万智子の初参内
※地の文を一部変更しました。(2021年11月17日)
1911(明治44)年3月10日金曜日午前11時5分、皇居・表御座所。
「いとぼいのう……本当に、いとぼいのう……」
私の長女の万智子を嬉しそうに抱っこしているのは、黒いフロックコートを着たお父様だ。生まれてから50日目、盛岡町の家から初めて外出して、宮中三殿を参拝した万智子は、自分を抱きかかえている母方の祖父を、無邪気な瞳で見つめていた。
「お上、いい加減、私にも万智子さんを抱っこさせてください」
若草色の通常礼装を着たお母様が、身を乗り出しながらお父様に聞くと、
「ダメだ。まだ、万智子の愛らしさをじっくりと味わっておらん!」
お父様は頭を左右に勢いよく振り、万智子の顔に再び目線を合わせた。慈愛に満ちた笑顔……と言えばいいのだろうか。とにかく、こんなに穏やかで嬉しそうなお父様の笑顔を、私は初めて見た。
と、
「ああ、この瞳、章子にそっくりだ。射干玉のような、黒曜石のような、しっとりした漆黒の輝きを放つこの瞳、幼いころの……幼いころの、章子の瞳、そのままで……」
そう言ったお父様の目から、涙が一筋、静かに流れ落ちた。余りのことに、とっさに反応できない私の前で、
「ふ、章子が……“史実”では、1歳の誕生日を迎えられなかった章子が、こんなに、こんなにいとぼい子を生んで……」
お父様は顔をくしゃくしゃに歪め、声を放って泣き始めた。それに驚いたのか、お父様におとなしく抱っこされていた万智子も、大きな声で泣き出した。
「あらあら、びっくりしたわね、万智子さん。さ、おばばさまが抱っこしてあげましょうね」
お母様がこう言いながらお父様に近づく。お父様から特に抵抗も受けずに万智子を受け取ると、お母様は万智子を抱っこしてあやし始めた。
「……おいとぼくて、元気な子ですね。口元は、栽仁さんに似ていらっしゃるのかしら」
万智子に慈愛のこもった眼差しを向けていたお母様は、万智子を一通りあやすと、
「ところで、増宮さん。子育ての方はいかがですか?」
今度は私にこう尋ねた。結婚したのだから、他の宮家の妃殿下たちと同じように、私のことも“章子さん”と名前で呼んでくれていいと思うのだけれど、お母様は私のことを今でも“増宮さん”と呼ぶ。
「うまく行っています、と言いたいのですけれど……。正直なところ、皆に助けられて、何とかなっている状態です」
私は苦笑しながらお母様に答えた。「万智子の成長に気付かされると、疲れが吹き飛んでなくなります。けれど、しばらくすると、やはり疲れてしまって……。だから、そういう時は、捨松さんや大山さんや乳母さんたちに万智子を任せて、のんびりしています。貴族院の議事録にも目を通さなければならないので、余りのんびりもしていられないのですけれど」
「それでよろしいと思いますよ」
お母様は私の目をしっかり見て頷いた。
「節子さんが、欧州に出発なさる前々日に、私に言っていました。子育てはいろいろな人の手を借りなければやっていけませんよ、と増宮さんに申し上げたけれど、自分が旅行している間に、増宮さんが過労で倒れてしまわないか、その不安がどうしても拭い去れない、と……」
私は黙ってうつむいた。私の兄嫁でもあり、親友でもある人を、私は深く思い煩わせてしまった。
と、
「増宮さん」
お母様が私を優しい声で呼んだ。
「増宮さんの前世のお母様は、医師として働いていたと聞いたように思いましたけれど、どうやって子育てをなさっていたのですか?」
「……ほとんど、ほったらかしにされていました」
私は前世の記憶を必死に手繰り寄せながら答え始めた。「小さいころは、一緒に住んでいた祖母が私の面倒を見てくれました。母は仕事が大好きな人でしたし、深夜に仕事で病院に呼び出されることもありましたから、顔を合わせるのは、1日1回あるかどうかでしたけれど……」
私は下に向けていた顔を上げ、お母様を見つめた。
「でも、前世の母は、娘として、私をちゃんと思ってくれていたと思います。大きくなるにつれて、母のことを、“母親”ではなくて、“女医の先輩”ととらえるようになってしまいましたけれど、でも……」
うまく言葉が続けられない。口が動かなくなってしまった私に、
「……一緒に過ごす時間が短くても、増宮さんの前世のお母様は、増宮さんのことを愛していらっしゃって、増宮さんも立派に育ったのですね」
お母様は春風のような調子で言った。
「増宮さん。子育ての方法など、親子の数だけ、家族の数だけあるのです。色々な方のお話を聞いていると、それがよく分かります。でもね、その様々な方法に共通する大事なことが、たった1つあるのです」
「様々な方法に共通する、たった1つの大事なこと……?」
お母様の言葉に釣り込まれ、オウム返しのように呟いた私に、
「子も、そして親も、ともに健やかにあることです」
お母様は春の陽射しのような微笑で応じた。
「増宮さんにとっては初めての育児ですから、ご自身でも気が付かないうちに、気負っていらっしゃると思います。ですが、増宮さんは、万智子さんの母親だけではなく、様々なお役目を、今も、そしてこれからも担う方です。ですからどうぞ、ご無理をなさらず、万智子さんと栽仁さんと、お健やかに過ごしてくださいね」
「……かしこまりました。お心づかい、ありがとうございます」
身体は子供から大人に成長して、結婚して、そして子供を授かったけれど、今生の私がお母様の娘であることは変わらない。嫡母の愛情のこもった言葉を、私は謹んで受け取ったのだった。
