顔合わせ
※漢字ミスがあり訂正しました。(2024年7月20日)
1908(明治41)年8月7日金曜日午後0時30分、麴町区霞ケ関1丁目にある有栖川宮威仁親王殿下のお屋敷の中にある食堂。
「もっとお楽になさっていいのですよ、増宮さま」
私の左前に座って、優雅に微笑している年配の貴婦人は、先代の有栖川宮家のご当主・熾仁親王の奥様、董子妃殿下だ。熾仁親王が11年前の7月に亡くなってからは、表舞台に出ることは殆どないけれど、今日は私と有栖川宮家一同との顔合わせを兼ねた食事会なので、出席してくれたのである。
「そうです。章子お姉さま、全然おしゃべりなさらないし、すごく緊張なさっているし……いつもの章子お姉さまらしくないです!」
私の右前、テーブルの端の方の席に掛けている、栽仁殿下の妹・實枝子女王殿下が、頬を膨らませた。華族女学校では私の8歳下の妹・允子さまと同じ学年の彼女は、花嫁修業のため、華族女学校の中等科を一昨年の夏に退学している。この秋に、徳川慶喜さんの嫡男・慶久さんと結婚する予定だ。
「實枝子、余り増宮さまを刺激してはいけませんよ」
董子妃殿下の右隣りから、威仁親王の奥様・慰子妃殿下が實枝子さまを優しくたしなめた。
「だけど、實枝子が増宮さまで遊びたくなるのも無理はないさ」
私の前、董子妃殿下と實枝子さまの間に座っている威仁親王殿下が、慰子妃殿下にこう言った。
「増宮さまのいつものお転婆、どこかに行ってしまって行方不明だからねぇ」
ニヤニヤしながら私を見る親王殿下に、
(あ、当たり前じゃあ!)
私は心の中で悪態をついた。栽仁殿下との婚約が内定してから僅か1週間で、慰子妃殿下と實枝子さまと董子妃殿下……いや、威仁親王殿下は先代の養子だけど、本当は先代とは異母兄弟だから、董子妃殿下は大姑ではないかもしれないけれど……とにかく、将来、家族となる人たちと顔を合わせることになるとは、思ってもみなかったのだ。
と、
「ところで、増宮さまは、栽仁と結婚なさったら仕事はどうなさるの?」
将来の大姑・董子妃殿下が私に尋ねた。
「?!」
(や、やっぱり来たか、この質問!)
私は顔を強張らせた。
前世で両親が結婚したころは、“女性は結婚したら家庭に入るべき”という風潮が強かったと、前世の母に聞いたことがある。まして、社会における女性の地位が、前世の両親が結婚した時よりも低いこの時代、“結婚しても働き続けたい”と言ってしまうと、大変なことになりそうだ。
(どうしよう……外科医として働き続けないと、手術の技量が落ちて、いざっていう時に兄上とお父様の治療ができないし……)
どう答えたらいいのか、必死に考えていると、
「章子さん?」
私の左隣に座っている栽仁殿下が、私にそっと声を掛けた。
「どうしたんですか?」
「い、いや、かなり重要な質問が来たから、どう答えたらいいかな、って思って……」
隠しておく意味はないので、小さな声で伝えると、
「章子さんがどうしたいかを、ありのままに答えたらいいんじゃないですか?」
栽仁殿下は私にこんなことを言った。
「え……?」
驚いた私は、栽仁殿下に少し身体を近づけた。
「でも、ここって、“国軍の仕事は辞めます”って言うべきなんじゃないの?この時代の常識的に考えて……」
先ほどよりも声を潜め、私は婚約者に尋ねた。「軍医学校に入るときに、結婚した場合は仕事をどうするかっていう相談は伊藤さんとしたんだけど、“嫁がれる家のご家風に合わせるしかありませんなぁ”って言われただけで……」
「確かにそうだとは思いますけれど」
栽仁殿下は私に囁きながら苦笑した。「それでも、章子さんの希望を、まずは言うべきだと思います。そうしないと、章子さん、ずっと自分を押し殺すことになっちゃう。それは僕、イヤです」
囁き終えた栽仁殿下は、私の耳元から口を離すと、私の目をじっと見つめる。澄んだ美しい瞳にとらえられて、心臓が身体の中で飛び跳ねたような気がした。
「わ、分かった……」
私は姿勢を正し、董子妃殿下に向き直ると、
「あ、あの……軍医としての仕事は続けたいと思っていまして……」
恐る恐る話を始めた。
「も、もちろん、産前産後とか、休まないと流産の危険があるとか、皇族としての公務がたくさん入るとか、本当にやむを得ない時は、仕事を休もうかと……」
すると、
「ああ、よかった。増宮さまをお諫め申し上げずに済んで」
予想外の答えが、未来の大姑から返ってきた。
(はい?)
