味噌煮込みうどん
1909(明治42)年3月17日水曜日午後0時45分、青山御殿の厨房。
「よしよし、沸騰してきたぞ……」
母に作ってもらった白い割烹着を紫の矢羽根模様の着物の上から着た私は、ガスコンロの前に立ち、火に掛けた一人用の土鍋を見つめながらニコニコしていた。土鍋の中には、カツオだしと八丁味噌、そして小さく切った鶏のモモ肉と油揚げとしいたけが入れてある。土鍋からは、八丁味噌とカツオだしのいい匂いが立ち上っていた。
「じゃあ、ここでうどんを投入して……」
青山御殿の料理人さんが打ってくれたうどんの打ち粉を払うと、私はそれを土鍋の中に入れる。もちろん、このうどんは普通のうどんと違い、味噌煮込みうどん用の、塩抜きで作ってくれた特別製である。このうどんなら、ここで6分煮れば、食べる時にうどんがちょうどいい硬さになる。それは、先週の休みの日に確かめた。
懐中時計で6分を測り終えると、斜めに薄く切ったネギとかまぼこを土鍋に入れ、更に卵を土鍋の中に割り入れる。そしてすぐさま土鍋に蓋をする。これで少しだけ火を入れるのが、私が前世でやっていた、味噌煮込みうどんの作り方である。
少しだけ土鍋の蓋を開け、卵が私好みの火の通り具合になっているのを確認すると、コンロの火を止める。鍋敷きをセットした食堂の自分の席に土鍋を持っていき、手を洗ってから土鍋の蓋を開けると、懐かしい匂いが食堂いっぱいに広がった。
「ああ、ついに、私好みの味噌煮込みうどんが……」
ここまでたどり着くのは大変だった。前世では、祖母に一通りの家事を仕込まれていたので、一人暮らしをしていた大学生時代は、自炊をすることが多かった。実家から送られたうどんと八丁味噌を使い、味噌煮込みうどんを作ることもあったのだ。だから、明治時代に転生したと分かってからも、味噌煮込みうどんを自分で作って食べたいという欲望は強かったのだけれど、そんな私の前には、いくつかの困難が立ちはだかった。
まず、コンロの問題である。私が爺の家を出てから、兄と一緒に暮らしていた花御殿では、かまどで煮炊きをしていた。前世でガスコンロを使ったことはあったけれど、かまどなんて使ったことがない。もちろん、火加減の調節の仕方なんて分からないから、そこで料理すること自体を諦めてしまった。
青山御殿に引っ越してからは、厨房ではガスコンロを使うようになった。そこで障害が一つ取り除かれたけれど、次に立ちはだかったのは、だしの問題である。カツオだしなら、鰹節を削って、お湯が沸く直前に削った鰹節を鍋に投入して、ザルとふきんで煮汁を濾す。煮干しを使うなら、煮干しの内臓を取ってから沸騰直前のお湯に入れて、カツオのだしと同じように煮汁を濾す……。前世では、粉末や顆粒になったものをお湯に溶かして使ったことしかなかった私は面食らってしまい、厨房から足が遠ざかってしまった。
ところが、今年1月、以前から産技研に開発を頼んでいた固形のだしが完成した。1辺が1.5cmの立方体を500mlのお湯に溶かせば、ちょうどよい濃さのカツオだしが出来上がる。食通の西園寺さんや、自分で料理を作ることもある井上さんは、“繊細さに欠ける風味だ”とご不満のようだけれど、普段の料理に関しては十分に使える味だ。それに、調理時間も短縮できるので、国軍の一部の部隊で試験導入された。そして、青山御殿でも少し購入してもらったのだ。
