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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第54章 1912(明治45)年立夏~1913(明治46)年啓蟄
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謙仁の初参内

 1912(明治45)年5月14日火曜日午前11時20分、皇居・表御座所。

「あのー、お父様(おもうさま)、そろそろ、謙仁(かねひと)を返していただけますか?」

 私は、栽仁(たねひと)殿下と私の長男である謙仁を抱っこしているお父様(おもうさま)に呼びかけた。今日は、謙仁が宮中三殿に初めて参拝する日だった。そして、お父様(おもうさま)お母様(おたたさま)にご挨拶をするため、参拝が終わった後、私は謙仁と、長女の万智子(まちこ)を連れて参内したのだけれど、お父様(おもうさま)は謙仁を抱っこしてから15分、ずっと謙仁を放してくれないのだ。謙仁も、今はおとなしくお父様(おもうさま)に抱っこされているけれど、機嫌を悪くして泣き出してしまわないだろうか。それが心配で、お父様(おもうさま)にこうお願いしたのだけれど……。

「そう急くな、章子。もっと、謙仁の凛々しさを愛でさせろ」

 黒いフロックコートを着たお父様(おもうさま)は、私を軽く睨みつけた。そして、すぐに謙仁の顔に視線を戻し、

「そなたは栽仁に目がそっくりだ。将来、そなたも父親と同じように、海兵になるのかな、ん?」

上機嫌でこんなことを言っている。

 と、

「いいえ、謙仁さんは、今度は私が抱っこするのです」

椅子に座ったお母様(おたたさま)が、鈴を転がすような声で横から言った。お母様(おたたさま)の膝の上には、もうすぐ1歳4か月になる万智子がちょこんと座っている。彼女はお母様を見上げながら、「ばばしゃま?」とあどけない笑顔で言った。

「む……では美子(はるこ)、万智子を抱かせろ。謙仁と万智子、両方抱くのはそなたには無理だろう」

「かしこまりました。では、万智子さんと謙仁さんを交換ですね」

 微笑むお母様(おたたさま)に、謙仁を抱いたままお父様(おもうさま)が近づく。私と、表御座所の隅に控えていた大山さんは、お父様(おもうさま)お母様(おたたさま)のそばに行き、両親が万智子と謙仁を交換するのをアシストした。

「よかったです。謙仁さんもお元気そうですし、増宮(ますのみや)さんも、無事に退院できて……」

 謙仁をしっかり抱えると、謙仁の顔を見つめながらお母様(おたたさま)が感慨深げに言った。私は黙って首を垂れた。

「増宮さんが議事堂で産気づいたと聞いた時には、本当に驚いて、生きた心地がしませんでした。ですが、結果的にはご安産でしたし、母子ともに無事で……安堵しました」

「ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした」

 私はお母様(おたたさま)に一礼した。

「無事だったのは、兄上のおかげです。あの時、兄上が議事堂にいなかったら、私は適切な行動が取れなくて、謙仁を殺していたかもしれません」

 私はお母様(おたたさま)に抱かれた謙仁をじっと見つめた。あの時、兄に抱きかかえられて帝大病院に行かなかったら、私への抗生物質の投与が遅れ、私は産褥熱(さんじょくねつ)にかかっていたかもしれない。それに、私が無理に閉会式に出席していたら、分娩が急激に進み過ぎて、私も謙仁も命の危険にさらされていた可能性もあるのだ。

「けれど、お父様(おもうさま)や陸奥さんをはじめとして、帝国議会に関わる人すべてに大きな迷惑を掛けたのは事実です。しかも、その原因は、私が分娩時期について誤った思い込みをしたことにあります。それに弥生先生が縛られてしまい、弥生先生に誤診をさせることになりました。私が自分の言葉の重みに思いを致さなかったこと……それが謙仁を、危ない目に遭わせることになりました」

