呼び方
1908(明治41)年8月29日土曜日午後3時、青山御殿の私の居間。
「では、よろしくお願いします」
紺色の羽織と着物を着て、白い袴を付けた栽仁殿下は、ぎこちない手つきで、袋に入った刀を私に差し出した。この袋に入っている刀は、もちろん、栽仁殿下と私で所有することになった大典太光世だ。明日、海兵士官学校に戻るために東京を出発する栽仁殿下は、私に暇乞いをしに来たついでに、大典太光世を預けに来たのである。
「確かに受け取りました。じゃあ、冬休みに栽仁殿下が東京に戻るまで、この刀は私が使わせてもらうね」
濃紺の地に大輪の花火を描いた和服を着た私は、刀を慎重に受け取ると、栽仁殿下に頭を下げた。刀をテーブルの上にそっと置くと、緊張が一気に解けて、小さくあくびをしてしまう。
「ごめん、今日は当直明けで……ちゃんと仮眠は取ったんだけどね」
右手で口を隠してから栽仁殿下に謝ると、
「ここにいるのは僕だけだから、気にしないでください、梨花さん」
栽仁殿下はそう言って白い歯を見せた。今月10日から一昨日まで、福島の猪苗代湖畔にある別邸で避暑をしていた彼の肌は、最後に会った3週間前より日に焼けていた。きっと、父親の威仁親王殿下と一緒に、炎天下で自動車の練習に励んでいたのだろう。
と、
「だって、梨花さんが辛そうな顔をしていないってことだけでも、僕、とても嬉しいから」
栽仁殿下は、私にこんなことを言った。
「え……?」
少し首を傾げた私に、
「4月に、梨花さんが僕に帰京の挨拶をしに来た時、梨花さんはとても辛そうな顔をしていました。あの時も、この刀を受け渡しました。だからどうしても、あの時の梨花さんの顔を思い出してしまって……」
栽仁殿下は、辛そうに答えた。
「そっか……」
4月に栽仁殿下にこの刀を渡した時のことを思い出して、私も胸の奥がキリキリと痛んだ。もう2度と、栽仁殿下に会ってはいけないのだと自分に必死に言い聞かせ、好きな人への思いを断とうとしていたあの時は、鋭利な刃物で自分の心を切り刻んでいるかのようだった。
「辛い思いをさせてしまって、ごめんなさい……」
頭を下げて詫びると、
「まさか、梨花さんが、僕への思いを諦めようとしていたなんて、思ってもいませんでした。僕、とても辛かったんですからね」
栽仁殿下は軽く唇を尖らせた。
(うう……どうしよう。どうやったら、栽仁殿下の辛さが消えるんだろう?それに、よく考えたら、私、栽仁殿下の思いにずーっと気が付いてなかったわけで……どうやったら、それを償えるんだろう……)
思わず私が両腕で頭を抱えると、
「梨花さん?!」
栽仁殿下が急に私のそばに歩み寄った。
「どうしたんですか?」
「い、いや、その、4月の時だけじゃなくて、今まで、私は栽仁殿下をたくさん傷つけてたんだろうなぁ、って思って、どうやったら、罪を償えるかなぁって……」
「罪?」
「だ、だって、私、栽仁殿下が私を想ってくれてたことに、ずっと、気が付けてなかったから、きっと、鈍感な私に、栽仁殿下は傷ついて、辛かったんだろうな、って……」
すると、
「梨花さん」
頭を抱えた私の右手に、栽仁殿下がそっと触れた。
「言ったでしょう。梨花さんのことは、みんな愛しているって。だから、梨花さんが奥手で鈍感なのも愛しています」
「栽仁殿下……」
「だから、罪を償うなんて考えなくていいです。梨花さんが僕を気遣ってくれる優しさがとても嬉しいし、それに……梨花さんの悲しそうな顔、僕、もう見たくないから」
ニッコリ笑った栽仁殿下に、私は黙って頷いた。
(いい人過ぎるでしょ、栽仁殿下……)
4月の時だけではない。数年前から、私への思いを無視され続けて、ずっと辛かったはずなのだ。それなのに、辛さの原因を作った私を許してくれるなんて……。
(私より年下なのに、私より人間が出来てるよ……)
「じゃあ、椅子に座りましょうか、梨花さん」
優しく促す婚約者に「はい」と返事をしながら、
(栽仁殿下に、甘えすぎないようにしよう……)
私は心の中で誓ったのだった。
「有栖川宮家の皆様はお元気?」
向かい合って椅子に座り、お互い麦湯を一口飲むと、私は栽仁殿下に問いかけた。
「ええ。来月、別邸に皇太子殿下と皇太子妃殿下がいらっしゃるので、父上も母上も、その準備で忙しくしています。行啓が終わるまでは福島にいるって言っていました」
来月、兄と節子さまは、東北に一緒に視察旅行に出る。1か月程度の旅の最初、2人は福島県の猪苗代湖畔にある有栖川宮家の別邸で過ごすことになっているのだ。
「父上が、梨花さんは自分のことをどうやって呼ぶのか決めたのだろうか、って言ってました」
「決められないわよ、そんなすぐには……」
