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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第53章 1911(明治44)年大暑~1912(明治45)年春分
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国際オリンピック大会選手予選会(2)

 1911(明治44)年11月18日土曜日午後1時30分、東京府羽田町にある羽田運動場。

「広いわねぇ……」

 桃色の無地の和服に紅い帯を締め、変装用の伊達メガネを掛けた私は、入り口から運動場を見渡しながら呟いた。ここは、京浜電気鉄道が経営する運動場で、約33000㎡の敷地に、野球場とテニスコート、そして陸上競技の400mトラックが作られている。トラックの周りには、大きな天幕がいくつか設置されていた。

「そうですね、宮さ……」

 私に答えようとした千夏さんの口が、後ろから塞がれる。私たちに同行している青山御殿の職員・広瀬(ひろせ)武夫(たけお)さんが大きな手で押さえたのだ。

「むぐーっ!むぐーっ!」

 手足をジタバタさせる千夏さんに、

「“梨花さん”だろ、千夏さん!」

広瀬さんが小さいけれど強い声で注意する。

「で、でも、広瀬さん……」

 広瀬さんの手から口を逃がした千夏さんが、やはり囁くような声で反論を始めた。

「無理ですよぉ!“お嬢さま”や“奥さま”ならともかく、宮さまを、自分と対等な人間のように“梨花さん”と呼ぶなんて……」

「仕方ないでしょう、そういう設定なのだから」

 私は小さな声で、乳母子の説得を始めた。

嘉納(かのう)校長は華族の知り合いも多い。もしかしたら、今日、この会場にも、大山さん以外の華族が来ているかもしれない。そこに私が、いつもの微行(おしのび)のように“千種(ちくさ)子爵の妹”と名乗って現れたら、“千種子爵にこんな妹はいないはずだ”と不審に思われて、私の正体が露見する可能性がある。だから今日は、私は千夏さんの女学校の同窓生で医師の半井(なからい)梨花。皇族でも華族でもなくて、士族の娘。そこのところ、くれぐれもよろしくね、千夏さん」

 そう言うと、私は千夏さんをじっと見つめた。千夏さんは両目を閉じると、観念したかのように、「は、はいです……」と頷いた。

「では、嘉納師範のところに参りましょう。あの天幕にいらっしゃるはずです」

 千夏さんの拘束を解くと、広瀬さんは私を促した。彼の言葉に従い、私と千夏さんは、広瀬さんと一緒に天幕へと向かった。

「おーっ、宮内省組が来た!」

 天幕に近づくと、大きな声が聞こえた。天幕の下で、黒いフロックコートを着て山高帽を被った、恰幅の良い男性が、千夏さんと広瀬さんを手招きしている。間違いない。あの立派な口ひげの男性は、東京高等師範学校の校長・嘉納治五郎(じごろう)先生だ。

「師範、お久しぶりです!」

 パッと最敬礼した広瀬さんに、

「ああ、広瀬君。今日は来てくれてありがとう。青山御殿の仕事は大丈夫なのかい?」

嘉納校長は大きな声で話しかけた。

「観菊会の片付けも終わりましたから、何とか休みを取ることが出来ました。明日も、こちらに参上させていただきます」

 柔道の師匠に、広瀬さんは礼儀正しく答えた。日本の非公式の諜報機関・中央情報院のやり手の職員でもある広瀬さんは、4日前に開催された観菊会には余り関わっていないと思うけれど、中央情報院の存在を知らない人が相手だから、このように回答したのだろう。

榎戸(えのきど)さん……ではなかった、東條さんは、体調は大丈夫かね?英道(ひでみち)くんは元気かい?」

「おかげさまで、千夏も英道も元気です。師範こそ、体調はよろしいのですか?」

 千夏さんの問いに、嘉納校長は元気な声で、

「ああ。恐れ多くも、有栖川(ありすがわ)若宮妃殿下からご教示いただいた食事療法を実践し続けているよ」

と答えた。

(ああ、それならよかった)

 私がホッとしていると、

「麦飯はご飯茶わん1杯だけにして、あとは豆腐を代わりにしている。食事ごとに、豆腐を丼に山盛り1杯食べているよ」

……嘉納校長は自信たっぷりな口調でこう言った。

「そのお話、詳しく」

 私は思わず、嘉納校長に向かって進み出た。

「丼の容量が1000ml前後だとすると、校長先生が召し上がっている豆腐の容量は、山盛りであることも考慮して1000mlは超えているでしょう。豆腐の比重は間違いなく水よりも大きいですから、校長先生は食事のたびごとに、豆腐を1kg以上召し上がっていることになりますけれど……」

