進水式
1907(明治40)年12月20日金曜日午前7時半、広島市南東部にある宇品港。
「あのさ、大山さん」
私はそばに立っている我が臣下を見上げた。
「何でしょうか」
大山さんは、いつもの優しくて暖かい瞳で私を見つめる。けれど、いつもとは違い、彼が着ているのは歩兵大将のカーキ色の礼装だ。
「なんで今回、軍艦を使わないといけないのかな?」
「それは増宮さまが、天皇陛下の御名代として差し遣わされた、という形を取っているからでございますよ。だからこそ、関野どのもここにいらっしゃいます」
大山さんがチラッと見やると、私の後ろに控えていたお父様の侍従武官・関野謙吉海兵大佐が一礼する。戦艦“富士”の副長として極東戦争を戦い抜いた彼だけど、戦場と勝手が違うからか、どことなく緊張しているように思えた。
「いや、それ、軍艦で行く理由にならないわよ。呉だったら、広島から鉄道でも行けるんだから」
私が大山さんにツッコミを入れると、
「今回は、進水式に御成りいただいたら、厳島神社をご参拝いただかなくてはなりませんからなぁ。船を使う方が便利でございます」
大山さんの隣に立っている国軍大臣の西郷さんがのんびりと返した。やはり彼も、海兵大将の紺色の礼服に身を包んでいる。
「それに、“日進”の乗員諸君から、“増宮さまが呉に入られる時に、ぜひご縁ある我が艦を使っていただきたい”という請願がありましたから。いやぁ、僅かな時間ではありますが、増宮さまと一緒に船旅が出来るとは……素晴らしいですなぁ」
こんな西郷さんの言葉に、
(まさか、移動に軍艦を使うの、一番最後のが最大の理由なんじゃ……)
私は内心呆れてしまい、西郷さんの後ろに控えている参謀本部長の斎藤さんも大きなため息をついた。
今日、私は、広島から南東に20km弱離れたところにある呉港の工廠で建造されていた2等巡洋艦・“利根”の進水式に出席する。お父様の名代として今回の進水式に出席しろという命令が私のところに届いたのは、陸奥さんたちが帰京した直後、先月の末のことだった。それから東京との連絡やら、勤務の調整やらに追われていたら、あっという間に時は過ぎ去り、昨日の午後、侍従武官の関野さんと一緒に、大山さんと西郷さんと斎藤さんがやって来た。東京からわざわざ大山さんがやって来たのは、“初めての進水式出席で、章子に間違いがあってはいけない”というお父様の配慮によるものだ、と聞いた。昨日の夜は、東京からやって来た面々を泉邸の料理人さんたち渾身の和食でおもてなしして、今朝改めて宇品港に集合したという訳である。
警備の人たちを除けば、このメンバーの中で一番階級が低いのは、軍医中尉の私だ。それがお父様の名代を務めるというのは荷が重いけれど、皇族の一員として、精一杯役目を果たさなければならない。
巡洋艦“日進”に乗り込み、呉に向かって出航して約1時間後、前方に4隻の水雷艇が見えた。この軍艦を呉から迎えにやって来たのだ。水雷艇たちの先導に従って“日進”が呉の港に入った時、甲板からはたくさんの軍艦が見えた。そのどれもが、信号用の旗を連ねて掲げている。
「すっごい……軍艦が全部、満艦飾だ……」
私に敬意を示すために、軍艦はそれぞれ礼砲を撃っている。砲声が轟く中、私が呟くように言うと、
「船の進水式は、大事な祝い事ですからなぁ」
私の左隣に立った西郷さんが大きな声で言った。
「この景色を、どうしても海の上から増宮さまに見ていただきたかったのです」
「だったら、初めからそう言ってください。西郷さんを軽蔑するところでした」
叫ぶような声で私が抗議すると、
「驚かせようと思いましてなぁ」
西郷さんは相変わらずのんびりと答える。
「いずれ、“もう懲り懲りだ”とおっしゃるほど、ご覧になることになりますよ」
私の右側にいる大山さんが、これまた大きな声で言った。
「陛下の御名代として、進水式に臨まれることも多くなるでしょう。広島でのご勤務が長くなれば、呉はもちろん、佐世保の工廠での軍艦進水式にも臨まれることになると思います。今の時点で、呉と佐世保に一番近いところに住まわれている皇族は、増宮さまですから」
「困るなぁ。私、医術の修業がしたいのに」
礼砲発射が続く中、怒鳴りあうようにして喋っていると、“日進”が停止した。港内の指定された場所に到着したようだ。連絡艇でやって来た軍管区の司令官や工廠長たちの挨拶を受けると、私も大山さんたちと一緒に連絡艇に乗り移り、進水式の会場へと向かった。
再び礼砲が発射される中、私の乗った連絡艇は工廠横の桟橋に到着し、私は“利根”の前に設けられた御座所に入った。まだ艤装はされていないけれど、“利根”の船体は他の軍艦と同じように、信号旗で飾り立てられている。
この2等巡洋艦“利根”は、“史実”の記憶を持っている斎藤さんと高野さんが、設計段階から本格的に口を出した最初の軍艦である。
――ハワイとシャムに売った三景艦の代艦だ。“史実”の5500トン級の軽巡洋艦を作るつもりでいればいいんじゃないか?
