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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第45章 1907(明治40)年立冬~1908(明治41)年穀雨
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さらば江田島

 1908(明治41)年4月5日日曜日午前10時、江田島の宿。

「すみません、こんな格好で……」

 髪を下ろし、寝間着の上からえんじ色の羽織を着た私は、お客様……海兵士官学校の校長・島村(しまむら)速雄(はやお)海兵少将に微笑を向けた。と言っても、私はマスクをつけているから、微笑んでいるのは島村さんには分からなかっただろう。

「いえ、構いません。こちらこそ、休日に参上いたしましたから」

 島村さんは、笑顔で私に言った。軍医学校で彼に艦隊のことを教わった時にも、実習で連合艦隊にいる時にも見た、力強く、明るさを感じる笑みだ。

「それで、ご用件は……」

 何でしょうか、と言おうとして、喉がむずがゆくなり、私は軽い咳をした。昨日、小雨の中を走り続けて身体を冷やしたせいで、風邪を引いてしまったのだ。

 すると、

「昨日の、棒倒しのことでございます」

島村さんの笑顔が、少し悲しげな色を帯びた。

「ああ……」

(やっぱりね……)

 私は視線を下に向けた。理由は何であれ、私は昨日、生徒たちの訓練の一環として行われていた棒倒しを妨害したのだ。懲罰か、良くてお叱りの言葉ぐらいは頂戴しなければならない。

 ところが、

「実は、昨日、有栖川宮(ありすがわのみや)の若宮殿下が棒倒しに参加なさった責任の一端は、私にありまして」

島村さんは、意外なことを言い始めた。

「どういうことでしょうか……」

 微熱があるのか、頭が思うように働かない。島村さんの言葉の意味が取れなくて、私は素直に尋ね返した。

「昨日の昼休み、若宮殿下と、その学友の同級生や上級生たちが校長室にやって来て、私に直訴したのです」

 私の質問に、島村さんは穏やかな声で答え始めた。

「そして、生徒たちはこう言いました。“今日の棒倒しに、若宮殿下と一緒に出たい”、と。若宮殿下も、“何とかして、今日の棒倒しに参加したい”と強くおっしゃいました」

「それは……」

「もちろん、反対いたしました。“臼井(うすい)軍医長と増宮殿下から、若宮殿下は棒倒しに出ることを禁じられております。軍医長たちの指示に従うべきです”と。しかし、若宮殿下は熱心にご自身の参加を要望されました。生徒たちも同様です。……その熱意にほだされて、私はこう言ったのです。“若宮殿下が攻撃隊を後ろから指揮なさるのであれば、攻撃を受ける可能性は非常に小さいだろう。その位置を、競技中もずっと守られるのであれば、若宮殿下の参加を許可します”と」

「……」

「そのことを軍医の方々に伝えなかったのは私の過失です。その結果、増宮殿下を雨の中走らせることになってしまいました」

 島村さんは言い終わると、私に深く頭を下げた。

「島村閣下、謝らないでください」

 私は首を横に振った。「そもそも、あの場では審判の教官を止めるのが正解でした。ですから、責任は私にあります」

 また喉がむず痒くなり、私は軽く咳をした。

「それに……私は患者の胸倉をつかんで怒鳴りつけるという、医者としてやってはいけないことをしてしまいました」

「患者……と仰せられますか、若宮殿下を」

「他に言い方があるでしょうか」

 私はぼんやりする頭を必死に回転させながら、島村さんに反論した。

「私が一度身体にメスを入れた以上、その人は身分に関係無く私の患者です。その患者を怒鳴りつけるのは、医者としてやってはいけないことだと私は思います」

「指示に従わぬ患者を医師が叱るのは、よくあることだと思いますがね」

 島村さんは私に苦笑を向けると、

「しかし、この事態に関わる者全てが、それぞれに過失を犯しているとは言え、増宮殿下が棒倒しを妨害したという事実は残ります」

と穏やかな声で言った。

「はい。どんな重い罰も受ける覚悟です」

 私が姿勢を正すと、「そう緊張なさらなくともよろしいと思いますが」と島村さんはまた苦笑いを顔に浮かべ、こう言った。

「増宮殿下は10日の勤務終了後に広島にお戻りになるご予定だと、広島国軍病院の大西(おおにし)病院長から聞いております。東京の西郷閣下とも電話で話し合いをしましたが、広島にお戻りになることも考慮し、10日の午前中まで、この宿でご謹慎いただくように……という結論が出ました」