 私はそんなことは教えていない。“柔道の指導を実戦でたくさんなさることを考えると、先生が1日にとって良いカロリーは1900kcal前後になります。その半分から6割のカロリーを炭水化物で取られると考えると、1食当たり食べて良いご飯の量は、ご飯茶碗1杯程度になります”……嘉納先生に渡してもらった紙には、そう書いたはずだ。“ご飯の代わりに豆腐をたくさん食べてください”とは絶対に書いていない。

(豆腐の100g当たりのカロリーは、麦飯100gよりは少ないはずだけれど、そんなに豆腐を食べたらカロリー過多よ!全く……)

 どうやらもう一度、嘉納校長には、糖尿病の食事療法について指導する方が良さそうだ。私が身構えた瞬間、

「ん?ご婦人は……一体どちら様ですかな?」

嘉納校長が怪訝な顔で私を見た。

「ああ……失礼いたしました。私、東條さんの女学校時代のお友達の半井梨花と申します。女医学校を出て医師をしておりまして、お話を聞いていたら、つい……」

 慌てて恭しく一礼すると、私は嘉納校長に営業スマイルを向けた。

「ほう、そうでしたか。若宮妃殿下といい、この半井さんといい、東條さんは医者とご縁があるね」

 そう言って微笑する嘉納校長に、千夏さんは「は、はぁ……」とあいまいな相槌を打つ。まさか、その2人が同一人物だとは、口が裂けても言えないだろう。

 と、

「嘉納先生、そろそろ、競技の進行について打ち合わせを……」

嘉納校長の後ろから、背広服の男性が声を掛けた。

「ああ、そうですな。では東條さん、いや、おやま……うわっ?!」

 嘉納校長が驚きの声を上げる。血相を変えた千夏さんが、突然嘉納校長に駆け寄ったのだ。

(ち、千夏さん、どうしたの?!)

 戸惑う私の前で、千夏さんは嘉納校長の身体に半ば飛びつくようにして抱き付く。けれど、すぐに彼女は嘉納校長から離れた。

「あ、ああ、分かった……」

 嘉納校長はすぐに普通の表情に戻り、「で、では東條さん、観戦記の執筆、よろしく頼んだよ」と千夏さんに言った。

「はいです!じゃあ梨花さん、行きましょう!」

 千夏さんは元気よく返事をすると、私の右手をつかみ、私を引きずるようにして天幕から出て行く。

「ち、千夏さん、あの……」

(嘉納校長に抱き付いた時、何か、耳打ちしてなかった?)

 こう尋ねようとした瞬間、千夏さんは急に立ち止まり、黙って私を見つめる。どこかでこんな彼女を見たことがあると思い、記憶を探った私はすぐに回答にたどり着いた。4年前に上野で開かれた内国博、売店で原稿用紙の束を買ったのを私に見つかった時だ。

(あー、やっぱり、文章を私には見せたくないのかな。まぁ、恥ずかしさもあるだろうし、これ以上は詮索しないでおこう)

 そう思った私は、

「千夏さん、競技が始まるまで少し時間があるみたいだから、運動場を見て回ろうか」

と乳母子に提案したのだった。


 午後1時50分。

「観客は、高等学校や大学の学生が多いかしらね」

 私は、千夏さんと広瀬さんと一緒に、のんびりと運動場内を見て回っていた。天幕の下やトラックの周りにいる観客は、全部で2、300人ぐらいだろうか。そのほとんどは、栽仁(たねひと)殿下と同年代の男性だ。時折「頑張れ」などと声を上げているのは、出場選手の知り合いだろうか。

 と、

「り、梨花さん、あそこにいるの、彌次(やじ)将軍ですよ、東京専門学校の!」

千夏さんが前方を指し示した。トラックの近く、黒い詰襟の服を着て、口ひげを八の字に生やした若者が、「出場の選手諸君は整列すべし!」と大声を張り上げている。

「へぇ、あの人が有名な“虎鬚彌次将軍”かぁ。初めて見たわ」

 本名は、吉岡(よしおか)信敬(のぶたか)というらしい。けれど、世間では、“虎鬚彌次将軍”というあだ名の方が有名だ。東京専門学校の応援隊長で、どんなスポーツでも、東京専門学校の学生が出場する試合の観客席には必ず現れて、熱烈な応援を繰り広げているので、新聞でもしばしば彼の活躍が報道される。最近は、冒険小説家の押川(おしかわ)春浪(しゅんろう)先生が中心になって立ち上げたスポーツ愛好団体・“天狗倶楽部”にも加入したらしい。とにかく彼は、東京の学生たちの中で名の知られた存在になっていた。

