棒倒し
1908(明治41)年4月4日土曜日午後3時、広島県江田島にある海兵士官学校。
「はぁ……これが、私が見る最後の棒倒しですね」
事務棟とレンガ造りの生徒館のそばには、海兵士官学校の練兵場がある。その事務棟近くに立てた天幕の下に、私は臼井軍医大佐、秋本軍医少佐、そして新島さんと一緒に立っていた。
「ですね」
臼井軍医大佐が、小雨の降りしきる練兵場を眺めながら私に応じた。
「初めて棒倒しをご覧になった時は、殿下、ビックリされておられましたね」
「軍医学校でも女学校でも、あんなに激しい棒倒しはやりませんもの」
私は軽くため息をつきながら、臼井軍医大佐に返した。
私が眺めている練兵場には、海兵士官学校のほぼすべての生徒、約400人が、紅組と白組の2チームに分かれ、練兵場の左右に立っていた。チームはそれぞれ、高さ3mくらいの丸太を中心に陣を組む集団と、隊列を組み、各々気合を入れている集団とに分かれている。
この海兵士官学校では、毎週土曜日の午後3時ごろから、全校生徒を2つに分けて棒倒しを行う。自分の陣地に立てた棒を相手の攻撃から守りながら、相手の陣地に立てられた棒を攻撃して倒す……ルールとしては、私の時代の運動会で行われる棒倒しと同じだ。ところが、この海兵士官学校で行われる棒倒しは、攻撃側と防御側の間で、殴る蹴る、身体を掴んで引っ張る、頭突きをする、投げ飛ばす……そういう攻防が、前世で見た棒倒しより明らかに苛烈なのだ。そんな激しい戦いを防具無しでやるのだから、当然、けが人も続出する。そのため、棒倒しが行われる時には、出勤している軍医が全員、練兵場に待機することになっていた。
「この雨の中でも棒倒しをするなんて、思ってもみませんでした」
雨の中でも元気いっぱいの、白い作業服を着た生徒たちをぼんやり見ながら言うと、
「戦闘訓練の一つでもありますからね、棒倒しは」
秋本軍医少佐が苦笑しながら答えた。「私も初めて見た時は驚きましたが、あれで生徒たちには、よい気分転換になっているようです。それに、戦って生まれる友情というものもありますからね」
「……分かりますけれど、なるべくなら、友情は軍医に迷惑を掛けないようにして育んでほしいです」
「それは確かに。若宮殿下に棒倒しを禁止してよかったです」
私は黙って、秋本軍医少佐に頷いた。
先月2日の手術以降、海兵士官学校の2年生・有栖川宮栽仁王殿下は順調に回復していて、今週の月曜日、3月30日には、棒倒し以外の運動に許可を出した。棒倒しで行われる取っ組み合いは、相手が上級生だろうが下級生だろうが容赦ない。もちろん、相手が華族だろうが皇族だろうがお構いなく、生徒たちは大乱闘を演じるのだ。だから、栽仁殿下の手術創に、パンチやキックが命中するかもしれない。そうなれば、くっついた手術創が開いてしまうかもしれない……。士官学校の軍医全員がその意見で一致した。なので、“棒倒しは禁止”と栽仁殿下には申し渡したのだ。
(これで、今日の棒倒しが無事に終了すれば、あと1週間で広島に戻れる……)
広島国軍病院の大西病院長からは、“4月10日の勤務が終わったら、広島に戻ること”という命令を受け取った。4月10日までは、栽仁殿下の創の経過を毎朝診なければならないし、舞子にいる栽仁殿下のお父様・威仁親王殿下宛てに、毎日病状報告書を作らなければならないけれど、あと1週間で、その煩わしい業務からも解放されるのだ。
(あの報告書、たった数行で済むのに、書くのに毎日何時間もかかっちゃうからなぁ……。でも、あと何回か、この苦行を乗り越えれば、栽仁殿下にも会わなくて済むから……)
そう考えた途端、私は奇妙な感覚に襲われた。胸の奥が痛いような、切ないような……。
(え……?)
