不機嫌な父娘(おやこ)
1909(明治42)年8月14日土曜日午前8時20分、皇居・表御座所の近くにある侍従長室前の廊下。
「はぁ?!何ですか、それ?!」
真っ白い軍装に身を固めた私は、黒いフロックコートを隙無く着こなした宮内大臣の山縣さんを睨みつけていた。
「お断りします。絶対にお断りします!」
叫んだ私に、山縣さんは「しかし……」と言いながら、首を横に振った。その彼に、
「大体、何で、日本に対する誤った知識をバラまいてるセクハラ野郎と、その弟の登山マニアの贈り物を、私が受け取らないといけないんですか!しかも、“ブレスレットを贈りたいから、サイズを教えてくれ”ですって?!冗談じゃないですよ!」
私は語気荒く言い募った。
「成年になった時に、アクセサリーは一通り揃えました!それに、アクセサリーが今後必要になった時には、産技研の御木本さんに頼んで、私好みのデザインのものをあつらえるってことになってたじゃないですか!」
「おっしゃりたいことは、非常によく分かります」
重々しい声で山縣さんが答えた。
「わしも、トリノ伯が増宮さまに対し奉り、無礼な振る舞いに及んだ時のことは、よく覚えております」
「じゃあ、なんで、私の結婚の祝いの品としてブレスレットを贈りたいっていうトリノ伯の申し出を受けないといけないんですか!」
「増宮さま……お言葉ではございますが、正確には、贈り主はトリノ伯ではございません。イタリアの国王陛下でございます」
「それは分かってますけど……」
(うう、まだかなぁ……)
忌々しげに答えながら、私は侍従長室のドアのそばに立っている大山さんをチラッと見る。すると、大山さんは私を見つめ返して、黙って首を横に振った。まだ続ける必要があるらしい。私はため息をつきたいのを我慢して、再び口を開いた。
「贈り主がトリノ伯であっても、アブルッツィ公であっても、国王陛下であっても、私が言うことは一緒です。たとえどんな理由を付けられても、贈り物はお断りします。結婚を理由にする贈り物はもちろんですし、トリノ伯のセクハラのお詫びの品というのもダメです。そもそも、セクハラのお詫びの品として、駆逐艦をもらっていますし」
と、
「増宮さま……増宮さまは、御身を飾る品を贈られるのを、避けていらっしゃるだけではございませんか?」
不意に、山縣さんが厳かな口調で私に言った。
「どういうことですか?」
「俊輔から聞いたことがあります。かつて、陛下が増宮さまに、ペンダントを御下賜なさったことがあった。その際、増宮さまは非常に困惑なさっていた、と……。それは、心の奥底で、ご自身が立派な宝石には似つかわしくない、醜い人間であると思っておいでだからではないですか?」
「それは……」
お父様から五弁の花のペンダントをもらったのは、私の10歳の誕生日、今から16年も前のことだ。あの頃は、パッツンと目の上で切り揃えた前髪がとにかく嫌で、その髪型の下にある自分の顔のことも、そして自分自身のことも、どうだってよかった。
「確かにあの頃は……お父様にペンダントをもらった時は、自分は美しい宝石にはふさわしくないと思っていました。けれど、私は兄上の大切な妹で、大山さんの大切な淑女です。自分を貶めるようなことはしません」
すると、
「なるほど。では、ご自身は、美しい宝石に勝るとも劣らない輝きをお持ちであると考えておいでですか?」
山縣さんは鋭い視線で私を見つめた。
「え……?」
「金剛石に翠玉、紅玉、真珠、蒼玉、蛋白石……世に宝石は数多ありますが、増宮さまの輝きに勝るものはありませぬ。しかし、増宮さまは、ご自身のその輝きに、本当の意味では気付いておられません。いえ、オーストリアのフランツ殿下のご答礼に向かわれる時には、それを自覚なさっておいでのようにお見受け致しましたが……」
「どういうことですか」
私は山縣さんに、一歩だけ近づいた。
「私は医師として、自分の技量を極力磨いてきたつもりです。そして、内親王としても、可能な限り頑張っているつもりです。けれど……まだ足りないのでしょうか。なら、一刻も早く、足りないところを補って、兄上を、そしてお父様を助けられるように……」
「そうではない、そうではないのです、増宮さま」
私の言葉を、山縣さんが否定する。「既にお持ちでありますのに、足りないという言葉は使えません」
「持っている?!」
一体どういうことなのか、山縣さんに尋ねようとした時、侍従長室のドアが、内側に向かって大きく開かれた。鍵が内側から外れ、ほんの僅かドアが開いたのを見逃さず、大山さんがそのドアを力強く押したのだ。“うわっ”と驚く声と激しい足音、そして取っ組み合うような音が響いた後、
