谷保天満宮(1)
1908(明治41)年8月1日土曜日、麴町区霞ケ関1丁目にある有栖川宮威仁親王殿下のお屋敷。
「……で、増宮さまは、なぜその服装をなさっているのですか?」
お屋敷の車寄せ。灰色の背広服を着た威仁親王殿下が、大山さんにエスコートされて馬車から降りた私を見て、不思議そうに呟いた。
「何を着ていったらいいのか、分からなかったからですよ!」
私は威仁親王殿下に、叫ぶように返答した。
「スカートだと、裾を引っかけてしまうでしょうし、着物だと、動きにくいんじゃないかと思って!」
私が着ているのは、勤務の時にも着ている夏用の軍装で、白いスラックスの上は、肩章のついた白いジャケットだ。前世のドライブと同じ感覚でいいのなら、服装を選ぶのに困ることはないのだけれど、勝手が全然分からなかったので軍装にした。
「しかも、手に診察カバンを持っていらっしゃるのは、一体どういうことでしょうか?」
更に私にツッコミを入れる親王殿下に、
「だ、だって、私、軍医ですし!途中で、気分を悪くする人が出たら、診察しないといけませんし!」
私は必死に言い返す。
「ほうほう。しかし、その診察なさる方の顔色が良くない気が致しますが、お化粧はちゃんとなさいましたか?」
「してもらいました!してもらいましたから!顔色が悪いのは、夕べ、全然眠れなかったからで!」
「ふふ、そんなに楽しみでしたか。3か月ぶりに、うちの栽仁とお会いになるのが」
「やめてください、大兄さま!」
全力で叫んでしまうと、親王殿下は高らかに笑った。
「ハハハ……本当におかわいらしいですね。増宮さまが子供だった頃のことを思い出しましたよ」
「からかうのもいい加減にしてください!」
私が親王殿下を睨みつけると、
「おやおや、そんなに恐ろしい顔をなさってもよろしいのですか?」
彼はニヤニヤしながら玄関に視線を投げる。目線の動きにつられてそちらを見ると、
「申し訳ありません、父上。遅れてしまって」
士官学校の白い制服を着た栽仁殿下が、ちょうど玄関から出てきたところだった。
「……っ!」
どう反応していいか分からず、動きを止めてしまった私に、
「お、おはようございます」
栽仁殿下が礼儀正しく頭を下げた。上げた顔は、何となく緊張しているようにも見える。
「え、えと、えと……お、おはよう、ごじゃいましゅ……」
噛みながら挨拶を返した時、
「山階宮殿下がいらっしゃいました!」
有栖川宮家の職員・川野さんが私たちに報告する。見ると、車寄せに、紺色の自動車がゆっくりと入ってきたところだった。
「おはようございます、威仁どの」
紺色の自動車の運転席から降りてきたのは、山階宮家のご当主・菊麿王殿下だ。元々は海兵としてのキャリアを積んでいたけれど、昨年9月に結核の治療を終えた後、兵科を機動に変えた。今日は軍装ではなく、紺色のジャケットに白いスラックスという私服で、頭にカンカン帽をかぶっている。
「おはようございます、菊麿どの」
威仁親王殿下が挨拶をすると、山階宮殿下は私がいるのに気が付いて、
「おや、増宮様と大山閣下ではないですか!お久しぶりです」
と嬉しそうに挨拶をする。私も大山さんと一緒に彼に頭を下げると、
「……まさか威仁どの、“飛び入りのお客様”と昨日お電話でおっしゃっていたのは、増宮様と大山閣下のことですか?」
山階宮殿下は威仁親王殿下にこう尋ねた。
「ええ。ご予定をうかがいましたら、今日は休みということでしたから」
親王殿下が満足げに答えた時、
「何と!」
山階宮殿下の車の後部座席から、灰色の軍服を着た男性が半ば跳ぶようにして車から降りてきた。3年前、航空局と一緒に国軍内に設立された機動局の局長・長岡外史機動少将である。国軍内でも新しい技術に目が無いことで有名な彼は、機動局が設立された時に真っ先に転属を申し出て、機動局長に就任していた。
「今朝の新聞、拝見いたしましたぞ!若宮殿下、増宮殿下とのご婚約のご内定、誠におめでとうございます!いやぁ、婚儀の際には、是非、お2人で戦車に乗っていただきたいですなぁ」
長岡少将は八の字に伸びた立派な口ひげを揺らしながら、豪快な笑い声を上げる。余りにも口ひげが立派なので、私と兄は長岡少将のことを“ヒゲさん”と呼んでいた。もちろん、面と向かって本人には言わないけれど。
「流石に、戦車に十二単で乗っていただくのは無理がありますぞ、長岡君」
私の隣に立っていた大山さんがツッコミを入れると、
「むむ……では戦車を改造しなければなりませんな……」
長岡少将はヒゲを右手でひねりながら言う。冗談なのか本気なのか、私にはよくわからなかった。
「では、出発しましょうか」