思わず、右手を胸に当てた時、
「おや?」
練兵場を眺めていた秋本軍医少佐が首を傾げた。
「どうした、秋本君」
そう尋ねた臼井軍医大佐に、
「紅組に、若宮殿下がいらっしゃるように思うのですが……」
秋本軍医少佐は練兵場の右手側に目を凝らしながら答えた。
「は?!」
「何だって?!」
臼井軍医大佐が、診察カバンの中から双眼鏡を取り出し、右手側にいる紅組を観察する。
「本当だ……攻撃側にいらっしゃるが……いったいなぜ……」
「貸してください!」
双眼鏡を覗いて呆然としている臼井軍医大佐の手から、私は双眼鏡をひったくった。右手側の紅組は、私たちに近い方に棒を立て、防御の陣を敷いている。その向こう側にいる紅組攻撃隊の後ろの方に、栽仁殿下が立っていた。
(何やってんのよ!)
「大佐どの、審判役の教官に頼んで、栽仁殿下を下がらせましょう!このままでは危険です!」
「そうですね、増宮殿下。直ちに審判に伝えて……」
臼井軍医大佐が私に答えた瞬間、湿った空気を切り裂くように甲高い笛の音が響いた。審判役の教官が、競技開始の合図の笛を鳴らしたのだ。右の紅組、左の白組の攻撃隊が、喊声を上げて相手の棒に突進し始める。
「私、止めてきますっ!」
私は叫びながら、天幕の下から飛び出した。
「競技止め!止めなさい!」
小雨が降る中、私は紅組の攻撃隊に向かって走った。紅組攻撃隊は、練兵場の奥の方にいる。ここからの最短距離は、練兵場の真ん中を通り、左側から走ってくる白組攻撃隊の前を突っ切るルートだ。私は迷うことなく、白組攻撃隊の前を横切って走った。私の姿を見た白組攻撃隊が急停止し、私に向かって敬礼をする。本当は答礼をするべきところなのだけれど、そんな暇はない。栽仁殿下が白組の防御陣にたどり着く前に……誰かの攻撃を受ける前に、彼を捕まえなければならない。
白組攻撃隊の前を横切り終えた私の右手側から、激しい雄叫びが聞こえた。パッとそちらを振り向くと、紅組攻撃隊の生徒が一人、私に向かって突進してくる。どうやら私のことを、白組の防御陣の1人だと思っているようだ。私の軍装は、生徒たちの作業服と同じく上下真っ白だから、雨の中で見分けがつきにくいのだろう。
「どきなさいっ!」
彼の拳をかわそうとしたけれど、上手くかわし切れず、胸を拳がかすってしまった。少しだけ痛みを感じた瞬間、
「げぇっ、増宮殿下ぁっ?!」
殴りかかってきた生徒が土下座する。殴りかかった相手が私だとやっと認識したようだけれど、彼に構っている余裕はないのだ。栽仁殿下を探し、紅組攻撃隊に視線を走らせた矢先、
「左翼、足を止めずに押し出せ!」
右斜め前から、栽仁殿下の声が聞こえた。
(いたっ!)
「栽仁殿下っ!」
声がした方角に向かって、私は再び全速力で走った。紅組攻撃隊の生徒たちが慌てて動きを止め、私に向かって敬礼する。それを無視して、私は栽仁殿下の姿を探した。すると、攻撃隊の後方中央、私から数m離れたところに、彼が走っているのが見えた。
「姉宮さま……?!」
私を見つけ、目を丸くした栽仁殿下が、走っていた足を止める。そのそばまで無言で駆けると、
「馬鹿っ!」
私は栽仁殿下の胸倉をつかんだ。栽仁殿下は少しよろけ、きょとんとした表情で私を見つめている。そんな彼に向かって、
「私、言ったよね?!まだ棒倒しはするなって!」
私は叫んだ。
「手術創に攻撃が命中したら、創が離開するかもしれないからって!なぜ……なぜ、指示に従わないの!」
「殿下、お待ちください!これには事情が……」
上級生らしい生徒が、私と栽仁殿下の間に入ろうとする。けれど、
「黙りなさい!」
私が一喝すると怯んだのか、彼は一歩後ろに下がった。
