おいでませ貴族院
1911(明治44)年2月18日土曜日午後2時30分、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮家盛岡町邸の食堂。
「帝国議会に出席しろ?」
紀元節のために1週間遅れで開催された梨花会の席上。義父の威仁親王殿下の隣に座った私は、内閣総理大臣の陸奥さんに問い返した。
「ええ」
陸奥さんは私を見ながら、ニコニコ笑っている。けれど、それ以上の反応を返してくれなかったので、
「ええと、それは、本会議を傍聴しろ、ということでしょうか?」
私は詳しく確認してみた。
すると、
「いいえ、妃殿下に座っていただきたいお席は、傍聴席ではなく、議員席ですよ。貴族院に登院して、本会議にご出席いただきたい……そういう意味で僕は申し上げました」
陸奥さんは信じがたい答えを返した。
「ちょ……ちょっと待ってください!」
私は思わず椅子から立ち上がった。「確かに私は、貴族院議員ですよ。でも、軍医中尉ですから、貴族院に出席するのは無理です!」
9年前の夏、私が軍医学生になるのに伴って貴族院令が改正され、“軍籍を持つ皇族の女子は、成年に達しかつ軍に任官した時に議席に列す”と定められた。このため、私は、軍医少尉になった1904(明治37)年10月に貴族院議員になった。ただし、現役軍人は議会に出席できない。だから、私が貴族院の本会議に出席することはないのだけれど……。
と、
「おっしゃる通り、今は無理でございます。今は」
国軍大臣の山本さんがこう言い始めた。
「万智子女王殿下は、先月の20日にお生まれになりました。従って、その8週後、3月17日までは現役軍人として、妃殿下は産後休暇を取得されています。しかし、3月18日から、女王殿下の満1歳のお誕生日である来年の1月20日までの育児休暇に相当する期間に関しては、妃殿下は予備役に回られる……つまり、現役の軍人ではなくなりますので、その期間に関しては、貴族院に出席なさっても差し支えないことになります」
「な……っ?!」
私は目を丸くした。確かに、山本さんの言う通りだ。基本的に、皇族軍人は生涯現役なのだけれど、皇族女子の軍人の場合、育児休暇の期間だけ予備役に回り、その期間だけ、原則から外れるのだ。つまり育児休暇中は現役軍人ではなく、“現役軍人は議席を持っていても帝国議会には出席しない”という原則は適用されない。
「で、でも、皇族が議会に出席するという先例はないですよね?」
戸惑いながらも私は必死に反撃を試みたけれど、
「この時の流れでは、先代の山階宮殿下にご出席いただきましたな。あの方は、生涯文官で通されましたから」
枢密院議長の伊藤さんに、すぐさま反撃を封じられた。
(うっ……)
山階宮の先代・晃親王は、今のご当主・菊麿王殿下のお父様だ。伊藤さんの言う通り、他の男性皇族が軍人になる中、ただ1人、文官であることを貫いた人である。10年以上前に亡くなっているけれど……。
「しかし、例え先例があろうとなかろうと、妃殿下には、産休明けにぜひとも貴族院にご登院いただいて、本会議にご出席いただきたいんである!吾輩たち貴族院議員一同、妃殿下のご出席を心よりお待ち申し上げているんである!」
立憲改進党の党首であり、貴族院議員でもある大隈さんが、大きな声で私に言った。
「それは、立憲改進党だけですよね……」
ため息をつきながらツッコミを入れると、
「いいえ、もちろん、僕たち立憲自由党の議員も、そして、旧公家衆の議員たちも、妃殿下のご出席をお待ち申し上げておりますよ」
陸奥さんがニッコリ笑って私に言った。何か企んでいそうな気がするのだけれど、ここ数日の疲労で頭が回らず、彼が何を考えているのか、私にはさっぱり分からない。
「議員たちの中には、こちらのお屋敷に参上して、妃殿下に会ってご出席を懇請すると主張している者もおります。それは妃殿下の御迷惑になるからやめろと抑えているところでして」
立憲改進党所属の貴族院議員の1人である山田さんは、苦笑いしながら陸奥さんの言葉に付け加える。
