1909(明治42)年11月の梨花会
1909(明治42)年11月14日土曜日午後2時、皇居内の会議室。
「朝鮮で活動している清軍は、今月の初めに清の本国から増派されたものも含めると、総勢およそ12万人。袁世凱暗殺の知らせを聞いて一斉に蜂起した反清派を徹底的に弾圧しています。もっとも、反清派の大多数と安重根とは、まったく連携が取れていません。ですから、蜂起も組織的なものにならず、反清派は清軍に一方的に叩き潰されています」
兄と私が参加して行われる、月に1度の梨花会。やはり冒頭は、内閣総理大臣の陸奥さんによる、朝鮮情勢についての報告だった。
「……一方、清の本国では、早くも“朝鮮併合準備委員会”が立ち上がっています。今まで朝鮮国王は、袁世凱が完全に操っていました。そのため、朝鮮の官僚たちも袁世凱とその上にいる清の意向に従わざるを得ず、清は朝鮮の統治を思い通りにすることができたのです。ところが、袁世凱亡き今、清にとって朝鮮国王と朝鮮の官僚たちは、統治に邪魔なものでしかありません。それもあって、清は朝鮮を併合するより他に道は無くなりました」
「なるほど、よく分かった。陸奥総理、その準備委員会の委員長は李鴻章どのか?」
兄が小首を傾げながら尋ねると、
「一応、そうなっております」
陸奥さんは恭しく答えた。
「“一応”?聞き捨てならないな。李鴻章どのに、何かあったか?」
「はい。李鴻章どのは、どうやら病臥しているようで、実際に委員会の中心で活動しているのは、内務大臣の康有為どのです」
兄の確認の質問と、それに対する陸奥さんの答えに、会議室がざわめいた。
「李鴻章どのは、確か“史実”では、とっくに亡くなっていたはずだな?」
「はい、山本閣下。今から8年前に、義和団事件の後処理の心労がたたって……。しかも、清の内閣総理大臣の張之洞どのも、“史実”では先月に亡くなっています」
国軍大臣の山本さんに、“史実”の記憶を持つ斎藤さんが回答すると、
「何と……もし張之洞どのも倒れてしまえば、清は大変なことになってしまいます。康有為どのや梁啓超どのなど、次代を担う政治家も育ってきてはいますが……」
貴族院議員の山田さんが両肩を落とした。
「それで清が弱体化して、列強に領土を蚕食されるようなことになったらえらいことや。特に、ドイツやアメリカ……」
山田さんの言葉を聞き、三条さんが眉をひそめる。
「アメリカは弥助どんや金子さんの工作が効いて、3期目に入ったブライアン大統領が対外拡張に全く興味を示しておりませんから、そこは大丈夫でしょう。問題は、恐れ多くも増宮さまに指輪を贈ろうとした皇帝ですなぁ。そちらは松川が頑張ってくれて、ブローチを贈ることに変更になったそうじゃが」
のんびり言った西郷さんに、
「ええ。しかし、松川君でも、皇帝の野心はなだめられないでしょう。万が一、ニューギニアを拠点にして、ドイツが中国大陸と朝鮮半島に進出したら……」
黒田さんが強張った表情でこう言った時、
「どうした、俊輔。浮かない顔だな」
井上さんが伊藤さんに声を掛けた。
「……自分の命が助かったのが、そんなに不満か?」
伊藤さんを睨みつける井上さんの顔には、明らかに怒りが浮き出ている。次に彼が口を開けば、相手が昔なじみの親友でも、容赦なく雷が落ちるだろう。
「不満ではない!」
伊藤さんは強い口調で反射的に答えると、
「ただ、わしの身代わりに、袁世凱が死んだ。その影響で、清は大変な苦難に襲われている。それが気になってな……」
今度は暗い声で呟くように言い、ため息をつく。
すると、
「“史実”で伊藤閣下が暗殺された後、その“大変な苦難”に見舞われたのは我が国です」