「それで、広島に戻ったら、軍法会議に掛けられて、正式に罰が下されるということですね」

 島村さんに確認すると、

「増宮殿下、落ち着いて下さい。10日の午前中までの謹慎が、殿下への処分の全てです。軍法会議などとはとんでもありません」

彼は穏やかな声で私に答えた。

「本当は、私の一存で処分を決めて良い些細な話なのです。殿下のご身分がご身分なので、西郷閣下に相談致しましたが」

「それは、本当はもっと重い処分が下されるところ、私の身分に忖度して処分を軽くした、ということでしょうか」

「いいえ、決してそのようなことはございません」

 島村さんは、私の目を真正面から見つめた。穏やかだけれど力強い視線に、更に反論を重ねようとした私の戦意は急速に萎んでいった。私の身体が万全な状態であったとしても、私の反論は島村さんに粉々に砕かれるだろう。そう感じたのだ。私への処分は、通常より軽いのかもしれないけれど、今はそれを受け入れるしかない。

「分かりました。では、謹慎させていただきます」

 私は島村さんに一礼すると、

「あの、島村閣下にお願いしたいことがあります」

と言った。

「なんでしょうか、殿下」

「昨日、棒倒しの最中に、私を敵軍と間違えて殴りかかって来た生徒がいました。どうか、その人には罰を与えないようにお願いします。私の軍装と生徒の作業服は色が全く同じですから、雨の中で見分けがつかなかったでしょうし、まさか私が飛び出して来るなんて、彼は思ってもいなかったでしょうから」

 すると、

「なるほど、分かりました。彼には処分を下さないように致します」

島村さんは快く請け負ってくれた。

「それから、栽仁(たねひと)殿下に、胸倉をつかんで怒鳴りつけてしまって申しわけないと、私の代わりに謝罪していただけないでしょうか?」

 もう一つ、頼みごとをしてみると、

「……それは、増宮殿下ご自身で、若宮殿下におっしゃるべきではないでしょうか」

島村さんは首を左右に静かに振った。

「……」

 更に重ねて頼み込む言葉を、とっさに見つけられないでいると、

「……さて、大事なお体を疲れさせる訳にはいきませんから、私はこれで失礼致します。増宮殿下、お大事になさってください。後で軍医長に往診してもらいます」

島村さんはそう言って私に深く頭を下げ、部屋から退出してしまったのだった。


 1908(明治41)年4月10日、金曜日。

 午後2時過ぎに人力車で海兵士官学校に入った私と千夏さんは、海兵士官学校での最後の仕事に追われた。私は校長室、ついで医師の控室に向かい、島村さんと臼井軍医長にご挨拶をする。千夏さんは桟橋に移動して、新島さんと一緒に、荷物を広島行きの連絡艇に載せる。挨拶回りを終えた私が午後3時ごろ桟橋に着くと、荷物は全て連絡艇に載せられていた。見送りの行事は全て断ったから、あとは私が乗り込めば、連絡艇は広島・宇品(うじな)港に向かって出航する。