「心配して、言ってるのに……!」
眼を見開いたまま反応しない栽仁殿下に、私は言葉を叩きつけ続けた。
「あなたの身体が傷つくのは嫌だから、あなたに苦しんでほしくないから言ってるのにっ……!あなたは私の患者でしょ?!どうして、医者の指示に従ってくれないの?!」
口から言葉を吐き出すたびに、心が辛くなっていく。切られるような痛みが、締め付けるような切なさが、胸をかき乱し、制御不能な激情が頭の中でいっぱいになる。
(もう、無理……。ここに居続けたら、私、もう……)
「増宮殿下っ!」
すぐ後ろから、追いすがって来た新島さんの声が聞こえる。その声を無視して、栽仁殿下の胸倉をつかんだ手を離すと、私は降り続く小雨の中、あふれ出る涙も拭わずに、士官学校の校門に向かって全速力で駆け出した。
午後3時20分。
海兵士官学校の練兵場から走り続けた私が、宿にしている旅館の玄関の引き戸を開けた時、玄関を上がったところにある帳場には、ちょうど旅館のご主人がいた。この1か月、毎日のように顔を合わせていたけれど、私が一人で現れたので、びっくりしてしまったようだ。彼は目を見開いたまま、「み、宮様……」と言ったきり、絶句してしまった。
「あ、すみません。うちの女官……いますか?」
ご主人を刺激しないように、顔に微笑みを浮かべながら尋ねてみたけれど、
「え……、え、榎戸どのーっ!!」
ご主人はひきつった顔で絶叫して、奥の方へと走り去った。
(ああ……しょうがない、さっさと上がって、服を着替えるかぁ……)
ため息を一つついて、ずぶ濡れになった革靴を脱ごうとすると、バタバタと足音が響いて、
「宮さま!」
千夏さんが奥から現れた。
「どうなさったんですか?!ずぶ濡れですよ?!」
「走って帰ってきました……」
そう答えながら、私は千夏さんに背を向けて靴を脱いだ。
「傘はどうなさったんですか!」
「……置いてきました」
脱いだ靴を下足箱に入れながら千夏さんに返答すると、
「とにかく、お部屋に入ってください!」
千夏さんは私の左手を乱暴につかみ、普段使っている部屋に、私を引きずるようにして連れて行った。
居間として使っている部屋に私を入れると、千夏さんは私の白いジャケットとズボンを脱がせる。シャツも脱がせて、乾いた寝間着を肩から掛けると、
「士官学校で、何かあったのですか?」
千夏さんは私の身体をタオルで拭いながら、心配そうな声で尋ねた。
「……何も無いですよ」
微笑して答えると、
「ウソをつかないでください、宮さま!」
千夏さんが私を睨みつけた。
「宮さまが……宮さまがこんなにお泣きになるなんて!絶対に何かあったに決まっています!」
千夏さんは断言すると、
「何があったのですか、宮さま?!」
私に真剣な表情で訊いた。
「まさか、軍医長や校長が、宮さまを叱りつけたり、危害を加えたり……」
「違います!」
私は首を激しく左右に振った。
「叱ったのは……怒鳴りつけたのは、私の方なんです」
また、胸が締め付けられるように切なくなる。耐えられなくなった私は、畳に両ひざをついた。
「医者なのに……私は医者なのに、自分の患者をあんな風に怒鳴りつけるなんて、本当に、どうかしています……」
「宮さま……」
千夏さんが、私の前に膝をついた。
「訳を聞かせていただけませんか?」
「千夏さん……」
「宮さまのことでございます。患者を怒鳴りつけたとしても、そこには必ず、何かやむを得ない事情がおありのはずです」
「やむを得ない事情なんて、無いんです……」
穏やかな声で尋ねる千夏さんに、私は力なく答えた。
「私は……私の心が、乱れてしまっただけで……」
「では、なぜ、お心が乱れてしまったのですか?」
(!)