――しかしこれから、航空兵装がますます発展します。“史実”の利根型重巡のように、前部に主砲を集めて、後部にカタパルトを……。
――流石にそれはちょっと早過ぎるだろう、高野。もちろん、地上から発進した飛行器の撃墜は考えなければいけないから、対空兵装は積む方がいいだろうが……。
――対潜水艦も考えなければならないぞ。それから、どこまで艦を使い続けるかは分からないが、レーダーやソナーを積むことも考えなければ……。
……などなど、斎藤さんと高野さん、それに他の梨花会の面々が色々とツッコミを入れていたのだけれど、軍医学校の授業の時に、必要最低限な知識を何とか仕入れた程度の私は、その話し合いに到底参加できるはずもなく、気が付いたら、既に国軍省の担当部署に艦の設計が命じられていた。
――で、結局どんな艦が出来るんでしょうか?
斎藤さんと高野さんに尋ねたところ、
――そうですね、5ノットほど最大速度が遅くて、主砲の数が1門減って、少し船体が大きくなって装甲も厚くなった、“史実”の球磨型軽巡洋艦が出来ると思ってもらえれば。
と高野さんに答えられた。球磨型軽巡洋艦……“史実”で、第1次世界大戦が終わった直後に竣工した、水雷戦隊の旗艦を担うために設計された軽巡洋艦である。斎藤さんに軍医学校の授業でそう教わった。ただ、前世では軍艦に全く興味が無かったので、教えられても余りピンとは来なかったのだけれど。
ちなみに、この“利根”の最大速度30ノット、というのは、日本が持っている巡洋艦・戦艦の中で一番速い。船の燃料を、石炭から全て重油に切り替えたから出来たことらしい。
――新イスラエル共和国の樺太油田から、重油が安定して供給されますから、軍艦を動かす燃料が不足することはありませんのう。これも増宮さまのおかげ。
西郷さんは以前、こんなことを私に言っていたけれど……。
そんなことを思い出していると、私の右斜め前に立った西郷さんが、命令書を取り出し、
「明治40年12月、軍艦“利根”の構造を始め、今や艦体の成るを告ぐ。よってここに、これを進水せしむ!」
と大きな声で中身を読み上げた。その瞬間、待機していた軍楽隊がファンファーレを奏で、“利根”と書かれた幕が、船体の両側に垂れ下がる。国軍の関係者や、呉や広島の住民で埋まった客席から、大きな拍手が沸き起こった。
ホイッスルの音が場内を切り裂くと、“利根”の船体の下で、作業員たちが滑り止めの材木をどかし始めた。工廠長が小さな銀の斧を持ち、式場の台の上にセットされていたロープを切断する。その途端、“利根”の船体が動いた。軍楽隊が“軍艦行進曲”を演奏する中、2等巡洋艦“利根”は、海面に向かって滑り出していく。
(すっごい……)
豪快な光景に見惚れてしまっていると、
「梨花さま、敬礼を」
後ろに控えていた大山さんに囁かれる。私は慌てて右ひじをピンと張り、軍隊式の敬礼をした。そうしている間にも、“利根”の船体はどんどん私から離れていき、海面に完全に浮かんだ。
「これで、滞りなく、進水式が終わりましたね」
参謀本部長の斎藤さんが、ホッとしたような表情になる。設計前の段階から彼が本格的に口を出した初めての軍艦だから、無事に進水して安心したのだろう。
「では、“日進”に戻って、厳島神社に参拝しなければなぁ」
「……ですね」
西郷さんに答えて、敬礼していた右手を下ろしたその時、誰かが私をじっと見つめているのに気が付いた。悪意は混じっていないけれど、とても強い視線だ。
(左側の観客席からだけど……)
視界を遮っていた“利根”の船体が海上に出たので、左右にある観客席の様子がよく分かるようになった。左側の観客席は、紺色の制服を着た若者たちで埋まっている。その中にいる、私を見つめ続けていた1人の若者が、私と目が合った瞬間、ニッコリ笑った。……栽仁殿下だ。
(ウソでしょ?!)