参謀本部長の斎藤さんが立ち上がり、伊藤さんをじっと見つめた。「韓国併合、大正政変、第1次世界大戦……伊藤閣下が生きていらっしゃれば、また別の上手い対応が出来たのではないかと思う場面は、“史実”でたくさんありました」
「麒麟児君の言う通り……伊藤殿が今、横死してしまうと考えると、ゾッとしますね」
陸奥さんもこう言いながら、鋭い視線で伊藤さんを見る。「僕と同等、いえ、僕以上のやり方で外交交渉をまとめられるのは、今の日本では伊藤殿しかいないのですから」
「伊藤さん、横死するなど許されないんであるぞ!伊藤さんには、この先の我が国を、我々とともに作り上げていく義務があるんである!」
立憲改進党の党首である大隈さんが大声を張り上げると、「さよう」「その通り」と居並ぶ梨花会の面々が頷いた。
「……気持ちは少しは分かるつもりだ、俊輔。だが、今のお主が考えなければならないことは、袁世凱の代わりに自分が死ねば良かったと考えることではない。日本の国益を損なわないように、袁世凱の代わりに何かできることは無いのか考えることだ。わしはそう思う」
山縣さんが静かに言うと、
「……分かっておる」
うつむいていた伊藤さんは不機嫌そうに答え、顔を上げた。
「皆々様、申し訳ない。この拾った命、日本のために最後まで使わせていただく。あ、玄人の女が侍っていれば嬉しいが……」
「最後のセリフが余計です」
相変わらず女好きな元輔導主任に、私は即座にツッコミを入れた。
「よいではないですか、増宮さま。陸奥君も孫を連れて初閣議に臨みましたぞ」
「それとこれとは話が別ですよ、このエロ枢密院議長!」
真顔の伊藤さんに私が思わず怒鳴ると、
「そうですよ、伊藤閣下。僕も芸者とたっぷり遊びたいのを我慢して、日々の仕事をこなしているんですから」
文部大臣の西園寺さんが、これまた真面目な表情で言った。
「西園寺さんも……いえ、なんでもないです」
“私の時代なら、一発で大臣辞任ものの発言だ”とツッコもうとした私の視界に、井上さんと西郷さん、そして国軍航空局長の児玉さんがしきりに首を縦に振っているのが見えた。予想外の事態に、誰にツッコミを入れればいいのか分からなくなった私がため息をついた時、
「ところで、卿らが先ほど言っていたように、朝鮮と清の騒動が、諸外国の介入を招いてしまう恐れもあると思うが、そちらについて、何か対策はしているのか?」
兄が出席者一同に問いかけた。
「清、日本、そしてそれ以外の主要な国々でも、袁世凱の死亡と、その後に生じている騒動についての報道は、通常より小さな扱いに出来ております。引き続き、情報操作に努めます」
私の隣に座っていた大山さんの言葉に、兄が「うん」と頷いた瞬間、
「伊藤」
お父様の声が上座から飛んだ。
「はっ」
椅子から慌てて立ち上がり、最敬礼する伊藤さんに、
「今後もなお一層、我が国のために励め。よいな」
お父様は威厳ある声でこう言った。
「仰せのごとくに……」
伊藤さんは下げた頭を、更に深く下げたのだった。
そして、国内外の問題が話し合われ、梨花会が終了したしばらく後、午後3時45分。
「増宮さん……」
私の右隣に座っているお母様が、私とつないだ右手に軽く力をこめる。
「梨花……」
お母様の右に座る兄も、心配そうな声を出しながら、私に向かって身を乗り出した。
お母様が謁見に使っている部屋。梨花会が終わった後、私は兄と一緒にこの部屋に入り、長椅子にお母様を挟むようにして3人で並んで座っていた。私と兄がこの部屋に梨花会の後で入るのは、今年の9月から数えて3回目だ。夏休みが終わって、栽仁殿下が訓練航海に出てしまった後から、お母様と兄にお願いして、前世の無様な失恋の話をこうして聞いてもらっているのだけれど……。
「ダメだ、今日、全然ダメだ……」