私は軽くため息をついた。義父上だかお義父様だか知らないけれど、私がどう呼んだところで、あの親王殿下は絶対に私をからかうに決まっている。
「梨花さん、天皇陛下と皇后陛下もご息災ですか?」
「うん。お母様は、来週葉山から戻るって言ってたね。お父様は先々週に東京に戻って来たけれど」
栽仁殿下にそう答えると、
「いつも不思議だな、って思っていたんですけど、避暑をなさっても、天皇陛下は皇后陛下より先に東京に戻られるんですね。梨花さん、何か理由って知ってますか?」
彼は私に尋ね返した。
「あれはね、お父様が休むのを嫌っているからよ」
「休むのを嫌っている?」
「もともと、お父様、“自分は健康だし、休んだら仕事が滞る”って主張して、避暑とか避寒とかは絶対にしなかったの。でも、それだと健康には絶対に悪影響を及ぼす。私の時代では、“過労死”って言って、過重労働のせいで命を落とす人がたくさんいたの。私も、過重労働が無ければ前世で死ぬことは無かったし……。だから、大山さんや伊藤さんと相談して、毎年避暑に行くようにって、お父様を説得したの。10年以上前のことだけど」
「へぇ……」
「毎年、お父様が避暑に行くときは大騒ぎよ。色々言い訳を付けて東京に残ろうとするし、出発当日は当日で、奥御殿に隠れて行方をくらまそうとするし……。毎年、徳大寺侍従長と宮内大臣に引っ立てられるようにして葉山に出発するよ」
私の説明に、栽仁殿下はクスっと笑ったけれど、
「“休んだら仕事が滞る”という思し召しはありがたいけれど、やっぱり梨花さんの言う通り、働き過ぎが陛下のお身体に障ったら大変だから、避暑はしていただかないとね」
と真面目な表情で頷いた。
「今年も出発を渋ったけれど、“有栖川宮の若宮殿下と、葉山でお会いになるのでしょう!約束を違えられますのか?!”って山縣さんに怒られて、ようやく腰を上げたみたいね」
「そうなんだ」
苦笑した栽仁殿下は、
「ところで、この間、葉山でやった会合って、どのぐらいの頻度でやっているんですか?」
と私に尋ねた。
「葉山でやった会合って、ああ、梨花会のことね……」
今から3週間前の8日の土曜日、お父様とお母様が避暑をしていた葉山御用邸で、毎月恒例の梨花会が開催された。
――栽仁も、章子と夫婦になるのだから、一度、梨花会の面々に挨拶しておけ。
お父様から栽仁殿下にこんな命令が下ったので、栽仁殿下も梨花会に呼ばれ、私たちの議論を聞いていた。
「私と兄上が参加する梨花会は、月に1度だね。他の面々は、ちょくちょく集まってるみたいだけど」
私が栽仁殿下に答えると、
「梨花さんが、バルカン半島の情勢についての予測を、スラスラ答えたから驚きました」
彼は目を輝かせながら言った。
「おまけに、陸奥閣下や伊藤閣下と、対等に渡り合っているし」
「言っとくけど、あの人たち、この間は私にかなり手加減していたよ。多分、栽仁殿下がいたからだけど」
「あれで手加減していたの?!」
「そうよ。だって、陸奥さん、毎週土曜日に私に議論を吹っかけに来るけれど、あの程度の攻撃じゃ終わらないよ。毎回毎回、私を議論でさんざんに痛めつけるから」
栽仁殿下は目を見張ると、大きく息を吐いた。
「僕には、まだ無理だな。あんな風に、大局的に物事を考えるのは」
「私だって、最初は無理だったよ。小さいころからやらされたから、何とか出来るようになったけれど」
「小さいころから?一体、いつからなんですか?」
「7つか8つの頃には、あの手の会議に参加させられてた。政治や歴史を、本当に勉強しなきゃいけないって思ったのは8つの時だ」
初対面だった原さんに、“兄の主治医になるから報酬をよこせ”と、とっさの思い付きでハッタリをかました時のことが、つい昨日のことのように思い出される。
「……私は兄上を、主治医として、あらゆる苦難から守りたいんだ。病気だけじゃなくて、軍事的、政治的な懸案から来る精神的な苦痛からも……。小さいころからそう思ったから、色々勉強をしたし、させられた。本当は、医学のことだけやりたいんだけど……」
愚痴るように私が言うと、
「すごいですね、梨花さんは」
栽仁殿下はニッコリ笑いながら頷いた。
「へ?」
「小さいころから皇太子殿下を守るんだって心に誓って、医師免許を取って、色々なことを勉強して……素晴らしいと思います」
「はぁ……」
戸惑いながら相槌を打つと、
「どうしたんですか?」
栽仁殿下は澄んだ目を私に向ける。
「い、いや……私のこと、変に思わないんだな、って思って……。この時代だと、女性が政治のことを話すとおかしいっていう人もいるから……」
ドキドキしながら答えると、
「愛している人を、何で変だって思わないといけないんですか?」