戸惑う私の前で、
「ですわね、お義母さま。だって、増宮さまは軍医ですから、軍医として国のために働く義務がおありですもの」
未来の姑もこう言って頷いている。
「我が有栖川の家は、寛永の昔から、陛下の藩屏でございますからねぇ。女子と言えども、増宮さまは軍医として働くことを許された御身。ならば、身体に差しさわりが無い限りは、陛下のために軍医として働くべきでございます」
「ええ。もし、増宮さまが、並の女子のように“仕事を辞めて家庭に入る”などとおっしゃったら、私、それは心得違いだと申し上げるところでした」
(そ、そういう理屈か……)
口々に言う董子妃殿下と慰子妃殿下に度肝を抜かれた私を、
「おや、随分と驚いておいでのようですね」
威仁親王殿下が面白そうに眺めている。
「これが我が有栖川の家の家風です。増宮さまも、栽仁とご結婚なさるのであれば、家風に慣れていただきませんとね」
「はぁ……」
親王殿下に軽く頭を下げると、
「極東の名花とも称えられる、才色兼備の内親王殿下に嫁いでいただけるのは、大変ありがたいことではありますが、残念ながら増宮さまには、我が家風にそぐわぬ点も見受けられます。栽仁との婚儀は、栽仁が士官学校を卒業し、練習航海を終えて海兵少尉に任官する再来年の春以降になるでしょうから、それまでに有栖川の家風に慣れるよう努めてください」
彼は厳しい言葉を私に投げる。流石、梨花会の一員でもある威仁親王殿下だ。私に対して、手心を加える気は全くないようである。
「かしこまりました。ご家風に馴染めるように頑張ります」
深く一礼して頭を上げると、
「よかった、仕事が続けられそうで」
栽仁殿下が、また私に囁きかけた。
「まだ油断できないよ。嫁って大変なものだから」
小声で答えると、
「らしいですね。……でも僕、全力であなたを助けますから」
栽仁殿下はそう言って、また私をじっと見つめる。彼の瞳にとらえられて、私の胸の鼓動はまた速くなったのだった。
午後1時30分。
「さて、具体的な相談を少し致しましょうか」
顔合わせを兼ねた昼食会が終わった後、威仁親王殿下は私と栽仁殿下を、自分の書斎に連れて行った。昼食会の最中は、付き添い者の控室で待機していた大山さんも加わり、私、栽仁殿下、威仁親王殿下、大山さんの4人での密談となる。
「ご婚儀までには、まだ1年半以上ありますが、今から考えなくてはいけないことがあります」
書斎の自分の椅子に腰を下ろした威仁親王殿下は、意味ありげな視線を、私と栽仁殿下に交互に投げる。何か答える方がいいのかな、と思っていると、
「僕と章子さんが住む場所ですね」
私の隣の椅子に座った栽仁殿下が、サッと答えた。
「この家に、僕と章子さんも住むことになると、手狭になってしまいます」
「……實枝子さまが使っていた場所を、私が使うことにしてもダメ?」
栽仁殿下に質問すると、
「残念だけど無理です。章子さんのお城の模型があります」
彼は私にこう言った。
「あのお城の模型、蔵にしまい込んでおきたくはないですよね?」
栽仁殿下の言葉に、私は即座に頷いた。ここ数年は少なくなったけれど、梨花会の面々が、折に触れて模型を献上してくれるので、全国各地の城郭模型のコレクションは、今では50ほどある。この時代、これだけの数の城郭模型が1か所に集まっている例は殆どないと思うので、いずれ、帝室博物館か、城郭を展示テーマにしている博物館に寄付したいけれど、今はまだ、手元に置いて楽しみたい。
「場所の問題もありますが、私と慰子が、増宮さまたちと同居していると、お互いに気を遣い過ぎてしまいます。別のところに住む方がよいと思うのですよ」