ここからの動きは、今までのスローペースがウソのように思える素早さだった。一人用の土鍋を購入してもらう、産技研に頼んで、15ml・5ml・2.5mlの計量スプーンと200mlの計量カップを試作してもらう、八丁味噌を取り寄せてもらう、青山御殿の料理人さんに無理を言って、塩を抜いたうどんを打ってもらう……。すべての道具と材料がそろった2月中旬からは、私好みの味噌煮込みうどんを作り上げるべく、休日のたびに厨房に入り、試作を繰り返していた。……そして3月に入ってから3回目の休日である今日、私の望むものが、ついに完成したのである。
10時過ぎまで雪が降っていたので、青山御殿の庭には雪が10cmほど積もっている。もしかしたら、今の気温は5℃もないかもしれない。けれど、こんな気温なら、味噌煮込みうどんを食べて暖まるのにはちょうどよい。
「では、このうどんに関わってくれた人全員に感謝を捧げて、いただきます!」
椅子に座った私が箸を持ったその瞬間、私の感覚に、何かが引っかかった。だんだんこちらに近づいてくる、この優しい気配は……。
「千夏さん、東條さん!兄上を足止めして!」
たぶん、雪を見ながら赤坂御料地を散歩している途中で、青山御殿に寄ったのだろう。兄が来てくれたのは嬉しいけれど、兄の相手をしていたら、せっかくのうどんが伸びてしまう。慌ててうどんを1本、取り皿に移した時、
「俺を足止めしろとは、一体どういうことだ……」
紺色の羽織袴姿の兄が食堂の入り口に現れ、ムスッとしながら私に言った。
「これから、昼ご飯を食べるところなのよ!」
叫んだ私は、取り皿のうどんを素早くすすった。「……せっかく自分で作った、この会心の出来の味噌煮込みうどん、食べるのを邪魔されたくないわ!」
すると、
「り……梨花が、料理を作った、だと……?!」
兄が眼を見開いた。
「信じられん……だから雪が降ったのか」
「ちょっと!これでも私、前世では料理を作ることも多かったんだからね!ただ、前世の便利さに慣れ過ぎただけで!」
兄に反論していると、
「ですよね。梨花お姉さま、私に悪阻対策の料理集を教えてくださった時にそうおっしゃっていました。覚えています」
兄の後ろから、和装の節子さまが顔を出した。
「それで、梨花お姉さま、何を作ったんですか?」
「味噌煮込みうどんだよ」
そう言いながら、またうどんを取り皿に移していると、
「梨花、味見をさせろ」
兄がこんなことを言い始めた。
「は?!」
思いっきり顔をしかめると、
「私も味見をしてみたいです!」
節子さまも勢いよく右手を挙げた。
「ちょっと待って、2人とも!昌子さまと房子さまと允子さまの作る料理の方が絶対に美味しいよ?!」
そう断言できるのは、この妹たち3人は、輔導主任の佐々木高行伯爵の“女子に生まれたならば、家政のことは一通りご存じあってしかるべき”という方針に従って、料理を習っているからだ。私も何回か彼女たちの手料理をごちそうになったことがあるけれど、どの料理もとても美味しかった。
けれど、兄夫婦は私の反論にも関わらず、
「俺は今、お前の作った味噌煮込みうどんを味見したいのだ。昌子たちのことなど関係ない」
「ええ。梨花お姉さまが作った、梨花お姉さまの故郷の味……だからこそ、私は味見がしたいんです!」
2人そろって、おねだりするような目で私を見つめた。
「ああ、もう……分かった!取り皿とお箸を持ってくるから、ちょっと待ってて!」
グズグズと抵抗していると、うどんを食べ終わるのがどんどん遅くなってしまう。そう判断した私は急いで土鍋の蓋を閉じ、大急ぎで兄夫婦用の取り皿とお箸を取りに行ったのだった。
午後1時10分。
兄夫婦に少しうどんを分けるというハプニングはあったけれど、しっかり自作の味噌煮込みうどんを堪能した私は、兄夫婦を私の居間に招き入れていた。
――最近、3人で会っていないから、茶を飲みながら話さないか?