「今来られると、滅茶苦茶迷惑ですよ……」
私は両肩を落とした。「ここ最近、万智子の機嫌が悪くて、人と会うどころではありません。お乳をあげてもおしめを変えても泣き止んでくれなくて……ほら、泣き声が聞こえるでしょう?今は捨松さんと、乳母さんが面倒を見てくれていますけれど……」
私の言葉で一同が静まると、遠くから万智子の泣き声が聞こえてきた。紀元節のころから、万智子は目を覚ましてしまうと、どう世話しても、どうあやしても泣き止まないことが多くなった。今日も正午過ぎから泣き止まず、梨花会の開始時刻が迫ってきたために、やむなく捨松さんに子守りをバトンタッチしたのだ。
「それは大変ですな。会合が終わったら、我々で女王殿下をあやして寝かしつけましょう」
松方さんが重々しい口調で言うと、「ああ」「うむ」などと、出席している面々が一斉に頷く。
「そうと決まれば、今日の梨花会、これでお開きにしましょうや。早く女王殿下に会いたいし」
早くも立ち上がりかけた井上さんを、
「井上さん、ちょっと待ってください。話、全然終わっていないですよ」
私は必死に止めた。
「へ?どうしてですか?」
「どうしてですか、と言われても……万智子には、2時間おきぐらいにお乳をあげないといけないのです。1回の授乳には、どうしたって20分は掛かります。本会議が長引いたら、授乳で中座しないといけませんよ。それは問題ないのですか?それに、万智子を貴族院に連れて行ってもいいのですか?」
キョトンとしている井上さんに、私は質問を投げかけた。流石にこの時代、子連れで帝国議会に登院するのは問題があると言われてしまうのではないだろうか。
すると、
「別に構わないんじゃないですか?」
井上さんがサラっと回答した。「委員会と被って、本会議を中座する奴なんて全然珍しくないですし。それに、女王殿下御同伴の登院だって問題ないでしょう」
「ですね。女王殿下は乳母と一緒に、皇族控室でお待ちいただければよいのです。授乳もそこで出来るでしょう。登院する皇族は妃殿下だけですから、皇族控室は実質的に妃殿下専用になりますし」
井上さんの答えに、西園寺文部大臣も横から付け加える。どうやら、私の逃げ道はもうない……いや、あと一つだけあるか。
「あの、お義父さま?」
私は隣にいる威仁親王殿下を縋るように見つめた。「長男の嫁が帝国議会に出席するというのは、有栖川の家としては問題があることですよ、ね……?」
しかし、私の期待とは裏腹に、
「出席しても、まったく問題はありませんよ」
義父は微笑しながら私に答えた。
「え……」
「うらやましい話だ。議員ではありますが、私は議員席に座る機会はありませんからね。折角の機会です。立法の実際をしっかりと学んで、上医を目指してください。道はまだまだ長いですよ、嫁御寮どの」
(そ、そんなぁ……!)
呆然とする私に、義父は微笑しながら、無慈悲な答えを突きつける。こうして私は、産休明けに、貴族院の本会議に出席することになってしまったのだった。
1911(明治44)年2月18日土曜日、午後7時。
「へぇ、帝国議会か!」
有栖川宮家盛岡町邸の居間。横須賀の“日進”から戻ってきたばかりの栽仁殿下に、私は今日あった出来事を話していた。
「いいじゃない。出席したら?」
事も無げに言う栽仁殿下に、
「むー、栽さんぐらいは反対してくれるだろうと思ったのに……」
私は軽く口を尖らせた。
「反対する理由なんてこれっぽっちもないよ。面白そうじゃない。僕には絶対できない経験だから、うらやましいなって思うよ」
栽仁殿下は、美しい澄んだ瞳をキラキラと輝かせている。その瞳を見ていたら、反論する気力が失せてしまった。
「はぁ……じゃあ、しょうがないか。諦めて本会議に出席するけれど……でも見てこれ、栽さん」
私はテーブルの上に置いてあるいくつかの書類を示した。全て紐で綴じられていて、かなりの厚みがある。
「去年の年末に帝国議会が開会してから今までの、本会議と各委員会の議事録ですって。全部で300ページはあるみたい。もちろん、これから本会議と委員会が開かれるたびに増えていくわ。しかも、梨花会の面々が、今度の月曜日から、平日は毎日交代でこの家に来て、私が議事録の内容を理解しているかテストするんですって……」