「……で?罰を与えて欲しいのか?」

 万智子を抱いたお父様(おもうさま)が、私につまらなそうに尋ねた。

「いえ、そうではなく……」

 私は頭を下げた。「今後、このような事態が生じないよう、将来の女性議員とそのお腹の中にいる子供を守るためにも、対策を講じさせていただけたらと思います」

「ほう?」

「腹案はありますから、ここで申し上げてもよろしければ……」

「いや、次の梨花会の時にしろ」

 私の言葉を遮ったお父様(おもうさま)はニヤリと笑った。「そなたなら、朕に罰を乞うてきて、大山にたしなめられるのであろうと思ったが、善後策を講じたいとは……のう、大山」

「はい」

 黒いフロックコート姿の大山さんが、穏やかに頷いた。

「御自らを傷つける頻度は、ご結婚の後、格段に減りました。時折はご自身を傷つけようとなさいますが、若宮殿下がたしなめられると、ご自身を傷つけるのをおやめになります。このご様子ならば、梨花さまは若宮殿下にお任せして、(おい)はずっと万智子女王殿下と謙仁王殿下のお世話をしていてもよいかもしれません」

「そんな寂しいことを言わないで、大山さん」

 私は我が臣下に苦笑いを向けた。

「私が大山さんから教わりたいことは、まだまだたくさんある。政治もそう、軍事もそう、謀略もそう……もちろん、子育てもね」

「それは頼もしいことでございます。是非、(おい)の力量を追い抜かすほどにご成長いただきたいものです」

 大山さんは少しおどけた調子で言った。この非常に有能で経験豊富な臣下の力量を、私が追い抜かす日なんて恐らく来ないだろうけれど、可能性を100万分の1でも上げる努力は続けなければならない。

「早速にでも、梨花さまに様々御講義申し上げたいのですが、……もうそろそろ、次の予定に向かわなければなりませんよ、梨花さま」

「ああ、もうそんな時間なのね。……お父様(おもうさま)お母様(おたたさま)、万智子と謙仁をこちらに」

「はい、分かりました」

 私の声にニッコリ笑って頷くと、お母様(おたたさま)は近づいた私の腕の中に謙仁を移した。お父様(おもうさま)に抱かれていた万智子は床に下ろされると、「じーじ!」と大きな声で呼びながら大山さんの方へと歩いていく。

「万智子、そなたの祖父は朕だぞ」

 少しムッとしたように言うお父様(おもうさま)に、

「もちろんでございます。陛下と有栖川宮(ありすがわのみや)殿下が“おじいさま”で、(おい)は爺やでございます。女王殿下が話される言葉の数はまだ少ないですが、ご成長されれば、陛下も“おじいさま”と女王殿下に呼ばれることでございましょう」

大山さんは微笑してこんなことを言う。どう見ても形勢は大山さんが優勢で、お父様(おもうさま)は「ううむ……」とうなって黙り込んでしまった。

「今日は、これからどうなさるの?」

 お母様(おたたさま)の問いに、「皇孫御殿に参ります」と私は答えた。

節子(さだこ)さまのお見舞いをして、兄上と節子さまと一緒にお昼ご飯をいただくことにしています。もし、英宮(ひでのみや)さまが幼稚園から帰って来ていたら、英宮さまと4人で、かもしれません」

「そうですか。では増宮さん、節子さんによろしく伝えてくださいますか?」

「かしこまりました、お母様(おたたさま)

 謙仁をしっかり抱いた私は、お母様(おたたさま)に頭を下げた。

「また、万智子さんと謙仁さんを連れて、こちらにいらしてくださいね。お(かみ)もお喜びになりますから」

「もちろんです。……ではお父様(おもうさま)お母様(おたたさま)、ごきげんよう」

 私はもう一度お父様(おもうさま)お母様(おたたさま)に一礼すると、万智子の手を引く大山さんと一緒に、表御座所から退出した。


 1912(明治45)年5月14日火曜日午後1時30分、皇孫御殿。

「……だからね、産休に入っていない妊娠期間も、主治医が必要だと認めれば、勤務時間中に休憩を取ったり、勤務時間を短縮したり、欠勤したりできるようにするのがいいと思うの」