威仁親王殿下が苦笑しながら言う。確かに、嫁と舅・姑が同居するのは、私の時代でも家庭内トラブルの原因になりやすい。
「なるほど……じゃあ、このお屋敷の敷地に、別館を立てるということになるのでしょうか?」
「いえ、別の敷地です。実は、麻布区に有栖川宮家の土地がありますから、そちらに増宮さまと栽仁の家を新築しようと思っています。盛岡藩の下屋敷の跡で、十分な広さの別館も建てられそうですし」
親王殿下が大山さんをチラッと見ると、
「ありがたいことです」
黒いフロックコートを着た大山さんは軽く一礼した。
「大山さん、ちょっと……」
私が手招きすると、右斜め後ろに座っていた大山さんが、私に身体を寄せる。その彼の耳に、
「じゃあ、院も、麻布区に移転するの?」
と囁くと、
「いえ、本部は青山御殿別館のままです。麻布区の方には、分室を作らせていただこうと考えております」
大山さんは意外にも、普通の大きさの声で答えた。
「お、大山さん、声が大きいよ」
私が慌てて注意したのは、栽仁殿下のことがあったからだ。彼に、中央情報院のことを話してしまっていいのだろうか。
しかし、
「ご心配は無用です。若宮殿下も院のことはご存じです。先日、ご婚約が内定した日にお話し申し上げました」
私の心配を見透かしたかのように、大山さんは先回りして私に答えた。
「それならいいんだけど……、本部じゃなくて分室って、いったいどういうことなの?」
「実は、梨花さまのご結婚を機に、中央情報院の総裁職を退こうと思っておりまして」
大山さんは私にそう答えた。
「完全に諜報の仕事から退くわけではありません。院の総裁は金子さんにお任せしますが、俺は分室で、新入職員の教育を担当しようと考えています。諜報は今後の日本にとって必要不可欠なもの……梨花さまのご新居に院の本部を移すよりは、俺がご新居で新人教育に専念して、質の高い職員を育てる方が、今後の院の活動には良いかと思いまして」
「なるほど……」
一礼する大山さんに、私は頷いた。恐らく、彼なりに色々と今後のことを考えた結果だろう。それならば、私はそれに賛成するしかない。ただ一つ、確実なのは……。
「別館は西洋館になるね」
西洋かぶれの我が臣下のことだ。自分が使う建物には、自分の趣味を色濃く反映させるだろう。
「ということは、本館はどうするか、だけど……」
そう呟いた栽仁殿下は、私の方を振り向くと、
「章子さん、花松さまは、僕たちが結婚した後のお住まいの話はなさっていますか?」
と私に訊いた。
「少なくとも、青山御殿からは出るって言ってた」
私が栽仁殿下と結婚して青山御殿を出れば、母は、お父様の子供とは言え、自分とは血がつながっていない輝仁さまと同居することになる。輝仁さまは幼年学校で寄宿舎生活を送っているから、顔を合わせるのは週末と長期休暇の時だけだけれど、お互い気を遣って疲れてしまうだろう。
「ただ、私とも一緒に住みたくないらしいんだ。赤坂か高輪かに、家を探して引っ越すって言ってた」
「分かりました。では本館は、この若い2人が住むことを考えればいいと言う訳ですね」
威仁親王殿下は首を縦に振ると、
「では、本館に関しての要望を、お2人から伺いましょうか」
こうおどけた口調で言いながら、万年筆を手に持った。
「ええと……地震や火事に強い構造にしてもらいたいんですけど……」
私が思いついたことを言うと、
「ああ、関東大震災に備えて、ですか?」
栽仁殿下の口から、私が想定していなかったセリフが飛び出した。
「た、栽仁殿下、何で、それを……?」
関東大震災が発生するのは、1923年、今から15年後のことである。そのことは、“史実”を知っている梨花会の人間か、許可を得て地震予知の研究をしている東京帝国大学の先生方しか知らない。なぜ栽仁殿下が知っているのか……そう問いただそうとした矢先、