「それは……それは、言えません……」
ようやく、これだけ私が言うと、
「それでは……大山閣下になら、おっしゃることが出来るのでしょうか?」
私に質問した千夏さんは、寂しそうな眼をした。
「それは……」
答えることが出来ずに黙り込んだ私に、
「分かっております……」
千夏さんは悲しげに微笑みを向けた。
「千夏は、大山閣下ほどには、宮さまに信頼されておりませんもの。宮さまは迷われることやお悩みになることがあれば、必ず大山閣下に、そのことをお諮りになります。もし、大山閣下がここにいらっしゃれば、宮さまは大山閣下に……」
「大山さんには!」
私は思わず、大きな声を出した。
「大山さんには、話せません……。こんな、軍人としても、内親王としても、ふさわしくないこと……」
すると、
「では、千夏にお話しいただけませんか?」
千夏さんが私を見つめながら言った。
「千夏さん……」
「お話になったことは、絶対に言いません」
「でも……」
私はうつむいた。「この話を聞いたら、千夏さんは私のこと、軽蔑しますよ……」
「いたしません!」
突然の千夏さんの大声に、私は思わず顔を上げた。
「たとえ、宮さまに至らないところがあったとしても……、世の中の誰もが宮さまを裏切っても、万が一、大山閣下が宮さまを裏切っても、千夏は最後まで、宮さまの味方でおります!」
(そこまで……)
千夏さんの真剣な眼差しを受け止めながら、私は千夏さんが私に仕え始めてからのことを、ぼんやりと思い返していた。
ひたすら私のことを肯定する千夏さんの言動に、初めは戸惑っていた。私が女医学校に通い始めた頃からは、次第にそれに戸惑うこともなくなったけれど、千夏さんは、単に私に媚びへつらっているだけではないだろうかという疑念は、心のどこかでくすぶっていた。
けれど、この乳母子は、私に至らないところがあってもいいと言う。それでも、最後まで私の味方でいると言う。もしかしたら、ウソかもしれないけど……彼女の眼は、ウソをついているようには見えなかった。
(もし、ウソだとしたら……それは、見破れなかった私が未熟なだけだ。今は……千夏さんのことを、信じよう……)
「じゃあ、話します……」
私は一つ息を吐いた。
「あの……絶対に、誰にも言わないでくださいね?」
こう頼むと、
「はいです」
千夏さんは真剣な表情で請け負ってくれた。
「私、さっき、栽仁殿下の胸倉をつかんで、怒鳴りつけてしまいました……」
肩に掛けられた寝間着の袖に腕を入れると、私は先ほどの出来事を、ポツポツと話し始めた。
「今週のはじめ、栽仁殿下に、激しい運動を許可しました。けれど、棒倒しだけは許可しなかったんです。棒倒しで取っ組み合っている最中に、相手の攻撃が手術の創に命中したら、折角くっついた手術の創が、パックリ開いてしまう可能性があるから……」
「なるほど」
もしかしたら、医学の知識が余りない千夏さんには難しい説明だったかもしれないと、言ってから思ったけれど、千夏さんは納得したように頷いてくれた。私は少しほっとして、また口を開いた。
「けれど、今日……棒倒しの隊列の中に、栽仁殿下がいたんです。止める暇もなく、競技が始まってしまって……。だから、私、練兵場の真ん中を突っ切って、栽仁殿下を探して走りました。競技から殿下を外そうと思って」
「競技の最中に、ですか?!」
「ええ」
「それは……宮さま、走ってきた生徒にもみくちゃにされたのでは?!」
「何とか大丈夫でした。そして、栽仁殿下を見つけて、次の瞬間、殿下の胸倉をつかんで、怒鳴りつけていて……」
私はそこでうつむいた。あの時の、痛いような、切ないような苦しさが、脳裏によみがえったのだ。
「……宮さまはその時、どんなお気持ちで、有栖川宮の若宮殿下を怒鳴られたのですか?」
千夏さんは優しい声で私に尋ねた。
「心配だったんです……栽仁殿下の手術の創が、開きはしないだろうかって……」
私は一度言葉を切って、呼吸を整えた。「殿下には苦しんでほしくないのに、殿下が、あんな危険なことをしようとして……。それなのに、私はあんな乱暴なことをして……。私、分からないんです。自分が何をしたかったのか、全然分からないんです!練兵場にあのままいたら、自分がどうなるか分からなかったから、練兵場からここまで、走って帰ってきました……」
「宮さま……」
「私、ダメなんです。殿下を見てしまうと、心がざわざわして、苦しくなって……。さっきだって、心が痛くて、苦しい気持ちになって……。こんな、こんなことで動揺するなんて、軍人としても、内親王としても、ふさわしくないから……、そう思って、竹刀を振るってみたり、医術の修業に励んでみたりしたけれど、栽仁殿下の顔を見るたびに、おかしくなってしまって……私、本当にダメ。たかが、人の顔を見た程度で、こんなに動揺するなんて……だから、だから、誰にも知られたくなかった……」