栽仁殿下はこう言って微笑する。私の鼓動は明らかに速くなり、熱が身体中を駆け巡った。
「た、栽仁殿下……突然そういうこと言うの、やめて……。心臓、止まりそう……」
恐る恐るお願いした私に、
「ダメです、慣れてもらわないといけないですから」
栽仁殿下はこう断言すると、「そう言えば」と言い始めた。
「梨花さん、今、僕と2人きりなのに、僕のこと、“栽さん”って呼んでない」
「はい?」
「谷保天満宮で話した時、梨花さんから言ったじゃないですか。2人きりの時は、僕のことを“栽さん”って呼ぶって」
「た、確かに言ったけど……」
もちろん、覚えている。覚えてはいるけれど……。
「今、微行で出かけてるわけじゃないよね?」
「でも、2人きりです」
栽仁殿下は、真正面から私の目を覗き込んだ。
「は、恥ずかしいよ……」
「だけど、慣れないと、結婚した後が大変ですよ。もちろん、今みたいに、顔を真っ赤にしている梨花さんも可愛いんですけれど、僕、それ以外の梨花さんも見たいですから」
「~~~っ!」
“顔から火が出る”とは、まさに今のような状況を言うのだろう。身体を巡る血が熱湯のように熱くなり、頬を真っ赤に染めた私は、婚約者を正視できずにうつむいた。
「ほら、梨花さん、言ってください、“栽さん”って」
気が付けば、栽仁殿下は、私の右手を優しく握っていた。
「あ、逃げないでくださいよ。もし逃げたら、僕、江田島から手紙を出しませんから」
「そっ……それはイヤ!」
江田島の海兵士官学校には、生徒が使える電話は無い。だから、栽仁殿下とのやり取りは、手紙でするしかないのだ。このあたり、スマホを使えばすぐに連絡が取り合える私の時代は、とても恵まれていたのだな、と思うけれど、通信機器が発展していないのだからしょうがない。
「さ……3か月以上も連絡が取り合えないって、辛すぎるよ……。あなたが別邸にいた時だって、全然手紙をくれなかったから、私、寂しかったんだよ?」
ほとんど泣きそうになりながらお願いしたけれど、
「じゃあ、“栽さん”って呼んでください、僕のこと」
栽仁殿下は握った手を離さなかった。
「そうしたら僕、年末に東京に帰るまで勉強を頑張れます。……お願いです、梨花さん。僕と梨花さんの他には、誰もいませんし……」
「い、いや……」
私が何とか首を左右に振ると、
「やはり、お嫌ですか……」
栽仁殿下が寂しそうな声で言った。
「ち、違う、そうじゃ、なくて……」
速くなる鼓動と身体に籠る熱を必死になだめながら、感覚に引っかかったものを何とか手繰り寄せようと、私は意識を集中させた。これは……この優しい気配は……。
「に……庭にいるでしょ、兄上―っ!」
思いっきり叫んだ数秒後、
「……バレてしまったか」
廊下に面した障子が静かに開き、残念そうな顔をした兄が居間に入ってきた。栽仁殿下が慌てて私の右手を離し、兄に最敬礼をする。
「兄上……なんで、私と栽仁殿下の話を盗み聞きしてたのかしら?」
人払いは、千夏さんに頼んであらかじめしてもらっていた。事情によっては、兄に厳重に抗議しなければならない。右拳を固めた私に、
「落ち着け、梨花。俺はお前に借りた英語の小説を返しに来ただけだ」
兄は右手に持った本を掲げて見せる。以前、牧野さんからもらったシャーロックホームズの短編集だ。
「花御殿から庭伝いにこちらに来たら、梨花と栽仁が何かを話しているのが聞こえてな。邪魔をしてはいけないと思って、庭で待っていたのだ」
「……千夏さんを押しのけて玄関から来た、って言ったら、ぶん殴るところだったけど、庭からだったらまぁ、不可抗力ということにしておいてあげる」
私は兄を軽く睨みつけた。
「だけど、話、どこから聞いてたのよ?」
「いやいや、聞いていないぞ。何を話しているのかと聞き耳を立てる前に、お前が俺の気配に気が付いたからな」
「なら、いいけど……」
私は大きく息を吐いた。どうやら、他人に聞かれてしまうと一番恥ずかしいところは、聞かれずに済んだようだ。
「申し訳ありませんでした、皇太子殿下。僕は暇乞いに来ただけなので、これで失礼します」
「いや、構わん。しっかり暇乞いしてくれ。次に梨花に会えるのは、冬期休暇の時だろう。……では梨花、小説は返すからな」
兄はそう言って、小説をテーブルの上に置く。そして、障子を開けると、
「“梨花さん”と“栽さん”、か……ふふっ」
振り返りざま、私を見て微笑んだ。
「?!」
とっさに反応できないでいると、兄は高らかな笑い声を上げながら、廊下から庭に下りる。
「あ、兄上の馬鹿!」
花御殿に向かって走り去る兄の背中に、私は叫び声を思いっきり叩きつけたのだった。




