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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第47章 1908(明治41)年大暑~1909(明治42)年小寒
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閑話 1909(明治42)年小寒:不忍池

 1909(明治42)年1月6日水曜日正午、下谷(したや)区上野公園地にある不忍池のほとり。

 周囲約2kmの不忍池は、幅20mほどの道で、ぐるっと囲まれている。1884(明治17)年に、不忍池を一周するコースで競馬場が建設された名残であるが、1892(明治25)年以降、不忍池の競馬場で競馬は開催されておらず、池を一周する幅の広い道は、景色を楽しむ人々が散策したり、学生たちが自転車競走に使ったりと、東京市民の憩いの場として機能していた。

 その広い道路の池側の端に、飴色の着物に紅い帯を締めた、年の頃25、6歳の束髪の女性が佇んでいる。手にノートと鉛筆を持ち、銀縁の眼鏡を掛けた彼女の目は、道路の反対側の端に立つ料理茶屋に向けられている。彼女こそ、誰あろう、今上の第4皇女・増宮章子内親王に仕える女官・榎戸(えのきど)千夏(ちなつ)、その人であった。

「ああ、宮さま、あそこにいらっしゃった……」

 料理茶屋の窓辺に主人の姿を見つけ、うっとりとした声を上げる千夏がこの不忍池のほとりにいるのは、女官としての仕事をするためではなかった。実は、“明治牛若伝”という、日本でも、そして世界でも人気となっている小説の作者でもある彼女は、小説の主人公のモデルである章子内親王と、その婚約者・有栖川宮(ありすがわのみや)栽仁(たねひと)王との逢瀬を覗き見るため、休暇を取って上野までやってきたのである。もうすぐ完結を迎える“明治牛若伝”、その文章を完璧なものにするためには、章子内親王が栽仁王との逢瀬でどのような表情を見せるのか、それを知るのが不可欠だと千夏は考えていた。

 千夏の視線の先では、料理茶屋の窓際の席に座っている章子内親王が、真っ赤になった顔をちょうど窓の外に向けたところだった。栽仁王に何かを言われて照れてしまったのだろうか。しかし、千夏の主人の表情は、困ったようではあったけれど、どこか幸せそうだった。

(本当に、良かった……宮さまがお幸せそうで……)

 視線に捕まらないように注意しながら、しかし千夏は、自分の主人の姿を垣間見ることをやめなかった。

――私が、軍人である限り、栽仁殿下への思いは叶わない。

 昨年の4月、江田島にいた栽仁王に別れを告げた後、章子内親王はこう言って泣いていた。世間が許さないだろう……主人自身がそう考え、心の奥に封じ込めようとしていた恋は、彼女と栽仁王との婚約が内定するという思わぬ形で叶えられた。婚約内定の当日は、主人は激しく戸惑っていたけれど、これが最良の落ち着きどころだったのだと、千夏は今なら断言できる。なぜなら、今の章子内親王の美しい笑顔には、以前からの気高さはもちろん、穏やかさが加わっているからだ。それは、恋していた相手と、ようやく気持ちが通じ合ったからだろう……千夏はそう考えていた。

 不忍池の水面を眺めていた千夏の主人は、今度は視線を室内に戻した。主人の両頬は相変わらず紅く染まり、穏やかな光を湛えた漆黒の瞳は、潤んでいるようにも見える。栽仁王と見つめ合っているのだろうか。

(ああ、宮さまが本当にお幸せそうで……はかどります、はかどりますよっ!待ってくれている読者のためにも、この尾山(おやま)紅梅(こうばい)、宮さまの逢瀬を見届けて、文章に生かさなければ!)

 作家・尾山紅梅が主人の様子を見ながら、最終回の原稿の下書きを再開させたその時、

「あれ、榎戸さん?」

彼女は突然、後ろから本名で呼びかけられた。

「ひゃうっ?!」

 とっさに手に持ったものを放り投げて遠ざけ、恐る恐る振り返ると、そこには、紺色の背広服を着た青山御殿の職員・東條(とうじょう)英機(ひでき)が立っていた。

「と、とと、東條くん?!こ、こんなところで会うなんて……奇遇ですねぇ!」

 青山御殿の別当である大山(おおやま)(いわお)伯爵には露見しているけれど、他の青山御殿の職員には、自分が尾山紅梅であることは隠している。この場は何とか切り抜けなければならない、と千夏が思ったその瞬間、

