もう一つの未来
1908(明治41)年4月10日金曜日午後4時、広島市の南東部に位置する宇品港。
「一体どういうことなんですか!」
江田島から戻ってきた私を出迎えた私付きの宮内省職員・東條英機さんに、私は詰め寄っていた。“5月1日から築地国軍病院に勤務”……信じがたい転勤命令を、彼の口から聞かされたからである。
「私、広島に赴任してから、1年も経ってないですよ?!国軍の軍医に転勤命令が下るのは、同じ勤務地で1年以上勤務してからが普通なのに、何でこの時期に東京に戻らないといけないんですか!」
「お、俺に抗議されても……俺には、国軍の人事権はないですよ!」
東條さんはオロオロしながら、私に叫ぶように言った。
「わかってますけどね、誰かにこの気持ちをぶつけないと、やってられないんですよ!」
私が東條さんにこう叫び返した時、
「殿下、おやめください」
私の斜め後ろに立っている新島さんが怖い声を出した。怖い声だけでなく、彼女の身体からは殺気が漏れ出ているような気もする。私は東條さんに詰め寄るのを止め、軽く咳ばらいをすると、
「東條さん、この転勤命令が出た理由は知ってますか?」
なるべく穏やかな声を作って尋ねた。
すると、
「はい。俺も不審に思ったので、国軍省に電話で問い合わせましたら、……西郷閣下が直々に、折り返し電話してこられました」
東條さんから、思わぬ答えが返ってきた。
「西郷さん、どう言ってたんですか?!」
「落ち着いてください、増宮殿下。順を追って説明いたしますから!」
そう前置きして東條さんが話してくれた事情は、私の想像の遥か斜め上を行くものだった。
事の発端は、先月の中旬に遡る。私が総裁を務めている国立医科学研究所の所長・北里柴三郎先生は、来月中ごろに来日する予定のハインリヒ・ヘルマン・ロベルト・コッホ先生の歓迎委員会を設立した。コッホ先生は北里先生のドイツ留学時代の恩師だけれど、1905(明治38)年のノーベル生理学・医学賞を受賞した、この時の流れでも“史実”でも、超有名な細菌学者だ。このため、コッホ先生を盛大に歓迎したいという日本人の医学者は非常に多く、歓迎委員会のメンバーには、ドイツ留学時代にコッホ先生に師事したこともある厚生大臣の後藤さんの他、志賀潔先生や秦佐八郎先生などの医科学研究所の主力研究者たち、そして緒方正規先生、三浦謹之助先生、近藤次繁先生など、東京帝国大学医科大学の先生方……東京にいる著名な医学者たちのほとんどが含まれていた。そして、コッホ先生の歓迎計画を練っていたのだけれど……。
――恐れ多くも天皇陛下には、コッホ先生をお招きになり、宮中において昼食会を開かれるご意向であると、山縣閣下から伝えられました。
ある日の委員会の席上、厚生大臣の後藤さんが厳かに告げた一言で、歓迎委員一同に、妙なスイッチが入ってしまったらしい。
――何と!それならば、その昼食会には、ぜひとも総裁宮殿下にご出席いただかなければなりません!
ジフテリアと破傷風に対する血清療法の研究を確立したという功績で、栄えある第1回のノーベル生理学・医学賞を獲得した北里先生が意気込んで言うと、
――それだけではありません。上野の帝室博物館にコッホ先生がおいでになる時にも、増宮さまがいらっしゃる方がよろしいかと存じます。
医科分科会の一員でもあり、血圧に関する研究で世界的に有名な三浦先生が、珍しく興奮した表情で付け加えた。
――歌舞伎座での歌舞伎の鑑賞、靖国神社の能楽堂での能の鑑賞にも、増宮さまのご同席が必要と愚考いたします。
第2回のノーベル生理学・医学賞の受賞者である、東京帝国大学医科大学衛生学教授の緒方先生は、そう言いながら首を何度も縦に振り、
――上野の音楽学校での歓迎音楽会にも、相撲見物にも、殿下のご同席が必要です!
東京帝国大学医科大学の外科学教授で、ABO式の血液型と輸液の理論を確立させた近藤先生が興奮した声で主張する。
――浅草と、川崎大師の見物にも!
――鎌倉・江の島・葉山の周遊にも!