「……確保いたしました」
侍従長室のドアから、大山さんが出てきた。後ろからお父様を羽交い絞めにしながら。
「やはりここにお隠れになっておられましたか。失望いたしましたぞ、陛下。昨年は比較的に素直に行幸していただけましたから、今年もそれを期待していたのですが」
山縣さんがあきれ顔で言うと、
「ま、まだ、朕には、東京でやるべき仕事が……」
お父様は大山さんに羽交い絞めにされながらも、悪あがきを試みる。しかし、
「ございませぬ。徳大寺どのに確かめました。今日発生する姉川地震に対する手配も終わっております」
大山さんが冷静な口調で告げると、お父様は口を閉ざし、がっくりとうなだれた。
「まさか、徳大寺さんたちが奥にお父様を探しに行ったのと入れ替わりで、庭伝いに移動して徳大寺さんの部屋に潜むなんてねぇ……」
私はため息をついた。久しぶりに、お父様の葉山への行幸に同行することにしたけれど、お父様が避暑への出発を嫌がるのは相変わらずらしい。もっとも、葉山に着いてしまえば、微行で浜辺を歩いたり魚釣りをしたり、時には褌一丁で海を泳いでみたりと、海辺での生活を楽しんでいるのだけれど。
「しかし、梨花さまと山縣さんの口論が気になり、もっと聞こえるようにと扉を少し開けられたのが敗因でございます。鍵をこじ開けるのは時間が掛かりますから、陛下が誘惑に屈服してくださって、大変助かりました」
大山さんが私に答えると、
「気になるではないか。章子のことなのだぞ!」
大山さんに羽交い絞めされたまま、お父様が力説を始めた。
「山縣と何か真剣に話し合っていたから、もっと良く聞き取らなければと思い……」
「はいはい、ありがとうございます。だけど、もう新橋駅に移動しないと、列車の時刻に間に合いませんよ、お父様」
「増宮さまのおっしゃる通りです。それに、梨花会の者たちも、既に葉山に向かっております。ここで陛下が行幸なさらぬということになれば……」
私と山縣さんが正論をぶつけると、
「わかっておる!」
お父様は不貞腐れたように言った。
「では梨花さま、お願いいたします」
「しょうがないなぁ……」
大山さんに答えると、私はお父様のそばまで歩き、お父様の顔を見上げた。そして、
「お父様、私を葉山に連れて行ってくださいませんか?」
大山さんと山縣さんと相談して、あらかじめ言うのを決めていた言葉を口にした。
すると、お父様の顔が真っ赤になる。そして、私から顔を背けると、
「そ……そなたの頼みとあらば、仕方がない」
と、小さな声で言った。すかさず大山さんが、
「では陛下、梨花さまの御手を取ってくださいませ」
とお父様に囁く。
「何っ?!」
思わず目を剥いたお父様に、大山さんは小さな声で、
「梨花さまは立派な淑女でございます。一国の君主たる、立派な紳士であらせられるのであれば、淑女の手を取り、御馬車までエスコートなさるべきと愚考いたしますが?」
と淡々と語りかけるように意見具申をする。お父様は唇を引き結び、真っ赤にした顔をうつむかせていたけれど、やがて、
「ふ……章子!」
と叫びながら、私に左手をぎこちなく差し出した。
「握れ!」
「……はい、喜んで」
物心ついてから、お父様に頭を撫でられたり、抱き締められたりしたことはあったけれど、手をつないだことはほとんど無かったように思う。26歳にもなって父親と手をつなぐというのは、なんだか恥ずかしいけれど、このまま父親と手をつながずに終わってしまうのも嫌だ。私は自分に差し出された手を、右手でそっと握った。お父様は私の右手を痛いくらいの力で握り返すと、馬車が待つ車寄せに向かって歩き始めたのだった。
午前9時15分。新橋駅を発車した、お召し列車の御座所の中。
「え……じゃあ、イタリアが私の結婚祝いに、ブレスレットを贈りたいって言ってきたって話、本当なんですね」
お父様の隣の椅子に座った私は、向かいの椅子に座っている山縣さんに確認した。
「はい、今朝、わしのところに回ってきた情報です」
山縣さんの言葉に、私は大きなため息をついた。
「そんなぁ……。隠れているお父様を引きずり出すために、山縣さんがでっち上げた話だと思ったのに」
顔をしかめた私に、
「実は、イタリアだけではございません。ドイツからも“指輪を贈りたいからサイズを教えて欲しい”という問い合わせがありました」
「オーストリアでも、フランツ皇太子殿下が、梨花さまの結婚祝いに宝飾品を贈ろうと考えていたようですが、こちらは皇帝陛下と皇后陛下に止められたと、俺の手の者から報告がありました」
山縣さんも大山さんも、頭が重くなる追加情報を投げる。
「オーストリアの皇帝陛下と皇后陛下は、とてもまともな判断をしたと思うよ……」