そう言うと、親王殿下は山階宮殿下が乗ってきたのと同じ型の黒い自動車に向かう。産技研が開発に協力した“鳳”という名前の国産車で、“史実”の記憶を持つ斎藤さんと親王殿下が中心になってデザインした。未来の自動車を知っている私に言わせればレトロなデザインだけれど、斎藤さん曰く、“史実”のこの時代の自動車としては性能が高いのだそうだ。
(じゃあ、私は山階宮殿下の自動車に乗って……)
そう思って、山階宮殿下の車に向かって歩こうとしたら、
「どこへ行こうというのですか?」
親王殿下が私のところまで戻って来て、私の左手をガシッと掴んだ。
「増宮さまには、私の車に乗っていただきますよ」
「で、でも、そうしたら、座席がいっぱいに……」
「何、大山閣下には菊麿どのの車に乗っていただきますから、大丈夫ですよ」
引きずられるようにして親王殿下の車に向かうと、既に栽仁殿下が、後ろの座席に座っていた。
「えっと……じゃあ私は、助手席に……」
そう言いながら、前のドアを開けようとすると、
「おっと、そこは川野君の席ですよ。後ろにどうぞ」
親王殿下がニヤニヤしながら私を止めた。
(クソぉ……)
川野さんが後ろのドアをうやうやしく開けると、そこから栽仁殿下が身を乗り出し、じっと私に視線を注ぐ。
(あ、あそこから、乗れってのか……)
私は歯を食いしばると、右手の診察カバンの取っ手をしっかり握りしめた。カバンを持ち上げ、胸の前で捧げるようにして持つと、意を決して車のドアへと歩み寄る。
「つめて……」
カバンを盾にするように前に突き出すと、栽仁殿下は不思議そうな顔をした。
「お、奥につめて!」
もう一度こう言って、カバンを押し込むようにすると、栽仁殿下が慌てて車内に身体を引っ込める。そのまま彼の身体を奥に押しやると、私は栽仁殿下と自分の間に、診察カバンをどっかり置いた。私がシートに腰を下ろし、川野さんと親王殿下が前に座ると、車は走り出した。
(どうしよう……)
親王殿下の運転する車は、お堀のそばに出てから甲州街道に入り、西に向かって進んでいく。親王殿下の車の後ろには、大山さんが乗り込んだ山階宮殿下の車や、その他、自動車趣味を持つ実業家たちの車が10数台、そして百貨店の貨物車が続いている。東京だけで300台ほどの自動車があるけれど、こんなに自動車が連なっているのが珍しいのか、沿道には大勢の人が見物に出ている。そんな光景を、私は外に視線を固定させ、必死に眺めていた。時間を潰す方法が、それしか見つからなかったのだ。
(つーか、何を話せばいいんだよ……)
たぶん、この場面なら、隣の席に座った人とおしゃべりを楽しんでもいいのだと思う。けれど、その隣の席に座った人というのは、私の人生で出現することはないと思っていた“婚約者”なのだ。男女交際など、前世でも今生でもしたことがないから、こういう時、相手と何を話せばいいのか、まったく分からない。
(なんで、私なんかと結婚したいって言い始めたんだよ、栽仁殿下は……)
信じられないことに、小さいころから彼は私を慕っていた……お父様はそのような意味のことを私に言った。そして、この時代、親が結婚相手を当人の意志に関係なく決めてしまうのも普通なのに、栽仁殿下は父親を説得し、更にはお父様にまで直訴して、私との結婚を強く願ったという。……確かに、私は美人で、頭も並の男よりいいかもしれない。けれど、暴力は振るってしまうし、和歌の才は本当にない。そんな私を、なぜ栽仁殿下が結婚相手にしたいと申し出たのか、さっぱり分からない。それを問いただす手はあるのだけれど、親王殿下が絶対私のことをからかう。だから話すことが出来ないのだ。
「自動車はどんどん普及していって欲しいね、川野君」
「ええ。それには、今以上に、道路の舗装や拡幅をしていくことが必要ですね」
「他にも大事なことがあるよ。もっと安価な自動車を作ることだ。この“鳳”でも2000円ほどしたからね。君の月給を半年分ぐらい貯めたら買えるぐらいの自動車を作らないと、爆発的な普及は難しいよ」
運転席と助手席では、親王殿下と川野さんが自動車談義を繰り広げている。それに加わるわけにもいかず、私は時が早く過ぎ去ることを祈りながら、外を流れる景色を、ひたすら眺めていたのだった。
途中、2回休憩して、参加車両の点検をしながら、自動車の車列は甲州街道を西に進んだ。