普段真面目な志賀先生や秦先生まで、上気した顔で次々に叫んだ。
――確かに、先生方のおっしゃる通り、今回の東京とその近郊におけるコッホ先生歓迎の諸行事には、総裁宮殿下のご同席が絶対に必要です。コッホ先生ご自身が、総裁宮殿下との面会を希望されておられるのですから……。しかし、総裁宮殿下が広島にいらっしゃる限り、国賓として遇すべきコッホ先生の歓迎諸行事は、完璧とは言い難いものとなってしまいます。……お分かりですか、後藤閣下。
北里先生が敵討ちを挑むかのような真剣な目つきで後藤さんを見つめると、
――無論、それは我輩も、常々思うところっ!
後藤さんは左右の拳を握り締めて大声で返答した。
――増宮殿下の美しいお姿は、この東京になければならないのです!我輩、いや、我輩だけではなく、井上閣下をはじめとする閣僚は、増宮殿下が広島に転勤されてからというもの、常に心の中に空洞を抱えて生きているのです!もちろん、花御殿の希宮殿下も愛らしく、そして非常に美しいですが、残念ながら、希宮殿下だけでは心の間隙を埋めることはできない!我が国の医学界の……いや、我が国そのもののためにも、やはり増宮殿下は、広島から東京に転勤なさるべき!
後藤さんの謎の……本当に私にとっては謎の咆哮に、
――そうだ!
――後藤閣下のおっしゃる通り!
歓迎委員会の委員一同は気勢を上げた。
――増宮殿下の東京ご転勤の嘆願書を、医科学研究所、いえ、東京在住の医師一同から、政府に提出いたします!
――分かりました、北里先生!我輩も、総理大臣閣下や他の閣僚たちを説き伏せます!
「………………それで、北里先生が嘆願書を提出して、後藤さんが他の閣僚を説得したら、井上さんと閣僚全員が私の帰京に賛成して、転勤命令が出たってことですか?」
完全に呆れながらも、東條さんに一応確認すると、
「そういうことに、なります、はい……」
東條さんは困惑しきった表情で頷いた。
(な、なんちゅう勝手な理由で……)
両膝から地面に崩れ落ちそうになるのを、私は必死に耐えた。もちろん私だって、コッホ先生には会いたい。けれど、数か月になるという彼の滞在中に一度会えればいいと思っていた。会う場所も、この広島だと思っていたのだ。
「こんな滅茶苦茶な転勤理由、初めて聞いたよ、私……」
盛大にため息をつくと、
「宮さま、お気を確かに!」
千夏さんが横から私の肩を支える。
「いや、そう言われても、衝撃を受けない方がどうかしてるよ、千夏さん……」
私は乳母子に向かって、ブツブツと呟き始めた。
「だって、私が東京にいなけりゃ、心の空洞だか間隙だかが満たされないって言うんなら、初めから私を広島に転勤させるなって話で……。私だって、お父様と兄上のそばにいたいところ、命令だから仕方ないって思って転勤したんだよ。広島城を毎日眺めて、広島城を休みのたびに見学してたから、全然寂しくないし、充実した日々を送ってたけどさ……」
「あのー……それでですね、増宮殿下」
言葉を吐き出し続ける私に、東條さんが恐る恐る声を掛ける。
「今回の転勤命令の理由のご説明に、伊藤閣下と大山閣下が広島にいらっしゃるということなのですが……」
「そんなん、来なくていいですよ……“来るに及ばず”って、東京に連絡してもらっていいですか?」
両肩を落とした私が東條さんにお願いすると、
「無理です。お2人ご一緒に、既に東京を出発されておられます。広島に到着するのは、明日の正午ごろということでして……」
彼の口からは、非常に残念な答えが返ってきた。
「仕方ないわね……東條さんから聞いたくだらない事情をまた聞かないといけないのは、苦行でしかないですけれど……」
私はまたため息をついた。
「明日の午前中は出勤だから、泉邸に戻るのは、たぶんお昼過ぎになりますね。お昼ご飯を食べ終わったら、伊藤さんと大山さんの話を聞くことにしましょうか。東條さん、準備をお願いします」
私のため息まじりの命令に、東條さんは「かしこまりました」と一礼した。
1908(明治41)年4月11日土曜日午後2時30分、広島市上流川町・泉邸内の私の居間。
「そのように、悲しそうなお顔をなさらなくとも……」
居間に入ってきた伊藤さんは、私の顔を見るなり、こんなことを言った。
「他にどんな顔をしろって言うんですか、伊藤さん?」
私は本日何度目かになったか分からないため息をついた。
「転勤理由なら、東條さんから聞きました。北里先生たちの提案に、後藤さんたちが乗っちゃったからなんでしょう?また同じくだらない話を聞きたくないんですけれど」
伊藤さんに言うと、