「梨花会の皆で話し合いまして、若宮殿下にも“史実”のことを伝えました。梨花さまのご夫君となる方が“史実”をご存じないのでは、何かと不都合が出てきてしまいますから」
大山さんが私に告げた。
「あ、そう、そうなんだ……」
私がほっと胸を撫で下ろした横で、
「地震に備えるのなら、家を建てる時に、道路に面したところを東京府に少し提供して、道幅を広げてもらう方がいいと思います。避難の時に車両が通行しやすくなるし、大火事になった時、火事が広がりにくくなるから」
栽仁殿下が真剣な顔で父親に提案している。
「ふむ。確かにその通りだ。検討しておこう」
威仁親王殿下がそう言いながら、紙の上に万年筆を走らせた。
「章子さん、他には何かある?」
「他に?そうねぇ……西洋館にするにしても、拝礼する部屋は和室にして欲しいっていうのと、書斎は栽仁殿下と別に欲しいかな……」
「分かりました。じゃあ、僕の希望を言わせてもらいますが……」
……こうして、4人で話し合った結果、新しく建設するお屋敷は、本館も別館も西洋館にすることが決まった。ただし、本館には2、3部屋、和室を設けることになる。本館のそばに、自動車の車庫を作ることになったのは、“結婚までに自動車の免許を取って自動車を買う”という栽仁殿下の強い希望による。この夏休み中に威仁親王殿下と一緒に自動車の運転を練習して、次の冬休みか、練習航海に出航する直前の夏休みに運転免許を取る予定だそうだ。
「そうすれば、お互いの休みが合った時は、自動車で一緒に遠乗りに行けますから」
栽仁殿下にはそう言われたけれど、正直、まったく想像がつかなかった。
新居についての話し合いが終わったのは4時頃で、威仁親王殿下の書斎を出た私と大山さんは、栽仁殿下に玄関まで送ってもらった。
「今日は、色々とありがとう」
そう言いながら一礼すると、
「章子さんも、お疲れさまでした」
栽仁殿下は私に近づいてくる。何だろうか、と思っていると、私のすぐ前に立った栽仁殿下は、私の左耳に口を寄せ、
「愛しています、梨花さん」
とそっと囁いた。
「ちょ?!」
思わず飛び上がりそうになった私に、
「ああ、まだ慣れていらっしゃいませんね」
栽仁殿下は残念そうな口調で言った。
「なっ……慣れる訳、ないでしょ!婚約が決まって、1週間ぐらいしか経ってないのに!」
顔を真っ赤にしながら、私は栽仁殿下に抗議した。知らず知らずのうちに、互いに想い合っていたとは言え、私は不器用だから、素早く心を切り替えることは出来ないのだ。
「しかも、大山さんがいる前で、こんな……!は、恥ずかしいから!」
更に栽仁殿下に文句を言うと、
「俺は一向に構いませんが?」
私の横から、非常に有能で経験豊富な我が臣下が、私の思いもかけないことを言った。
「は?!」
「若宮殿下からの愛の言葉を、梨花さまにはきちんと受け止められるようになっていただかなければなりませんから。……という訳ですから若宮殿下、どうぞお気の済むまで、梨花さまに愛を囁いてください」
「い、いや、それ、この時代の社会通念的に、マズいんじゃないの?!」
頑張って抗議したけれど、大山さんは穏やかな微笑みを私に向けたまま、
「梨花さまは本当に奥手でございますから、ご教育のために特別……でございます」
と嘯く。
「な、何よ、その無理やりな理屈は!」
私のツッコミもむなしく、栽仁殿下は大山さんに羽交い絞めにされた私の耳に、真心のこもった愛の言葉を繰り返し告げたので、青山御殿に戻る馬車にようやく乗り込んだ時、私は身体中を駆け巡る熱にあてられ、失神寸前になってしまったのだった。