 皇孫御殿の食堂で兄と節子さま、そして兄夫妻の3男・英宮尚仁(なおひと)さまと一緒にお昼ご飯を食べた後、私は兄と節子さまに、先ほどお父様(おもうさま)に説明できなかった腹案を話していた。ちなみに、英宮さまはご飯を食べ終わると「叔母さまの子供と遊びたい!」と言い始めたので、輔導主任の乃木さんが別室に連れて行った。

「ええ、それ、すごくいいと思います」

 節子さまがニッコリ笑った。「悪阻(つわり)がひどくて、仕事にならない時もあると思います。それに、もし流産や早産の徴候が現れたら、安静にしていないといけませんし」

「そうだよね。私も万智子がお腹の中にいた時は、悪阻で休んだり、仕事の量を減らしたりしないといけなかった。それに、今回の妊娠だって、破水の1、2週間前からお腹が張ることもあったから、それを軽視せずに、“早産の徴候あり”ということで仕事量を減らしていたら、兄上に迷惑を掛けることもなかったかもしれない。はぁ、もう兄上には、一生頭が上がらないよ」

 私がため息をつきながらこう言うと、

「私、今回の件で、また嘉仁(よしひと)さまに惚れ直してしまいました」

節子さまはキラキラした瞳を兄に向けた。

淑女(レディ)の危機に駆け付ける新時代の騎士(ナイト)……新聞でも大評判でしたし」

「節子、そんなに言うな。俺は梨花の兄として、当たり前のことをしただけだ」

 そう言いながら、兄は慌てて湯飲み茶わんに手を伸ばし、緑茶を一口飲む。兄の頬は、ほんのりと紅く染まっていた。

 私が帝国議会閉会式の直前に産気づき、兄にお姫様抱っこで自動車に運ばれて、搬送先の東京帝国大学医科大学付属病院で謙仁を生んだことは、当然ながら大ニュースになった。そもそも、私が貴族院議長に任命された時から、新聞各社は私の動静を追い、通常より多くの記者を議事堂に配置していたのだ。閉会式の日の一連の騒動が彼らの目に留まらないはずはなく、号外を発行する新聞社が続出した。翌日の新聞各紙は、兄のことを“現代的騎士道の模範”だの、“妹君の危機を御自らを省みず救われたことは、まさに仁慈の君と言う他なし”だの、“日本男子は皇太子殿下のごとく紳士(ジェントルマン)となるべきである”だの、口を極めて褒め称えていて、このような事態が発生するに至った経緯を追及しようとする新聞は1紙もなかった。恐らく、中央情報院が情報操作をしたのだろう。

 けれど、それに甘えてはいけないと私は思った。私と兄が突然閉会式への出席を取りやめたために、あの時、帝国議会議事堂は大混乱に陥ったはずなのだ。それにもし、私以外の女性議員が現れて、私と同じような目に遭ったら、元々男尊女卑の風潮が強いこの社会では、厳しく批判されてしまうかもしれない。

 だからこそ、妊娠中の女性労働者がどう働けばいいのか、私はこの機会にもう一度考え直すことにした。4月1日に帝大病院から謙仁と一緒に退院した後、私は万智子と謙仁の育児をしながら、現行の規定の改定案をまとめた。そのことを話したら、兄が「詳しく教えろ」と身を乗り出したので、英宮さまが食堂から去った後、人払いをした食堂で改定案について話し始めたのだけれど……。

 と、

「それから梨花お姉さま、重労働をしなければならない妊婦への配慮は特に必要ですわ」

兄の横顔に見惚れていた節子さまが私の方を向いてこう言った。

「ほら、国軍の看護兵だと、けが人の他にも、砲弾や物資を運ぶお手伝いをする可能性もあるでしょう?士官になると、乗馬もしなければなりませんし……」

「あー、その視点は欠けていたなぁ。ということは、重いものを持ったり、身体が振動するような作業をしたりする場合は、医師の指示で短縮や免除が出来るようにすればいいかな。……うん、兄上と節子さまに話して良かった。違う視点から見ると、欠けているものに気付きやすくなるからね」