「でも、“選手は整列しろ”なんて、応援ではなくて、競技会の世話人のようなセリフだけれど……今日は彌次将軍、応援はしないのかしら?」

「そうでしょうね。そう言えば、天狗倶楽部は、この運動場で野球の試合をよくしているそうです。もしかしたらその縁で、将軍も今回の競技会の役員をやっているのかもしれませんね」

 首を傾げた私に千夏さんが説明していると、

「梨花さん、千夏さん。大山閣下があちらにいらっしゃいます」

今度は広瀬さんが、私たちの近くの観客席を指し示した。見ると、灰色の背広服を着た大山さんが、観客席の最前列の椅子に座っている。彼の右隣には14、5歳くらいの少女が座っていて、左隣には10歳前後の男の子2人が並んでいた。

「ああ、あの子たちは、信子(のぶこ)さんたちのお子さんだね」

 写真で見覚えのある子供たちの顔を確認した私は頷いた。大山さんの長女・信子さんは、貴族院子爵議員・三島(みしま)彌太郎(やたろう)さんに嫁いでいる。結婚直後に結核に罹患したけれど、結核の2剤併用療法の臨床試験に参加した結果、信子さんの結核は完治し、3人の子宝に恵まれたのだ。

(女の子が大山さんの初孫の蝶子(ちょうこ)ちゃんで、男の子が通明(みちあき)くんと通正(みちまさ)くんだね。通明くん、少し大山さんに似ているかしら……)

 「おじいちゃま」と孫たちに懐かれている大山さんをほほえましく眺めていると、競技会の役員らしき男性が大山さんに駆け寄る。その人の顔にも、私は見覚えがあった。

「おお、あれは、エースの彌彦(やひこ)くんだね」

 本名は三島彌彦という。彌太郎さんの弟で、学習院時代は大山さんの長男・(たかし)くんと同じ学年だった。スポーツ万能で、高等科時代は野球部のエースとして活躍していた。高等科を卒業した後は東京帝国大学に進学したという、文武両道に秀でた青年である。“天狗倶楽部”にも参加していて、その活躍は虎鬚彌次将軍と同じように、時々新聞で報じられていた。

「大山閣下、今日はおいでいただいてありがとうございます」

 礼儀正しく挨拶する彌彦くんに、

「何、よいのですよ。今日と明日は、仕事は休みですからな」

大山さんは鷹揚に答える。どこからどう見ても穏やかな紳士にしか見えない大山さんだけれど、実は世界を翻弄する、とても危険な人物であることは、この場では私と広瀬さんしか知らない。

「今日開催されるのは短距離の予選だけですから、盛り上がりに欠けるところはあるかもしれません。ですが、選手たちの熱意は相当なものがありますから、是非じっくりご覧になってください」

 彌彦くんが大山さんにそう言った時、

「ねぇ、叔父さま」

彌彦くんの姪に当たる蝶子ちゃんが、彌彦くんのシャツを引っ張った。

「ん?何だい、蝶子ちゃん?」

 呼びかけに答えた叔父さんに、母親の信子さんによく似た顔立ちの蝶子ちゃんは、

「叔父さまは、競技に出ないの?」

と尋ねた。

「ああ、僕は審判を頼まれているからね。審判は競走に参加できないよ」

 彌彦くんが優しい声でこう答えると、蝶子ちゃんはつまらなそうな表情になり、

「ふーん、彌彦叔父さま、競走に出ないんだぁ」

と、挑発するような調子で言った。

「?!」

 顔色を変えた彌彦くんに、蝶子ちゃんは再び、

「へーぇ、彌彦叔父さま、競走に出ないんだぁ」

と嘲るように言う。

「いつも、“僕はスポーツ万能だ。野球もボートもランニングも、水泳も相撲も乗馬もスケートも出来るんだぞ”って、私に自慢するのに。……あ、分かった。自分が負けるのが分かってるから、競走に出ないんでしょ」