お母様に手を握られた私は、こみ上げる辛さに耐えながら大きく息を吐いた。「先月は、前世の兄貴たちが、私の作ったケーキを味見してくれたところまで止まらずに話せたのに、今日は、私が野田の奴に惚れたところで話が止まった……」
お母様と兄だけではない。大山さんにも、勤務の合間に、情けない前世の恋愛話を聞いてもらっている。けれど、話しても話しても、あの時の辛さは自然と湧き上がってきてしまうし、話は途中で止まってしまうのだ。
「どうしよう……話が止まるところ、元のところまで逆戻りした……。せっかく、少しは進歩したかなって思ったのに……」
私が顔をゆがめた時、
「それでも、最後まで全部話すことができましたね」
お母様が私に身体を寄せ、空いている右手で私の頭をそっと撫でた。
「ご自分の抱えた心の傷から目を背けられていた時とは、まったく違います。今の増宮さんは、ご自分の心の傷と、きちんと向かい合っているのですから。ご自身の心の傷と向かい合い、その心の傷を癒そうとする。それが一番大事なこと……ちゃんとできていますよ、増宮さん」
「ですがお母様……この梨花の様子、とても見ていられません」
兄がお母様に言った。「この話をするたび、梨花はいつも辛そうで、苦しそうで……クソっ、俺がその時、梨花のそばにいられたなら、梨花の心が癒えるまで、梨花を抱き締めて慰めるのに……」
「ありがとう、兄上……その言葉だけでも嬉しい」
悔しそうな兄に向かって、私は軽く頭を下げた。
「でもね、兄上……私、栽仁殿下と約束したんだ。栽仁殿下は訓練航海を乗り越えられるように頑張るから、私も、辛い思い出を乗り越えられるように頑張るって……。だから、私、栽仁殿下のためにも頑張らなきゃ……」
すると、
「梨花……お前という奴は……」
兄がこう言って、涙ぐんだ。
「何と麗しい夫婦の情愛なのだ。いや、まだ婚儀をしていないから、夫婦ではないか……」
「今はまだ夫婦でなくても、栽仁さんと増宮さんのお気持ちは、しっかり通じ合っておられますよ」
お母様は自分の言葉にツッコミを入れる兄に微笑みを向けてから、「でもね、増宮さん」と私に向き直った。
「焦ったり、無理をしたりしてはいけませんよ。増宮さんの心は、前世も今生も増宮さんと共にあり、長く氷に閉ざされていました。長く凍てついていた分、たくさん温めてあげなければなりません。それに、温める手も、夏の太陽のように熱い時もあれば、木枯らしで冷えてしまっている時もあります。ですから、焦らず、無理をせず、根気よく、ね?」
「はい……」
――春が来るまで、私が温めて、傷を癒しましょう。
20年近く前、私の9歳の誕生日の日、お母様がこう言って私を抱き締めた時のことが、ふっと脳裡に浮かんだ。確かあの時、私はお母様に、今も話した情けない恋の話を初めて打ち明けたのだ。今以上に苦しみながら打ち明け話をした私にとって、お母様が掛けてくれた言葉が、お母様から感じた温もりが、どんなに嬉しかったことか……。
と、
「手が冷えているなら、遠慮なく俺を頼れ」
兄が私に向かって言った。「温める手は1つでなければならない、という法はないだろう?」
「その通りですね、明宮さん」
お母様も優しい声で兄に同意した。「私ももちろん手伝いますよ、増宮さん。増宮さんは、1人ではないのですからね」
「はい……」
私は軽く頭を下げた。栽仁殿下が訓練航海に出発して、約2か月半が過ぎようとしている。やっぱり、栽仁殿下と会えないのは寂しいけれど、ありのままの私を受け止めてくれる人は、栽仁殿下だけではないのだ。
「じゃあ、お母様にも兄上にも、たくさん甘えさせていただきます」
私が少しおどけた調子でこう言うと、お母様も兄も、私に向かって満足そうに頷いたのだった。