「厳しいなぁ……」
「あと、毎回万智子に会わせろ、という要求まで出されたわ。断りたかったのだけれど、大山さんに“もめ事の元になりますからご承諾を”と言われて、OKせざるを得なかった」
そう言って大きなため息をついた私に、
「いや、テストをする、というのは口実で、万智子の顔が見たいだけかな?」
栽仁殿下は両腕を胸の前で組みながら言った。
「だといいけれど、あの人たちを甘く見たらダメだよ、栽さん。あの人たち、私を鍛えることに関しては手を抜かないから」
長年の付き合いで、それはイヤと言うほど分からされている。なので、今からでも議事録を読み進めておかなければならない。そう思って、書類の一番上に置いてあった本会議の議事録に右手を伸ばした時、
「ダメだよ、梨花さん」
その手が、栽仁殿下に掴まれてしまった。
「ちょっと、栽さん、手を離してよ」
「ううん、離さないよ」
頑張って手を振りほどこうとしたけれど、夫の手の力は強く、いくら頑張っても振りほどけない。諦めて右手の力を抜くと、
「今の梨花さんには、議事録を読むより先にやることがあるよ」
夫は優しく私に言った。
「はい?」
「……ご飯をちゃんと食べて、しっかり休むことだ」
夫はこう言うと、私を心配そうに見つめた。
「大山閣下と捨松さんから聞いたよ。梨花さん、最近、自分の食事や睡眠をそっちのけで万智子の世話をしてるって。休んでもらおうと思って万智子の世話を交代しても、梨花さん、昼間でも夜でもずっと起きてて休もうとしない。休むように言っても聞いてくれない、って……」
「い、いや、何か、捨松さんたちに任せきりにするのも、申し訳ない気がして……」
捨松さんは出産以来、私にずっと付いていてくれている。それに、“子育ての手助けにもなりますから”と大山さんに説得され、万智子の身の回りの世話をする乳母さんも2人雇った。けれど、本当は私が全部やらなければならないことをやってもらっている、という思いが先に立ち、万智子が泣いている時は、捨松さんや乳母さんたちに万智子の世話を任せていても、昼でも夜でもずっと起きて万智子のそばについているのだ。
と、
「ねぇ、梨花さん。万智子の胎動を初めて感じた日に、僕と梨花さんが話したことを覚えてる?」
栽仁殿下が私をじっと見つめたまま尋ねた。
「万智子の胎動を初めて感じた日に?」
確か、去年の8月、東日本各地に水害が発生した後だと思うけれど……。考え込んだ私に、
「生まれて来る子のことを、僕たちが全部抱え込む必要はないと思うよ、って。父上と母上も力になってくれるだろうし、大山閣下や捨松さん、それに皇太子妃殿下……周りの助けを借りながら、一緒にこの子を育てていこう、そう話していたんだよ。忘れちゃった?」
栽仁殿下は悪戯っぽく笑った。
(あ……)
そう言われて、私はあの時話していた内容を思い出した。
「今が、その時だと思うよ、梨花さん。梨花さんは新しい仕事の準備を始めないといけない。僕も梨花さんを助けたいけれど、“日進”にいるから、梨花さんのそばにいられる時間は少ない。……僕たち、梨花さんの時代で言う“共働き”なんだ。借りられる助けは遠慮なく借りないと、やっていけないと思う」
「そうだね……」
私が顔に苦笑いを浮かべると、
「じゃあ、さっさと夕食にして、お風呂に入ったら、梨花さん、今日はもう寝て。子育てをするにも仕事の準備をするにも、今の状態だと、梨花さん、倒れちゃうから」
栽仁殿下は私に微笑を返した。
「早速、食堂に行こうか。梨花さん、立てる?立てないなら、抱きかかえていくよ」
「悪酔いはしてないから、あの時みたいにお姫様抱っこをしてくれなくても大丈夫よ。エスコートしてくれればそれで充分」
私が苦笑いを顔に浮かべたまま栽仁殿下に答えると、
「分かったよ。……では貴族院議員どの、参りましょうか」
彼はおどけた調子で私に言った。私は栽仁殿下と瞳を合わせて頷くと、静かに椅子から立ち上がった。