 彌彦くんの顔が、みるみるうちに真っ赤になっていく。姪っ子の挑発に乗せられているのは明らかだった。

「ほらほらー、悔しかったら、審判なんてやめて、今すぐ競走に出たらぁ?」

 蝶子ちゃんが更に挑発した次の瞬間、

「やってやろうじゃねぇかよぉぉぉぉっ!」

彌彦くんがとんでもない大声を出した。ビックリした私は、思わず一歩後ろに下がった。

「これ、蝶子。叔父さんに失礼な物言いをしてはいけませんよ」

 大山さんは蝶子ちゃんを優しくたしなめると、

「彌彦くんも落ち着いてください。紳士が子供の挑発に乗ってしまうのは、よろしくありませんよ」

とエースの彌彦くんをなだめる。

「そ、そうですね……。見苦しいところをお目にかけてしまい、大変失礼いたしました。熱くなっているのは身体だけなんです。頭は冷静です。審判の業務を続けましょう」

 頭を深く下げた彌彦くんの横から、

「へーぇ、やっぱり、出たら負けるのが分かってるから、彌彦叔父さまは競走に出ないのねー」

……蝶子ちゃんが、再び叔父を挑発した。

「何だよ、2回目の挑発か、蝶子ちゃん?」

 彌彦くんが姪っ子を軽く睨みつける。

「2回目の挑発なんて乗らないからな。審判をしなきゃいけないんだから」

 そう言った叔父を、蝶子ちゃんは微笑みながらじっと見つめる。けれど、よく観察すると、蝶子ちゃんの眼は笑っておらず、叔父に向かって蔑むような視線を突き刺していた。

――無理しちゃって、彌彦叔父さま。こんな小娘に馬鹿にされて悔しかったら、競走に出ればぁ?

 蝶子ちゃんの眼はそう言っているように、私には思えた。

「……」

 黙り込んだ彌彦くんの顔が、再び赤く染まっていく。そして、

「やってやろうじゃねぇかよぉぉぉぉっ!」

彌彦くんは、運動場にいる誰もが振り返るような大声で叫ぶと、本部が設置されている天幕に向かって駆けて行った。

「蝶子、いけませんぞ。そのような物言いは、淑女(レディ)にはふさわしくありません」

 苦笑を顔に浮かべながら、大山さんが蝶子ちゃんをたしなめる。

「でも、おじいちゃま。私、情けない男の人、大嫌いなの」

 反論する蝶子ちゃんに、

「情けなくとも、です。有栖川若宮妃殿下は、例え情けない男が相手でも、先ほどの蝶子のような物言いはなさいませんぞ」

大山さんは優しく言い聞かせる。

(ごめん、大山さん。そういう奴がいたら、私、正面から怒鳴りつけるわ……)

 そう思った時、ピストルの発射音が響いた。100m競走の予選が始まったのだ。スタートラインに並ぶ選手たちの後ろ、これから出走する選手の列の中に、彌彦くんの姿があった。

「や、彌彦くん、競走に出るの?本当に?」

「そのようですね……」

 千夏さんと小声で話し合っていると、彌彦くんの参加する組まで、出走の順番が回ってきた。ピストルの乾いた発射音を合図に、選手たちが一斉に走り出す。彌彦くんはスタートダッシュの時点から、一緒に走っている選手たちのトップに立ち、そのまま後続をぐんぐん引き離して、1位でゴールした。

「100m予選第4組、1位、三島彌彦、東京帝大、記録、11秒8!」

 虎鬚彌次将軍こと吉岡さんの大声に、わぁっ、と観衆が湧く。「奮え、奮え、天狗!」と彌彦くんにエールを送っているのは、手が空いている天狗倶楽部の会員たちのようだ。

「11秒8って……予選参加者の中で、一番いいタイムね」

「すごいですね……」

 呆然としながら呟いた私に、千夏さんが応じた。

(い、いいのかしら?これ、いいのかしら?)

 仮にもこの競技会は、オリンピックの代表選考会なのである。そんな大事な大会で、飛び入り参加した人間が、予選を1位で通過する。私の時代なら、絶対に起こらないことが起こってしまった。

(まぁ、この時代だから、いいのかな……)

 ため息をついた時、彌彦くんが姪っ子に向かって胸を張ったのが見えた。

 そして、

「ふふん、少しはやるじゃない、叔父さま」

大山さんの初孫は、得意げな叔父を見つめながらこう言ったのだった。

※カロリー計算に関しては大雑把なものです。ご了承ください。

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[一言] ヒダリデウテヤ、という幻聴が聞こえました…w
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