「宮さま」

 千夏さんは連絡艇の上から私の姿を見つけると、桟橋に降り立ち、私のそばまで走ってきた。

「お加減は変わり無かったですか?!」

「大丈夫よ、元気そのもの。ちゃんと臼井軍医長のお墨付きもいただきました」

 私は診察カバンを持ち直すと千夏さんに答えた。

「日曜日からちゃんと養生したから、挨拶回りをした程度じゃ体調も崩れないわよ。でも、心配してくれてありがとう、千夏さん」

 笑顔でこう付け加えると、「そんな……宮さまの女官として、当たり前のことをしただけですのに」と千夏さんは恐縮したように頭を下げ、

「ですが……お見送りは断って良かったのですか?」

と、更に私に尋ねた。

「一応、謹慎していた身だし、ここに最初に来た時も微行(おしのび)の扱いだったから、見送りなんていらないです。それに私、仰々しいのは嫌いだし」

 そう返すと、

「あー……そうではなくて」

千夏さんは更に私に身体を近づけ、

「お見送りを受けるということにしておけば、有栖川宮の若宮殿下とお会いになれて、お詫びも出来たでしょうに」

と囁くように言った。

「……今更、どのツラ下げて、栽仁殿下に会えるって言うのよ」

 私は千夏さんから顔を背けた。「それに、顔を合わせたら、栽仁殿下が脅えて逃げ出すわ」

 すると、

「宮さま、御療養に専念していただきたかったので、今までは触れずにおりましたが」

千夏さんが、小さいけれど尖った声で言った。

「若宮殿下が宮さまを怖がるようなことは、絶対にありません。宮さまが謝罪なさったら、若宮殿下はきっとそれを受け入れて下さいます」

「い、いや、それは無いと……思うよ?」

 私は千夏さんの言葉にうつむいた。「栽仁殿下も、竹田宮(たけだのみや)殿下みたいに、私を避けるようになる。栽仁殿下は昌子(まさこ)さまと結婚して、私は怖い小姑さんとして、2人の人生に影を落とすことに……」

「そんな……」

 千夏さんが困ったように言った時、

「殿下、出航の刻限です」

新島さんが連絡艇の上から私達に告げた。

「ほら、千夏さん、新島さんに逆らったら怖いし、行こう?」

「……仕方ないですね」

 不満そうな千夏さんをなだめながら、私は彼女と一緒に連絡艇に乗り込んだ。連絡艇はすぐに桟橋から離れ、波静かな江田島湾に滑るようにして出て行く。

(これで、江田島に来ることはもう無い……)

 私は軽くため息をついた。

 いい加減、栽仁殿下への思いは断ち切らなければならない。いくら私が栽仁殿下を好きであっても、私が軍人である限り、その思いが叶えられることはないのだから。

(未練がましいぞ、私……)

 そう思った時、

「中尉どのーっ!」

聞き覚えのある声が私の耳に届いた。まさか、この声は……。

(栽仁殿下、なんで……?)

「宮さま!」

 千夏さんが私の左肩を勢いよく何回も叩く。

「若宮殿下ですよ!」

「う、うん……」

 ようやく首を縦に振ると、

「今です!」

千夏さんはよく分からない言葉を叫んだ。

「い、今って?」

 尋ね返すと、

「若宮殿下に、先週の棒倒しの件を謝罪なさるのですよ!」

千夏さんは語気を荒げた。

 だんだん遠くなっていく桟橋には、栽仁殿下の他にも、北白川宮(きたしらかわのみや)輝久(てるひさ)王殿下や、その他にも大勢の生徒が詰め掛けていた。確かに今の時間は、ちょうど授業が終わった頃だから、教室から駆け付けてくれたのだろうけれど……。

「この大勢の生徒の前で謝罪するの……?は、恥ずかしい……」

 ためらいを口にした私を、

「何をおっしゃっておられますか!」

頼りになる乳母子は叱り飛ばした。「謝罪なさる絶好の機会ですよ!これからどのようなことになるかわかりせんが、一言謝罪なさる方がようございます!」

「わ、分かった……」

 ものすごく真剣な目で私を見つめる千夏さんに頷くと、私は大きく息を吸い、

「たっ……栽仁殿下ーっ!」

と叫んだ。

「棒倒しの時は、怒鳴ってごめんなさい!」

 ……そう言葉を続けようとした刹那、

「今度江田島にいらしたら、俺を厳しく叱りつけて下さい、増宮殿下ーっ!」

という、バカでかい声が岸から届き、私の口の動きが止まってしまった。

(は……?)