「ああ、榎戸さん、牛若伝の取材ですか?」

後輩の口からは、信じられないセリフが飛び出した。

「ど……どどどどうしてそれを?!」

 目を満月のように丸くした千夏に、

「え?去年の10月、コッホ博士の奥様に、“自分が明治牛若伝を書いている”って言っていたじゃないですか。大山閣下が殿下を別室で休憩させている間に、奥様が持っていらしたドイツ語版の明治牛若伝に揮毫もしていましたよね」

東條は更にこう言う。

「こ、困るんですよ……。あの小説を書いていることは、宮さまには秘密にしているのに……」

 千夏が顔を真っ赤にして下を向くと、

「あ、その点は安心してください。大山閣下が職員全員に、“殿下には絶対言わないように”と命じていますから。それから、満宮(みつのみや)殿下と皇孫殿下方にも、大山閣下が口止めをしています」

東條はしっかりと請け負い、「ところで、取材は順調ですか?」と千夏に尋ねた。

「え、ええ、宮さまの良い表情が垣間見られたので、いい下書きが……」

 手に持ったノートを東條に示そうとして、千夏はふと気が付いた。無いのだ。自分の手に、“明治牛若伝”最終回の下書きをしたノートが。

「ウソ?!ノートが無い……ついさっき、東條くんが声を掛けるまで、手に持っていたはずなのに……」

 自分の手を何度も裏返す千夏に、

「あの、もしかして、先ほど投げませんでしたか?」

東條がこう言った。

「え?」

「俺が声を掛けた瞬間、榎戸さん、何かを放り投げていましたが」

 東條の言葉で、千夏は東條に声を掛けられた瞬間を思い出す。そうだ。東條に、自分が尾山紅梅であることが露見したら大変だと思い、とっさにノートを放り投げて、自分から遠ざけたのだ。

「ええと、確か、投げた方向は……あちら……」

 そう言いながら、千夏が指さしたのは不忍池の方である。2人で目を凝らすと、10mほど離れた、枯れた蓮の茎が密集しているところに、灰色の表紙のノートが引っかかっているのが見えた。

「ウソ……あんなところに……」

 ノートの位置を確認した千夏は、その場に崩れ落ちるようにして、地面に両膝をついた。

「どうしましょう……あのノートに、最終回の原稿の下書きをしていたのに……」

 その時、東條が無言で動き、不忍池の中に足を踏み入れた。

「と、東條くん?!」

 気が付いた千夏が呼びかけた時には、既に東條の身体は、岸辺から3mほど離れていた。彼は腰まで水に浸かり、水面に林立した枯れた蓮の茎をかき分けながら、ノートのある位置を目指して懸命に進んでいく。

「東條くん、戻ってください!寒いし、背広が汚れます!もう、ノートは諦めますから!」

 この日、東京の最高気温は10.4℃。空は晴れているとは言え、水泳に適した気温ではもちろんない。しかし、千夏の必死の呼びかけにもかかわらず、

「これが、最善の手段ですよ!」

東條はノートに向かって着実に進みながら、叫ぶように言った。

「ここでノートを諦めたら、最終回の原稿が出来ないかもしれないでしょう!それはいけませんよ、榎戸さん!あなたの書く話を、日本中の、いや、世界中の読者が待っているんですから!」

 冷たい水に浸かりながら、1歩ずつ前に進む東條の右手が、ついに千夏のノートを掴む。だが、次の瞬間、底に溜まった泥に足を取られ、東條の身体が前のめりに倒れた。

「東條くん!」

 たまらず叫んだ千夏に、

「大丈夫です!」

水面から顔を上げた東條は、振り返りながら答えた。東條の腹部も胸部も、そして顔も、水面についてしまったために泥だらけになっている。しかし、ノートと、それを持った右腕だけは、まったく汚れていない。東條が転倒した時、右腕を高く掲げて、ノートが水に浸かるのを防いだからだった。

「ノートは、大丈夫です!」

「あ……あなたが大丈夫じゃないでしょう!」

 再び叫んだ千夏の顔は、真っ青になっていた。

「お願いだから、戻って、早く!」

「分かってます!」

 千夏に一声、叫ぶように答えると、東條は岸に向かって歩き出す。しかし、4、5歩進んだところで、再び水底の泥で足を滑らせ、転倒しかかった。

「東條くん!」

 だが、千夏の視線の先にいる東條は、今度は水面に顔をつけることはなく、何とか体勢を立て直した。そして、よろめきながらも、一歩一歩、千夏が待つ岸に向かって歩みを進める。

(ああ、神様……!ノートなんて、もうどうでもいいです。だけど、東條くんを……東條くんを、無事に岸まで戻してください!どうか!)