涙が自然とあふれ出してしまい、言葉が続けられなくなってしまった。頭の中がオーバーヒートしてしまい、大きくゆっくり呼吸をして、籠った熱を何とか外へと逃がす。何十秒か経ってから、ようやく私は口を開いた。
「千夏さん、失望させて、ごめんなさい……。軽蔑したでしょう?私のこと……」
「いいえ」
私の問いに、千夏さんは静かに首を左右に振った。「失望も、軽蔑もしておりません。宮さまがずっとお悩みになっている原因が分かって、千夏はホッと致しました」
「え……?」
「宮さま、若宮殿下に、恋をなさっておられるのですね……」
千夏さんは……私の乳母子は、私が思いも寄らなかった言葉を口にした。
「千夏さん……ウソでしょ……?」
私は弱々しい声で千夏さんに反論した。
「前に恋をしたときは……ああ、千夏さんが私に仕える前のことだったから、千夏さんは知らないだろうけれど……ずっとこんなに辛いことは無かったよ。もちろん、フリードリヒ殿下が亡くなった後は、とても苦しかったし、辛かったけれど……」
「その時の恋のお相手は、外国の方だったのですね」
「ドイツの、メクレンブルク・シュヴェリーン大公国の方」
穏やかな声で尋ねる千夏さんに、私は記憶を手繰り寄せながら答えた。
「私より、11歳年上でね。私が13歳の時に来日して、その時に1度だけ会った。笑顔が素敵な人だったのを覚えている。何回か手紙をやり取りして、とても誠実な人だな、って思っていたのだけれど……今から11年前に、乗っていた水雷艇が事故で沈んで、亡くなった。彼に恋をしていると気づいたのは、彼が亡くなったと聞いた時よ」
あの時の苦しい、辛い気持ちが心によみがえり、私は痛みに耐えるために一度口を閉じた。様々な思い出が積み重なって、だいぶ薄らいではきたけれど、あの時の辛さと悲しみは、忘れられるものではない。
「そんなことがあったのですか……」
「でも、前に恋をした時は……少なくとも、フリードリヒ殿下が亡くなったと聞くまでは、ドキドキするような、ワクワクするような瞬間もあったのよ?それなのに、今はずっと苦しくて、辛くて……手術の時は、昌子さまたちのために頑張らなきゃって思って、何とかやり果せたけれど……」
私がまた下を向くと、
「常宮さまのために……ですか?」
千夏さんが驚いたように言った。常宮というのは、一番上の妹・昌子さまの称号である。
「そうよ。だって、栽仁殿下の将来のお嫁さんは、私の妹たちのうちの誰かだから……」
私がそう答えると、
「お待ちください!」
千夏さんは大声で叫んだ。
「恐れながら、直宮の内親王殿下の方々は、宮さまも含め、まだどなたもご婚約をされておりません。ご婚約のご内定すらされておりません。ならば、宮さまが有栖川宮の若宮殿下とご婚約される可能性もあるのではないですか?!」
「そう言ってくれるのはありがたいけれど……」
私は首を軽く横に振った。「その可能性はないよ……万が一にも、ない……」
「どうしてですか?!」
「私……栽仁殿下より、5つも年上だよ……」
半ば怒っているような千夏さんに、私は言い聞かせるように話し始めた。
「そんなこと、関係ありません!何歳か年上であっても……」
「それだけじゃない。私は今、中尉だ。栽仁殿下が士官学校を卒業すれば、少尉候補生になるから、私より、軍での階級が下だ」
私は、千夏さんをじっと見つめた。
「妻の方が、夫より地位が高い……そんな結婚を良しとしない人は、世の中にたくさんいるよ」
「それは……」
そう言ったきり、千夏さんは絶句した。
この時代の女性の社会的な地位は、私の時代より低い。“史実”の記憶を持つ人たちに言わせれば、それでも、私の存在によって、今の女性の社会的な地位は、“史実”の同時期よりも少し上がっているそうだけれど、“女は男に従え”という考えが、世間ではまだまだ根強い。そんな考えを持つ人たちにとって、夫より妻の地位が高い結婚というのは、許し難いものだろう。
「それに、さ……」
私はため息をついた。「人前でいきなり男性の胸倉をつかんで怒鳴りつけるような女性、好かれる訳がないじゃない……」
「宮さま……」
「私がそばにいたくても……栽仁殿下のそばにいたくても、向こうで私のこと、願い下げだよ……」
切なさで胸がいっぱいになって、涙が後から後からあふれ出て、……私はようやく気が付いた。
胸が切なくて苦しいのは、栽仁殿下が好きからだ。好きな人なのに、そばにいたい人なのに……、どうして私は、栽仁殿下の胸倉をつかんで、怒鳴りつけてしまったのだろうか。
「ダメ過ぎるよ、私は……。好きな人の胸倉をつかんで、怒鳴りつけるって……、馬鹿だよ……」
それだけ言うと、もう言葉は吐き出せなくなってしまった。
泣きじゃくる私の両肩を、千夏さんは黙って、ずっと支えていてくれた。