 見ると、桟橋の先端に、大柄な生徒が1人いて、栽仁殿下を押しのけて大きく手を振っている。どうやら彼が、私に謎の要求をしたようだ。

「し、叱って下さいって、何……ドMなの?」

 戸惑う私の横に、スッと立ったのは新島さんだ。

「では、殿下の代わりに、私が貴様らの根性を叩き直してやろう!」

 私の鼓膜が破れてしまうのではないかと思うほどの大声に、桟橋に集まっていた士官学校の生徒たちが一歩後退した。

「さぁ、宮さま、気を取り直して、若宮殿下にお言葉を!」

 桟橋の様子を見ていた千夏さんが、また私の肩を叩き、私を叱咤激励する。

「う、うん……」

 気を取り直して……というよりは、隣に立っている新島さんと千夏さんに気圧されて、私はもう一度息を大きく吸い、

「栽仁殿下!棒倒しの時は怒鳴ってごめんなさい!」

と、遠くなる桟橋に向かって叫んだ。栽仁殿下からは返事は無い。制帽を手に持って、それを大きく振っているのは見えたけれど、次第にその姿も小さくなり、私の視界から消えてしまった。

「あ、あの、千夏さん、今の、栽仁殿下に聞こえたよね……?」

 千夏さんに尋ねると、「さぁ、どうでしょう?」と彼女は首を傾げた。

「千夏も、確信が持てません。お手紙をお書きになって、それで謝罪をなさる方がよろしいかも……」

「な、何を言ってるのよ!」

 私は千夏さんに反射的に言い返した。

「そんなの……何日も、いや、何ヶ月掛かっても、書き終わらないわよ……。あなたに手紙を代筆してもらわないと」

「何をおっしゃっておられるのですか!謝罪のお手紙は、ご自分でお書きください!」

「書き終わるのが来年になってもいいなら、自分で書くけれど……」

 恐る恐る、怒っている乳母子に言うと、

「なぜそんなに弱気なのですか、宮さま。マリー妃殿下からのお手紙のお返事は、いつもびっくりするほど早くお書きになるではないですか」

彼女は即座に強力なツッコミを私に食らわせた。

「そ、そんなこと言うけど、千夏さん……これ、マリーへの手紙とは全然違うから、やっぱりあなたが代筆して……」

「絶対に、お断り申し上げます」

「そんな、千夏さんの意地悪……」

「意地悪ではなくて、千夏は宮さまのためを思って申し上げているのです!」

 ……などと、出口のなかなか見えない議論を千夏さんと続けている間にも、連絡艇は広島に向かって順調に航海を続け、午後4時前に広島市の宇品(うじな)港に入港した。

「さて、東條さんが迎えに来るんだっけね」

 診察カバンを持ち直した私が千夏さんに尋ねた時、遠くから馬の蹄の音が響いた。埠頭に泉邸(せんてい)で使っている馬車が入ってきたのだ。馬車は見る見るうちに私達に近づき、5mほど離れたところで停止した。

「増宮殿下!」

 馬車の扉が開いて、私に仕える宮内省職員・東條英機さんが転がるようにして降りてきた。約1ヶ月ぶりに見る東條さんの顔は、明らかに青ざめている。

「東條くん、あなた、まだ宮さまに脅えているんですか?」

 軽く睨みつける千夏さんに、「違いますよ!」と大声で言い返すと、

「増宮殿下、大変です!」

東條さんは私に向かって最敬礼した。

「どうしたんですか?まさか、ロシアがまた日本に宣戦布告しましたか?」

 冗談めかして東條さんに尋ねてみると、彼は左右に激しく頭を振り、

「5月の……5月の1日から、殿下には築地の国軍病院でご勤務されますようにと、つい先程、辞令が届きました!」

私が全く予想もしていなかったことを告げた。

「は……?!」

「ふ……赴任から1年も経ってないのに、東京に戻れって?!」

 夕暮れ迫る宇品の港に、千夏さんと私の絶叫が響いたのだった。

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[一言] 親馬鹿&爺馬鹿共が… 図ったのは明白ですね。さて、これに対して大山さんはどう、対処するのかが楽しみ。多分、殺気の嵐が吹き荒れるんだろうなあ。
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