「ご安心ください、梨花さま」
大山さんがそう言いながら、私の隣の椅子に腰かけた。
「東條くんと同じ話をするつもりはございません」
「本当に?」
「本当でございます、増宮さま」
私に答えたのは大山さんではなく伊藤さんだった。
「わしがお話したいのは、増宮さまに広島に赴任していただいた、その理由でございます」
「広島に赴任した理由?」
私は首を傾げた。「それは、高木医務局長の上申で、国軍上層部が協議した結果ですよね。私の医師としての技量を上げるためにも、転勤が必要だという結論に達した……転勤命令が下った時、そう聞きました」
「確かにその通りですね」
大山さんが穏やかな表情で頷く。「しかし梨花さま、なぜ転勤先が広島になったか……それについてはご存じですか?」
「確か、母上や私に仕えてくれている職員さんたちの居住スペースのことを考えると、全員を収容できる建物がこの泉邸しかない、という理由だったわよね?名古屋の離宮でもいいけれど、お父様とお母様が、京都に行くときに使うかもしれないからダメだ、という話だったはず」
すると、
「そんなものは、後付けの理由でしかありませんよ、梨花さま」
大山さんの表情が、突然変わった。今までの穏やかさが消えてなくなり、どこか怜悧さを感じさせる視線が、私をじっと見据えている。
「後付けの理由……?」
「考えてもみてください。敷地の広さこそ、泉邸に匹敵するような邸宅は、日本全国探してもなかなか見つけられませんが、建物の規模に関しては、泉邸よりも大きい邸宅がいくつかあります。京都の三井家の別邸や、舞子の有栖川宮殿下の別邸……それに、京都には二条離宮もございます。天皇皇后両陛下が京都に行幸なさっても、京都御所に入られればよい話。京都には国軍病院もございますから、京都が梨花さまの転勤先であっても良いのです。二条離宮にお住まいになる……梨花さまにとっては、実に魅力的な話だとお思いになりませんか?」
「!」
大山さんの言葉に、私は目を見張った。二条離宮は二条城のこと……私の時代では世界遺産に登録されている城である。二条離宮に住むことが出来るなんて……城郭マニアの私にとっては、夢のような話だ。
「……じゃあ、何なの?私が広島に赴任した理由は、一体何なの?!」
叫ぶように質問した私に、
「この地で、増宮さまにやっていただきたいことがあったからです」
私の前の椅子に座っている伊藤さんはこう答えると、
「まことに……まことに、ありがとうございました……」
突然、床の上に正座をして、私に深々と頭を下げた。
「ちょっと、伊藤さん?!分かるように説明してください!突然土下座されても困ります!」
思わず立ち上がろうとすると、
「梨花さま」
大山さんが私の右手を強く握りしめた。黙って首を左右に振る大山さんを見て、私は浮かせかけた腰を、再び椅子に落ち着けた。
「失礼いたしました……」
伊藤さんは、床の上に正座をしたまま、涙声で私に謝る。
「きちんと、増宮さまにご説明申し上げましょう。……有栖川宮の、若宮殿下のことでございます」
「栽仁殿下の……?」
聞き返した私に、
「実は……“史実”では、この時の流れと同じ日に虫垂炎を発症された若宮殿下は、手術後に容態が悪化され、亡くなられたのです」
……伊藤さんは、信じ難いことを告げた。
「は?!ウソでしょう?!」
「ウソではございません。3月2日に発病され、手術が行われたのは3月10日。しかし、手術後に腸閉塞を発症され、4月3日に亡くなられたと……。斎藤君が、その時のことをよく覚えておりましたよ」
「そんな……」
今の医療水準で、そんな致死的な転帰をとる可能性は少ない、と反論しようとして、私はふと、“史実”と今の医療水準の違いに思い至った。
「そう言えば、抗生物質は、“史実”の現時点では、まだ発見されていない……」
「その通りですね」
私の右手を握ったまま、大山さんが優しく言った。「高野が対馬沖海戦で負傷した直後、驚いておりましたな。“史実”で自分が死んだころにも、抗生物質などという薬は日本になかったのに、この時の流れでは普通に使われている、と」
「それに、手術をしたタイミングも遅い……。急性虫垂炎は、手術をするのが遅くなると、治りにくくなるんだよ」
私は、栽仁殿下の手術をする直前のことを思い出した。あの時、海兵士官学校の臼井軍医長も、私と一緒に江田島にやって来た近藤先生も……日本で1、2を争う手術の名手である近藤先生も、栽仁殿下の身体にメスを入れることをためらっていた。
