんを監禁したり折檻したりしかねなかったから。……そもそも、蝶子ちゃんが輝仁さまを罵ったのは事故のようなものよ。だって、彼女は、相手が皇族だと知らずに話していたんだから」
そこまで言った私が、湯飲み茶わんに再び手を伸ばした時、
「そうだね。……でも、これ、案外うまく行きそうだね」
栽仁殿下が私に向かって微笑んだ。
「うまく行きそうって、何が?」
首を傾げた私に、
「満宮さまのお見合いだよ。初対面で意気投合してキャッチボールを始めるっていうのは、蝶子ちゃんと相性がいいんじゃないかな?」
夫は優しい声で言った。
「罵り合っている場面しか、印象に残っていないわ。それに、こんな事件になったから、彼女がお妃になるのはあり得ないんじゃないかなぁ……」
私が戸惑いながら答えると、
「喧嘩するほど仲が良い、って言うじゃない」
栽仁殿下はなおも私に言った。どうやら、蝶子ちゃんに興味を持ったらしい。
「そうだけど……。でも、私、栽さんと喧嘩した記憶が無いわ」
強いて言えば、彼の虫垂炎の手術をした直後、棒倒しに参加した彼を、ついカッとなって怒鳴ったことはある。……ただ、あれが喧嘩かどうか分からないし、婚約内定前だったから、ノーカウントにさせてほしい。
「じゃあ、今から喧嘩してみる?」
「お断りします」
悪戯っぽく言った栽仁殿下に、私は唇を尖らせながら返し、彼を軽く睨みつけた。すると、栽仁殿下がプッと吹き出し、私もそれにつられて笑い声を上げたのだった。