いったん別室に下がって万智子に授乳した後、捨松さんと乳母さんに万智子を託し、私は表御殿でお父様とお母様と一緒に昼食を取った。“去年の夏以来会えなかったのだから、ゆっくり話がしたい”と、数日前にお母様に誘われたのだ。
「兄上は今頃、上海に着いた頃でしょうか」
昼食が終わり、人払いをした別室に移ってお父様とお母様と3人で食後のお茶をいただいている時、私は両親に尋ねた。
「昨日、上海に無事に到着したという電報があったな」
お父様はそう言うと、お茶を一口飲んだ。
「上海は、蘇州の街にも日帰りで行けるそうな。蘇州には寒山寺という古刹がある。嘉仁がそこに行ったら、きっといくつも漢詩を作るのだろうな」
「上海を発たれるのは明日ということでしたから、明宮さんも節子さんも、きっと寒山寺を訪問なさっていますわ」
視線を遠くに投げたお父様に、お母様が穏やかに話しかけると、
「そうだな。上海から朕によこす手紙に、早速漢詩が書き付けてあるかもしれん。読むのを楽しみにしていよう」
お父様は上機嫌で頷いた。
「……ということは、今月の末か、来月には、兄上の上海での活動写真が見られるでしょうか?」
「そうですね、増宮さん。明宮さんと節子さん、どんな顔をして活動写真に写っているかしら」
(たぶん、カメラ目線をバッチリ決めているだろうなぁ……)
浮きたつような声で言うお母様に、私は心の中でこう答えた。写真嫌いのお父様とは対照的に、兄は写真を撮るのも撮られるのも大好きで、写真慣れしているのだ。ただ、お母様に“カメラ目線”と言っても、たぶん通じないだろうと思ったので、心の声を音声には変換しなかった。その代わり、
「……お母様、上海から兄上の活動写真が届いたら、迪宮さまたちと一緒にご覧になったらいかがでしょうか。迪宮さまたちも、きっと喜びますよ」
お母様にこう提案してみると、
「それはいいですね。私たちも迪宮さんたちに会えますし。……ね、お上?」
お母様はお父様にニッコリと笑いかけた。
「……そ、そうだな。嘉仁と節子がいない間、朕が裕仁たちを教え導かなければならないからな」
頬を緩めかけたお父様は、次の瞬間、わざと厳めしい顔を作って頷いた。
(素直になればいいのに)
そう思ったけれど、口にしたら最後、お父様が猛烈に反論してくるので、
「あ、でも、昌子さまの結婚の日取りと、活動写真の上映会が、被らないようにしないといけませんね。ええと、昌子さまの婚儀、確か来月の……何日でしたっけ、お母様?」
私は思いついた質問をお母様に投げた。
すると、
「来月16日の日曜日だ。そなたと栽仁の婚儀と、ほぼ同じ日取りにしたのだ。自分の妹の晴れの日ぐらい覚えておけ」
答えようとしたお母様の言葉を、お父様が横から奪った。
「まったく……“史実”では3年も前に結婚していた恒久と昌子が、ようやく結婚できるというのに……。そなたが栽仁と結ばれるのを待っていたら、遅くなってしまった。まぁ、仕方がないことではあるが」
「申し訳ありませんでした」
明らかに不機嫌になったお父様に、深く頭を下げると、
「……その、どうだ、章子。栽仁とは、うまくやっているのか?」
お父様は私に突然、こんなことを尋ねた。
「あ、はい、とても……」
とっさにこう答えると、
「お上、うまく行っていない訳がありませんよ。増宮さんを見れば、すぐに分かります。増宮さんのお顔がこんなに穏やかなのは、栽仁さんに愛されて、お心を支えられているからですよ」
お母様が微笑を含んだ声で言う。私は胸元に右手をやると、少し頬を赤くして下を向いた。今は服の布地で見えないけれど、右手の下には、銀のチェーンに通して首から下げた結婚指輪がある。日曜日の朝、寝起きのベッドの上で、栽仁殿下に“もっと素敵になるおまじない”を囁かれながらこのネックレスを掛けてもらうのが、毎週の恒例行事になっていた。
「増宮さんも、愛していらっしゃるのですね、栽仁さんのことを」
「はい……。いつも栽仁殿下に支えられてばかりで、私は殿下を全然支えられていませんけれど、私は、栽仁殿下を愛しています」
お母様に小さな声で答えると、
「……それならばよいのだ」
お父様が私から視線を逸らしながら言った。
「その……そなたと栽仁が上手くやれている秘訣を、昌子にも伝えねばならんからな、うん……」
「互いに愛し合って尊重していること。他にも色々とあるでしょうが、まずはそれが大事なのではありませんか、お上?」
お母様の言葉に、お父様は返事をしなかった。横を向いているので、お父様の頬が赤くなっているのが、私にもはっきりわかった。
「……ふ、章子。議会に出るのは、来週の土曜日からであったな?」
数秒の沈黙の後、私に向き直ったお父様が言った言葉は、先ほどまでの話とは全く関係のないことだった。
「はい」
素直に頷いた私は、お父様に一礼する。育児休暇に入る、つまり予備役に一時的に回る3月18日から、私は貴族院に登院する。現在開かれている帝国議会の会期は、今月の31日までだ。本会議に出席する機会は10回もないだろうけれど、もちろん初めてのことなので、やはり緊張する。
「女子の登院は初めてのことだ。その意味でも気負ってしまうだろうが、これもそなたが上医となるために必要なこと。身体をいたわりながら、励めよ、章子」
厳かな調子になったお父様の声に、私は黙って最敬礼をした。