 両膝を地面に付いたままの千夏は、両の手のひらを合わせ、必死に祈った。


 1909(明治42)年1月8日金曜日午後6時、青山御殿。

「どうでしょうか、宮さま?」

 東條が住みこんでいる部屋の前。部屋から出てきた章子内親王に、縋りつくように尋ねる千夏の姿があった。

「所見は、今朝と変わらないよ」

 白い軍装をまとい、診察カバンを手にした章子内親王は、口元を覆うマスクを外しながら答えた。

「気管支炎や肺炎に進展している兆候はないから、ただの風邪という診断に変わりはない。身体を冷やさないようにしてゆっくり休んで、栄養のあるものを食べる。それから、症状に応じて、私が処方した薬を飲んでもらう。それに限るわね」

「死ぬような……東條くんが、死ぬようなことはないですよね?!」

「大丈夫よ」

 章子内親王は千夏に向き直ると、なだめるような調子で言った。

「東條さんは元々健康な人だよ。だから、肺炎に進展させなければ、病気には絶対勝てる。そこは安心してちょうだい」

「はい……」

 頷きながら、千夏は一昨日の騒動のことを思い出していた。

 彼女がうっかり不忍池に投げ込んでしまったノートを、東條は全身ずぶ濡れになりながらも取りに行き、途中何度も転んだり、転びそうになったりしながらも、ノートだけは汚さずに岸に戻ってきた。しかし、寒空の下で冷たい水に浸かり、身体を冷やしてしまったのが悪かったのか、東條は翌朝から熱を出し、寝込んでしまったのである。

「……それにしても、たまたま不忍池で出会った千夏さんと口論になって、激昂した東條さんが不忍池に入っていっちゃったって……聞いた時はビックリしたわ」

 章子内親王は、そう言ってため息をついた。章子内親王と栽仁王に遠くから付き添っていた東條と、たまたま不忍池のほとりで鉢合わせて口論になり、“弱虫だから寒中水泳などできないだろう”という千夏の挑発に、東條が“出来らあっ!”と乗ってしまい、不忍池に入ってしまった……。昼食を済ませて料理茶屋から出たところで、休暇を取っているはずの千夏と、全身ずぶ濡れになった東條を見つけて驚く主人とその婚約者に、千夏と東條はそうごまかした。苦しい言い訳だったが、主人はその話を信じた。しかし今度は、千夏と東條の仲が、業務を行うのに支障を来たすほどに悪くなってしまっているのではないかと、主人は心配してしまっているようだった。

「東條さんがこの青山御殿に来てから、あなた、東條さんにキツく当たっていたこともあったけれど……あんなひどい口論をするほど、仲が悪いとは思わなかったよ」

「……」

 千夏が黙っていると、

「業務に支障が出るほど仲が悪いなら、千夏さんと東條さんの配置をどうするか、私は大山さんと一緒に考えないといけない。だけど、可能なら、2人で憎しみあったり、ケンカしたりしないで欲しいの」

章子内親王は穏やかな声で言った。

「……さて、手洗いとうがいをして、着替えたら食堂に行くね。もし、輝仁(てるひと)さまと母上が食堂にいたら、そう伝えておいて」

「は、はいです」

 千夏が返事をしたのを確認すると、美しい主人は自室へと去っていった。その姿が廊下の角の向こうに消えると、

「ケンカなんて、する訳がないじゃないですか……」

(あんなに勇気があって、頼もしい人と……)

千夏はそっと呟いた。東條は、自分が諦めたノートを、困難を乗り越えて取り戻してくれたのだ。3年前、章子内親王の予告なしの行動に狼狽していた時と比べると、彼は明らかに変化していた。

「さて、厨房の方たちに頼んでいた、東條くんのお粥を取りに行きますか」

 ため息をつくと、切なくなった胸を抱えながら、榎戸千夏は東條の部屋の前から立ち去ったのだった。

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― 新着の感想 ―
[一言] 更新お疲れ様です。 最近、登場人物すべてが残念な人と化しているので東條君が残念な人から脱しつつあるようで良かったです。まあ、この世界では、史実に比べて史実の偉人?に影響をうけているはずなの…
[気になる点] そろそろ、雷が落ちてもおかしくない…かな?
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