味噌煮込みうどんを味見した兄が、私にそう提案したからである。
「どうだ、最近の“栽さん”の様子は」
お茶とお茶菓子を運んでくれた千夏さんが、居間から遠ざかったのを確認すると、兄はニヤリと笑って質問した。
「なっ……い、いきなり、何言うのよ、兄上は!」
私は顔を真っ赤にしながら立ち上がった。
「ふふ……まだ本気でからかってもいないのに。やはり梨花は可愛いなぁ」
「……殴っていいかな、兄上?」
嘯く兄に冷たい声でこう言うと、「すまん、悪かった」と兄は素直に頭を下げた。
「……で、栽仁の最近の様子はどうなのだ?」
「昨日、手紙が届いたところ。元気でやってるみたい」
私は椅子に座り直すと、兄にこう答えた。
「同級生の皆と仲良く過ごしてるって……あ、あと、輝久殿下が色々悩んでいるって書いてあったかな」
私がお茶を一口飲むと、
「もしかしたら、多喜子さまのことでしょうか」
節子さまが言った。
多喜子さまは、私の一番下の妹で、華族女学校高等初等科の第2級、私の時代風に言えば小学5年生である。理数系の科目がとても得意で、本人は、“私、華族女学校を卒業したら、高等学校に進もうかしら”と言っている。
そんな彼女の婚約が、先月11日、紀元節の日に内定した。相手は、栽仁殿下とともに江田島にある海兵士官学校に在学している東小松宮輝久王殿下……確か、今は20歳のはずだ。ちなみに、多喜子さま以外の妹たちの婚約も同じ日に内定している。昌子さまは竹田宮殿下と、房子さまは北白川宮成久王殿下と、允子さまは朝香宮殿下と、聡子さまは東久邇宮殿下と結婚することになり、私と栽仁殿下との婚儀が終わり次第、順次式を挙げるのだそうだ。
「夏休みには多喜子さまと顔を合わせることになるけれど、輝久殿下の1番下の妹より2つ年下だから、何を話せばいいか分からないって輝久殿下が悩んでる……確か、そう書いてあった。例のお見合いの時、輝久殿下に多喜子さまがすごく懐いていたのは覚えてるけど、婚約者って関係になったら、ちゃんと話せるのかなぁ?」
私が首を傾げると、
「それは大丈夫だろう。お前と栽仁がちゃんと話せているのだし」
兄がそう言ってお茶をすすった。
「ちょっと、どういう意味よ。もしかして、私のことバカにしてる?」
「そんなことはない。俺は事実を述べただけだ。お前は前世のこともあって、人一倍奥手だから」
兄の言葉に、節子さまが深く頷いている。確かにそれは否定できないので、私は兄に反論できなかった。
「ところで、梨花お姉さま。栽仁殿下からのお手紙には、他にどんなことが書いてあったんですか?」
微笑みながら尋ねる節子さまに、
「流石に、それは秘密にさせて欲しいなぁ」
私はこう言って答えるのを拒否した。
「むむ……なら、大山大将に、梨花が受け取った手紙の内容を教えてくれるように頼むか」
「……信書の秘密って概念は兄上に無いの?」
両腕を胸の前で組む兄に、私は手厳しくツッコミを入れる。いくら私が巧妙に手紙を隠しても見つけてしまうだろうから、大山さんが栽仁殿下からの手紙を盗み見るのは諦めているけれど、だからと言って、他の人も私宛に届いた手紙を見ていいという理屈は成り立たない。
と、
「きっと、“愛している”というような言葉は、書かれているんでしょうね」
節子さまが優しい声で言った。
「なんで分かるの……」
私は節子さまから視線を逸らした。確かに彼女の言う通り、栽仁殿下からの手紙には、“愛する梨花さん”とか“梨花さんを全身全霊で愛しています”とかいうフレーズが、毎回必ず使われているのだ。
「だって、栽仁殿下は一途にお姉さまを愛していらっしゃるから、お姉さまへの手紙には絶対そうお書きになるだろうと思いました」
節子さまがそう言って微笑むと、
「本当に素晴らしい男だな、栽仁は」
兄は満足そうに頷き、
「で、その素晴らしい男は、他にどんなことを手紙に書いているのだ?梨花、少し惚気てみろ」
という、とんでもないことを言い始めた。
「惚気てみろ、って、どんな日本語なのよ、それ……恥ずかしい……」