 手元の紙に話の内容を書き付けていると、

「皇太子妃殿下、そろそろ授乳を……」

廊下から兄の実母・早蕨(さわらび)さんの声がした。

「お姉さまはどうなさいます?もしよろしければ、謙仁さんの授乳、一緒にやりませんか?」

「じゃあ、お言葉に甘えようかな。そろそろ謙仁に授乳する時間だし。……早蕨さん、謙仁を連れてきてもらってもいいですか?」

 扉を開けて顔を出した早蕨さんにお願いすると、「かしこまりました。では、皇太子妃殿下と一緒に動いてくださいませ」と早蕨さんは快く承諾してくれた。その言葉に従って、節子さまと一緒に皇孫御殿の奥まった一室に入ると、乳母さんの腕の中で、謙仁と同じくらいの身長の赤ちゃんが大きな声で泣いていた。4月17日に生まれた兄夫妻の4男・倫宮(とものみや)興仁(おきひと)さまである。

「かわいいねぇ。目元が節子さまそっくりだ」

「ですね。でも、鼻は何となく、嘉仁さまに似ているんです」

 節子さまは私に答えながら、乳母さんの腕から倫宮さまを受け取った。泣いていた倫宮さまが、節子さまがあやすとたちまち泣き止む。

(流石だなぁ……5人目の子育てだもんね、節子さま)

 節子さまが手際よく授乳する様子を見ていると、早蕨さんが謙仁を抱っこして部屋に入ってきた。私は早蕨さんから謙仁の身体を受け取ると、節子さまと同じように授乳を始めた。

「謙仁さんは、目元が栽仁(たねひと)さまに似ていらっしゃるのね」

 倫宮さまに授乳をしながら、節子さまが目を細めて謙仁を見る。

「そうなの。見てすぐに、私たちの子供だって分かった。元気に生まれてきてくれて、本当にありがたかったよ」

 一生懸命に私の乳首を吸っている謙仁を私は見つめた。幸い、帝大付属病院を一緒に退院した後、謙仁は順調に成長している。

「それにしても、節子さまと一緒に自分の子供に授乳する日が来るなんて、思ってもみなかったな。栽仁殿下との婚約が内定するまでは、結婚すること自体が信じられなかったから」

 謙仁を見つめながらそう言うと、

「あら、お姉さま。そんなことを言うと、栽仁さまがかわいそうですよ」

節子さまの微笑が私に向けられた。

「お姉さまが謙仁さんをお産みになった日の夜、横須賀からいらっしゃった栽仁さまが、嘉仁さまになんておっしゃったと思います?」

「知らないわ」

 私が首を左右に振ると、

「“幼いころから、絶対に章子さんを守ると誓っていたのに、章子さんの危機を救うことができず、皇太子殿下のお手を煩わせてしまい、面目次第もございません!”って」

節子さまの口から情熱的な言葉が飛び出し、私は一瞬身体を硬くした。

「やだ……栽仁殿下、そんなことを言ったの……?艦隊勤務中だから仕方ないのに……」

 栽仁殿下は去年の10月、一等巡洋艦“日進”から戦艦“朝日”に配属が変わった。“朝日”も“日進”と同じく横須賀港にいるけれど、私が産気づいた日、その知らせが“朝日”に入ったのは、半日の予定で出航して訓練をしている最中だった。“朝日”が横須賀港に戻り、特別休暇をもらった栽仁殿下が東京に向かえたのは午後3時、謙仁が生まれた後だった。

「……愛されていますね、お姉さまは」

 節子さまは、私の首元に優しいまなざしを向けた。そこには銀のチェーンを通された結婚指輪が光っている。

「それは、節子さまもでしょう?」

 こう言い返してみると、「あら、お姉さまにそんな風に言い返されるなんて、思ってもみなかったわ」と節子さまはニッコリ笑った。

「これでも一応、人妻ですからね」

 私が悪戯っぽく微笑むと、節子さまはプッと吹き出す。そして、顔を見合わせた私たちは、クスクスと、幸せな笑い声を交わしたのだった。

※一応、華頂宮殿下は“朝日”の艦長になっていない設定です。念のため。

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