私は唇を尖らせた。オーストリアの皇帝は今年79歳になるフランツ・ヨーゼフ1世、そして、彼の妻で、“史実”では11年前に暗殺されたエリーザベト皇后がこの時の流れでは健在である。2人とも、“新しい女”である私のことは、余りお気に召さないようだけれど、それがフランツ皇太子の暴走を上手く防いでくれたようだ。
と、
「しかし、イタリアとドイツの贈り物は、きちんと受け取ってくださらなければ困りますぞ、増宮さま」
山縣さんが真面目な表情で言った。
「イタリアもドイツも、イギリスと同盟している我が国と敵対していてもおかしくない。ドイツの仮想敵国はイギリスなのですから」
「分かってます、山縣さん。万が一の時に、ドイツとイタリアとの関係を最大限に有効活用するためにも、贈り物は受け取りますけれど……ブレスレットはともかく、指輪をする機会があるかしら」
私が首を傾げると、
「そう言えば、そなたが指輪をはめているのを見たことがないな。近頃は、和装でも指輪をはめている女子もいるが……そなたの時代では、指輪は廃れているのか?」
お父様が私に尋ねた。
「いや、そんなことは無いですよ。結婚の時に男女で指輪を交換する習慣はありましたし、婚約の時に、男性側が女性側に婚約指輪を贈るっていうのもかなり宣伝されていて……。前世の上の兄が、結婚を考えてる女性に、月給の2倍ぐらいの値段がするダイアモンドの婚約指輪をおねだりされたって愚痴をこぼしていました」
私は前世の記憶を引っ張り出しながら答える。
「そうか、ではそなたも、婚約や結婚の証として、指輪が欲しいのではないか?」
「うーん……結婚指輪は欲しいかもしれないんですけれど、手を洗う時は外さないといけないから、失くさないかが心配で……」
前世で研修医として働いていた3か月の間、結婚指輪をしていた医師は男女問わずそれなりにいたように思う。ただ、指輪をはめたままだと手洗いが完璧には出来ないので、手術の時には指輪を外すのが不文律だった。
すると、
「なるほど、若宮殿下との愛が永遠であるという証……それは梨花さま、是非あつらえなければならないでしょう」
横から大山さんが優しい声でこんなことを言った。
「ちょっと待って、大山さん。私、手洗いは仕事でしょっちゅうするから、すぐに指輪を失くしちゃうよ」
「ほう、それならば、指輪は付けずに、ずっと大事にしまっておけばいいだけでございますが……」
そう言うと、大山さんは椅子から立ち上がり、私のそばに歩み寄る。そして、膝を床につくと、私の両肩を後ろからそっと抱いた。
「もしや、梨花さま……。若宮殿下の愛の証としての指輪は、公式の場はもちろん、軍医としての仕事の時や、私的な時間を過ごされている時……いいえ、それだけではなく、四六時中身につけていたい、とお考えですか?」
「お、大山さん……」
「正直にお答えください、梨花さま」
大山さんの声は優しい。けれど、私の顔を覗き込む瞳の光は刃のように鋭い。もし、言葉通りにしなかったら、私の心は大山さんに、あらゆる手段で丸裸にされてしまうだろう。
「そ、そうよ……」
急に鼓動が速くなるのを感じながら、私は何とか答えた。
「許されるなら、一日中、365日、ずっとつけていたい、けど……」
もう、これ以上は無理だ。真っ赤になってしまった顔を伏せると、
「ははは……可愛いのう、章子は!」
お父様が大きな声で笑った。
「ならば、結婚に際して、指輪を準備するように、栽仁に命じるか。“章子と永遠の愛を誓うにふさわしい指輪を選べ”とな」
「ちょ……お、お父様……」
「山縣と大山と一緒になって、朕を欺いた罰だ。様々な宝石を散りばめさせて、飛び切り豪華なものを作らせようか」
ニヤニヤ笑うお父様に、
「では、このついでに、ティアラももう一つ、御木本どのに作っていただきましょうか」
おどけたような調子で大山さんが合わせる。
「ネックレスや、宝石を使った髪飾りも、あって悪いものではございません。陛下、いかがでしょうか。梨花会からのご結婚祝いということで、御木本どのに頼んで、それらの品を増宮さまに献上したいと……」
宮内大臣の山縣さんは、非常に真面目な表情で、お父様にこう提案する。
「い、いや、だから、止めて!そ、そんなん、作られても、私、付けないし……皇室費を宝飾品に使うくらいなら、そのお金、院に回してくださいって!」
急な話の展開に、私は顔を真っ赤にしながら慌てて叫んだ。
……その後、列車が止まるまで約2時間余り、私はお父様と大山さんと山縣さんにさんざんからかわれてしまい、逗子駅のホームに降り立った時、私はすっかり不機嫌になってしまったのだった。