今回の参加者の中には、山階宮殿下と長岡少将の他、実業家の大倉喜八郎さんや日比翁助さんがいた。どうやらみんな、私と栽仁殿下の婚約内定が報じられた新聞を読んでいるらしく、私が乗った車に近づこうとする。また、まだ珍しい自動車の遠乗りの取材のため、車列に同行していた新聞記者も何人かいて、私のことを取材しようと、親王殿下の車に近づこうとした。けれど、他の参加者や新聞記者たちが親王殿下の車に近づこうとするたびに、大山さんが彼らの前に立ちふさがり、うるさい外野たちを追い払ってくれた。
昼食会場の谷保天満宮に着いたのは、午前11時15分のことだ。川野さんが扉を開けると、私はすぐさま、山階宮殿下の車から降りた大山さんのところに駆けて行った。
「おや、若宮殿下とはご一緒におられないのですか」
不思議そうに尋ねる大山さんに、
「無理……無理だから……」
私は彼の手を握りながら言った。
「未来のご夫君であらせられますのに」
「け、結婚して、ないしっ……困るよ……」
本当に困るのだ。つい昨日まで、弟分だと思っていたのに、妹たちの夫になるのだから、好きだという気持ちは諦めようと思っていたのに、いきなり、“栽仁殿下がお前の婚約者だ”と言われても困るのだ。とてもじゃないけれど、心が全然追いつかない。
「若宮殿下の隣に行かれたらどうですか?」
「いやっ……。大山さん、私のそばにいて。命令よ」
うつむいた私が、大山さんの手をギュッと握り締めると、
「では、可能な限りで従わせていただきましょうか」
大山さんは苦笑しながら言った。
天満宮の境内には梅林があり、そこに昼食会場が設営されていた。梅の木陰に長い机が2列、向かい合って並べられていて、その奥には皇族用の席が4つ作られている。右から2番目の椅子に威仁親王殿下が座ったので、一番右端の席に腰かけようとしたら、
「増宮さまはこちらですよ」
親王殿下が、右から3番目、自分の右隣りの席を指し示す。その向こう、右から4番目の席には、栽仁殿下が座っていた。
「あ、あの……山階宮殿下、席、交換しませんか?」
向かって一番右端の席に座ることになった山階宮殿下に助けを求めたけれど、
「何をおっしゃいます。増宮様が中央にいらっしゃらなければ」
彼はニッコリ笑って私に返した。
「い、いや、その、私、中尉に過ぎませんし、ここは、機動大佐の山階宮殿下が真ん中にいらっしゃるべきで……」
更に押してみたけれど、
「増宮様は直宮であらせられるではないですか。私よりも上座にいらっしゃるべきですよ」
山階宮殿下はこう言って、真ん中の席に座るのを固辞する。結果、私は、威仁親王殿下と栽仁殿下に挟まれて座るしかなくなってしまった。大山さんの席も、私から遠いところに設置されているから、これでは、彼に助けを求められない。
(つ、辛すぎる……)
はっきり言って、どうしたらいいのか分からない。上座に座るのは慣れているし、人の視線を浴びるのもへっちゃらだけれど、どうしても、出席者たちが栽仁殿下と私を見比べているのが分かるので、緊張してしまって何も出来ない。持っているお箸が、鉛で出来ているかのように重く感じられ、動かすのにも一苦労だ。お弁当もとても美味しそうなのに、接着剤でも流し込まれたかのように口が動かないし、何とか食べ物を口にしても、味が全く分からない。
「おや、どうなさいましたか、増宮さま。お弁当、好みに合いませんでしたか?」
ニヤニヤしながら尋ねる威仁親王殿下に、
「い、いえ、そんなことは、ございません、はい……」
何とか取り繕って返答したけれど、
(早く……早く東京に帰りたい……)
私は殆ど泣きそうになっていた。
(道は分かるから、車を奪って、東京まで逃げる?でも、私が運転すると無免許運転になるし……)
そう思い詰めた時、
「増宮殿下、増宮殿下」
後ろから、そっと私を呼ぶ声がする。川野さんだ。
「お加減が余りよろしくないように見えるのですが……」
(はい、その通りです!滅茶苦茶眠くて緊張してしんどいから、早く青山御殿に帰って、お布団に入りたいです!)
私が万感の思いをこめて頷くと、
「でしたら、拝殿の方に御成りになりますか?」
川野さんは小さな声で言った。
「拝殿……ですか?」
「そちらなら、今は誰もおりません。人目もありませんから、ゆっくりお休みになれると思います」
私は大急ぎで川野さんの提案を検討した。そうだ。ここから離れるだけでもいい。一人になれれば、多少は緊張も和らぐだろう。
「……行きます」
「かしこまりました。この場は、いかようにも取り繕っておきますから、どうぞごゆっくりお休みください」
川野さんの声に黙って頷くと、私は椅子から立ち上がった。椅子の横の地面に置いていた診察カバンを椅子の上に置き直すと、私は目立たないように注意しながら、その場を離れた。
※自動車のデザイン、性能、値段については、きちんと考察できていません。ご了承ください。