私が赤くなった顔を下に向けたその瞬間、
「梨花さまの作った味噌煮込みうどんを、機会があれば是非食べてみたい……若宮殿下はそのように書いておいででした」
廊下に面した障子がすっと開く。そこに立っていたのは、黒いフロックコートを着た大山さんだった。
「ちょ……あ、あなた、いたの?!」
気配が全く感じられなかった。驚いた私が立ち上がると、
「梨花さま、少しお行儀が悪いですよ。淑女はこのような時、慌てず騒がず対応するものです」
大山さんはゆったりと注意を私に投げる。私がため息をつきながら椅子に座り直すと、
「梨花さまは恋のお話をされますと、気配を感じ取る余裕が全くなくなってしまいます。こちらも、ご修業が必要かもしれませんね」
と、穏やかな微笑みを私に向ける。……確か今日は、ずっと別館で仕事をすると言っていたけれど、もしかしたら、私と兄夫婦がこの部屋に入った時から、このあたりに潜んでいたのかもしれない。
「“味噌煮込みうどんを食べたい”か……なるほどな。確かにあれは美味かった」
「はい、嘉仁さま。こんなおいしいお料理が毎日召し上がれる栽仁殿下は、本当に幸せだと思います」
そんなことを言いながら何度も首を縦に振る兄と節子さまに、
「ま……、毎日料理をするのは、無理よ。物理的にね」
私はこう答えた。
「おや、どうしてだ」
「だって、ご飯を炊くの、すごく大変だよ?」
不思議そうな顔をする兄に、私は真面目に説明を始めた。
「火加減の調整が難しいから、ずっと火のそばにいないといけない。私の時代だと、炊飯器のスイッチを1度押したら、あとは放っておいていいもの。それに、おかずの下ごしらえも、この時代の方が大変だな。節子さまに悪阻の時食べてもらったカボチャのポタージュスープだって、今の時代だと作るのに下手すると1時間近くかかるけど、私の時代だと電子レンジとミキサーが使えるから、作るのに半分ぐらいの時間しかかからないよ」
そう考えると、私の時代は本当に恵まれていたのだと思う。文明の利器を賢く使えば、料理に使う時間を短縮できるのだから。
「私は結婚しても軍医の仕事を続けるから、仕事が終わってから料理を作るってなると、結構な重労働になっちゃう。だから、料理は人に任せようと思ってるんだ。私が料理を作るのは休日、それもたまに、って感じになるかな」
そう言って長い答えを締めると、
「ええ、それがよろしいのではないか、と思います」
大山さんも私の横で頷いた。そして、彼は再び、穏やかな微笑みを顔に浮かべると、
「その稀な機会に梨花さまが作られた味噌煮込みうどんを、若宮殿下と梨花さまが向かい合って召し上がるご様子、是非拝見しとうございます」
……と言い、じっと私の目を見つめた。
「?!」
余りのことに、私が思わず目を見開くと、
「おお、それはいいな!」
兄が右の拳で左の手のひらを打った。
「その時は是非俺も呼んでくれ、大山大将。それで、梨花の作った味噌煮込みうどんを俺も食べる」
「嘉仁さま、私も一緒でないとイヤです!私も梨花お姉さまの作ったうどん、食べたいですから!」
節子さまが駄々っ子のように兄に訴えると、
「すると、梨花会の皆も招きませんと、“不公平だ”と騒ぎになってしまいますな」
大山さんが何度も首を縦に振った。
「では、お父様とお母様も招かなければならないな、梨花」
「そんなに呼んでどうするのよ!」
私はニヤニヤする兄に全力でツッコミを入れた。
「味噌煮込みうどん、何人分作らないといけないのよ!それに……それに、た、栽仁殿下と2人きりのところを、皆に見られるなんて!」
本気で怒った私が、その場にいる3人を睨みつけると、
「ハハハ……冗談だよ、梨花」
「梨花お姉さま、本当に可愛い」
兄夫婦が笑い声を上げる。
「本当に、梨花さまはからかい甲斐がありますね」
私の横に立った我が臣下も、そう言いながらニッコリ笑う。頬を赤くしたまま、唇を尖らせた私は、
「馬鹿……」
と囁くように言ったのだった。