「まさか、と思いたいけれど、“皇族の身体を臣下が傷つけてはいけない”っていうしきたりに阻まれて、“史実”の栽仁殿下の手術が遅れたって可能性は……」
うつむきながら小さな声で言った私に、
「原因の一つには、なっているのかもしれません」
大山さんが慰めるような調子で答えた。
「だからこそ、“史実”と同じ時に、若宮殿下が虫垂炎を発症なさった場合、梨花さまに全てを託すしかなかったのです。人を助けるためなら、しきたりを壊すことも辞さない梨花さまに」
私は大きなため息をつくと、椅子の背もたれに身体を預けた。
「つまり……あなたたち、全部、仕組んでたのね……」
余りの衝撃の大きさに、言葉が上手く出てこない。
「私が広島に赴任したのも、先月の2日に、私と近藤先生が江田島に行くことになったのも、全部、栽仁殿下が“史実”と同じ日に、虫垂炎を発症した場合に備えて……」
「さようでございます」
床に正座したままの伊藤さんが、再び頭を下げた。
「“史実”で若宮殿下が亡くなられた時、有栖川宮殿下のご落胆とお苦しみは甚だしく……“皇族の誰かを養子に取って、宮家を存続させることは出来ないだろうか”と、朝鮮におったわしにお手紙をくださいました。しかし、その当時、皇族が養子を取ることは皇室典範で禁じられておりました。ですからわしも、“それは難しい”とお答え申し上げる他ありませんでした」
確かに、伊藤さんの言う通りだ。私がお母様の養子になっているのも、皇室典範が出来る直前だったから可能だったことである。栽仁殿下が亡くなったことで、有栖川宮家が近い将来断絶することが確定してしまったのだ。
「ですが、思わぬ事故で“史実”の記憶を得て……由緒ある有栖川宮家の断絶だけは避けなければならない、若宮殿下だけは、何としてでもお救い申し上げなければならないと、強く思ったのです!その思いは原君も斎藤君も、そして他の梨花会の皆も同じです。大山さんの意見もありまして、増宮さまには“史実”での顛末は伏せて、事を進めておりましたが……」
(そういうことか……)
そう言われて思い出したのは、昨年末、呉で進水式があった時のことだ。別れ際、斎藤さんは私に、“どうか今後とも、医術の鍛錬に励まれますように……”と言った。あの時は単なる激励の言葉だと思っていたけれど、種明かしをされた今、改めて解釈してみると、あれは“栽仁殿下を救ってください”という、斎藤さんからのお願いだったのだ。けれど、それをそのまま私に言う訳にはいかないから、あのような言葉にするしかなかったのだろう。
「増宮さまを今まで欺いていたこと、心よりお詫び申し上げます」
「あの、謝らないでください、伊藤さん」
私は首を力なく左右に振った。「“史実”での栽仁殿下のことを事前に知らされていたら、私、栽仁殿下の手術は出来なかったと思います。だけど……一つ心配なことがあって」
「何でしょうか、梨花さま?」
私の右手を握ったまま、優しく尋ねた大山さんに、
「大兄さまは、“史実”での栽仁殿下の顛末を知っているの?」
と質問した。
「有栖川宮殿下はご存じありません。……伝えることはできませんよ。ご嫡子が急な病で亡くなられ、有栖川宮家が断絶してしまうという未来など」
「そうね。私があなたでもそうした……」
そう応じながら、私はある不安にとらわれていた。
今回は、何とか手術を乗り越えることができた。けれど、また栽仁殿下が侵襲的な治療が必要な病気になって、もう一度同じ状況でメスを握れと言われたら、私はおそらく、術者にはなれない。妹のお婿さんになるであろう人の身体に……好きなのに、好きになってはいけない人の身体にメスを入れるなんて……未熟者で、心の弱い私は、手術中に動揺してしまうだろう。
(今度、栽仁殿下が同じような状況になったら……侵襲的な治療が必要だっていう状況になったら、私、栽仁殿下のこと、助けられないよ……)
視線を落とした時、伊藤さんの後ろにある背の低い箪笥が目についた。刀を入れておく専用の箪笥で、お父様から軍医学校入学の時に贈られた大典太光世が入っている。広島に赴任してから正装を着る機会がないため、千夏さんや東條さんにメンテナンスをしてもらう時以外は、大典太光世はずっと箪笥の中にしまわれていた。
(そうだ……)
単なる迷信や伝説の類かもしれない。けれど、それに縋るしかない。栽仁殿下が病気やケガから守られて、私が彼の治療をする機会が永遠に訪れないようにするには。
「ありがとう、大山さん、伊藤さん。私に、栽仁殿下のもう一つの未来を教えてくれて……」
その未来を繰り返させはしない。伊藤さんに向かって頭を下げた時に、私は決意を固めた。