なぜか、胸がとても苦しくなる。慌てて彼から視線を逸らすと、
「ん?どうなさいましたか、増宮さま?」
西郷さんがのんびりと私に尋ねた。
「な……なんで海兵士官学校の生徒が観客席にいるんですか?!今日は平日だから、江田島で授業のはずでしょう?!」
大声で抗議した私に、
「そりゃあ、“利根”の一世一代のお祝いですからなぁ」
と、西郷さんは相変わらずのんびりした口調で答える。「それに、海兵士官学校の生徒にとっては、進水式は軍艦の船体構造を目の当たりに出来る貴重な機会でもあります。呉港で軍艦の進水式がある時は、毎回授業の一環として呼び寄せておりますが……」
「い、いやそれでも、許されることじゃないですよ!生徒たちが呉の街で遊んで、堕落しちゃうでしょう!」
「ここには教官の引率で来ておりますから、遊ぶスキなどありません」
私の横から、斎藤さんが断言した。「万が一、教師の目を盗んで遊興にふければ、鉄拳制裁を食らうでしょう。ですからどうぞご安心を、殿下」
「ほら、“日進”に戻りましょう、増宮さま。関野どのも驚かれていますし」
大山さんがそっと私の肩を叩く。彼の言う通り、侍従武官の関野さんが、不思議そうな目を私に向けていた。確かに、こんなことで動揺していては、内親王にふさわしい態度とは言えない。私は咳ばらいを一つすると、早足で式場から離れたのだった。
“日進”で宮島に向かった私たちは、厳島神社に参拝してから昼食を取った。再び“日進”に乗り込んで宇品港に戻ったのは、午後2時ごろである。
「本当に、あなたたちを広島駅まで送らなくても大丈夫?」
「ハハハ……そこまでしていただくと、東京の連中に怒られますからなぁ。遠慮させていただきます」
戻ってきた宇品港の岸壁で私が尋ねると、西郷さんは豪快に笑った。
「そうですか?確かに、昨日診察させてもらった感じでは、身体に特に問題はなかったけれど……あ、そうそう、生活習慣病の予防をするという意味でも、食べ過ぎないように気を付けて、適度な運動も忘れないようにしてくださいね」
おそらくまた何か月か、西郷さんと簡単には会えない。彼の身体に何かあっても、私がすぐに東京に駆け付ける訳にはいかないのだ。
「分かっておりますとも、増宮さま」
西郷さんは軍帽の上から、私の頭を軽く撫でる。
「はぁ……また離れちゃうから、なんだか心配で……」
私が唇を尖らせると、
「俺も、増宮さまのことが心配で……」
西郷さんの隣に立った大山さんがため息をついた。
「いっそ、このまま広島に残りましょうか」
「……私はいいけど、輝仁さまのことはどうするのよ」
大山さんに広島にいてもらうのはもちろん賛成だけれど、そうしてしまえば、彼が総裁を務めている中央情報院の業務が滞ってしまう。関野さんがいるので、中央情報院のことは言葉に出さないで反論すると、「そこでございますよ」と、大山さんは難しい顔をして両腕を組んだ。
「……まぁ、業務の暇を見て、広島に参る機会を増やすことにいたします」
「ありがとう。でも、無理はしちゃダメよ、大山さん。あなたの身体は、あなた一人だけのものじゃないんだからね。万が一、あなたが東京と広島を往復しすぎて身体を壊したら、私、そっちの方が心配だから」
「心得ておりますとも。ですが、来月は正月のご挨拶も兼ねて、一度広島に参上させていただきます」
「わかった。日程が決まったら、泉邸に知らせてちょうだい」
「かしこまりました」
大山さんが一礼した時、斎藤さんがじっと私を見つめているのに気が付いた。その表情は、妙に真剣だ。私と目が合うと、斎藤さんは「増宮殿下」と私を呼んだ。
「正月には東京に戻られないのですか」
「ええ。お祖母さまが亡くなった時に、1週間ほど勤務を休んでしまいました。それに、広島着任も、東海道線が不通になったせいで2週間ぐらい遅れてしまったから、今度の年末年始は長期の休みが取れないんですよ。だから今度のお正月は広島で過ごしますけれど……それが何か?」
すると、斎藤さんは真剣な表情を崩さないまま、私に向き直り、
「それでは、今、申し上げておきます。どうか今後とも、医術の鍛錬に励まれますように……」
「……はい、それはもちろん」
引っかかるものを覚えながらも、私は斎藤さんに頷いた。
「私は上医にならなければなりません。そのためには医術の修業も、精神的な鍛練ももっと積まないと……東京にいようと広島にいようと、その気持ちは変わりませんよ」
「……ぜひ、お願いいたします」
斎藤さんは再び私に向かって頭を下げると、「さて、皆さま、列車の時間も迫っていますから、そろそろ参りましょう」と言い、用意されていた馬車に乗り込んだ。それを見て、西郷さんも大山さんも、侍従武官の関野さんも馬車に乗り込む。
「じゃあ皆さま、ごきげんよう!」
澄み切った冬晴れの空の下、土煙を上げながら、大山さんたちを乗せた馬車は広島駅へ向かう。その馬車が見えなくなるまで、私はずっと手を振っていた。
この時の斎藤さんの言葉の真意を、愚かな私が知るまでには、もう数か月の時が必要だった――。
※今回の進水式の進行については、「依仁親王殿下兵学校卒業式及軍艦伊吹進水式御臨場の件(1)(2)」(アジ歴レファレンスコード C06091850500・C06091850600)、「わが国の進水式―支綱切断と進水斧」(硴崎貞雄.日本船舶海洋工学会講演会論文集 第 22 号.p53-56)「わが国の進水式―命名」(硴崎貞雄.日本船舶海洋工学会講演会論文集 第 24 号.P115-119)を参照しながら、アレンジしています。ご了承ください。




