閑話:1913(明治46)年立春 局長2人の受難(1)
※地の文を訂正しました。(2022年2月16日)
1913(明治46)年2月15日土曜日午後0時30分、東京市麴町区大手町1丁目にある大蔵省主計局。
貴族院で行われた予算委員会での答弁を終え戻ってきた主計局長・浜口雄幸は、主計局前の廊下に友人が立っているのを見つけた。外務省で取調局長を務めている幣原喜重郎である。2人は京都にあった第3高等中学校で共に学び、一緒に東京帝国大学法科大学に進学した昔なじみだった。
「珍しいな、ここに来るとは。……だが、追加予算を外務省につけろという要求なら応じないぞ」
厳めしい顔をしかめながら浜口が言うと、
「違う。お前にそんなことを言っても、断られるのは分かっている。僕はただ、予算案についてお前に質問をしに来ただけだ」
明るい茶色の背広服を着た幣原は、慌てて両手を顔の前で振った。
「……内密にしたい話か?」
「ああ。だからこの時間に来たんだ」
浜口の問いに幣原はニヤッと笑った。土曜日は、官庁の仕事は正午で終わる。もちろん、残業をする者もいるが、正午過ぎのこの時間には、皆昼飯を食いに外に出る。内密な話をこの大蔵省の中でするには最適な時間だった。浜口が何も答えずに主計局のドアを開けると、幣原も友人に続いて中に足を踏み入れた。
「……で、何が聞きたい」
主計局の自分の席についた浜口が尋ねると、
「宮内省の予算のことだ」
昼食のために外に出かけた職員の椅子を拝借しながら幣原は言った。
「どうも、宮内省の予算は多すぎるように感じるのだ。恐れ多いことではあるのだが」
浜口は黙っている。話を続けろということだと幣原は解釈し、自らの推論を更に展開した。
「来年度の国家予算は約2億6800万円。そのうち、外務省が約500万円、内務省が約1000万円だ。それに対して、宮内省の予算は1250万円。……しかし、宮内省がそんなに金を使うとは、僕にはどうも思えないのだ」
「その根拠は?」
短く問うた浜口に、
「一昨年の、皇太子殿下と皇太子妃殿下の御渡欧の費用だ」
と幣原は答えた。
「いくらほどだったと思う、浜口?」
「100万円……いや、お買い上げの品もたくさんあっただろうから、150万円ほどか?」
すると、
「驚くな、70万円だ」
幣原は声を潜めた。
「何?」
「驚いただろう。僕も驚いたのだ。しかし、会計担当者の帳簿を盗み見たのだから間違いない」
一昨年の皇太子夫妻の洋行に随行した幣原は断言した。「しかも、内親王殿下方の御婚儀準備にも、そんなに金額は掛かっていないらしいのだ。ドレスやお嫁入りの道具類を全てヨーロッパに発注すれば30万、いや、それ以上の金が御婚儀のたびに掛かるだろう。ところが、議長殿下が、“嫁入り道具や装身具は可能な限り国産で”というご意向をお輿入れの際に示されたのもあって、1度の婚儀に費やす費用は10万円未満で済んでいるそうだ。そりゃあそうだ、他の内親王殿下方が、姉君の議長殿下より贅沢な婚儀を挙げる訳にはいかないからな」
「ふむ」
頷きながら、浜口は先ほど帝国議会議事堂ですれ違った現在の貴族院議長・章子内親王の姿を思い浮かべた。後ろに副議長・徳川家達公爵を従えて優雅に歩く彼女は、3人目の子を身体に宿しているというのに、独身だったころと変わらずひどく美しかった。軍医として活躍し、予備役に回った今は議長として貴族院を円滑に運営している章子内親王は、まさに当代きっての才女と言える。
「……しかし、そう考えていくと、1250万円の予算が宮内省に必要なのか、僕には分からなくなるんだ」
回想の世界を垣間見ていた浜口の意識は、友人の強い口調で現実に戻された。
「宮内省の役人たちの人件費、それに皇室財産の管理費、宮家の必要経費……それらを合わせて考えたとしても、1250万円の数字は余りに大きすぎると思う。なぁ浜口、宮内省が裏金を作っているような話を聞いたことはないか?もし、天皇陛下の威光を笠に着て、公金を着服するような宮内省の役人がいるから予算が増えているのなら、そいつらは罰しないといけない。そして、過剰な予算は取り上げて、もっと有効に使うべきだ」
「で、その取り上げた予算を、外務省に回せと言うのか?」
「違う!」
勢いよく首を左右に振った幣原は、更に声を潜めると、
「諜報機関を作るべきだと思うのだ」
と友人に言った。
「お前も覚えているだろう。高橋閣下が、バルチック艦隊の補給を妨害したのを」
「それはもちろんだ。あれは、我が大蔵省の歴史に残る手柄だからな」
珍しく、浜口の口が滑らかに動く。極東戦争の時、はるばるバルト海から日本近海に向かおうとしていたロシアのバルチック艦隊の補給を、高橋是清大蔵大臣――当時は大蔵次官だったが――は、寄港予定地のタンジール周辺で良質な石炭や食料を買い占めて値段を吊り上げることで妨害した。そのため、物資調達が困難な状況に陥ったバルチック艦隊は、艦隊運動に精彩を欠き、砲の命中率を落としてしまった。その結果、バルチック艦隊は対馬沖海戦で日本と清の連合艦隊に壊滅させられたのである。この高橋の一連の行動は、“タンジールの兵糧攻め”と呼ばれ、大蔵省内では語り草になっていた。
「あれは確か、ロンドンにいらっしゃった高橋閣下が、バルチック艦隊の動きや各地の物資の値動きをたまたま把握できたから出来たという話だが……」
浜口の反応を見た幣原は、そこでいったん言葉を切ると、
「“たまたま”ではいかんのだ」
と力強く言った。
「どういうことだ、幣原?」
「偶然得られた情報を利用して、すかさず兵糧攻めをした高橋閣下は確かにすごい。しかし、同じような場面が将来再び巡って来た時、その“偶然”が発生するとは限らない。日本のためになる策を的確に実行するためにも、“偶然”は“必ず起こること”に変えなければならないのだ」
「……なるほど、理に適っているな」
「それには、情報収集活動が必要だ。世界各国の外交や政治の動きはもちろん、株式や穀物の値動き、世論の動き……情報は多ければ多いほどいいし、質が高い情報だったり、機密情報だったりすれば、なおありがたい」
力説を続ける幣原に、
「つまり、より良い国家的戦略を立てるために、情報を収集する機関を作ろう、ということだな」
浜口はこう返し、静かに椅子から立ち上がると、「大臣に話してみよう」と言った。
「今からか?」
驚いた表情を見せる幣原に、
「一緒に議事堂から戻って来たから、今なら一人で大臣室にいらっしゃるはずだ。それに、鉄は熱いうちに打てと言うではないか」
浜口はライオンのような厳めしい風貌に、強い決意を漂わせながら答えた。
「宮内省の予算の使途は公開されない。しかし、無駄が生じているというならば、使途を全て公開させて無駄を省く。そして、それで生じた剰余金を、全て諜報機関の創設に回す。来年度の予算はもう議会に提出済みだから修正できないが、その次の予算で断固としてこれを行う。……幣原、一緒に大臣室に来てくれるか?」
「いいとも。やってやろうじゃないか!」
友人の頼みに、幣原は右こぶしを握り締め、勢いよく立ち上がった。
※渡航費や婚儀の費用については適当に設定しています。




